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正直であることは楽しい 偉大なる生存の報告 Part319
▼ページ最下部
ここにいる一部の連中などからすれば、
正直であることは堅苦しいこと、嘘偽りでもなんでもやり放題のほうが
楽しいことのように思われたりもするようだけれども、むしろ逆。
正直であることで、自らの思考回路から矛盾性が排されることにより、
同時に考えると破綻があらわになるような矛盾情報同士の断片化がなくなり、
デフラグの行き届いたHDDが快適に動作するのと同じように、頭でいろいろと
ものを考えることがどこまでもストレスフリーでいられるようになる。
まずそれが楽しい。
正直を尽くすことで断片化を極力排し、それにより
ストレージとしての空き容量を十分に確保した状態の思考回路は、
何かを思い出したりすることもまた容易たり、まるでRAID構築された
複数のHDDのうちの一つが故障して読み取り不能になろうとも、その他の
ディスクの分散パリティからすべての損失情報をリビルドできるのと同じように、
一度忘れてしまった記憶の復元による思い出しもまた容易となる。
それがまた楽しい。
マインドフルネスとかいうのは、なにか神秘的な意味合いを持ち合わせた話の
ように思いこまれている節があるけれども、そういった即物的な観点に即した
説明が可能な範疇の話でもあることだし(もちろんそれだけではないのだが)、
そのための手段もただ正直であったりするような、ごく身近なものだったりも
するわけで、敬遠して全く心がけもしない正当性なども基本ないのである。
正直であることは堅苦しいこと、嘘偽りでもなんでもやり放題のほうが
楽しいことのように思われたりもするようだけれども、むしろ逆。
正直であることで、自らの思考回路から矛盾性が排されることにより、
同時に考えると破綻があらわになるような矛盾情報同士の断片化がなくなり、
デフラグの行き届いたHDDが快適に動作するのと同じように、頭でいろいろと
ものを考えることがどこまでもストレスフリーでいられるようになる。
まずそれが楽しい。
正直を尽くすことで断片化を極力排し、それにより
ストレージとしての空き容量を十分に確保した状態の思考回路は、
何かを思い出したりすることもまた容易たり、まるでRAID構築された
複数のHDDのうちの一つが故障して読み取り不能になろうとも、その他の
ディスクの分散パリティからすべての損失情報をリビルドできるのと同じように、
一度忘れてしまった記憶の復元による思い出しもまた容易となる。
それがまた楽しい。
マインドフルネスとかいうのは、なにか神秘的な意味合いを持ち合わせた話の
ように思いこまれている節があるけれども、そういった即物的な観点に即した
説明が可能な範疇の話でもあることだし(もちろんそれだけではないのだが)、
そのための手段もただ正直であったりするような、ごく身近なものだったりも
するわけで、敬遠して全く心がけもしない正当性なども基本ないのである。
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まあ、昨日はアベマの一挙無料にかこつけて、
MAL評価世界一アニメのフリーレンを今さら見通してたわけだが。
前評判から察してたことだが、やっぱりこれは青葉のいう「魔性の作品」だな。
人間ができてないうちから見てはまると、もう帰って来られなくなる危険のある。
「洗脳級」というとカルト的に思われるだろうけど、内容にカルト的な意味は
ないにしても、現実逃避者を幻想に取り込んで行く効果自体は十分に洗脳級で、
ブレイバーンみたいに割り切って見られる予防線なんかもちゃんと張ってない。
何千何万年と続く、本物の人類の歴史のほうをそれなりにちゃんと学んだ上でなら、
フィクションとして割り切ることもできようが、無学だったり、勉強したところで
先祖たちが悪逆の限りを尽くして来た魔族級の身の上だったりすれば、
「もうあっち側でいいや」となりかねない誘引力を持ち合わせている。
これでまた、第二第三の青葉が現れないとも限らないし、しかもそれがハルヒなんかと
違って全世界規模にまで上ろうとしている。ファンタジーの向こう側にしか救いが
ないような人々への、現実からの救いがない限りは、それも免れ得ないことである。
MAL評価世界一アニメのフリーレンを今さら見通してたわけだが。
前評判から察してたことだが、やっぱりこれは青葉のいう「魔性の作品」だな。
人間ができてないうちから見てはまると、もう帰って来られなくなる危険のある。
「洗脳級」というとカルト的に思われるだろうけど、内容にカルト的な意味は
ないにしても、現実逃避者を幻想に取り込んで行く効果自体は十分に洗脳級で、
ブレイバーンみたいに割り切って見られる予防線なんかもちゃんと張ってない。
何千何万年と続く、本物の人類の歴史のほうをそれなりにちゃんと学んだ上でなら、
フィクションとして割り切ることもできようが、無学だったり、勉強したところで
先祖たちが悪逆の限りを尽くして来た魔族級の身の上だったりすれば、
「もうあっち側でいいや」となりかねない誘引力を持ち合わせている。
これでまた、第二第三の青葉が現れないとも限らないし、しかもそれがハルヒなんかと
違って全世界規模にまで上ろうとしている。ファンタジーの向こう側にしか救いが
ないような人々への、現実からの救いがない限りは、それも免れ得ないことである。
(>>214の続き)
>「朱に交われば赤くなる」や「泥中の蓮」的な意味で、
>病人に同調していれば病人となり、健常者に同調していれば健常者となる。
>健常者に反目していれば病人となり、病人に反目していれば、
>逆方向への病人となるか、中庸の併修によって健常者となる。
というようなことをアンチスレに書いておいてやったけれども。
この中の特に「中庸と共に病人に反目して健常者たる」というのが、
俺が嘘を楽しむ部類の痴れ者との付き合いなどの中で試みて来たものだったな。
前言の通り、ごくたまにそういう連中も真実らしきことを言うが、
概ねのところで精神衛生をも害するような不埒な志向性を持ち合わせているのには違いない。
またそちらへと誘いこむために、わざと正直者をめかしこむようなこともある。
そういった言動姿勢全体が、正直であることを楽しんでいる側からすれば、
どこか鼻につくような雰囲気の異臭を漂わせ続けているために、やはりそれと分かる。
そうして正直めいた発言などもそれなりにいなしてやりながら、
完全にまでは迎合したりすることがない、中庸を保った付き合いを守り抜く。
>「朱に交われば赤くなる」や「泥中の蓮」的な意味で、
>病人に同調していれば病人となり、健常者に同調していれば健常者となる。
>健常者に反目していれば病人となり、病人に反目していれば、
>逆方向への病人となるか、中庸の併修によって健常者となる。
というようなことをアンチスレに書いておいてやったけれども。
この中の特に「中庸と共に病人に反目して健常者たる」というのが、
俺が嘘を楽しむ部類の痴れ者との付き合いなどの中で試みて来たものだったな。
前言の通り、ごくたまにそういう連中も真実らしきことを言うが、
概ねのところで精神衛生をも害するような不埒な志向性を持ち合わせているのには違いない。
またそちらへと誘いこむために、わざと正直者をめかしこむようなこともある。
そういった言動姿勢全体が、正直であることを楽しんでいる側からすれば、
どこか鼻につくような雰囲気の異臭を漂わせ続けているために、やはりそれと分かる。
そうして正直めいた発言などもそれなりにいなしてやりながら、
完全にまでは迎合したりすることがない、中庸を保った付き合いを守り抜く。
「宰我『仁者は井の底に仁があるといえば、そこに赴きますでしょうか』
孔子『そんなことはあり得ない。君子を多少欺いて誘う程度のことはできても、
陥れて強いるようなことまでは決してできないものだ』」(雍也第六・二六)
これもそういう理由に基づくもので、そもそもが楽しんでいる物事が根本的に
相容れないからこそ、小人が君子を誘って小人の道に陥れることも能わぬのである。
正直であることと嘘をつくことほど、論理面から相容れない行為も他になく、
ゆえにそれは相容れない者同士の代表格としてよく挙げられる、水と油や、
呉と越ほどにも同調する所がなく、ゆえに善悪味噌糞の偽善が横行している
ような時代にはすぐ、正直であることを楽しむ儒仏のような思想体系が完全に
正規教育などから排されて日の目を見なくなるようなことにもなってしまう。
さりとて、やはり仁者こそがその正直さゆえに、嘘偽りを楽しもうとするような
輩よりも普遍的にその人生を楽しみ尽くすものであることには変わりないが故に、
まるで水が高い所から低い所へと下って行くようにして、嘘偽りに満ちた世の中の
つまらなさに耐えかねての反正なども、いずれは来さざるを得なくなるのである。
孔子『そんなことはあり得ない。君子を多少欺いて誘う程度のことはできても、
陥れて強いるようなことまでは決してできないものだ』」(雍也第六・二六)
これもそういう理由に基づくもので、そもそもが楽しんでいる物事が根本的に
相容れないからこそ、小人が君子を誘って小人の道に陥れることも能わぬのである。
正直であることと嘘をつくことほど、論理面から相容れない行為も他になく、
