
世の中が最大限に平定されて、聖賢の力量が思う存分、
権力の場でも発揮されるような優れた時代においては、
聖賢もまた礼楽などによる十分な潤色、荘厳を帯びて、
誰の目から見てもわかるような偉容ともなるであろうが。
いつでも必ずそうである保証なんてどこにもないうえに、
真の聖賢を引き立てる礼楽が、仁徳面からみれば不当な巧言令色などよりも
確実に魅力的に見えるなどということも、全くありはしない。
どんなに上等な蕎麦といえども、砂糖をたっぷり注ぎ込んだ
甘々の汁や天ぷらなどと共に食わされたなら、その繊細な味わいが
マスキングされてしまって、ろくにその凄さなどが分からなくなってしまう。
それと同じように、聖賢の偉容もまた容易に隠れがちなものなのであり、
ゆえに自分が愚か者だから、聖賢を判別できないのだなどと卑屈になるべきでもない。
いい蕎麦を甘すぎる汁や天ぷらと一緒に食わされたりしようものなら、
食通だって美味さが十分に分からなかったりするものだし、
そういう事態はただ避けるのみというばかりのなのであり、
それが不可な限りにおいては、現時点では聖賢の如何が
不可思議であるという所で、心の動きを止めておくことが肝要なのである。
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