日本人と米…


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001 2025/05/13(火) 20:27:03 ID:Jb6GPnosFI
切っても切り離せないものなのだろうか

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007 2025/05/13(火) 22:23:23 ID:NmlgqVRC8U
>>6
>米に対する特別な感情は、同じ稲作文化を持つ中国、韓国をはじめとする東南アジアの国々にも見られず、わが国独特の米文化ということが出来ます。

小麦文化圏のいわゆる中国人は米を食わないし、亜寒帯の朝鮮半島は日韓併合時まで米作れなかっただろ。
九州の縄文人と、いわゆる「江南」から稲作文化複合体を持って来た連中(おそらく呉の遺民)とが混血したのが「倭人」。
日本人と米はその始まりから切っても切り離せない関係。ていうか、米と結び付けて「穢れ」とか「国粋主義」とか、アホかおまえは?

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008 2025/05/13(火) 22:27:08 ID:NmlgqVRC8U
>>5-6
なんかウンコみたいな変な文体だけど、最近急速進化してるAIがそんなアホなこと書くわけないし、何を元の文章だ、それ?

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010 2025/05/14(水) 21:25:06 ID:FjvijXS0gg
満月スレ 笑

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015 2025/05/15(木) 05:45:27 ID:4YVaB698D2
西行=満月=小園=蕎麦兄

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016 2025/05/15(木) 10:17:19 ID:PiK.J9/FzI
>>1
茶碗山盛りの銀シャリ
わきに置かれた味噌汁
うまそうだな~

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018 2025/05/15(木) 14:10:18 ID:6TPoTlVwes
023 2025/05/16(金) 18:41:27 ID:HDX/IPxmvo
●米が日本人の主食になったのはいつか

米が日本人の主食になった時期について、時代的に大きくかけ離れた二つの説が存在する。

(1)弥生時代説

縄文時代の終わり頃、日本に稲作が伝わった。
弥生時代には、全国に広がり、各地に稲作を中心とした村ができ、国家が形成された。

それ以後、日本人は稲作を生活の基盤としてきた。
日本の歴史は、米の歴史なのである。

(2)第2次世界大戦後説

第2次世界大戦以前は、麦・ひえ・あわなどの雑穀に、米2~3割をまぜたごはんを食べていた。
その他、そば・いも・とうもろこし・大根・豆類などを主な食糧にしていたのである。

さらに、戦争で食料が足りなくなり、戦後の混乱期には深刻な食糧不足となった。

ようやく1960年代に干拓事業で米の増産が成功して米が大量生産できるようになった頃には、
パン食の普及などによって、主食としての米の地位が低下し、米余り現象が始まっていた。

つまり、米が主食であったのは存外に短く、戦後の混乱期を過ぎた頃から最近までの数十年に
過ぎないのである。

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024 2025/05/16(金) 19:25:02 ID:HDX/IPxmvo
●脚気と米

江戸時代、米を主食にしていた者には、ビタミンB1不足による脚気が蔓延していた。
脚気は田舎では起こらず江戸に多かったという。

そのため脚気は別名「江戸患い」とも呼ばれた。
江戸幕府の将軍のなかにも脚気で死亡した人もいたという。

権力者の食事内容は記録されていることもあるが、庶民がどのようなものを
食べていたのかは、推定するしかない。
江戸時代までは一部の人をのぞいて、たとえ米を食べることがあっても白米ではなく玄米で、
おそらくは、米以外の麦などの雑穀を食べることが多かったのではなかろうか。

ところが、明治時代に入ってから、一般庶民でも脚気にかかる者が出てきた。
これは軍隊において白米が主食になっていたからである。

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025 2025/05/16(金) 19:31:01 ID:HDX/IPxmvo
明治政府は、円滑な徴兵のために「兵隊になれば白米が食えるぞ」といって宣伝した。
それくらい白米の飯は、庶民にとって高嶺の花であった。

白米を主食とした日本軍は、脚気による多数の死亡者を出した。

後に海軍軍医総監となる高木兼寛は、脚気が西欧になく日本の軍隊にあるのは
食事が原因ではないかと考えた。
そして、兵に白米ではなくパン、後に麦飯を中心とした食事をあたえれば
脚気にはかからないことを証明した。
その結果、海軍では脚気患者はほとんど見られなくなった。

ところが陸軍軍医総監となる森鴎外は、脚気の原因は細菌であるとの説を主張し、
頑固に麦飯の効果を否定し続けた。
その結果、陸軍では日露戦争において25万人もの脚気患者を出し27800人の
兵士の命を脚気によって奪う結果となった。

そして、鈴木梅太郎が米糠の中から脚気予防に効果のあるオリザニン(ビタミンB1)
を発見するまで死者が相次いだのである。

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026 2025/05/16(金) 19:33:45 ID:HDX/IPxmvo
●米は食糧ではない?

