
漢代以降に朝鮮に流入し、箕子朝鮮の残り香すら半島から
消し去ったような連中などからすれば、伯夷叔斉の事績なども、
俺や否定派と大して変わらないぐらいの所業、かつ愚行などとして捉えられようが。
はるか後代の水戸光圀なども、その伝説に感銘を受けて、
若かりし頃の不行跡から足を洗ったという程度には、この日本においては、世を挙げて
末永く尊重されて来たものであるし、しかもそれは決して机上の空論止まりなこととしてでもない。
家康公が戦国の世を終わらせる最終決戦たる大坂の陣に際し、
自らの行いが豊臣への放伐革命になってしまうのではないかという恐れから、
当時最高峰の儒者ではあるものの、自らより40歳も年下である林羅山らに伺いを立てていた。
そこで、これは革命ではない、不穏分子を大坂城界隈に何万人も集めて、
「国家安康、君臣豊楽」を旗印にした徳川打倒を図っている者たちへの成敗を主目的としているのだ
という名分を取り付けることで、体裁が放伐革命となることの災厄を拭い去るに至った。
現代の日本人などから見ても、言いがかりか何かのように思えかねないような逸話ではあるが、
実践面から入念に伯夷叔斉の思いを汲まんとする意図があればこその前準備であり、それにより、
光圀公のような子孫たちもまた、道を踏み外して政権を危ぶませることを避けられるに至った。
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