洋学は基本、文系か理系かなどを問わず短期記憶処理を主体とする一方、
儒学や仏学や玄学などは、長期記憶処理を主体とするもの。
たとえば、権力道徳学たる儒学の教条に、そこまで具体的な政策などが多いわけではないが、
そういう政策は六法よろしく時代によっていくらでも変わって行くものであるために、
その流れを追い続けてうまく処理して行くための、前頭葉記憶の養生のほうを重視している。
(その実例がたとえば、論語にあるような比較的抽象的な人間論だったりもするわけ)
それと比べれば洋学の政治学や法学などは、具体的な政策の一つ一つばかりを主要な
研究の対象としているために、側頭葉の短期記憶ばかりしか養われないわけである。
農作業の知識なども、作物や気候や環境などによっていくらでも変わって行くものなので、
いつまでも決定版の全書などを作れはしないけれども、一人一人のお百姓さんの脳内には、
自らの田畑をうまく扱うための長期記憶の知恵が多く蓄積されてきているもの。
そのような頭の使い方のほうが、儒学や仏学のような正学の学究姿勢にも通じるところが
あるために、その修養を重んじるお侍さんなども、商人なぞより農家のほうを、
より自分たちに格が近い人種であると見なして尊んできたのである。
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