ゆえにそれは相容れない者同士の代表格としてよく挙げられる、水と油や、
呉と越ほどにも同調する所がなく、ゆえに善悪味噌糞の偽善が横行している
ような時代にはすぐ、正直であることを楽しむ儒仏のような思想体系が完全に
正規教育などから排されて日の目を見なくなるようなことにもなってしまう。
さりとて、やはり仁者こそがその正直さゆえに、嘘偽りを楽しもうとするような
輩よりも普遍的にその人生を楽しみ尽くすものであることには変わりないが故に、
まるで水が高い所から低い所へと下って行くようにして、嘘偽りに満ちた世の中の
つまらなさに耐えかねての反正なども、いずれは来さざるを得なくなるのである。
昨日、フリーレン一気見しながら、
久しぶりに酒飲み過ぎて二日酔い気味。
「酒は飲んでも乱れるとこまで行くな」(郷党第十・八)
という教えなどにも即して、30歳も過ぎた頃にはもう、
酒乱という所まで飲み過ぎることはほぼ控えるようになったんだが、
昨日は久しぶりに飲み過ぎたのはなぜかを考えてみるに。
ベルセルクや進撃の巨人みたいに1000年級の物語を扱ってる上に、
現在と古代と数十年前とをより自由に行き来するフリーレンの作風が、
自分自身の脳内に架空とはいえ、大きな歴史を想像させる。
それが、人類の歴史などについてもまだよく知らなかった、
若い頃の無鉄砲さ加減をも同時に誘起させたように思われる。
今はもう1000年どころか、何千何万年という本物の人類の歴史の積み重ねの、
どの辺でどういうことがあって今に至っているのかといったことについて、
概ね程度にはほぼもれなく頭に入っているために、それが心の安定を支えて
飲み過ぎに及んだりさせないようになっていたのが、一度リセットされた感覚。
精進修行で酒を断つなんて真似にまで及ばずとも、人間にはそういうこともできる。
ただ、それもやはりちゃんと歴史の勉強などの手順を踏まねばままならないこと。
久しぶりに酒飲み過ぎて二日酔い気味。
「酒は飲んでも乱れるとこまで行くな」(郷党第十・八)
という教えなどにも即して、30歳も過ぎた頃にはもう、
酒乱という所まで飲み過ぎることはほぼ控えるようになったんだが、
昨日は久しぶりに飲み過ぎたのはなぜかを考えてみるに。
ベルセルクや進撃の巨人みたいに1000年級の物語を扱ってる上に、
現在と古代と数十年前とをより自由に行き来するフリーレンの作風が、
自分自身の脳内に架空とはいえ、大きな歴史を想像させる。
それが、人類の歴史などについてもまだよく知らなかった、
若い頃の無鉄砲さ加減をも同時に誘起させたように思われる。
今はもう1000年どころか、何千何万年という本物の人類の歴史の積み重ねの、
どの辺でどういうことがあって今に至っているのかといったことについて、
概ね程度にはほぼもれなく頭に入っているために、それが心の安定を支えて
飲み過ぎに及んだりさせないようになっていたのが、一度リセットされた感覚。
精進修行で酒を断つなんて真似にまで及ばずとも、人間にはそういうこともできる。
ただ、それもやはりちゃんと歴史の勉強などの手順を踏まねばままならないこと。
かなり血の濃い純日本人の血筋として、
日本や世界の歴史を概括的に把握して来たことは、
紛れもなくより健全な心の安定を支える術になって来た。
それによりヤケ酒級に飲んだりすることもなくなって来たものだが、
上にも書いた通り、それが誰しもにとってそうたり得るとも言えはしない。
自らの先祖や民族や国が、悪逆非道の限りを尽くして来たものだから、
そういった歴史の積み重ねを無視して、捏造史や、フリーレンや
スターウォーズみたいなフィクション上の歴史あたりにでも浸かってた
方がより心が安定する、なんていう人種もまた実際、いるであろう。
そうでなくたって、ちゃんと歴史を勉強したりするのは苦痛だから、
安易なほうに流れて、砂上の楼閣な心の安定に止まったりもしよう。
当然のことながら、正しい歴史認識と捏造史の弄びもまた、
ここに書いて来た正直の楽しみと嘘偽りの楽しみにそれぞれ割り振られる
ものであるが故に相容れないものだし、嘘を嘘だと割り切ってフィクションの
歴史を楽しんだりすることもまた、上のような理由で本物の歴史への楽しみを
負かしてしまい、現実逃避へと人々をいざなってしまうことにもなりかねない。
日本や世界の歴史を概括的に把握して来たことは、
紛れもなくより健全な心の安定を支える術になって来た。
それによりヤケ酒級に飲んだりすることもなくなって来たものだが、
上にも書いた通り、それが誰しもにとってそうたり得るとも言えはしない。
自らの先祖や民族や国が、悪逆非道の限りを尽くして来たものだから、
そういった歴史の積み重ねを無視して、捏造史や、フリーレンや
スターウォーズみたいなフィクション上の歴史あたりにでも浸かってた
方がより心が安定する、なんていう人種もまた実際、いるであろう。
そうでなくたって、ちゃんと歴史を勉強したりするのは苦痛だから、
安易なほうに流れて、砂上の楼閣な心の安定に止まったりもしよう。
当然のことながら、正しい歴史認識と捏造史の弄びもまた、
ここに書いて来た正直の楽しみと嘘偽りの楽しみにそれぞれ割り振られる
ものであるが故に相容れないものだし、嘘を嘘だと割り切ってフィクションの
歴史を楽しんだりすることもまた、上のような理由で本物の歴史への楽しみを
負かしてしまい、現実逃避へと人々をいざなってしまうことにもなりかねない。
中には、ユダヤ人や部落出身者や多くの韓国人などのように、
自分たちへの迫害史を捏造することで保護利権にたかることを
食い物にしているような連中までもがいるものだし、そこまでいくと、
心の部分だけ嘘偽りの楽しみから正直の楽しみへと鞍替えすることも能わない。
嘘偽りを楽しむこと全般を諦めて、正直を楽しんで行こうとすること自体が、
麻薬中毒からの脱却並みに大いなる苦悩を伴うものだというのに、
さらにそこに二重三重の障壁が畳み掛けられて来るとあっては、
完全に諦め去ってそういう楽しみを敵視しとくほうがマシ、とすらなる。
自分たちへの迫害史を捏造することで保護利権にたかることを
食い物にしているような連中までもがいるものだし、そこまでいくと、
心の部分だけ嘘偽りの楽しみから正直の楽しみへと鞍替えすることも能わない。
嘘偽りを楽しむこと全般を諦めて、正直を楽しんで行こうとすること自体が、
麻薬中毒からの脱却並みに大いなる苦悩を伴うものだというのに、
さらにそこに二重三重の障壁が畳み掛けられて来るとあっては、
完全に諦め去ってそういう楽しみを敵視しとくほうがマシ、とすらなる。
たとえ正しい歴史を正しく勉強したつもりでも、長年悪逆非道を増長させる
ことばかりで一貫して来た西洋史あたりにより主眼をおいて、仁政を本位と
して来た東洋史を蔑ろにしたりしようものなら、その優先順位の取り違え
ひとつで「人類の歴史は暗黒史」「歴史からの解放こそが人類の解放!」
なんていう思い込みに至ったりもしてしまいかねず、それにより本人自身も、
歴史の積み重ねの中に心の安定の拠り所を見出すこともシャットアウト、
自分と同道たらんとする他者にまでそれを推奨したりまですることになる。
他力本願の浄土門ですら、大水と大火の間に一本だけ存在する白道を
渡ることでのみ極楽往生が可能であるとしているものだけれども、
まさにそれと同じように、人が酒を飲んでも飲まれない程度に心の恒常的な
安定を得る手段もまた、いくらでもありそうでいながら、多くの間違った
選択肢の中から正しいものだけを選び取らねばならない所があるのである。
ことばかりで一貫して来た西洋史あたりにより主眼をおいて、仁政を本位と
して来た東洋史を蔑ろにしたりしようものなら、その優先順位の取り違え
ひとつで「人類の歴史は暗黒史」「歴史からの解放こそが人類の解放!」
なんていう思い込みに至ったりもしてしまいかねず、それにより本人自身も、
歴史の積み重ねの中に心の安定の拠り所を見出すこともシャットアウト、
自分と同道たらんとする他者にまでそれを推奨したりまですることになる。
他力本願の浄土門ですら、大水と大火の間に一本だけ存在する白道を
渡ることでのみ極楽往生が可能であるとしているものだけれども、
まさにそれと同じように、人が酒を飲んでも飲まれない程度に心の恒常的な
安定を得る手段もまた、いくらでもありそうでいながら、多くの間違った
選択肢の中から正しいものだけを選び取らねばならない所があるのである。
(>>230の続き)
本物の歴史を正しく勉強して、なおかつそこに一定数存在する賢聖たちの
意志を受け継ぎ、なるべくならその実現にも勤めて行こうとする心境こそが、
最低でも酒乱を避けられる程度の心の安定をもたらしてくれるものである。
「儒学」という学問は、特にその修養を最大級の本懐としているもので、
故に根本聖典たる四書五経にも、書経や春秋のような世界最古級の歴史書が含まれている。
堯舜禹や高宗武丁、文王武王や周公といった、当時から見ても古えの聖王賢臣たちの
言行に孔子や孟子も思いを馳せ、その魂の会得に臨んでいたのだった。
しかし、孔孟は春秋戦国時代という極度の乱世に生きたために、
その才覚を政治の場で十分に発揮することは叶わず、あまり実務に携わることが
できないでいるのに乗じての、権力道徳学の体系化のほうにより尽力したのだった。
それもまた一つの、古えの賢聖たちの魂の継承であったのには違いなく、
故にこそその教えを入念な参考にしたいくつもの大帝国が、後に治世を実現して行けた。
