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この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である 偉大なる生存の報告 Part312
▼ページ最下部
思想哲学宗教一般としては、仏教などのほうが優れた側面があるし、
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
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そういう、巧言令色まずありきでないと、
まともに人の話も聞けないようなヒス人種との話し合いは
こちらから願い下げだから、そちらもスレごと無視してくれ。
当然、スレを開きもしないわけだから、
ストーキングスレなんかを立てて居座る余地もないはず。
そういうスレが立ってるようなら、まだその条件を満たせていない
不届きさへのわからせ目的も兼ねて、ストーカーいじりに及ぶこともあろう。
まともに人の話も聞けないようなヒス人種との話し合いは
こちらから願い下げだから、そちらもスレごと無視してくれ。
当然、スレを開きもしないわけだから、
ストーキングスレなんかを立てて居座る余地もないはず。
そういうスレが立ってるようなら、まだその条件を満たせていない
不届きさへのわからせ目的も兼ねて、ストーカーいじりに及ぶこともあろう。
もう、俺との真っ向勝負な論戦に及ぶこともできないほど
やつれ果てているというのなら、それもまた仕方のないことだ。
いま隔離スレだ遠吠えスレだストーキングスレだ犬小屋だと
揶揄しているようなスレのほうを、正式な緩和ケア介護スレとして、
おまえでも話せる程度の話をそこでするというのでもいいじゃないか。
俺もなるべくならピンピンコロリで、晩節を汚したりしたくない
とは思っているけれども、それも必ずしも叶う望みではなく、
中村天風師にも最晩年には若干老いさらばえた時期があったというし、
自分自身がそうなった時の覚悟のためにも、決して悪いようにはしないものだ。
やつれ果てているというのなら、それもまた仕方のないことだ。
いま隔離スレだ遠吠えスレだストーキングスレだ犬小屋だと
揶揄しているようなスレのほうを、正式な緩和ケア介護スレとして、
おまえでも話せる程度の話をそこでするというのでもいいじゃないか。
俺もなるべくならピンピンコロリで、晩節を汚したりしたくない
とは思っているけれども、それも必ずしも叶う望みではなく、
中村天風師にも最晩年には若干老いさらばえた時期があったというし、
自分自身がそうなった時の覚悟のためにも、決して悪いようにはしないものだ。
ジョンレノンは「イマジン」の歌詞で、「国や宗教のような、
世界中の人々が殺し合う原因になっている事物が消えてなくなってほしい」
旨の妄想を垂れ流していたけれども、国家は全世界の公益を
保つための基本単位として、決して蔑ろにしていいものではないし、
近年の世界において、国際紛争の最たる要因となっているのもまた、
宗教よりもイデオロギーのほうである。
旧西側と東側の、資本主義vs共産主義な争いこそはその典型だし、
ソ連が崩壊し、中共が改革解放で共産主義を形骸化させて後にも、
旧西側たる欧米諸国のイデオロギー依存が解消緩和されることはなく、
無理に自分たちのイデオロギーを押し付けようとして、イラクやリビアや
シリアのようなイスラム諸国にまで侵略征服を企てる真似に及んで来た。
そこでまた、イスラムという宗教が被害者側として、新たな紛争の
当事者扱いとなり始めたわけで、やはり宗教よりもイデオロギーのほうが、
今の世界における最大の戦乱の火種となっているのが間違いない。
ジョンレノンの母国であるイギリスこそは、欧米諸国の金満を支えている
資本主義というイデオロギーの総本山でもあることだし(欧米の通貨発行権を
掌握しているロスチャイルドの根城であるため)、「イデオロギーのない世界」
まで希求するのは、自分たち自身にとっての自滅行為ともなるために、
大衆音楽の歌詞ですら、それを訴えることが憚られたのである。結果、
国や宗教のほうに、戦乱の元凶扱いの冤罪が擦り付けられたのだった。
世界中の人々が殺し合う原因になっている事物が消えてなくなってほしい」
旨の妄想を垂れ流していたけれども、国家は全世界の公益を
保つための基本単位として、決して蔑ろにしていいものではないし、
近年の世界において、国際紛争の最たる要因となっているのもまた、
宗教よりもイデオロギーのほうである。
旧西側と東側の、資本主義vs共産主義な争いこそはその典型だし、
ソ連が崩壊し、中共が改革解放で共産主義を形骸化させて後にも、
旧西側たる欧米諸国のイデオロギー依存が解消緩和されることはなく、
無理に自分たちのイデオロギーを押し付けようとして、イラクやリビアや
シリアのようなイスラム諸国にまで侵略征服を企てる真似に及んで来た。
そこでまた、イスラムという宗教が被害者側として、新たな紛争の
当事者扱いとなり始めたわけで、やはり宗教よりもイデオロギーのほうが、
今の世界における最大の戦乱の火種となっているのが間違いない。
ジョンレノンの母国であるイギリスこそは、欧米諸国の金満を支えている
資本主義というイデオロギーの総本山でもあることだし(欧米の通貨発行権を
掌握しているロスチャイルドの根城であるため)、「イデオロギーのない世界」
まで希求するのは、自分たち自身にとっての自滅行為ともなるために、
大衆音楽の歌詞ですら、それを訴えることが憚られたのである。結果、
国や宗教のほうに、戦乱の元凶扱いの冤罪が擦り付けられたのだった。
