
洋学に基づく民主主義は、「愚民のための民主主義」でしかなく、
それを実践するためとあらば、賢明な民もまず愚民化せねばならない。
不倫なんて絶対に許さなかった、近世までの全国民を挙げての高潔さなども、
大正期にはなし崩しとなり、今ではどうでもいいじゃんぐらいの適当さがデフォとなり。
選挙権もそのような愚民化の進行と共に、全成人へと広げられて今に至る。
そもそもが政治は職人などと同じ専門職であり、ほかに仕事のある平民などが、
片手間で務まるほど簡単なものではないと孟子も名言していたものだけれども。
賢明な民ならそれに気づくから、なし崩しに民主制の不能さなどにも思い至ってしまう。
そこが理解できないほど馬鹿なうえに、自らの領分を侵してでも多大な
影響力を持ち合わせてやろうとするほど、心が不埒さを帯びている場合に限って、
人々も選挙への意欲などを募らせるものだから、愚民化も共に施さねばならない。
「暴君汚吏はその境界をあなどる(孟子・滕文公上」の心境であって初めて、
人々も平民の立場からの政治干渉なぞを志すが故に、そんな世の中では、
不倫ぐらい別にあって当然という程度には、倫理観も頽廃を来たさざるを得ない。
そのせいで自殺級に苦しむ配偶者や子供がいるのだろうとも、そんなことは知ったことか
という風でいられるぐらいの薄情さでもなければならない。そして、そんな者たちが選挙で投票し、
自分たちのように薄情な政治家を擁立する。故にそれは、苛政の共犯でしかあり得ないのでもある。
返信する