歴史上の聖王賢臣なみの大功業を誰しもが挙げられるとは限らないが、
その意志を受け継ぐことはそこまで限られた人々だけの特権ではなく、
為政の主導などとはまた別の形でそれを賛助して行けることもあるし、
ほとんど何もできなかった所で、自らの心の安定という功徳ぐらいには与れる。
ゆえに「舜も人、我も人なり(孟子)」という心がけを持ち保たない手はないのである。
本物の歴史を正しく勉強して、なおかつそこに一定数存在する賢聖たちの
意志を受け継ぎ、なるべくならその実現にも勤めて行こうとする心境こそが、
最低でも酒乱を避けられる程度の心の安定をもたらしてくれるものである。
「儒学」という学問は、特にその修養を最大級の本懐としているもので、
故に根本聖典たる四書五経にも、書経や春秋のような世界最古級の歴史書が含まれている。
堯舜禹や高宗武丁、文王武王や周公といった、当時から見ても古えの聖王賢臣たちの
言行に孔子や孟子も思いを馳せ、その魂の会得に臨んでいたのだった。
しかし、孔孟は春秋戦国時代という極度の乱世に生きたために、
その才覚を政治の場で十分に発揮することは叶わず、あまり実務に携わることが
できないでいるのに乗じての、権力道徳学の体系化のほうにより尽力したのだった。
それもまた一つの、古えの賢聖たちの魂の継承であったのには違いなく、
故にこそその教えを入念な参考にしたいくつもの大帝国が、後に治世を実現して行けた。
歴史上の聖王賢臣なみの大功業を誰しもが挙げられるとは限らないが、
その意志を受け継ぐことはそこまで限られた人々だけの特権ではなく、
為政の主導などとはまた別の形でそれを賛助して行けることもあるし、
ほとんど何もできなかった所で、自らの心の安定という功徳ぐらいには与れる。
ゆえに「舜も人、我も人なり(孟子)」という心がけを持ち保たない手はないのである。
漫画は結構読み込んで来たほうだとは思うが、
アニメ方面がミーハーなのはちげえねえや。
勉強や修行のほうがより忙しかったんでな。
だいたい、漫画は同人というプロとアマのグレーゾーンがあるけど、
アニメはもう本当に精鋭のプロばかりで成り立ってる分野だから、
中川翔子なみに知識豊富で絵や歌がそれなりにうまくても、プロとまでは
行かないのに出しゃばったせいで煙たがられて追い出されたような界隈だからな。
毎月何十と出てる新作を全部観たりするのも絶対に無理だし、
最高権威の岡田斗司夫でも手のひら返しのプロ呼ばわりされてるような有様だし、
個人的に好きなのはいいとしても、専門家気取りなんかはやめといたほうがいいぜ。
アニメ方面がミーハーなのはちげえねえや。
勉強や修行のほうがより忙しかったんでな。
だいたい、漫画は同人というプロとアマのグレーゾーンがあるけど、
アニメはもう本当に精鋭のプロばかりで成り立ってる分野だから、
中川翔子なみに知識豊富で絵や歌がそれなりにうまくても、プロとまでは
行かないのに出しゃばったせいで煙たがられて追い出されたような界隈だからな。
毎月何十と出てる新作を全部観たりするのも絶対に無理だし、
最高権威の岡田斗司夫でも手のひら返しのプロ呼ばわりされてるような有様だし、
個人的に好きなのはいいとしても、専門家気取りなんかはやめといたほうがいいぜ。
(>>238の続き)
90過ぎまで10兆円以上の資産を持ち越した挙句に、
今の自分には無貯金20歳の若者ほどの価値もないことを
思い知らされているバフェットなみの小人にとっては、
惨めな老後より盛大な早死にのほうがマシ、なんてこともあり得ようが。
長寿の孤独も仏僧的な精進によって福徳に代えることが可能だし、
そうでなくたって、仁政を目的とした歴史の勉強などによって、
人類史全体をわが人生と等価なものならしめて、そこにいる数多の
賢聖たちとの魂の交流を通じて、孤独を霧消させることもまた可能たる。
フィクション上の架空キャラなどと違って、間違いなく実在していた上に、
その教えに倣うことでの現実的な功徳もまた本当に期待できる大丈夫たち。
そこに親交の思いを馳せることは、大いに健全なことであるが故に、
なんらの副作用を来たすこともなく、己が浩然の気の養生による
心の安定や人生の充実をももたらしてくれるものである。
日本のフィクション作品などの中には、そういった古人の教えを
あの手この手を使って埋め込んだようなものも多いために、
フィクションでも似たような体験がある程度はできたりするものだけれども、
それもやはり水増しだったり、阿世の汚濁との味噌糞だったりするのが
常であるが故に、実在の賢聖に親しむほどの純正さには及ばぬものである。
90過ぎまで10兆円以上の資産を持ち越した挙句に、
今の自分には無貯金20歳の若者ほどの価値もないことを
思い知らされているバフェットなみの小人にとっては、
惨めな老後より盛大な早死にのほうがマシ、なんてこともあり得ようが。
長寿の孤独も仏僧的な精進によって福徳に代えることが可能だし、
そうでなくたって、仁政を目的とした歴史の勉強などによって、
人類史全体をわが人生と等価なものならしめて、そこにいる数多の
賢聖たちとの魂の交流を通じて、孤独を霧消させることもまた可能たる。
フィクション上の架空キャラなどと違って、間違いなく実在していた上に、
その教えに倣うことでの現実的な功徳もまた本当に期待できる大丈夫たち。
そこに親交の思いを馳せることは、大いに健全なことであるが故に、
なんらの副作用を来たすこともなく、己が浩然の気の養生による
心の安定や人生の充実をももたらしてくれるものである。
日本のフィクション作品などの中には、そういった古人の教えを
あの手この手を使って埋め込んだようなものも多いために、
フィクションでも似たような体験がある程度はできたりするものだけれども、
それもやはり水増しだったり、阿世の汚濁との味噌糞だったりするのが
常であるが故に、実在の賢聖に親しむほどの純正さには及ばぬものである。
漫画アニメの話ばっかじゃやっぱりつまらん。
それは読んで観て楽しむまでのものであって、それ以上のことはないから。
でもそこにばかり食い付いてくるような奴もいるし、
その他に特に多いのが、前にも書いた「個人止まりの話」ばかりに食い付いてくる奴。
俺個人やおまえ個人、おまえはおまえが~わたしはわたしが~ばかりで、
まったく全体の俯瞰からの社会規模の話にまで及ぶことがない。
人生経験に乏しいか、あったところでそういった視野の広さを育む経験はなかった。
発達障害などとも大差ないような了見の狭さの中だけでやって来たのが見るに明らか。
だがそれは別に、今の世で必ずしも病気扱いにまでされるような障りではなく、
むしろその狭量さと共に、盲目に邁進して行く部類の人材のほうが好まれるといったあり様。
年寄りの中には、漫画アニメやゲームばかりに飛びついている若者を幼稚扱いする
者も未だ多かろうとて、自分たちこそがそのレベルの人材を欲して来たのだから、
当然の末路なのだと知るべきである。まさに蛙の子は蛙というやつだ。
それは読んで観て楽しむまでのものであって、それ以上のことはないから。
でもそこにばかり食い付いてくるような奴もいるし、
その他に特に多いのが、前にも書いた「個人止まりの話」ばかりに食い付いてくる奴。
俺個人やおまえ個人、おまえはおまえが~わたしはわたしが~ばかりで、
まったく全体の俯瞰からの社会規模の話にまで及ぶことがない。
人生経験に乏しいか、あったところでそういった視野の広さを育む経験はなかった。
発達障害などとも大差ないような了見の狭さの中だけでやって来たのが見るに明らか。
だがそれは別に、今の世で必ずしも病気扱いにまでされるような障りではなく、
むしろその狭量さと共に、盲目に邁進して行く部類の人材のほうが好まれるといったあり様。
年寄りの中には、漫画アニメやゲームばかりに飛びついている若者を幼稚扱いする
者も未だ多かろうとて、自分たちこそがそのレベルの人材を欲して来たのだから、
当然の末路なのだと知るべきである。まさに蛙の子は蛙というやつだ。
権力道徳や人類の歴史を学んで、賢聖との魂の交流に与るといった楽しみもまた、
前記の通り正直であることの楽しみの延長だから、嘘偽りへの耽溺こそを
楽しんでいるような者たちには到底能わないし、あまりにも理解不能でその実在性が
疑わしいために、>>253のように賢聖の実在を否定するような者までもが現れる始末だが。
そういう楽しみもまた人類という生き物にとっての普遍的な楽しみであればこそ、
それに近い体験をさせてくれるような一部のフィクション作品などに、
世界中の人々が感化されて多大なる賛美を寄せていたりもするのである。
「人間の本性は善なるも、汚濁によって覆い隠されることあり」(孟子)
本当はその性善さによって、今までにこのスレで書いて来たような正直さによる楽しみを
欲しているのだけれども、それを阻害するような後付けの差し障りのせいで不全たり、
酷い場合にはさような本性からの本意を忘れ去った、虚構の自我こそを己れとまで思い込む。
今の世の中が荒廃を極めていることは多くの人々が察している所だが、
それを固定化してしまっている一番の元凶もまた、さような精神性の荒廃なのであり、
そこからどんな手を使っての世直しを試みようとも、同じ過ちを繰り返すのみとなる。
なんならAIですらそういう人間が扱う以上は、俺の話がまともに解読できなかったりする