民主主義を絶対的な国の支配原理にすると、
政治は政治家たち自身の責任の下で取り組んでほしい民意が蔑ろにされるし、
自由主義を絶対的な国の支配原理にすると、
カタにはまった秩序の中での生活や修練を望む人々が蔑ろにされる。
俺自身、近代以降の自由化や民主化の煽りを受けて改変、改悪されて行った
剣道競技の受容によって、一度は命の危機にも見舞われるような
苦難を被ることで、実感的に体験して来た悪影響でもある。
今の剣道は古来の剣術はおろか、江戸時代にそれなりに競技化されていた
剣道の原型たる撃剣とも大きく異なり、古来の剣術技法に基づくカタの修得などが
まったくの無効となるように、あえてルールが徹底改変されて来たものである。
(長尾進「剣道の文化誌」などを参照)
ちゃんとカタを学んで必殺の技法を修得している武芸者や武士が相手だと、
そんな嗜みのない素人や平民は絶対に敵わない。だから、古流のカタに基づくような
刀の振り方も禁止し、古流だと有効打突となるような部位(脇下や腿内など)への
攻撃も全て無効かつ禁止とするなどして、カタ修得の素養を全くの無力ならしめた。
(元警視総監の西久保弘道や、教育研究家の永井道明らがそれを主導した)
政治は政治家たち自身の責任の下で取り組んでほしい民意が蔑ろにされるし、
自由主義を絶対的な国の支配原理にすると、
カタにはまった秩序の中での生活や修練を望む人々が蔑ろにされる。
俺自身、近代以降の自由化や民主化の煽りを受けて改変、改悪されて行った
剣道競技の受容によって、一度は命の危機にも見舞われるような
苦難を被ることで、実感的に体験して来た悪影響でもある。
今の剣道は古来の剣術はおろか、江戸時代にそれなりに競技化されていた
剣道の原型たる撃剣とも大きく異なり、古来の剣術技法に基づくカタの修得などが
まったくの無効となるように、あえてルールが徹底改変されて来たものである。
(長尾進「剣道の文化誌」などを参照)
ちゃんとカタを学んで必殺の技法を修得している武芸者や武士が相手だと、
そんな嗜みのない素人や平民は絶対に敵わない。だから、古流のカタに基づくような
刀の振り方も禁止し、古流だと有効打突となるような部位(脇下や腿内など)への
攻撃も全て無効かつ禁止とするなどして、カタ修得の素養を全くの無力ならしめた。
(元警視総監の西久保弘道や、教育研究家の永井道明らがそれを主導した)
ただ、それでもまだ真剣の使用を前提とした剣振りが行われていたところ、
GHQが剣道による日本人の実戦能力の習得までをも完全に損なうために、
真剣を全くまともに振れなくなるような剣振りまでをも強いるようになった。
(刀の柄尻を左手小指で支え持ち、右手は添えるだけという部類の竹刀振り)
俺が子供の頃にやらされたのもその、古流のカタ修得や真剣での実戦性が
徹底的に無効化された部類の現代剣道で、良質な古流の技法に反するような竹刀振り
ばかりをやらされた結果、20年以上にわたって右肩が慢性脱臼状態のままとなり、
呼吸能力も常人の半分程度にまで低下し(法定上の身体障碍者一級に相当)、
常時窒息状態で死線をさまよい続けるような事態にも一時は見舞われたもの。
その後、純正な古流の武芸のカタなり、世界的に純正であることが認められて
いるようなヨガ技法の習得なりを通じて、一定以上の治癒を見て今に至る。
世の中全体の自由主義、民主主義への一本化を通じて、技法を徹底的に改変、
改悪させられることとなった現代剣道を通じて最悪の健康状態に陥れられ、
古来のカタの習得を通じてその地獄から這い上がって来た者として、自由主義や
民主主義による国の完全支配なども、到底受け入れる気にはなれないわけである。
GHQが剣道による日本人の実戦能力の習得までをも完全に損なうために、
真剣を全くまともに振れなくなるような剣振りまでをも強いるようになった。
(刀の柄尻を左手小指で支え持ち、右手は添えるだけという部類の竹刀振り)
俺が子供の頃にやらされたのもその、古流のカタ修得や真剣での実戦性が
徹底的に無効化された部類の現代剣道で、良質な古流の技法に反するような竹刀振り
ばかりをやらされた結果、20年以上にわたって右肩が慢性脱臼状態のままとなり、
呼吸能力も常人の半分程度にまで低下し(法定上の身体障碍者一級に相当)、
常時窒息状態で死線をさまよい続けるような事態にも一時は見舞われたもの。
その後、純正な古流の武芸のカタなり、世界的に純正であることが認められて
いるようなヨガ技法の習得なりを通じて、一定以上の治癒を見て今に至る。
世の中全体の自由主義、民主主義への一本化を通じて、技法を徹底的に改変、
改悪させられることとなった現代剣道を通じて最悪の健康状態に陥れられ、
古来のカタの習得を通じてその地獄から這い上がって来た者として、自由主義や
民主主義による国の完全支配なども、到底受け入れる気にはなれないわけである。
古流の剣術のカタなどは、不世出の天才が生涯をかけてやっと編み出したような技法を、
さらに何重にもわたって積み重ねて来たものであるわけで、それをろくなカタの
嗜みもないズブの素人が我流で超えてやろうたって、まず不可能なことである。
(それらしき伝承のある宮本武蔵なども、実は剣術の達人の実子である)
だからこそ、カタを否定しての平等化などよりは、誰しもがカタを修得しての上達に
取り組むべきものだが、西久保弘道や永井道明ら自身を含め、その素養に欠けるような
人間が世の中には無数に存在するために、多くの人間にとってその道は閉ざされている。
そのため、誰しもに平等に剣道をやらせたいとなれば、カタを否定するしかない。
民主主義は自明に、古流のカタの習得に基づくような上達を否定せざるを得ないものだった。
そしてそれは不可避に、剣道技法の実践面における弱体化を招いた。
