お大師様こそが、男色文化を日本に持ち込んだ張本人だってのも有名な話だが。
(男色そのものはそれ以前にもあったかもしれないが、文化とまではいかない)
ただし、あくまで「ダメなもの」「乗り越えるべき汚濁の極み」としてだ。
男色に限らず、色欲全体からの脱却を至高とする仏道の本分に基づき、
異性愛以上に汚れきっている男色ごとの徹底的な克服を企図したのである。
それを理想としたうえで、至らない者たちの堕落としての男色もまた併存した。
藤原頼長や大石内蔵助も失態としての男色話が伝承されているし、信長は
反仏教の半キリシタンだからこそ、男色家でいながら己惚れていた所がある。
人としての究極形は、女色にも男色にも溺れない、色欲全体からの脱却者。
女色も男色も汚濁であることには変わりない上に、人の世の常として女色はあるし、
だったら男色も同じように至らないものとして享受し得るという体裁で来たのが、
女色こそを理想だなどと決め込んで男色を排除しようとして来たキリスト教などとは
(いうてもカトリック神父の少年愛汚染なども常習であり続けて来たのだが)
違うだけで、愛を至上のものと見なす西洋的価値観では理解が務まらない所である。
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