のと同じように、古えの賢聖が成し得たなみの治世をもたらすことも能わぬのである。
前記の通り正直であることの楽しみの延長だから、嘘偽りへの耽溺こそを
楽しんでいるような者たちには到底能わないし、あまりにも理解不能でその実在性が
疑わしいために、>>253のように賢聖の実在を否定するような者までもが現れる始末だが。
そういう楽しみもまた人類という生き物にとっての普遍的な楽しみであればこそ、
それに近い体験をさせてくれるような一部のフィクション作品などに、
世界中の人々が感化されて多大なる賛美を寄せていたりもするのである。
「人間の本性は善なるも、汚濁によって覆い隠されることあり」(孟子)
本当はその性善さによって、今までにこのスレで書いて来たような正直さによる楽しみを
欲しているのだけれども、それを阻害するような後付けの差し障りのせいで不全たり、
酷い場合にはさような本性からの本意を忘れ去った、虚構の自我こそを己れとまで思い込む。
今の世の中が荒廃を極めていることは多くの人々が察している所だが、
それを固定化してしまっている一番の元凶もまた、さような精神性の荒廃なのであり、
そこからどんな手を使っての世直しを試みようとも、同じ過ちを繰り返すのみとなる。
なんならAIですらそういう人間が扱う以上は、俺の話がまともに解読できなかったりする
のと同じように、古えの賢聖が成し得たなみの治世をもたらすことも能わぬのである。
俺の発言が、一部のノイジーマイノリティに多大なる嫌悪感を抱かせているのも、
正直であることをめいっぱい楽しもうとするあまりに、その内容がえてして
「馬鹿正直」の域に達している場合が多いからでもあるのに違いない。
ものを言うことに、間違いがないようにする慎重さなどはそれなりにあるにしろ、
嘘をひた隠しているような界隈にありがちな、「察しろ」的な空気を読む気は全くない。
別に面と向かってまでズケズケと言うつもりもないが、女の生理なんかについてですら、
話の上で必要とあらば、ここでは平然と述べ立てている。そういった、秘事がある
相手への配慮に欠けるような発言姿勢全般が、嘘偽りへの惑溺こそを楽しんでいる
ような連中にとっても、きわめて不都合で大いなる拒絶感を催させることにもなっている。
ただ、俺もまた決して隠し立てを何もかも暴き出してやりたいなんていうガサツさで
いるわけではなく、方便や戦略としての嘘への配慮なども決してできないわけではない。
しかし、そういった配慮を、嘘偽りを楽しもうとするような不埒者たち相手にまで
適用したりする気はなく、故にそこにピンポイントな歯に衣着せなさでいるものでもある。
その手の心がけは、できることならここに限らず、世の中で広く通用して行くべきだ
とすら思っている。悪人正機説が改めて広く周知され直すだけでもさような効果があろうし、
それに準ずるような欺瞞中毒への牽制キャンペーンが世に溢れ返るようになればいいのである。
正直であることをめいっぱい楽しもうとするあまりに、その内容がえてして
「馬鹿正直」の域に達している場合が多いからでもあるのに違いない。
ものを言うことに、間違いがないようにする慎重さなどはそれなりにあるにしろ、
嘘をひた隠しているような界隈にありがちな、「察しろ」的な空気を読む気は全くない。
別に面と向かってまでズケズケと言うつもりもないが、女の生理なんかについてですら、
話の上で必要とあらば、ここでは平然と述べ立てている。そういった、秘事がある
相手への配慮に欠けるような発言姿勢全般が、嘘偽りへの惑溺こそを楽しんでいる
ような連中にとっても、きわめて不都合で大いなる拒絶感を催させることにもなっている。
ただ、俺もまた決して隠し立てを何もかも暴き出してやりたいなんていうガサツさで
いるわけではなく、方便や戦略としての嘘への配慮なども決してできないわけではない。
しかし、そういった配慮を、嘘偽りを楽しもうとするような不埒者たち相手にまで
適用したりする気はなく、故にそこにピンポイントな歯に衣着せなさでいるものでもある。
その手の心がけは、できることならここに限らず、世の中で広く通用して行くべきだ
とすら思っている。悪人正機説が改めて広く周知され直すだけでもさような効果があろうし、
それに準ずるような欺瞞中毒への牽制キャンペーンが世に溢れ返るようになればいいのである。
「言葉を飾るな」今度思いついた言いがかりはこれか。
ほとんど読んでも意味が分からないと自分らで言ってるくせにな。
飾ってるように見えるほど、構文が立派に見えるのなら、
それも結構なことだね。どちらかといえば手抜き気味に書いてるのに。
別に物書きを生業とする気でもない。いずれは行いで示して行くことをも
大前提とした身の上なれば、文筆ばかりで体力を消耗する気もないのでな。
それでも飾ってるように見えるほどよく書けてるのなら、素晴らしいことだね。^^
ほとんど読んでも意味が分からないと自分らで言ってるくせにな。
飾ってるように見えるほど、構文が立派に見えるのなら、
それも結構なことだね。どちらかといえば手抜き気味に書いてるのに。
別に物書きを生業とする気でもない。いずれは行いで示して行くことをも
大前提とした身の上なれば、文筆ばかりで体力を消耗する気もないのでな。
それでも飾ってるように見えるほどよく書けてるのなら、素晴らしいことだね。^^
最長老の団塊からしてとっちゃん坊やだらけな戦後世代に、
人様への心からの敬意を抱けるほど成熟した精神性などは基本ない。
そのせいで、世の中が幼稚な子供ばかりで溢れ返っているのがあからさまに
なってしまう醜態を避けようとして、戦後の日本にはスポーツ崇拝があてがわれた。
大した実用性もないお遊戯運動なんかに、いい年になっても躍起でいるような
連中を持て囃して英雄扱いしたりするところに、自分たち自身の幼稚さを
ひた隠すための大人ごっことしての、偽りのリスペクトをもあてがって来た。
これもまた一種の自己欺瞞の楽しみであるが故に、こうしてその内実を暴露しようものなら、
そのせいでスカートをまくられた女子の如き不快感を抱く者が多くいるのにも違いない。
しかし、これが別にセクハラ的な不埒さを帯びた指摘なわけでもないうえに、
正直であることを楽しむのとは相容れない自己欺瞞の楽しみであるが故に、
世のため人のため自分のために、その内実を暴き出すことにも臆面を抱くことはない。
なるべくなら世の中全体がそれを奨励する風潮になって行くことで、
世の中から自己欺瞞の楽しみが排除や隔離されて行くようになって行くべきなのである。
人様への心からの敬意を抱けるほど成熟した精神性などは基本ない。
そのせいで、世の中が幼稚な子供ばかりで溢れ返っているのがあからさまに
なってしまう醜態を避けようとして、戦後の日本にはスポーツ崇拝があてがわれた。
大した実用性もないお遊戯運動なんかに、いい年になっても躍起でいるような
連中を持て囃して英雄扱いしたりするところに、自分たち自身の幼稚さを
ひた隠すための大人ごっことしての、偽りのリスペクトをもあてがって来た。
これもまた一種の自己欺瞞の楽しみであるが故に、こうしてその内実を暴露しようものなら、
そのせいでスカートをまくられた女子の如き不快感を抱く者が多くいるのにも違いない。
しかし、これが別にセクハラ的な不埒さを帯びた指摘なわけでもないうえに、
正直であることを楽しむのとは相容れない自己欺瞞の楽しみであるが故に、
世のため人のため自分のために、その内実を暴き出すことにも臆面を抱くことはない。
なるべくなら世の中全体がそれを奨励する風潮になって行くことで、
世の中から自己欺瞞の楽しみが排除や隔離されて行くようになって行くべきなのである。
バカじゃないか
誓って、世のため人のための便宜として必要な嘘や秘事までをも暴いてやろう
なんていう不躾さまでをも、正当化して押し通そうなんて言う気はない。
ただ、もはや欺瞞中毒を保護してやるためばかりに蔓延してしまっているような、
「察しろ」的な空気などはあえて読まず、そこにあえて、正直であることのほうを
楽しむ愉悦を鉄槌として叩き込んで行ってやるぐらいの心意気でいるものである。
この日本という国から諜報機関を完全に取り上げてのスパイ天国化なども、
特に韓国系のスパイの自己欺瞞による愉悦を増長させ続けて久しい。
それも、戦前世代の日本人が健在で、十分に牽制が行き届いていたうちは
致命的な害悪にまではならなかった所、無防備な戦後世代だけで世の中が
占められるようになって後には、日本どころか米韓までをも共に破滅に陥れる
害悪の元凶になりつつあることだし、やはりその暴露的な非難を躊躇することはない。
必要な嘘ぐらいには理解を示すが、不必要な嘘はただそうであるだけでなく、
正直であることの楽しみのほうを阻害する邪魔にもなるために、許さない。
そこにこそ世の中を健全に営んで行くための最善の指針もまたあるのに
違いないために、臆して控えたりする必要性が少しも見つからないのである。
なんていう不躾さまでをも、正当化して押し通そうなんて言う気はない。
ただ、もはや欺瞞中毒を保護してやるためばかりに蔓延してしまっているような、
「察しろ」的な空気などはあえて読まず、そこにあえて、正直であることのほうを
楽しむ愉悦を鉄槌として叩き込んで行ってやるぐらいの心意気でいるものである。
この日本という国から諜報機関を完全に取り上げてのスパイ天国化なども、
特に韓国系のスパイの自己欺瞞による愉悦を増長させ続けて久しい。