ほとんど芸のない飛び込み打ちばかりで勝敗が決するその競技性の劣悪さがそのまま、
戦前の日本軍の無鉄砲な猪突猛進からの特攻玉砕の拠り所になっていた所もあるだろうし、
それでちゃんと日本軍も負けたのだから、まだ真剣の実戦性をそれなりに保っていた
西久保永井による改悪以降、戦前までの剣道もまたろくなものでなかったことが間違いない。
さらに何重にもわたって積み重ねて来たものであるわけで、それをろくなカタの
嗜みもないズブの素人が我流で超えてやろうたって、まず不可能なことである。
(それらしき伝承のある宮本武蔵なども、実は剣術の達人の実子である)
だからこそ、カタを否定しての平等化などよりは、誰しもがカタを修得しての上達に
取り組むべきものだが、西久保弘道や永井道明ら自身を含め、その素養に欠けるような
人間が世の中には無数に存在するために、多くの人間にとってその道は閉ざされている。
そのため、誰しもに平等に剣道をやらせたいとなれば、カタを否定するしかない。
民主主義は自明に、古流のカタの習得に基づくような上達を否定せざるを得ないものだった。
そしてそれは不可避に、剣道技法の実践面における弱体化を招いた。
ほとんど芸のない飛び込み打ちばかりで勝敗が決するその競技性の劣悪さがそのまま、
戦前の日本軍の無鉄砲な猪突猛進からの特攻玉砕の拠り所になっていた所もあるだろうし、
それでちゃんと日本軍も負けたのだから、まだ真剣の実戦性をそれなりに保っていた
西久保永井による改悪以降、戦前までの剣道もまたろくなものでなかったことが間違いない。
まず戦前にすでに、技法が劣悪かつ真剣での実戦性がある近代剣道があった上で、
さらにそこから真剣での実戦性までもがGHQに奪われることで、現代剣道が出来上がった。
「毒食わば皿まで」とでもいうべきその有様こそは、
健康被害の面でも最大級で、右肩慢性脱臼の俺に限らず、アキレス腱断裂や、
首筋挫傷からの手術で半身マヒなんていう事例までも聞いたことがあるものだ。
元々が、合理性を極めた武器である日本刀の使用を前提とした技法だったものを、
絶対に日本刀が使えないようにあえて改変したものだから、その技法も不合理の極みと化した。
刀の茎は基本柄尻まで通っていないために、柄尻で持ち支えたりすると柄が壊れる。
それでもあえてそうするにはそうするなりの無理があり、刀だけでなく体にも無理が来る。
そのため真剣ではなく、竹刀や木刀を用いるのだろうとも、それによる健康被害からは免れ得ない。
ただ、それもまたアメリカ流な日本の自由化、民主化のためには避けようのないものだった。
剣道という競技自体が封建時代を源流とするものだし、そうですらないスポーツの振興のために、
国に普及している体術全般をお遊び止まりなものへと低レベル化させることも急務となり、結果、
並みのスポーツよりも体に悪い武道なんていう、伝統文化の面汚しだけが居残ることとなったのだ。
さらにそこから真剣での実戦性までもがGHQに奪われることで、現代剣道が出来上がった。
「毒食わば皿まで」とでもいうべきその有様こそは、
健康被害の面でも最大級で、右肩慢性脱臼の俺に限らず、アキレス腱断裂や、
首筋挫傷からの手術で半身マヒなんていう事例までも聞いたことがあるものだ。
元々が、合理性を極めた武器である日本刀の使用を前提とした技法だったものを、
絶対に日本刀が使えないようにあえて改変したものだから、その技法も不合理の極みと化した。
刀の茎は基本柄尻まで通っていないために、柄尻で持ち支えたりすると柄が壊れる。
それでもあえてそうするにはそうするなりの無理があり、刀だけでなく体にも無理が来る。
そのため真剣ではなく、竹刀や木刀を用いるのだろうとも、それによる健康被害からは免れ得ない。
ただ、それもまたアメリカ流な日本の自由化、民主化のためには避けようのないものだった。
剣道という競技自体が封建時代を源流とするものだし、そうですらないスポーツの振興のために、
国に普及している体術全般をお遊び止まりなものへと低レベル化させることも急務となり、結果、
並みのスポーツよりも体に悪い武道なんていう、伝統文化の面汚しだけが居残ることとなったのだ。
スポーツもまた決して体にいいなんてことはなく、今季の大谷を始めとする
多くの野球選手などもまた、選手生命を危ぶむほどの故障に見舞われ続けているもの。
野球特有の故障で「イップス」という、球を投げようとしても体が躊躇して踏み止まってしまう
神経障害があるが、俺もスポーツ剣道の打突で同様な体験をした覚えがある。どちらも不合理で
身体に無理を来たすような運動ばかりしているために、体が「もうやめてくれ」と警告を発してるわけだ。
現代武道に限らず、各種のスポーツもまたそれに類似した不合理性、不健康性を帯びているのに
変わりはなく、古流の武芸の中でも、さらに撃剣での竹刀競技化を来たしたりするより以前の、
本物の真剣勝負だけに特化した古流の技芸こそが、「そのカタに即して刀を振れば、外れていた
肩もよりはまって整復されて行く」というほどもの劇的な健康効果を持ち合わせたものとなっている。
真剣での殺し合いにおける絶対的な勝利、生存を目的とした技法であるにもかかわらず、
ではなくだからこそ、運動行為としても究極級に真摯たり、以て最大級の健康効果をも帯びている。
スポーツも現代武道も、そこから少なからずかけ離れているが故に、適当な我流の遊戯運動で
済ませようなどとする不埒さーーオナニーメンタルからのしっぺ返しを自らが被るのである。
多くの野球選手などもまた、選手生命を危ぶむほどの故障に見舞われ続けているもの。
野球特有の故障で「イップス」という、球を投げようとしても体が躊躇して踏み止まってしまう
