「初めに毛筋ほどの誤りがあれば、後々に千里の過ちとなる(易緯)」が故に、
「天下国家を動かすような大事業は、万全の準備と共に成すべきである(中庸)」
という通り、世俗主義の権力道徳学たる儒学もまた、行動的な馬鹿が、根本からの
過ちを抱えたままでの暴走に及ぶ系の問題への、十全な警戒を促している。
「全世界の国権、国益を尊重する」
「この世で最高のイデオロギーは”無為自然”である」
「税金もろくに払えない層が人口を支える」
こういったわきまえを全く欠いたままでの策動によって
世の中の破綻を招き入れて来たのが、今の国内外の権力者たちでもあるし、
仏教的、道家的な超俗尊重はおろか、最低限、始めの取っ掛かりからの誤りを
排しながら事業に臨んでいく程度の慎重さも欠いているが故に、後付けでどんな
フォローを凝らしても埋め合わせようがなくなっているのが、その実情である。
超俗尊重というのも、まさにさような過ちによる大火を予防して行くための
用心としてこそ機能するものであって、今はそれが全くの疎かにされたままでの
行動絶対主義ばかりが持て囃されているほどの濁世であるがために、そこに急に
超俗尊重などを持ち込んでみた所で、糞食に味噌を添える程度の徒労にしかならぬ。
まず、さような始めからの過ちにろくな注意も払わない儒家未満の稚拙さが
排されて後に初めて、超俗尊重系の嗜みもまた大いなる意義を帯びて来るもので
あろうが故に、やはりまずはそこからの矯めを念頭に置くのでなければならぬ。
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