大化の改新後、班田収授の法によって人民にあたえられた土地を口分田という。

6歳以上の男子には田2反(約23a)、女子にはその3分の2、私有の奴婢には
良民の3分の1の土地が支給され、死後は国に返した。
口分田を支給された者は租として、収穫の3~5%のイネをおさめた。

平成15年では1ヘクタールあたり4.7トン、昭和元年では1ヘクタールあたり
2.7トンの収穫量であったという(農林水産省「消費者の部屋」)。

班田収授の法が行われた時代、仮に昭和元年並の収穫量だとすると、
23aの田から約0.7トンの収穫量がある事になり租を納めたとしても
十分に米を主食に出来ることになる。

しかし、実際には当時の日本には全ての人民に分け与えるだけの耕地は
開かれていなかったらしい。
さらに、昭和元年並の収穫効率があったとはとても考えられない。

第一、江戸時代でさえ国民全員が主食に出来なかった米を、
古代に主食に出来たとは思えない。

おそらく、獣肉や雑穀を多く食していたのであろう。
だからこそ、幾度となく五畜の肉を食べてはならぬ旨の禁令が
出されたのだと考えられる。

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027 2025/05/16(金) 19:39:09 ID:HDX/IPxmvo
●神聖にして侵すべからず

米は「租」とされ国庫に入れられた。

国庫に入れられた米は別に宮廷の官人達が食べるためではなく、
様々な物と交換されたり労働の対価として支払われたであろう。

すなわち米は貨幣である。

江戸時代に大名の富、権力、地位を示すのに、領地からとれる
米の収穫高をもって「~何万石」といった表現が使われた。

金本位制ならぬ米本位制が採られていたのである。
米こそ価値の基準であった。

筆者は弥生時代の集落の高床式建物の一部は住居であったと思うが、
一般には全て高床式倉庫であったのだという。

人が地面に穴を掘って住んでいたときに、「お米様」は、湿気か来ず、
ネズミにもかじられず、千木や鰹木で飾られた神殿みたいな建物に
納められていたというのであるから、米は「神聖にして侵すべからざる」
存在として認識されていたことになる。

さらに、「昔話」でも餅を的にして矢を放った長者が、
その罰で没落した話などがあるが、これなども「餅=米」
を粗末にしたばかりに「米=神」の罰が当たったと
解することが出来る。

中年以上の人なら誰でも一度くらいは、祖父母などから
「一粒の米を粗末にした罰として目が潰れてしまった人」
の話を聞いたことがあるはずである。

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028 2025/05/16(金) 19:47:09 ID:HDX/IPxmvo
米以外でも年輩の方などは「物を大切にしなさい」と言う。

しかし「目が潰れる」のは米を粗末にした時に限ってのことであって、
麦や粟やヒエや大根を粗末にしても別に大丈夫なのである。

単に経済的価値だけなら、麦十粒を粗末にした時には目が潰れるとか、
米半粒なら大丈夫とかいっても良さそうなものであるが…

日本人にとって、米は単なる食べ物ではない。
神聖であって、粗末にした日には目までつぶすほどの霊力を持つ物であり、
それ故に貨幣として全ての価値基準にさえなったのである。

天照大御神が天孫ニニギノミコトを豊葦原瑞穂国に降臨せしめた時、
稲穂を渡し「これを日本人の主食としなさい」と言ったという神話がある。

「日本人」(弥生人から現代人)の歴史は「米を主食にしたいと願い続けた歴史」
であったともいえるのである。

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「ある意味で、日本は『米食民族』と言うよりは『米食願望民族』
と言った方が正しく、実際に米が社会の隅々にまで行き渡り、
日本人の全てが米だけの飯を食べられるようになるのは、実に
1960年代以降のことである」

― 国士舘大学教授・原田信男博士(日本の食文化研究の大家)著『江戸の食生活』(岩波現代文庫)より

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