神経障害があるが、俺もスポーツ剣道の打突で同様な体験をした覚えがある。どちらも不合理で
身体に無理を来たすような運動ばかりしているために、体が「もうやめてくれ」と警告を発してるわけだ。
現代武道に限らず、各種のスポーツもまたそれに類似した不合理性、不健康性を帯びているのに
変わりはなく、古流の武芸の中でも、さらに撃剣での竹刀競技化を来たしたりするより以前の、
本物の真剣勝負だけに特化した古流の技芸こそが、「そのカタに即して刀を振れば、外れていた
肩もよりはまって整復されて行く」というほどもの劇的な健康効果を持ち合わせたものとなっている。
真剣での殺し合いにおける絶対的な勝利、生存を目的とした技法であるにもかかわらず、
ではなくだからこそ、運動行為としても究極級に真摯たり、以て最大級の健康効果をも帯びている。
スポーツも現代武道も、そこから少なからずかけ離れているが故に、適当な我流の遊戯運動で
済ませようなどとする不埒さーーオナニーメンタルからのしっぺ返しを自らが被るのである。
ただ、そのような不埒さ、オナメンを許容する運動のほうがむしろ、
最大級の大真面目さを要求する古流の運動などよりも得意という人種が
世の中には一定数いて、それを人々は俗に「体育会系」と呼んでいる。
体育会系が、最も体を使うことにかけて最善を尽くしているなんてことは全くなく、
殺し合いで勝ち抜く並みの真剣さはもちろんのこと、盛大な体使いと高度な知恵や技巧を
全両立させて行くような心技体の修練にも全く欠けた範囲での運動に長じているのみである。
そういう人間が、特に古流の武芸のような上質な運動行為も得意だなんてことはなく、
武士や武芸者の子孫には音楽家や職人などのほうが多いという現象などを見ても分かる通り、
むしろ手先の器用さや文化的素養に秀でている人間のほうが得意とするぐらいである。
安倍元やこの文鮮の七男のほか、大谷あたりもかなり帯びてしまっている、
眉間ユルユルなオナメン顔貌のままでも務まるようなものではなく、
まず心の部分が真剣勝負にも耐えられるだけの真面目さを帯びるのでもなければならない。
それは確かに、誰にでもできることではない。
おまえにもできないかも知れないが、だからといって誰にもできないわけでもない。
できる人間にはできるというのに、おまえができないからといってこの世から廃絶まで
してしまおうなんてのはあまりにも得手勝手がすぎる。しかし、それをも実行に
移して来たのが、近代以降の日本における自由化、民主化なのである。
最大級の大真面目さを要求する古流の運動などよりも得意という人種が
世の中には一定数いて、それを人々は俗に「体育会系」と呼んでいる。
体育会系が、最も体を使うことにかけて最善を尽くしているなんてことは全くなく、
殺し合いで勝ち抜く並みの真剣さはもちろんのこと、盛大な体使いと高度な知恵や技巧を
全両立させて行くような心技体の修練にも全く欠けた範囲での運動に長じているのみである。
そういう人間が、特に古流の武芸のような上質な運動行為も得意だなんてことはなく、
武士や武芸者の子孫には音楽家や職人などのほうが多いという現象などを見ても分かる通り、
むしろ手先の器用さや文化的素養に秀でている人間のほうが得意とするぐらいである。
安倍元やこの文鮮の七男のほか、大谷あたりもかなり帯びてしまっている、
眉間ユルユルなオナメン顔貌のままでも務まるようなものではなく、
まず心の部分が真剣勝負にも耐えられるだけの真面目さを帯びるのでもなければならない。
それは確かに、誰にでもできることではない。
おまえにもできないかも知れないが、だからといって誰にもできないわけでもない。
できる人間にはできるというのに、おまえができないからといってこの世から廃絶まで
してしまおうなんてのはあまりにも得手勝手がすぎる。しかし、それをも実行に
移して来たのが、近代以降の日本における自由化、民主化なのである。
身体を動かすこと自体は得意でも、古流の武芸なみに大真面目きわまる運動などには
あまり秀でてはいないといった人間が、大昔の日本にもそれなりにいたために、
それ止まりな体育会系の受け皿として、相撲のような競技もまた振興されていたのである。
こちらは昔から、今でいうスポーツ並みの興行であり、むしろ無駄に
神事扱いなどを受けている今以上に、卑俗なエンタメとして持て囃されていたもの。
明暦の大火以降に、復興のためのチャリティーを兼ね始めたところなども、
大谷の日本全国の学校へのグローブ寄付の上位互換ぐらいに思っていいものである。
そういう運動競技もあった上で、古流の武芸のようなより上質な運動もあった。
運動といえばスポーツ一辺倒に塗り固められた今のほうがよほど了見が狭くて
選択肢に乏しい、ある種のドグマに支配された暗黒時代というほかないのである。
あまり秀でてはいないといった人間が、大昔の日本にもそれなりにいたために、
それ止まりな体育会系の受け皿として、相撲のような競技もまた振興されていたのである。
こちらは昔から、今でいうスポーツ並みの興行であり、むしろ無駄に
神事扱いなどを受けている今以上に、卑俗なエンタメとして持て囃されていたもの。
明暦の大火以降に、復興のためのチャリティーを兼ね始めたところなども、
大谷の日本全国の学校へのグローブ寄付の上位互換ぐらいに思っていいものである。
そういう運動競技もあった上で、古流の武芸のようなより上質な運動もあった。
運動といえばスポーツ一辺倒に塗り固められた今のほうがよほど了見が狭くて
選択肢に乏しい、ある種のドグマに支配された暗黒時代というほかないのである。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1699846601/1...
