日本は中国でなにをしたか
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001 2025/01/06(月) 12:43:06 ID:DRSH9yF1jc
(1)平頂山事件
1932年9月15日の夜から、日本の侵略に対して抗日義勇軍が撫順炭鉱を襲撃しました。日本軍は16日、「抗日義勇軍が通過したのに通報しなかった」として、撫順炭鉱に隣接している平頂山地区の住民を「写真をとってやる」などとだまし、1か所に集め3千人余りを虐殺しました。その後、死体に重油をかけて燃やし、崖をダイナマイトで爆破、その土砂で死体を覆ってしまいました。ほとんどの住民は虐殺されました。現地では虐殺された遺骨を掘り起こしたそのままの様子を「撫順平頂山惨案遺跡記念館」で知ることができます。
(2)南京大虐殺事件
1937年12月、日本軍は中華民国の首都南京の攻略戦で、投降した中国軍の兵士や一般の市民や難民に対して虐殺を行いました。日本軍による中国人虐殺は20万人におよびます。中国はユネスコに南京虐殺の資料を世界記憶遺産として登録申請し、2015年10月10日登録が発表されました。
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002 2025/01/06(月) 12:47:32 ID:DRSH9yF1jc
(3)毒ガス使用と七三一部隊
毒ガス使用は世界的に禁止されていましたが、日本軍は国際法違反と知りながら使用しました。また、七三一部隊は1936年に旧満州・ハルビン郊外の平房に設けられ、国際法で使用が禁じられていた毒ガスや細菌兵器の開発・製造を目的としました。中国人・ロシア人捕虜をペスト菌やコレラ菌に感染させ、生体解剖をおこない、凍傷実験に用いて3000人以上を虐殺しました。
1945年8月の敗戦時には証拠隠滅のため施設を爆破し、監禁していた捕虜を殺害し、1000名以上の隊員が日本に逃げ帰りました。
石井四郎部隊長(軍医中将)らは米軍への研究データの提供と引き換えに、極東国際軍事裁判でも訴追されませんでした。七三一部隊に従事した人員は軍人・軍属あわせて3560名(2012年厚生労働省による。西山勝夫滋賀医科大学名誉教授発掘の資料では3607人)、日本各地の大学の研究者も多く加わっており、ソ連に抑留されたごく一部を除き責任を問われるどころか戦後の医学界に復帰し栄達しました。
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003 2025/01/06(月) 12:50:08 ID:DRSH9yF1jc
(4)三光作戦・三光政策
1940年8月から10月上旬の2回にわたる八路軍の「百団大戦」(八路軍の百余団が参加したことからの呼び名)で、甚大な被害を受けた日本の北支那方面軍は、主要な敵を国民政府軍から共産党軍へ、さらに軍隊から民衆を相手にする作戦へと移し、反撃と報復のための大規模な「燼滅掃討作戦」を展開しました。「燼滅掃討作戦」とは、八路軍の根拠地を燃えかす同様になるまで徹底的に破壊して消滅をはかる作戦で、あまりの残虐さから、中国では、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)す「三光作戦」と呼びました(「光」は中国語で「何もなくなる」という意味です)。
(5)日本軍慰安婦・性奴隷
アジア太平洋戦争中、「慰安所」といわれた戦地の施設で日本軍人のために女性たちが性的な虐待を受けました。中国では1932年上海に設置されたのが最初といわれ、37年の中国への全面侵略戦争以降急増。軍が直接管理するもの、民間産業によるものなどがありました。「慰安婦」の多くは強制的に集められた中国や朝鮮の女性でした。
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