それも、戦前世代の日本人が健在で、十分に牽制が行き届いていたうちは
致命的な害悪にまではならなかった所、無防備な戦後世代だけで世の中が
占められるようになって後には、日本どころか米韓までをも共に破滅に陥れる
害悪の元凶になりつつあることだし、やはりその暴露的な非難を躊躇することはない。
必要な嘘ぐらいには理解を示すが、不必要な嘘はただそうであるだけでなく、
正直であることの楽しみのほうを阻害する邪魔にもなるために、許さない。
そこにこそ世の中を健全に営んで行くための最善の指針もまたあるのに
違いないために、臆して控えたりする必要性が少しも見つからないのである。
仮に日本で中野学校のような諜報機関が再開されれば、
そこでも戦略上どうしても必要な嘘偽りや秘匿を凝らすかもしれない。
ただそれもやはりそこまでのものとし、決して今の韓流スパイやその親分のように、
自己欺瞞に溺れて暴走を来たしたりするようなことは許さないようにして行くもの。
ただ、それはただひたすら法規で取り締まろうたってむりなことであるのが、
それこそ上記のような連中の非合法級のやりたい放題からも知れたものである。
「自分は正直であることのほうを楽しみたいから、自己欺瞞を楽しむのは避ける」
そういう人材こそがそこに従事して行くことでさような暴走もまた抑えられようし、
それは仏道修行級の嗜みまでもがあって然るべきところでもあるために、
戦前までの邦人スパイには中村天風や沖正弘のようなヨガ行者までもがいたのである。
(小野田寛郎なども結果的に修行級の経験と共にその務めを果たしていた一人である)
そういった諜報機関の健全な運営のためにこそ、仏門の復興が並行されて然るべきでもある。
ここではスパイ要員かつ仏教嫌いらしき輩も相当数見かけるけれども、そういった連中が二度と
その手の仕事に近寄りもできなくなるぐらいに、諜報と仏道が一如たるべきなぐらいだといえる。
そこでも戦略上どうしても必要な嘘偽りや秘匿を凝らすかもしれない。
ただそれもやはりそこまでのものとし、決して今の韓流スパイやその親分のように、
自己欺瞞に溺れて暴走を来たしたりするようなことは許さないようにして行くもの。
ただ、それはただひたすら法規で取り締まろうたってむりなことであるのが、
それこそ上記のような連中の非合法級のやりたい放題からも知れたものである。
「自分は正直であることのほうを楽しみたいから、自己欺瞞を楽しむのは避ける」
そういう人材こそがそこに従事して行くことでさような暴走もまた抑えられようし、
それは仏道修行級の嗜みまでもがあって然るべきところでもあるために、
戦前までの邦人スパイには中村天風や沖正弘のようなヨガ行者までもがいたのである。
(小野田寛郎なども結果的に修行級の経験と共にその務めを果たしていた一人である)
そういった諜報機関の健全な運営のためにこそ、仏門の復興が並行されて然るべきでもある。
ここではスパイ要員かつ仏教嫌いらしき輩も相当数見かけるけれども、そういった連中が二度と
その手の仕事に近寄りもできなくなるぐらいに、諜報と仏道が一如たるべきなぐらいだといえる。
まず以て、近世までの日本における最大最高の諜報機関って、高野山だったんだろうなって。
武家時代の主たる武将が、敵味方を問わずみな骨を分けて埋葬されているのからも知れる。
とりあえずあそこには情報を分けといて、最後の頼みの綱にしておこうとかしてたんだろうな、と。
それだけの役割を担えた諜報機関なんて、CIAを含めて他にないだろう。
むしろ自分たちのほうがやりたい放題の魔性に駆られての暴走ばかりに明け暮れて来たのだし、
全体を俯瞰するより、どちらかに加担することでの焼け太りのほうを優先しないでいられたはずもない。
そこに従事する個々人が勝手に自己欺瞞に溺れて来たところもあろうが、それ以上に、
始めからその程度の体裁でしかなかったというのもあろう。仏も儒も排してかかった時代には。
武家時代の主たる武将が、敵味方を問わずみな骨を分けて埋葬されているのからも知れる。
とりあえずあそこには情報を分けといて、最後の頼みの綱にしておこうとかしてたんだろうな、と。
それだけの役割を担えた諜報機関なんて、CIAを含めて他にないだろう。
むしろ自分たちのほうがやりたい放題の魔性に駆られての暴走ばかりに明け暮れて来たのだし、
全体を俯瞰するより、どちらかに加担することでの焼け太りのほうを優先しないでいられたはずもない。
そこに従事する個々人が勝手に自己欺瞞に溺れて来たところもあろうが、それ以上に、
始めからその程度の体裁でしかなかったというのもあろう。仏も儒も排してかかった時代には。
当然のこととして、自己欺瞞への陶酔こそを固着化させるカルト組織なんかを、
諜報機関の一端に組み込んだりすることも許されないようになるであろう。
近代以降はキリスト教の実質的解禁などを通じて、それが野放しになり始めたために、
それと引き換えに仏も儒も諜報的な活動に携わることがほとんど不可能になって行った。
最も急進的に政治顧問などに携わり続けて来た臨済宗妙心寺派なども、
自民政権が完全にカルトに乗っ取られた近ごろは政治への関りを絶っていると、
以前の共同通信のアンケートでも明言していたものであるが。
そうせざるを得ない最も根本的な原因もまた、政治家たちが完全に
自己欺瞞の陶酔に溺れて、正直さの楽しみを見失ってしまった処にある。
物理的な政治腐敗だけなら、田中角栄の時代などにも「毒を以て毒を制す」的な
範囲で横行していたものだが、そこではまだ多少の関わり合いも可能であったのが、
精神性までもが完全に自己欺瞞への惑溺に溺れ果ててしまったところでついに、
品行方正の楽しみこそを柱とする部類の流派が多少ほど政治に関わることも能わなくなった。
仏教は哲学的には唯心論であるともされるが、それが世にも広く通じる真理たればこそ、
すでに物質化した政治腐敗以上に、それこそを楽しむ部類の低劣極まる精神性こそが、
この世の汚濁を致命的ならしめる最大最凶の病巣となることが明らかとなったのである。
諜報機関の一端に組み込んだりすることも許されないようになるであろう。
近代以降はキリスト教の実質的解禁などを通じて、それが野放しになり始めたために、
それと引き換えに仏も儒も諜報的な活動に携わることがほとんど不可能になって行った。
最も急進的に政治顧問などに携わり続けて来た臨済宗妙心寺派なども、
自民政権が完全にカルトに乗っ取られた近ごろは政治への関りを絶っていると、
以前の共同通信のアンケートでも明言していたものであるが。
そうせざるを得ない最も根本的な原因もまた、政治家たちが完全に
自己欺瞞の陶酔に溺れて、正直さの楽しみを見失ってしまった処にある。
物理的な政治腐敗だけなら、田中角栄の時代などにも「毒を以て毒を制す」的な
範囲で横行していたものだが、そこではまだ多少の関わり合いも可能であったのが、
精神性までもが完全に自己欺瞞への惑溺に溺れ果ててしまったところでついに、
品行方正の楽しみこそを柱とする部類の流派が多少ほど政治に関わることも能わなくなった。
仏教は哲学的には唯心論であるともされるが、それが世にも広く通じる真理たればこそ、
すでに物質化した政治腐敗以上に、それこそを楽しむ部類の低劣極まる精神性こそが、
この世の汚濁を致命的ならしめる最大最凶の病巣となることが明らかとなったのである。
分かる人間もいた上で、おまえには分からない。
分かるようになるための手続きも踏んでないし、
多少なりとも分かるようになる方向への努力をした試しもない。
まるで生徒の文章を添削する先生のような、
上から目線での査読などを不相応にも試みているものだから、
そのせいで余計に分からなくなる。そこでどんなに自分なりの
努力をしてみた所で、むしろ理解からはより遠ざかって行く。
まるで自分の頭上よりも高い場所にいる相手を見下そうとして、
その足元すら見えなくなるように。理解できなくなる努力ばかりしている。
分かるようになるための手続きも踏んでないし、
多少なりとも分かるようになる方向への努力をした試しもない。
まるで生徒の文章を添削する先生のような、
上から目線での査読などを不相応にも試みているものだから、
そのせいで余計に分からなくなる。そこでどんなに自分なりの
努力をしてみた所で、むしろ理解からはより遠ざかって行く。
まるで自分の頭上よりも高い場所にいる相手を見下そうとして、
その足元すら見えなくなるように。理解できなくなる努力ばかりしている。
俺もまた、そこまでしなければ分からないような相手に
おせっかいを焼いて、余計につけ上がらせたりする気がないから。
「是什麼物恁麼来」なみに抽象的な提唱だけでも、
分かり合える流れに乗っている相手にこそ話しかけていることである。
分からないなら分からないで、その程度な身の程を知ればいいだけだ。
そして分かり合える界隈の邪魔ぐらいはしないように。
おせっかいを焼いて、余計につけ上がらせたりする気がないから。
「是什麼物恁麼来」なみに抽象的な提唱だけでも、
分かり合える流れに乗っている相手にこそ話しかけていることである。
分からないなら分からないで、その程度な身の程を知ればいいだけだ。
そして分かり合える界隈の邪魔ぐらいはしないように。
俺は暑すぎるからなるべく部屋でじっとしてるだけだが、
おまえらのこの必死さ加減は、ひょっとして株価カナ?
おまえらのこの必死さ加減は、ひょっとして株価カナ?