俺が肩を脱臼させることになった剣道ルールは、戦後からのものだが?
身体を一重身に構えて、刀の柄の両端を握るのが戦前までのルール。
(画像はそういう構えでいる昔の剣道。現代とは足構えが違う)
戦後剣道は、体を二重身に構えて、刀の柄の両端を握る。
なおかつ左手小指で刀全体を支えて、右手は添えるだけ。
この、戦前までは竹刀剣道でもやってなかったような奇形ルールのせいで、俺も肩を壊した。
今の剣道でも、必ずしも肩を壊しているとは限らないのは、
競技者たちが独自に左ひじを大きく曲げながらの打突を試みているから。
それだと右肩に無理な負担はかからないが、代わりに刀の刃筋が通らず、
真剣での打突では全くモノが切れないといった致命点を帯びてしまう。
俺は武士や武芸者の子孫であることもあって、そのやり方に到底納得がいかなくて、
左ひじを伸ばしながらの打突を試み続けた結果、右肩を脱臼させてしまった。
誰でも同じようなやり方をすれば、必ず大怪我をする振り方だ。
剣道も剣術もやってなかったらチンプンカンプンかもしれないが、
一応、説明責任は果たしておいたぞ。
俺が肩を脱臼させることになった剣道ルールは、戦後からのものだが?
身体を一重身に構えて、刀の柄の両端を握るのが戦前までのルール。
(画像はそういう構えでいる昔の剣道。現代とは足構えが違う)
戦後剣道は、体を二重身に構えて、刀の柄の両端を握る。
なおかつ左手小指で刀全体を支えて、右手は添えるだけ。
この、戦前までは竹刀剣道でもやってなかったような奇形ルールのせいで、俺も肩を壊した。
今の剣道でも、必ずしも肩を壊しているとは限らないのは、
競技者たちが独自に左ひじを大きく曲げながらの打突を試みているから。
それだと右肩に無理な負担はかからないが、代わりに刀の刃筋が通らず、
真剣での打突では全くモノが切れないといった致命点を帯びてしまう。
俺は武士や武芸者の子孫であることもあって、そのやり方に到底納得がいかなくて、
左ひじを伸ばしながらの打突を試み続けた結果、右肩を脱臼させてしまった。
誰でも同じようなやり方をすれば、必ず大怪我をする振り方だ。
剣道も剣術もやってなかったらチンプンカンプンかもしれないが、
一応、説明責任は果たしておいたぞ。
ただの下手の横好きだろうがぁwww
最古層、撃剣以前の真剣勝負専門の剣術はみな、
流派を問わず体を一重身(ななめ)に構える。それにより
相手から正中線近辺の急所を隠し、斬撃にも全体重をかけられるようにする。
それに合わせて、竹刀や木刀の柄も両端を握るようになっている。
身体を二重身(真向立ち)に構えるのはまがい物か、もしくは居合系である。
居合の場合は先手必勝だから、急所の防御や攻撃力以上に速さを優先し、
その過程で二重身となり、刀の柄も内側を握るのが主となって行ったのである。
いずれにしろ、刀は基本、右手で持ち支えるものであり、しかもどちらかといえば
親指や人差し指で握ることで、手の内による回剣技巧なども駆使するものである。
「左手小指で柄尻を握る」という技巧もないわけではないが、
これは全身で刀を振るための神経系制御のまじないみたいなもので、
別に左手小指だけで刀全体を支えるような真似を推奨したものではない。
しかるに、現代剣道は、二重身で立ちながら柄の両端を握り、左手小指で刀全体を支える。
相手に急所を晒しきり、刀に全体重をかけての斬撃もままならず、右手の内を駆使した
回剣技巧なども全くの不能となり、真剣を振る場合には柄を破損すること必至という、
どこを見てもいいとこなしな最低最悪のルールの下でのみ受容されている。
これで体の一つも壊さずに済ませられる方が、むしろ忖度上手にすぎるぐらいのものである。
流派を問わず体を一重身(ななめ)に構える。それにより
相手から正中線近辺の急所を隠し、斬撃にも全体重をかけられるようにする。
それに合わせて、竹刀や木刀の柄も両端を握るようになっている。
身体を二重身(真向立ち)に構えるのはまがい物か、もしくは居合系である。
居合の場合は先手必勝だから、急所の防御や攻撃力以上に速さを優先し、
その過程で二重身となり、刀の柄も内側を握るのが主となって行ったのである。
いずれにしろ、刀は基本、右手で持ち支えるものであり、しかもどちらかといえば
親指や人差し指で握ることで、手の内による回剣技巧なども駆使するものである。
「左手小指で柄尻を握る」という技巧もないわけではないが、
これは全身で刀を振るための神経系制御のまじないみたいなもので、
別に左手小指だけで刀全体を支えるような真似を推奨したものではない。
しかるに、現代剣道は、二重身で立ちながら柄の両端を握り、左手小指で刀全体を支える。
相手に急所を晒しきり、刀に全体重をかけての斬撃もままならず、右手の内を駆使した
回剣技巧なども全くの不能となり、真剣を振る場合には柄を破損すること必至という、
どこを見てもいいとこなしな最低最悪のルールの下でのみ受容されている。
これで体の一つも壊さずに済ませられる方が、むしろ忖度上手にすぎるぐらいのものである。
>>125-127
その文中に登場している学者や政治家の誰一人として、
西洋人こそがイデオロギーであれ宗教であれ、特定のドグマに
世の中全体を支配させたがる病的執着を帯びてしまっている特殊性にまでは気づいていない。
それは社会的な普遍現象の産物ではなく、他害性や征服意欲にまみれた、
西洋人たち自身の心が必要もなく、わざわざえて捏造しているものであり、
そもそもが覇権意欲などがなければイデオロギーなんてもの自体、生じようもない。
