
内向という精神活動を、全世界全人類への思いやりのような
具体的かつ善良な思考に振り向けるのとはまた別に、
内向の錬磨の先に無念無想の境地に至る、といったこともあって然るべきである。
なぜかというに、どんなに仁慈に満ちた心持ちであろうとも、
それを十分な実践に落とし込む時には、もはやグダグダと脳内で考えてばかりでは
いられないような忙殺状態に見舞われかねないものだから、そこでもはや何を
考えるでもなく、自動人形の如くすべきことを成せたほうがいいのである。
「我れ思う、故に我れあり」というデカルトの主張は実際問題あやまりであり、
たとえば常日頃から意識的な試行錯誤による武芸の修練を積んでいれば、
いざ実戦という時には何を考えるでもなく、自然と常日頃から習得に務めてきた技が
繰り出せたりするように、無意識の領域の我れこそが多くのことをなし得るし、
また最大級の偉業ほどさような境地に頼る必要が出てくるものでもある。
内向の深化という修練を積んでいれば、そこで無念無想の境地に至れるというのも
実際問題、人間という生き物に具わっている機能であり、とんでもなく難儀という
わけでもなく、まあまあ至れる人間もいるのだが、そこで色々と積み重ねてきたことが
ありのままに実践に移せたりする点が、ただのボケなどとは決定的に違う点だといえる。
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