前世紀まで、仏門と政治を繋ぐ最後の砦としての役割をも果たしていた四元義隆氏が、
当時の政情を「狂人走れば不狂人も走る」という禅語でよく表していたらしいが。
それはつまり、正直さこそを楽しめるような正気の持ち主たちも未だ多くいた上で、
それが不能な一部の狂人たちが扇動者となることで、乱世が進行していたという意味であろう。
今や、政治に携わる人間なんかは、そういう意味での狂人であることしか許されないために、
狂人につられて一緒に走ってしまいそうな不狂人を引き留めるような真似によって、
乱世の進行を多少程度に防ぎとめて行くことすら不可能になってしまった状態である。
故にもはや臨済宗のような、乱世に政治に携わって行くことすら昔から厭わないで来たような
仏門宗派ですら、完全にかかわりを絶ってかかることしかできなくなったのである。
当時の政情を「狂人走れば不狂人も走る」という禅語でよく表していたらしいが。
それはつまり、正直さこそを楽しめるような正気の持ち主たちも未だ多くいた上で、
それが不能な一部の狂人たちが扇動者となることで、乱世が進行していたという意味であろう。
今や、政治に携わる人間なんかは、そういう意味での狂人であることしか許されないために、
狂人につられて一緒に走ってしまいそうな不狂人を引き留めるような真似によって、
乱世の進行を多少程度に防ぎとめて行くことすら不可能になってしまった状態である。
故にもはや臨済宗のような、乱世に政治に携わって行くことすら昔から厭わないで来たような
仏門宗派ですら、完全にかかわりを絶ってかかることしかできなくなったのである。
戦国期にも、仏門嫌いの信長が比叡山や快川和尚を焼き討ちするようなあり様で、
仏門の政治介入を断絶させたのはつとに有名で、同じように仏門を敵に回している今の日本の
権力者などからも肯定的に取り上げられることがままあるけれども。その先にあったのは
朝廷や足利将軍相手にも専横の限りを尽くすような暴慢であったために、朝廷からの密命をも
受けていたらしい明智光秀からの討伐によって自決せざるを得ない破目にも陥ったのだった。
いつの時代も、仏門とのかかわりを完全に絶ってかからねば済まないような政治ーー
仏滅の政治などが早急な自滅に見舞われずに済んだことがないのもまた、やはりその精神性
の部分が、ここで書いてきたような正直さの楽しみを完全に見失った状態となるからである。
そこで独自にマインドフルネスを試みようたって、全くの徒労に終わってしまうのは、
廃仏毀釈後に仏門の精進修行を部分的に真似てみた捏造神道などが、大日本帝国の崩壊や、
近年のような国家破綻しか招けなかった事例などからも、自明に知れたものとなっている。
仏門の政治介入を断絶させたのはつとに有名で、同じように仏門を敵に回している今の日本の
権力者などからも肯定的に取り上げられることがままあるけれども。その先にあったのは
朝廷や足利将軍相手にも専横の限りを尽くすような暴慢であったために、朝廷からの密命をも
受けていたらしい明智光秀からの討伐によって自決せざるを得ない破目にも陥ったのだった。
いつの時代も、仏門とのかかわりを完全に絶ってかからねば済まないような政治ーー
仏滅の政治などが早急な自滅に見舞われずに済んだことがないのもまた、やはりその精神性
の部分が、ここで書いてきたような正直さの楽しみを完全に見失った状態となるからである。
そこで独自にマインドフルネスを試みようたって、全くの徒労に終わってしまうのは、
廃仏毀釈後に仏門の精進修行を部分的に真似てみた捏造神道などが、大日本帝国の崩壊や、
近年のような国家破綻しか招けなかった事例などからも、自明に知れたものとなっている。
[YouTubeで再生]
仏門が政治に介入し過ぎるとまた別の問題を招きだすのも、
奈良時代の道教の事例などから知れたものだけれども、
その内実はといえば、仁政の競い合いによる政争が行き過ぎる
といったものだったのだから、今の世相などとは真逆といってもいい。
道教も称徳天皇も恵美押勝も藤原氏も、みんな自分の手で仁政を推進したい
があまりのひしめき合いからの、収拾不能化からの、やむなき遷都に。
以前に「この世で最高のイデオロギーは無為自然である」というスレでも
詳述したが、仏道もまたそういった弊害を来たしてしまう危険があるために、
俗世での政治行為などからはある程度の距離を置いた上での顧問などに徹したほうが良い。
ただ、健全な為政たるや、仏門との連携が不能と化してしまうなんてことだけは
まずあり得ないことで、それは遅かれ早かれ無残な自滅へと陥ることが免れ得ない。
その理由はここに書いて来た通り、脳の使い方という人間にとって最も根本的な
部分からの法則であるがために、後付けでの揺るがしようなども決してないのである。
仏門が政治に介入し過ぎるとまた別の問題を招きだすのも、
奈良時代の道教の事例などから知れたものだけれども、
その内実はといえば、仁政の競い合いによる政争が行き過ぎる
といったものだったのだから、今の世相などとは真逆といってもいい。
道教も称徳天皇も恵美押勝も藤原氏も、みんな自分の手で仁政を推進したい
があまりのひしめき合いからの、収拾不能化からの、やむなき遷都に。
以前に「この世で最高のイデオロギーは無為自然である」というスレでも
詳述したが、仏道もまたそういった弊害を来たしてしまう危険があるために、
俗世での政治行為などからはある程度の距離を置いた上での顧問などに徹したほうが良い。
ただ、健全な為政たるや、仏門との連携が不能と化してしまうなんてことだけは
まずあり得ないことで、それは遅かれ早かれ無残な自滅へと陥ることが免れ得ない。
その理由はここに書いて来た通り、脳の使い方という人間にとって最も根本的な
部分からの法則であるがために、後付けでの揺るがしようなども決してないのである。
お釈迦様ですら一字不説、悟りの境地を十分に言葉として言い表しきることが
できなかったというのに、どうして肉食飲酒の俺ごときがそれを上回れようか?
言い表せないからといってないわけでもないし、誰にも理解できないわけでもない。
言い表しきれてないような言葉からでも、聞く者の素養と共に理解できることもある。
その条件を満たせていないようなら、聞くことよりも精進のほうにまず勤めた方がよかろう。
上を見るべき時に、下を見てしまうような悪癖を矯正する程度にだけでも。
できなかったというのに、どうして肉食飲酒の俺ごときがそれを上回れようか?
言い表せないからといってないわけでもないし、誰にも理解できないわけでもない。
言い表しきれてないような言葉からでも、聞く者の素養と共に理解できることもある。
その条件を満たせていないようなら、聞くことよりも精進のほうにまず勤めた方がよかろう。
上を見るべき時に、下を見てしまうような悪癖を矯正する程度にだけでも。
これ以上、巧言令色でより分かりやすいように説明して、
匹婦小人からの上から目線な理解を得るような、人間的退化なんかに及びたくもない。
性欲もまだいくらでもあるが、女の尻に敷かれてでもヤりたいとかいった、
若気の至り級の妄念にまでは囚われたりしないでいられるだけの老成も、すでにある。
子供の産める年代の女なども、すでに自分よりもはるか年下だけに限られるが。
それもまた、マウント合戦をあらかじめ控えさせられる牽制材料として好都合なぐらいだ。
もう一生、争い交じりの異性関係にかかずらわされたりするのも、真っ平御免なので。
匹婦小人からの上から目線な理解を得るような、人間的退化なんかに及びたくもない。
性欲もまだいくらでもあるが、女の尻に敷かれてでもヤりたいとかいった、
若気の至り級の妄念にまでは囚われたりしないでいられるだけの老成も、すでにある。
子供の産める年代の女なども、すでに自分よりもはるか年下だけに限られるが。
それもまた、マウント合戦をあらかじめ控えさせられる牽制材料として好都合なぐらいだ。
もう一生、争い交じりの異性関係にかかずらわされたりするのも、真っ平御免なので。
史実は史実で正確に把握しておいた上で、
そこにさらにドラスティックな論考での仁政への探り当てをも試みて行く。
客観か主観かの二者択一でしかあり得ない者たちには、
これまた分かりそうで全く分かることがない中庸の心がけであろうか。
そこにさらにドラスティックな論考での仁政への探り当てをも試みて行く。
客観か主観かの二者択一でしかあり得ない者たちには、
これまた分かりそうで全く分かることがない中庸の心がけであろうか。
命がけの仁政に取り組んでいた先人たちへの思いを
「中身がない」とか言っちゃってる時点で、いろいろと知れ過ぎるわけだ。
血筋だ境遇だ以上に、何よりもダメな今のおまえ自身。
仁政の主導者どころか、その伴侶や従者たり得ることもない自白なわけだ。
「中身がない」とか言っちゃってる時点で、いろいろと知れ過ぎるわけだ。
血筋だ境遇だ以上に、何よりもダメな今のおまえ自身。
仁政の主導者どころか、その伴侶や従者たり得ることもない自白なわけだ。
他スレでも書いてたことだけれども、脳もどんなに養生を尽くそうとも
多少の老化は来すものであり、特に側頭葉の短期記憶処理能力は、
誰でも20代あたりがピークとなるために、そのあたりの年代で
キャリアハイを迎える数学者やeスポーツ選手なども非常に多いもの。
(そのためフィールズ賞の対象年齢が40歳以下だったりもする)
さりとて、前頭葉の長期記憶の能力は、痴呆などで脳が完全に壊れ切って
しまうのでもない限りは終身にわたって成長を続けられるものであり、
(だから年寄りも昔の記憶だけは鮮明に残っていたりするのである)
そのためこのスレで書いてきたような、正直さ由来の長期記憶処理による
楽しみや能力向上もまた、半永久的に続けて行けるものとなっているのである。
側頭葉の情報処理能力のほか、体力一般も30前後でピークを迎えるのが
普通であるわけだけれども、上記のような長期記憶の処理能力と、
身体や手先をうまく操る技術力は終身にわたる向上が可能であるために、
心技体の総合力で人間が終身にわたる向上を続けて行くことも可能となっている。
老化は多くの人間が忌み嫌うものではあるが、やりようによっては超克も
可能であるものだし、特に正直さを楽しむ者が殊更に恐れるべきものではない。
無根拠なイキリでまだまだ若い!とか思い込んだりするのは控えるべきであるにしろ。
多少の老化は来すものであり、特に側頭葉の短期記憶処理能力は、
誰でも20代あたりがピークとなるために、そのあたりの年代で
キャリアハイを迎える数学者やeスポーツ選手なども非常に多いもの。
(そのためフィールズ賞の対象年齢が40歳以下だったりもする)
さりとて、前頭葉の長期記憶の能力は、痴呆などで脳が完全に壊れ切って
しまうのでもない限りは終身にわたって成長を続けられるものであり、
(だから年寄りも昔の記憶だけは鮮明に残っていたりするのである)
そのためこのスレで書いてきたような、正直さ由来の長期記憶処理による
楽しみや能力向上もまた、半永久的に続けて行けるものとなっているのである。
側頭葉の情報処理能力のほか、体力一般も30前後でピークを迎えるのが
普通であるわけだけれども、上記のような長期記憶の処理能力と、
身体や手先をうまく操る技術力は終身にわたる向上が可能であるために、
心技体の総合力で人間が終身にわたる向上を続けて行くことも可能となっている。
老化は多くの人間が忌み嫌うものではあるが、やりようによっては超克も
可能であるものだし、特に正直さを楽しむ者が殊更に恐れるべきものではない。
無根拠なイキリでまだまだ若い!とか思い込んだりするのは控えるべきであるにしろ。
Mも、もう字幕がないとアニメも観きれなくなってるんだろ?
