汚された泉


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001 2024/07/03(水) 09:36:28 ID:xtK3k6pTsc
「いいえ、私は百姓です。家に帰ろうとしていたのです。どうか許してください」顔を真っ青にして、後ろにのけぞろうとする農民の背中に、「この野郎、図太い奴だ。言え、言わんか」K伍長の鞭が肉をさきちぎるようにビュンビュンとうなった。そのたびに農民は頭を両手でつつむようにして堪えていた。

軍刀や鞭、獰猛な幾十かの目玉に取りかこまれ、たまらない不安と堪えがたい苦しみの中から、「私は百姓です。どうか許してください」崩れる体を両手でやっと支えながら、農民は頭を地面に叩きつけるようにして、何回も何回も繰り返していた。その眼には大粒の涙をいっぱいたたえて・・・。

「ビシッ・・・ビシッ」冷酷な鞭は休むどころかさらにひどくはげしく農民の体をなぐった。小さなうめき声をあげ、歯をくいしばる農民の日やけした顔は、血と脂汗と泥でものすごい形相に変わり、石のようにこぶしは固く握りしめられていた。

そのさまが私にはたまらなく面白かった。ゲラゲラ笑う兵隊たちの中で、私は煙草をくゆらせていた。

草の葉ずれや驢馬(ろば)を追う鞭の音にも「八路軍だ」とうろたえまわる日本兵も、いったん身に寸鉄も帯びない平和な農民、女、子どもの前に立つと、こうしてたちまち牙をむき出して飛びかかったのだ。

会心の笑いをうかべたY中尉は、「この野郎、水でもくらえ」農民を力まかせに井戸の中に突き落とした。これが彼の初めからの計画であったのである。

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004 2024/07/03(水) 10:28:54 ID:Y8C9e3q8gI
当時の日本兵ってみんな中国語が理解出来てたんだ。w

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005 2024/07/03(水) 10:41:42 ID:R7qAjML6ao
支那の工作がウゼー

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007 2024/07/03(水) 11:18:45 ID:lj7WpRxHbc
>>1またおまえか
あの手記の三光っていうプロパガンダ本、皆が皆似たような文面なんだよねww何故か知ってる?ww

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008 2024/07/03(水) 11:48:13 ID:grpXTtBimk
そんな“被侵略”の痛み屈辱を知っているはずの中国人が、21世紀の今まさに、周辺他国を侵略し、他民族を蹂躙!

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009 2024/07/03(水) 12:27:12 ID:gVRruvpuB6
ほんと、
人間って鬼畜だよねっ
天安門で戦車・・・・

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010 2024/07/03(水) 19:31:44 ID:X.5CPyqLco
文化大革命の時の話だね

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011 2024/07/03(水) 19:49:02 ID:xVlDkEYHzs
現代でもヤクザや半グレの界隈で稀に似たようなことがあるから、たまにはこういうことも有ったかもしれないが
>>4の言うように相互に現地人と会話ができたことにも何の違和感も覚えない真面目な読み手たちが多い

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012 2024/07/03(水) 20:58:01 ID:CYJLUts6EQ
>>11
俺の職場で以前会社から中国語の会話スクールに何人かいかされていたけど英語よりも難しいと言ってたな。その中国語と同じかそれ以上に難しいと言われる日本語なのに、一般兵士と地元民と荒れた戦場でどれほどコミニュケーションがとれたものなか怪しいもんだね・・・。

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013 2024/07/03(水) 21:06:35 ID:.pc.UFa0lw
日本には、「生きて虜囚の辱めを受けず」という有名な戦陣訓があります。
文字どおり「捕虜になるくらいなら自決しろ」という意味です。

これが、軍人の玉砕行動のみならず、同調圧力による民間人の集団自決をも惹起したため、
現代の感覚では「いくら戦時中だったとはいえ人命軽視も甚だしい、とんでもない思想だ」
と捉えられてしまうかもしれません。

しかし、このような戦陣訓が作られた背景には、当時のやむにやまれぬ事情があったのです。

話は日清戦争まで遡ります。

この戦争において日本軍が捕らえた清軍兵捕虜は1790名。
日本軍はジュネーブ条約を遵守して捕虜への人道的な扱いを徹底したため、
その多くが日本国内の各寺院に収監され、特に労働を科されることもなく平穏な生活を送り、
講和後には五体満足で本国へ送還されました。

一方、清軍の捕虜となった日本人のうち、生きて帰国できたのはたったの11名。
そのうち10名は軍夫(軍属の雑役夫)だったので、兵士については、何かの間違いで(?)
生かされた「1名」を除けば、捕虜になった者は漏れなく殺されたのです。

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014 2024/07/03(水) 21:11:32 ID:.pc.UFa0lw
しかも、ただ殺すだけではなく、「野蛮で残忍な方法で散々苦しめながら嬲り殺す」
というのが中国人のやり方でした。

その残虐性は、日本人兵士のみならず、清国に在住していた邦人(民間人)にまで向けられ、
生きたまま手足を切断する、男根を切り取る、睾丸を抜き取る、胸部を割いて石を詰める、
妊婦の腹を割く、赤ん坊を宙に放り投げて落ちてきたところを刃物で串刺しにする…等々の、
文字どおり壮絶な“辱め”と苦痛を与えながら虐殺したのです。

これに胸を痛めた陸軍第一軍司令官・山縣有朋の、

「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず」

…という言葉が、「生きて虜囚の辱めを受けず」の原型だと言われています。

つまり、もともとは同胞に対する慈悲の心から出た「自決という名の"安楽死"の奨め」であり、
その元凶を作ったのは中国人なのです。

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