東洋においては、たとえば秦始皇帝による法家支配などが、
今でいう法治主義的なイデオロギーとしての作為性を強く帯び過ぎてしまっていた
ことを反省材料として、たとえ大帝国の皇帝といえども特定のイデオロギー的な作為によって
世の中を完全な支配下に置こうとするのを忌み避けることが、太古の昔から心がけられて来たもの。
その文中に登場している学者や政治家の誰一人として、
西洋人こそがイデオロギーであれ宗教であれ、特定のドグマに
世の中全体を支配させたがる病的執着を帯びてしまっている特殊性にまでは気づいていない。
それは社会的な普遍現象の産物ではなく、他害性や征服意欲にまみれた、
西洋人たち自身の心が必要もなく、わざわざえて捏造しているものであり、
そもそもが覇権意欲などがなければイデオロギーなんてもの自体、生じようもない。
東洋においては、たとえば秦始皇帝による法家支配などが、
今でいう法治主義的なイデオロギーとしての作為性を強く帯び過ぎてしまっていた
ことを反省材料として、たとえ大帝国の皇帝といえども特定のイデオロギー的な作為によって
世の中を完全な支配下に置こうとするのを忌み避けることが、太古の昔から心がけられて来たもの。
西洋では、そのような試みが全く思想哲学宗教的な試みとして
思いつかれたこともないのは、太古の昔より、洋学が文系と理系、
人文と数理を完全な断絶状態に置くことを暗黙の了解として来たからである。
道家の無為自然思想が、今の中学生が教わる程度の初等数学で説明できるような数理を帯びて
いるのは以前から指摘して来たことだが、人文系の洋学にはその程度の理数系との統合すらなく、
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」程度の倫理性すらまともに持ち合わせて来てはいない。
人文思想の中に無為、数理でいうところの零ゼロに相当する観念を介入させることを徹底して
無視し続けて来たために、「イデオロギーというものを持たないことで世の中を司って行く」
といった試みにも意義を見出すことができず、常に無為以上の作為によってのみ、
世の中が改善や発展を遂げられるものだなどと総員で思い込んで来たのである。
思いつかれたこともないのは、太古の昔より、洋学が文系と理系、
人文と数理を完全な断絶状態に置くことを暗黙の了解として来たからである。
道家の無為自然思想が、今の中学生が教わる程度の初等数学で説明できるような数理を帯びて
いるのは以前から指摘して来たことだが、人文系の洋学にはその程度の理数系との統合すらなく、
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」程度の倫理性すらまともに持ち合わせて来てはいない。
人文思想の中に無為、数理でいうところの零ゼロに相当する観念を介入させることを徹底して
無視し続けて来たために、「イデオロギーというものを持たないことで世の中を司って行く」
といった試みにも意義を見出すことができず、常に無為以上の作為によってのみ、
世の中が改善や発展を遂げられるものだなどと総員で思い込んで来たのである。
ナポレオンやマルクスも、特定のイデオロギーを
持ち合わせているなどという自覚もないながらに、
その実践者や創始者そのものと言うべき様相を帯びていた。
それは、「世の中の作為的支配あるところイデオロギーあり」だからである。
この世を自らの支配下に置いて、何もかもを好き勝手に取り仕切りたい
などという我欲が存在する以上は、そこに何らかのイデオロギーがある。
西洋で約2000年前から絶対帰依の対象とされて来た聖書の神からして、
そのような作為的支配の権化そのものであるが故に、西洋人たちがキリスト教的な
価値観から脱却できない以上は、たとえ無宗教的な社会統治を試みるのであろうとも、
必ずそこに不埒なほどにも作為的なイデオロギーを介在させないでは済まないままに終わる。
それは結局、「特定のイデオロギーによって世間を支配しようとしたりはしない」
という、確信的な零ゼロの作為のわきまえ直しによってのみ矯正され得る所だろうし、
ただイデオロギーに無頓着であるだけではいけない。イデオロギーという概念への否定意識
のみならず、自らの作為にまみれた征服欲から戒め続けることがその実践ともなるのである。
持ち合わせているなどという自覚もないながらに、
その実践者や創始者そのものと言うべき様相を帯びていた。
それは、「世の中の作為的支配あるところイデオロギーあり」だからである。
この世を自らの支配下に置いて、何もかもを好き勝手に取り仕切りたい
などという我欲が存在する以上は、そこに何らかのイデオロギーがある。
西洋で約2000年前から絶対帰依の対象とされて来た聖書の神からして、
そのような作為的支配の権化そのものであるが故に、西洋人たちがキリスト教的な
価値観から脱却できない以上は、たとえ無宗教的な社会統治を試みるのであろうとも、
必ずそこに不埒なほどにも作為的なイデオロギーを介在させないでは済まないままに終わる。
それは結局、「特定のイデオロギーによって世間を支配しようとしたりはしない」
という、確信的な零ゼロの作為のわきまえ直しによってのみ矯正され得る所だろうし、
ただイデオロギーに無頓着であるだけではいけない。イデオロギーという概念への否定意識
のみならず、自らの作為にまみれた征服欲から戒め続けることがその実践ともなるのである。
建てといてやったぞwww
おまえらが勝手に立てた次スレなんか、もちろん使わんよ?
