
政商は、権力界隈の文化性から致命的に損ねてかかるというのは、
室町末期に政商頼みで日本の覇者となった織田豊臣の奢侈ぶりなどからも知れる。
別に、公権力者が絶対に贅沢をしてはいけないというわけではないけれども、
それは国の安定が最大限に盤石となった場合に限るべしと四書五経の礼記などにもある。
さすれば、国内外の富の奪い合いによって経済的に肥え太っている政商などを頼みながらの
栄華なども決して許されないわけで、少なくともそれは決して権力道徳には根差さない。
政商が国内外から巻き上げてくる域の富は、もはや物質的な豊かさを逸脱した巨万さ
ともなってしまうために、それでもあくまでそれらを有効活用しようなどとすれば、
何もかもを黄金で塗り固めるなみの悪趣味にまで及ばねばならなくなる。
あるいは、落書き同然の抽象画に法外な値段を付けたりと、
金カネの使い方をどうあってもバカみたいなふざけように集約させざるを得なくなる。
故にそれは決して文化性の上質さなどに結実することがない。
同じ金キンを使うにしても、赤銅や四分一のような合金や、燻し金として用いたりすることで
工芸品の美しさを最大限に引き立てたりする文化性の上質さも、むしろ今よりはるかに
国を挙げて貧しかった江戸時代などのほうで確立されていた。権力道徳なき世界では、
貧しさの中にも文化性の粗末さしか存在しないとはいえ、それがあるようならむしろ、
貯金からの質素倹約にも励んで行くぐらいの所で、より高い文化性が育まれるのである。
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