耳が悪くなってる場合もあるが、よくても側頭葉の言語処理能力
のほうが衰えてて、即座に言葉が理解できなくなったりするんだよな。
俺も人の言うことを聞き落とすようなことがたまにあるが、
即座に
何を言ってたかを洞察して補完し、それに沿った返事を
かえすとちゃんと会話として成立している、なんてことがあってな。
劇作のセリフの聞き取りなんかでも同様なことがあったり。
そうやって言語処理能力の衰えを、長期記憶の知恵で補完したり
することもできるわけだけれども、これもやっぱり嘘欺瞞を楽しんで、
長期記憶をとっ散らからせてる連中には難しいことなんだろうね。
耳が悪くなってる場合もあるが、よくても側頭葉の言語処理能力
のほうが衰えてて、即座に言葉が理解できなくなったりするんだよな。
俺も人の言うことを聞き落とすようなことがたまにあるが、
即座に
何を言ってたかを洞察して補完し、それに沿った返事を
かえすとちゃんと会話として成立している、なんてことがあってな。
劇作のセリフの聞き取りなんかでも同様なことがあったり。
そうやって言語処理能力の衰えを、長期記憶の知恵で補完したり
することもできるわけだけれども、これもやっぱり嘘欺瞞を楽しんで、
長期記憶をとっ散らからせてる連中には難しいことなんだろうね。
俺が今ここでやっていることについて言えば、
己が考えを備忘録的に文面にも起こしてみていることが、
長期記憶の知恵をより深めて行く一助になっているというのはある。
一方で、そういった知恵の向上ばかりを目的とした文筆は、他者にとっては、
時を重ねるほどにより難読化することはあっても、まず読みやすくなることはない。
読者の側にも、長期記憶を最適化して行く取り組みが独自にあるのでもなければ、
知恵の深さにより差が開いて行くのみで、そのせいでの読みにくさも一入たる。
そこで、巧言令色でより文章を読みやすくするという取り組みをかませようとも、
それは車のアクセルとブレーキを同時に踏み込むようなもので、まず虻蜂取らずとなる。
かつ、さような巧言令色の能力もまた、側頭葉の言語処理能力などに
由来するものであり、これも老化による劣化がある程度は避けられないもの。
そうでなくたって見た目の老化などで、人に好まれづらくなったりもするものだし、
いい年したおっさんなんかに期待したところでキモい思いしかさせられないものと知るべきである。
故に俺なども、もうそんな方向への努力などはあえて避けるのである。
己が考えを備忘録的に文面にも起こしてみていることが、
長期記憶の知恵をより深めて行く一助になっているというのはある。
一方で、そういった知恵の向上ばかりを目的とした文筆は、他者にとっては、
時を重ねるほどにより難読化することはあっても、まず読みやすくなることはない。
読者の側にも、長期記憶を最適化して行く取り組みが独自にあるのでもなければ、
知恵の深さにより差が開いて行くのみで、そのせいでの読みにくさも一入たる。
そこで、巧言令色でより文章を読みやすくするという取り組みをかませようとも、
それは車のアクセルとブレーキを同時に踏み込むようなもので、まず虻蜂取らずとなる。
かつ、さような巧言令色の能力もまた、側頭葉の言語処理能力などに
由来するものであり、これも老化による劣化がある程度は避けられないもの。
そうでなくたって見た目の老化などで、人に好まれづらくなったりもするものだし、
いい年したおっさんなんかに期待したところでキモい思いしかさせられないものと知るべきである。
故に俺なども、もうそんな方向への努力などはあえて避けるのである。
長期記憶の最適化と共なる蓄積という知恵の深化が、
たとえば自分自身の健康養生や体力の維持向上に資するようなこともまた当然ある。
人間にとっての老化速度というのも、身体の前後左右上下内外本末といった
要所〃の対称性の確保具合に大きく左右されるもので、「体にガタ」などという表現が
よくされる不具合も、この対称性の崩れそのものないしその派生である場合がほとんどである。
適正なストレッチなり運動なりによって、筋肉の配列を整えて行くことで
より一層の対称性の高さを確保することができれば、場合によっては
若い頃以上の健康や体力を中年以降に獲得することまでもが可能となる。
俺なんかは特に、若い頃に不正なスポーツ運動で、体の対称性が致命傷級にボロボロに
成り果てていたのを、年を重ねるごとに矯正していったものだから、未だに生涯のうちで
体調最悪だったのは20代前半、そこからずっと復調を続けているといった具合ではあるのだが。
身体の対称性も図の如く五種類以上あり、あっちを正すとこっちが崩れるといった、
ルービックキューブ的な難点をも帯びているものであるために、単純な試みで体の対称性を高めて
行ったりすることもまず不可能で、自らの深遠な知恵の構築があって初めて実現できるものであった。
たとえば自分自身の健康養生や体力の維持向上に資するようなこともまた当然ある。
人間にとっての老化速度というのも、身体の前後左右上下内外本末といった
要所〃の対称性の確保具合に大きく左右されるもので、「体にガタ」などという表現が
よくされる不具合も、この対称性の崩れそのものないしその派生である場合がほとんどである。
適正なストレッチなり運動なりによって、筋肉の配列を整えて行くことで
より一層の対称性の高さを確保することができれば、場合によっては
若い頃以上の健康や体力を中年以降に獲得することまでもが可能となる。
俺なんかは特に、若い頃に不正なスポーツ運動で、体の対称性が致命傷級にボロボロに
成り果てていたのを、年を重ねるごとに矯正していったものだから、未だに生涯のうちで
体調最悪だったのは20代前半、そこからずっと復調を続けているといった具合ではあるのだが。
身体の対称性も図の如く五種類以上あり、あっちを正すとこっちが崩れるといった、
ルービックキューブ的な難点をも帯びているものであるために、単純な試みで体の対称性を高めて
行ったりすることもまず不可能で、自らの深遠な知恵の構築があって初めて実現できるものであった。
https://macozy.com/rubik/sp.....
ルービックキューブの解法にもいろいろあるようだけれども、
どれをとってもそう簡単なものではなく、長い手順を間違いなくこなすのでなければならない。
五面そろえば完成するわけだから、対称性を5つ以上同時にそろえる必要がある
身体の対称性向上の難易度は紛れもなく、ルービックキューブの解法並み以上たるものである。
しかもその操作対象は掌中のキューブなどではなく、自らの全身たるのだから、
そこへの空間認知による把握の難易度などもより上であり、もちろん強力なストレッチで
場合によってはかなり痛い思いなどもしなければならないような難儀をも介するもの。
それはまさに、精進修行と呼ぶべきほどの取り組みによってのみ達成されるものであり、
なおかつそこではここで書いてきたような長期記憶の知恵の深化もまた不可分なものたる。
近年の人間が「修行」と聞いて思い浮かべるような闇雲さなどでは決して務まらず、
むしろ座学の勉強など以上に頭をフル活用させねばならぬのが、真に有意義な修行なのである。
ルービックキューブの解法にもいろいろあるようだけれども、
どれをとってもそう簡単なものではなく、長い手順を間違いなくこなすのでなければならない。
五面そろえば完成するわけだから、対称性を5つ以上同時にそろえる必要がある
身体の対称性向上の難易度は紛れもなく、ルービックキューブの解法並み以上たるものである。
しかもその操作対象は掌中のキューブなどではなく、自らの全身たるのだから、
そこへの空間認知による把握の難易度などもより上であり、もちろん強力なストレッチで
場合によってはかなり痛い思いなどもしなければならないような難儀をも介するもの。
それはまさに、精進修行と呼ぶべきほどの取り組みによってのみ達成されるものであり、
なおかつそこではここで書いてきたような長期記憶の知恵の深化もまた不可分なものたる。
近年の人間が「修行」と聞いて思い浮かべるような闇雲さなどでは決して務まらず、
むしろ座学の勉強など以上に頭をフル活用させねばならぬのが、真に有意義な修行なのである。
そこで深化を尽くした知恵は、もはや座学の知識のような明白さもなく、
RAIDで各HDDに記録された情報が、個別には必ずしも有意な情報ではなくなって
しまっていたりするのと同じように、不立文字の域にまで達しているのが常である。
あくまでそれを明示しようとすれば、文字ではなく曼荼羅図のような抽象的な
図示にでも頼るしかなくなるほどに、あえて隠そうとせずとも密法的でしかあり得ぬ。
だからといって本当に完全に意味がないというのでもなく、そこから
満濃池の造成のような、極めて具体的な社会的事業の実現までもが果たされる。
知恵そのものが深遠すぎて明示不能であろうとも、それが有意義であるのには変わりなく、
その微妙不可思議さを信認さえできるのなら、他力本願での功徳に与ることも容易たる。
そこには、近年のIT技術などと照らし合わせても、不立文字でしかあり得ない
自明な法則性があるのだから、それをあくまで許そうとせず、誰にでもわかるように
説明できる、してくれる範囲のものしか信認しまいとする、オッカムの剃刀的な怠慢的論理
の持ち主のほうが、科学法則にも逆行したがるカルト側だと見なされねばならないのである。
RAIDで各HDDに記録された情報が、個別には必ずしも有意な情報ではなくなって
しまっていたりするのと同じように、不立文字の域にまで達しているのが常である。
あくまでそれを明示しようとすれば、文字ではなく曼荼羅図のような抽象的な
図示にでも頼るしかなくなるほどに、あえて隠そうとせずとも密法的でしかあり得ぬ。
だからといって本当に完全に意味がないというのでもなく、そこから
満濃池の造成のような、極めて具体的な社会的事業の実現までもが果たされる。
知恵そのものが深遠すぎて明示不能であろうとも、それが有意義であるのには変わりなく、