少しでもおまえらのおだち上がりに与してしまう以上はな。
少しでもおまえらのおだち上がりに与してしまう以上はな。
[YouTubeで再生]
>>147
自由主義によって、むしろ選択の自由が奪われた事例を、
上で個人的な経験談と共に取り上げたものだ。
古流の剣術なども、多少は今でも残存しているが、俺が子供の頃に済んでた地域では明治期に滅亡し、
俺自身、剣道を始めて以降もしばらくの間、そんなものが今でも今でも現存していること自体を知らないままでいた。
(まだネットで検索すれば一発という頃でもないし、知った所で遠征してまで教わろうとは思わなかっただろう)
先がた振武館16代目を継承した黒田泰正氏も、
そもそも今の時代、誰も古流武術なんてものが現存していること自体を知らないものだから
門弟も集まらない。そのため自分の代ではまず、古流の認知度を高めて行きたい旨を述べている。
特に、ナチスドイツ発祥の大メディアによるプロパガンダ工作が
全世界に流布され始めて以降は、衆目がほとんどテレビや新聞のみに奪われて、
そこで取り上げられないものはこの世にないも同然の扱いを受けるようになったもの。
ナチスもまた、国家社会主義というイデオロギーの実践を打ち出していた勢力だし、
それを独裁主義などと呼んで非難する側といえども、自分たちもまた
ある種のイデオロギーを本分に掲げている以上は、プロパガンダが好適な
利用対象となり、今に至るまでろくな糾弾も受けずに生き延びているのである。
>>147
自由主義によって、むしろ選択の自由が奪われた事例を、
上で個人的な経験談と共に取り上げたものだ。
古流の剣術なども、多少は今でも残存しているが、俺が子供の頃に済んでた地域では明治期に滅亡し、
俺自身、剣道を始めて以降もしばらくの間、そんなものが今でも今でも現存していること自体を知らないままでいた。
(まだネットで検索すれば一発という頃でもないし、知った所で遠征してまで教わろうとは思わなかっただろう)
先がた振武館16代目を継承した黒田泰正氏も、
そもそも今の時代、誰も古流武術なんてものが現存していること自体を知らないものだから
門弟も集まらない。そのため自分の代ではまず、古流の認知度を高めて行きたい旨を述べている。
特に、ナチスドイツ発祥の大メディアによるプロパガンダ工作が
全世界に流布され始めて以降は、衆目がほとんどテレビや新聞のみに奪われて、
そこで取り上げられないものはこの世にないも同然の扱いを受けるようになったもの。
ナチスもまた、国家社会主義というイデオロギーの実践を打ち出していた勢力だし、
それを独裁主義などと呼んで非難する側といえども、自分たちもまた
ある種のイデオロギーを本分に掲げている以上は、プロパガンダが好適な
利用対象となり、今に至るまでろくな糾弾も受けずに生き延びているのである。
近ごろ電通も、五輪汚職への摘発などを通じて若干の萎縮状態にはあるが、
それもあくまで、今の世の中でも法的に許されないような別個の不正が発覚したからで、
ナチス発祥のプロパガンダ工作を戦前から日本で請け負って来た主要な組織としての、
本人たちの存在性が根本から糾弾を受けた結果、そうなっているわけではない。
米欧の民主主義国におけるプロパガンダもまた、
近ごろは非常に偏ったポリコレのゴリ押しなどで鼻つまみもの扱いされている
ぐらいのことはあるが、欧米でプロパガンダを行っているメディア勢力が全体的に、
自国の通貨発行権まで掌握しているユダヤに乗っ取られているせいで、匿名ネット
などではそれなりに電通への悪口が書きなぐられたりしている日本以上にも、
メディアによるプロパガンダ自体を糾弾することはタブー扱いのままでいる。
なんといっても、欧米人は日本人などよりもはるかに、
誰と言わず総員でイデオロギー志向が強い人種だから、
世の中が大メディアによるプパガンダで特定の思想一色に染め上げられたり
すること自体にはまったく疑問も抱かないのがほとんでいる。それが独裁主義や
共産主義みたいな自分の気に入らないイデオロギーに乗っ取られるのは御免だが、
自由主義や民主主義みたいな自分の好むイデオロギーであるのならよしとする。
そういった、プロパガンダそのものの存在性自体は認めてかかる姿勢の
先にあったのが、BLMによる黒人犯罪の野放しや、LGBTの推奨だったわけだ。
それもあくまで、今の世の中でも法的に許されないような別個の不正が発覚したからで、
ナチス発祥のプロパガンダ工作を戦前から日本で請け負って来た主要な組織としての、
本人たちの存在性が根本から糾弾を受けた結果、そうなっているわけではない。
米欧の民主主義国におけるプロパガンダもまた、
近ごろは非常に偏ったポリコレのゴリ押しなどで鼻つまみもの扱いされている
ぐらいのことはあるが、欧米でプロパガンダを行っているメディア勢力が全体的に、
自国の通貨発行権まで掌握しているユダヤに乗っ取られているせいで、匿名ネット
などではそれなりに電通への悪口が書きなぐられたりしている日本以上にも、
メディアによるプロパガンダ自体を糾弾することはタブー扱いのままでいる。
なんといっても、欧米人は日本人などよりもはるかに、
誰と言わず総員でイデオロギー志向が強い人種だから、
