
言うは易く、行うは難し。
体力も衰えて体中にガタが来てから、稼ぎを若手に譲り渡すとか、
仁義道徳だけでなく、生きとし生ける者はみないつかは死に絶えて塵になる
諸行無常の理コトワリへの信仰級のわきまえすらあるのでなければ、
誰しもが十分に敢行してゆくことも能わぬほどの難儀たるもの。
戦前世代までの日本人にはそれが出来ていたのも、戦後生まれからすれば
謹厳すぎて反意すら催すような、文化習俗面からの整えがあったればこそ。
戦後世代としては例外的なほどに、その手の文化習俗に傾倒して来たわが身からすれば、
そこにこそ余裕綽々な安楽の境地が拓けていることもまた認知済みではあるのだが。
アメリカ仕込みなみの自由主義に精神が完全に囚われ切ったままでいるような
人々からすれば、それが断崖絶壁で暮らし続けるほどの荒行のようにも思われるもの。
その自由主義もまた、誰しもが死後、最後の審判の日に蘇り、天国や地獄で
永遠の命に与るなどといったカルト信仰によってまで増強され抜いているものなれば、
諸行無常へのわきまえなども徹底的に損ねられているのが当たり前な状態で、
ひょっとしたら永遠に生きられるかもしれないぐらいの浮ついた感覚のまま、
いつまででも現役や存命に固執するのが、ごく普通のあり様となっているのである。
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