その微妙不可思議さを信認さえできるのなら、他力本願での功徳に与ることも容易たる。
そこには、近年のIT技術などと照らし合わせても、不立文字でしかあり得ない
自明な法則性があるのだから、それをあくまで許そうとせず、誰にでもわかるように
説明できる、してくれる範囲のものしか信認しまいとする、オッカムの剃刀的な怠慢的論理
の持ち主のほうが、科学法則にも逆行したがるカルト側だと見なされねばならないのである。
健康養生や能力開発だけでなく、日々の生活における些細な過ちの解消からの
ストレスフリーさのような、ごく身近な功徳もまた正直さによって得られるもの。
自分の部屋のどこに何があるかなんてのも、結局は長期記憶頼みになる所があり、
たとえ整理整頓を行き届かせたのであっても、自らの脳内がとっ散らかったまま
であるようなら無用の長物でしかないために、汚部屋へと逆戻りなどにもなる。
どうしてもそれが嫌で、徹底的に物を捨ててかかるミニマリズム生活なんかに
走るような人間もまた近年多いようだけれども。人間が生きて行く上ではある程度
以上の物品に頼らねばならないのもまた事実であるが故に、さような試みが
行き過ぎた挙句の不便さに苦しめられるようなことにもなるものである。
ちゃんと頭を使って生活しようとしない怠惰さは、どんな方向からでも当人を
苦しめてかかるもので、最悪の場合には自らの体の使い方すら十分に分からなく
なった挙句の、パーキンソン病のような神経障害にまで陥りかねないものである。
(生活上の作業を何もかも人任せにするセレブなどにそういう事例が多いようである)
ストレスフリーさのような、ごく身近な功徳もまた正直さによって得られるもの。
自分の部屋のどこに何があるかなんてのも、結局は長期記憶頼みになる所があり、
たとえ整理整頓を行き届かせたのであっても、自らの脳内がとっ散らかったまま
であるようなら無用の長物でしかないために、汚部屋へと逆戻りなどにもなる。
どうしてもそれが嫌で、徹底的に物を捨ててかかるミニマリズム生活なんかに
走るような人間もまた近年多いようだけれども。人間が生きて行く上ではある程度
以上の物品に頼らねばならないのもまた事実であるが故に、さような試みが
行き過ぎた挙句の不便さに苦しめられるようなことにもなるものである。
ちゃんと頭を使って生活しようとしない怠惰さは、どんな方向からでも当人を
苦しめてかかるもので、最悪の場合には自らの体の使い方すら十分に分からなく
なった挙句の、パーキンソン病のような神経障害にまで陥りかねないものである。
(生活上の作業を何もかも人任せにするセレブなどにそういう事例が多いようである)
[YouTubeで再生]
座禅行のみならず、日々の生活作業までをも修行の一環であると厳格に定めている
曹洞宗の取り組みなども、さような差し障りとは逆方向にあるマインドフルネスを
最大限に実現して行くことこそを目的としたものであるのにも違いない。
それは別に今のような荒れ果てた時代のみならず、それなりに徳化の行き届いた時代でも、
在俗のままでは十分に果たしきれないほどの奥深さを帯びた領域であるがために、
禅門のような最大級の精進修行に勤める門派においてこそ専攻されて来たのでもある。
禅寺並みに清潔で整理整頓の行き届いた住環境などを独自に家で実現したりすることも
不可能ではないにしろ、自らもまたそこに一体化できるだけの心中からの清廉さを
帯びたりすることが極めて難しいために、逆にそんな環境を守り続けての生活
なんかのほうがストレスになることにすらなりかねないものである。
精進料理なみの食生活や、早寝早起きなんかも全く同様で、ただやるだけでなく、
そこにマインドフルネスの増進が伴えばこその、やったほうがマシ以上たるのである。
座禅行のみならず、日々の生活作業までをも修行の一環であると厳格に定めている
曹洞宗の取り組みなども、さような差し障りとは逆方向にあるマインドフルネスを
最大限に実現して行くことこそを目的としたものであるのにも違いない。
それは別に今のような荒れ果てた時代のみならず、それなりに徳化の行き届いた時代でも、
在俗のままでは十分に果たしきれないほどの奥深さを帯びた領域であるがために、
禅門のような最大級の精進修行に勤める門派においてこそ専攻されて来たのでもある。
禅寺並みに清潔で整理整頓の行き届いた住環境などを独自に家で実現したりすることも
不可能ではないにしろ、自らもまたそこに一体化できるだけの心中からの清廉さを
帯びたりすることが極めて難しいために、逆にそんな環境を守り続けての生活
なんかのほうがストレスになることにすらなりかねないものである。
精進料理なみの食生活や、早寝早起きなんかも全く同様で、ただやるだけでなく、
そこにマインドフルネスの増進が伴えばこその、やったほうがマシ以上たるのである。
こうして仏門を引き合いに出した話をすることも幾度となく繰り返して来たものだが、
別に自分自身が本格の仏者なわけではなく、若い頃に負った大怪我の治癒のために
修行級の荒行もまた繰り返して来たにしろ、それもまた肉食飲酒などと共にだし、
決して自分自身が聖道門の奥義にも通暁した達者であるとまで自負するものでもない。
さりとて、自己欺瞞への陶酔に惑溺するほどの、最低級の度し難さからぐらいは
すでに脱却できているという自覚もあるがために、儒家や道家と同等の域での、
最低限程度の善徳への安楽に与れている側であるという認識もまたあるもの。
自らよりもさらに上等な仏道などの存在もあれば、下等なカルトや異学邪見などもある。
両者にまつわる専門書などもそれなりに読み漁って来た上で、それぞれを自分自身が
安住している境地とはまた別個の域にある言説として、脳内でも適当な区域に
カテゴライズして収め、その間に四書五経や老荘のような自分並みへの知識も据えている。
その分類整理が適切であるがために、より上等から下等に至るまで、今までに得て来た
あらゆる知識が教師的、反面教師的、対等な友人からの教え的な相応さを帯びた形での
活用が可能なものともなっている。自分が本格の仏者以上だなどと思い上がってたり、
あるいは邪学邪教こそを上質な教学だなどと思い込んだりするような顛倒が少しでも
介在しているようなら、いくら知識を貯め込んだ所でさような有用さはないままに終わる。
別に自分自身が本格の仏者なわけではなく、若い頃に負った大怪我の治癒のために
修行級の荒行もまた繰り返して来たにしろ、それもまた肉食飲酒などと共にだし、
決して自分自身が聖道門の奥義にも通暁した達者であるとまで自負するものでもない。
さりとて、自己欺瞞への陶酔に惑溺するほどの、最低級の度し難さからぐらいは
すでに脱却できているという自覚もあるがために、儒家や道家と同等の域での、
最低限程度の善徳への安楽に与れている側であるという認識もまたあるもの。
自らよりもさらに上等な仏道などの存在もあれば、下等なカルトや異学邪見などもある。
両者にまつわる専門書などもそれなりに読み漁って来た上で、それぞれを自分自身が
安住している境地とはまた別個の域にある言説として、脳内でも適当な区域に
カテゴライズして収め、その間に四書五経や老荘のような自分並みへの知識も据えている。
その分類整理が適切であるがために、より上等から下等に至るまで、今までに得て来た
あらゆる知識が教師的、反面教師的、対等な友人からの教え的な相応さを帯びた形での
活用が可能なものともなっている。自分が本格の仏者以上だなどと思い上がってたり、
あるいは邪学邪教こそを上質な教学だなどと思い込んだりするような顛倒が少しでも
介在しているようなら、いくら知識を貯め込んだ所でさような有用さはないままに終わる。
ヒトラーの「わが闘争」などは、西洋史上で初めて
政商の国への危害を大々的に暴露した文献である点などが、
部分的には大変画期的な著述ではあったわけだけれども。
ヒトラー自身が害為正法外道たるキリスト教圏の人間であることもあって、
「政商」という活動自体の害悪性をピンポイントに見定めることが出来ずに、
当時のドイツで主に政商活動を担っていたユダヤ教徒への特別な糾弾や
憎悪ばかりを募らせるような事態にも陥っていたのだった。
他にも過剰な女性進出の弊害についてなど、現代社会にとっての
預言書ともなるような論説が多く見られる一方で、ヒトラー自身が
それを分相応な身の程のわきまえから、的確に披露して行く用意を
欠いていたために、不適切な表現や結論が多く入り混じることとなったのである。
結果、ヒトラー自身もまた、口述筆記で「わが闘争」に書かせたようなことは、
吐き出した途端に自分の中からはゴッソリと抜け落ちてなくなってしまった
とも後年に述べていたという。知識の分類整理が疎かだったりするようならば、
たとえ正論交じりだろうとも水子止まりな見識と化してしまう典型例となったのである。
政商の国への危害を大々的に暴露した文献である点などが、
部分的には大変画期的な著述ではあったわけだけれども。
ヒトラー自身が害為正法外道たるキリスト教圏の人間であることもあって、
「政商」という活動自体の害悪性をピンポイントに見定めることが出来ずに、
当時のドイツで主に政商活動を担っていたユダヤ教徒への特別な糾弾や
憎悪ばかりを募らせるような事態にも陥っていたのだった。
他にも過剰な女性進出の弊害についてなど、現代社会にとっての
預言書ともなるような論説が多く見られる一方で、ヒトラー自身が
それを分相応な身の程のわきまえから、的確に披露して行く用意を
欠いていたために、不適切な表現や結論が多く入り混じることとなったのである。
結果、ヒトラー自身もまた、口述筆記で「わが闘争」に書かせたようなことは、
吐き出した途端に自分の中からはゴッソリと抜け落ちてなくなってしまった
とも後年に述べていたという。知識の分類整理が疎かだったりするようならば、
たとえ正論交じりだろうとも水子止まりな見識と化してしまう典型例となったのである。
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