世の中が大メディアによるプパガンダで特定の思想一色に染め上げられたり
すること自体にはまったく疑問も抱かないのがほとんでいる。それが独裁主義や
共産主義みたいな自分の気に入らないイデオロギーに乗っ取られるのは御免だが、
自由主義や民主主義みたいな自分の好むイデオロギーであるのならよしとする。
そういった、プロパガンダそのものの存在性自体は認めてかかる姿勢の
先にあったのが、BLMによる黒人犯罪の野放しや、LGBTの推奨だったわけだ。
俺もだいぶ前から、電通や全国放送のテレビ局のような大メディアは解体して
再編も禁止し、マスコミは最大級でも地方局なみの規模までとすべきだ
という政策を提唱して来たが、これこそは、世の中を特定のイデオロギーに
支配させないという指針の忠実な実践ともなるものである。
別に今の大メディアみたいな広告インフラで、儒学や仏教や古流の武芸を
全国民に向けてゴリ押しするような真似もしない。それらはそれらで、
分かる人間には分かる、出来る人間には出来るが逆もまた然りであることを
こちらからわきまえて、ただ洋学やスポーツばかりを押し付けられることで、
死線をさまようほど嫌な思いをさせられた自分のような、時代の被害者が、
もう二度とこの世に生じたりしないようにのみ勤めるわけである。
おそらく、振武館新宗家が望んでいるような古流への認知などもまた、
それだけで過不足のない域に適正化するだろう。大メディアの広告ばかりに
目を奪われて他が見えなくなるような、視野狭窄の亡者の増産に歯止めが
かけられるだけでも、本当に良い物への適量な支持は必ず取り戻されるもの。
もちろん、大したこともないのにゴリ押しで底上げ人気を収奪していたような
部類の虚栄もまた終焉の時を迎える。特定のイデオロギーへのプロパガンダ
による誘導が廃された結果、名声の再分配もまた自然と行き渡るのである。
再編も禁止し、マスコミは最大級でも地方局なみの規模までとすべきだ
という政策を提唱して来たが、これこそは、世の中を特定のイデオロギーに
支配させないという指針の忠実な実践ともなるものである。
別に今の大メディアみたいな広告インフラで、儒学や仏教や古流の武芸を
全国民に向けてゴリ押しするような真似もしない。それらはそれらで、
分かる人間には分かる、出来る人間には出来るが逆もまた然りであることを
こちらからわきまえて、ただ洋学やスポーツばかりを押し付けられることで、
死線をさまようほど嫌な思いをさせられた自分のような、時代の被害者が、
もう二度とこの世に生じたりしないようにのみ勤めるわけである。
おそらく、振武館新宗家が望んでいるような古流への認知などもまた、
それだけで過不足のない域に適正化するだろう。大メディアの広告ばかりに
目を奪われて他が見えなくなるような、視野狭窄の亡者の増産に歯止めが
かけられるだけでも、本当に良い物への適量な支持は必ず取り戻されるもの。
もちろん、大したこともないのにゴリ押しで底上げ人気を収奪していたような
部類の虚栄もまた終焉の時を迎える。特定のイデオロギーへのプロパガンダ
による誘導が廃された結果、名声の再分配もまた自然と行き渡るのである。
仮に、電通や全国放送級の大メディアを一律解体したとすれば、
それは福祉国家か夜警国家かでいえば、福祉国家的な政策となるだろう、
アメリカなどは、日本のNHKに相当するような公営メディアを廃する一方、
民間のメディアには徹頭徹尾、好き勝手やらせる政策を採っている。
それは、対メディア政策が夜警国家的だということである。
それと比べれば、大メディアの跋扈全体を規制してかかるのは、
人々の多様な情報享受の選択肢を守るための、福祉国家的な政策たる。
イデオロギーによる国家支配の排除が、必ずしも夜警国家的とはならない実例になっているといえる。
もちろん、そこでNHKのような公営メディアだけは完全な国有としながら寵遇し、
かつての大本営発表のような政府発表のプロパガンダに利用したりするのであれば、
それは国が独裁主義というイデオロギーに染め上げられることになるわけだから、
当然、それも禁止の対象となる。故に過剰な福祉国家たることもないのである。
それは福祉国家か夜警国家かでいえば、福祉国家的な政策となるだろう、
アメリカなどは、日本のNHKに相当するような公営メディアを廃する一方、
民間のメディアには徹頭徹尾、好き勝手やらせる政策を採っている。
それは、対メディア政策が夜警国家的だということである。
それと比べれば、大メディアの跋扈全体を規制してかかるのは、
人々の多様な情報享受の選択肢を守るための、福祉国家的な政策たる。
イデオロギーによる国家支配の排除が、必ずしも夜警国家的とはならない実例になっているといえる。
もちろん、そこでNHKのような公営メディアだけは完全な国有としながら寵遇し、
かつての大本営発表のような政府発表のプロパガンダに利用したりするのであれば、
それは国が独裁主義というイデオロギーに染め上げられることになるわけだから、
当然、それも禁止の対象となる。故に過剰な福祉国家たることもないのである。
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