泣けてくるし


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001 2025/11/29(土) 22:43:37 ID:At3YGufOw6
1935年、主人が亡くなった後も渋谷駅の外で9年以上主人の帰りを待ち続けた忠犬ハチ公の最後の写真。

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002 2025/11/29(土) 23:07:05 ID:dWl9lGSS8g
ガセネタ 

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003 2025/11/29(土) 23:27:32 ID:7tolfXlMd.
[YouTubeで再生]
ハチ公は今日もご主人に会えないことを悟ると、「渋谷駅前」横丁に立ち寄ったそうです。渋谷の人々の中には、ハチ公の忠義をねぎらい、焼鳥をプレゼントする人もいたようです。当時は飼い犬であっても放し飼いにすることがありました。その関係で、渋谷、銀座、浅草のような繁華街において犬の姿を見かけるのは、珍しくなかったのです。そしてとりわけ犬たちが多く集まったのは、焼鳥屋台の周辺でした。

なぜ犬たちは数ある食べ物屋台の中でも、焼鳥屋台に多く集まったのか。“屋台の下にはかならず犬が、人間が固くて噛み切れない肉を投つてくれるのを待つてゐる。”(添田唖蝉坊『浅草底流記』1930年刊)焼鳥の肉の中には、人間がかみ切れない肉が混ざっていました。お客はかみ切れない肉を、足下の犬に与えたのです。“なぜか、外の燒鳥屋は鳥といつても鳥でない。とりがあつてもかたくて食えぬ。すてる、犬が食ふ。”(『実業の日本』1930年3月号掲載の「露天商人から新東京名物となつた燒鳥屋『江戸政』」)鶏肉を使う現在の焼鳥には、かみ切れない肉が刺さっていることはありません。ところが、大正時代から昭和時代までの東京の焼鳥は、豚の内臓肉を使うことが通例となっていました。内臓肉の中には、かみ切れない肉も混ざっていました。そのような肉にあたった客は、犬たちに処理を依頼したのです。

焼鳥の屋台の下では、いつも犬たちが待ち構えていて、客をじっと見つめていました。そのために、焼鳥には「ワンニラ」(ワンワンがにらむ食べ物)というあだ名が付きました。
https://urbanlifemetro.jp/food/11227...

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004 2025/11/30(日) 08:01:18 ID:bnq54WdTjQ
御主人が、そのへんのFラン大の
どこにでもいるような先生だったら話になったかどうかも疑わしい・・・
しかし
教授という職にあって、学問を追及する傍ら
犬にも慕われていたという点では
ワシと同じですな
まあ
元戦闘的サラリーマンのワシとしては
飽くなき追及をするところといえば
アレしかないわけだが (^。^; )

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005 2025/11/30(日) 08:21:11 ID:89BGqVf.cg
●「ハチ公は本当に忠犬だったのか?」 農学国際専攻 教授 溝口 勝

1. ハチ公像との出会い

東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公像は待ち合わせ場所として有名である。

私が東大に入学した45年前、飼い主が死んだ後 10年間ここで待ち続けた
という話を聞いて「そんな犬がいるのかな」といぶかしく思った。

2. 農業工学と上野先生 ― 竹中教授の証言

農学部農業工学科3年生の時、ハチ公の飼い主が日本の農業工学(農業土木学)
の創始者・東大農学部の上野英三郎教授であることを知った。

上野教授から数えて5代目の竹中肇教授は農地工学の講義で

「君たち、ハチ公は忠犬だと思っているでしょ?
実はね、上野先生は子犬のハチを連れて農林省役人の教え子たちと
よく渋谷駅前の焼き鳥屋で農地整備に関する議論をしていたらしい。
あまりにも熱中してハチを忘れていると腹をすかしたハチがクンクン
鳴くので不憫に思った焼き鳥屋のおやじが残飯をあげていたようだよ。
私も学生の時に先生から聞いた話ですがね」

と笑った。

私はこの話を聞いてハチ公も普通の犬なんだと思えて、逆に愛着がわいた。

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006 2025/11/30(日) 08:23:12 ID:89BGqVf.cg
3. ハチ公と上野英三郎博士の除幕式-86歳のおばあさんの証言

ハチ公の飼い主が東大教授であったことは農業工学を学んだ卒業生には
常識だったが、特にそれを宣伝することもなかった。

それが、文学部哲学科の一ノ瀬教授が東日本大震災の時に「死といのち」
について調べているうちに飼い主が東大教授であることを知り、
「ハチ公と上野英三郎博士の像を東大に作る会」の結成を発案してくれた。

これ幸いと私たち卒業生も加わり寄付金集めが始まった。
そしてハチ公の命日から80年目の2015年3月8日に銅像の除幕式が行われるに至った。

除幕式には生きた老犬ハチ公に触ったことのある86歳のおばあちゃんも招待された。

私はこっそりと

「ハチ公は焼き鳥が好きだったと聞いたことがあるのですが本当ですか」

と尋ねた。

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007 2025/11/30(日) 08:25:32 ID:89BGqVf.cg
すると

「そうなのよ、私はハチ公が大好きでねぇ、帰宅した父に毎日『今日はハチ公どうしていた?』
と聞くと『今日も焼き鳥屋にいたよ』と言っていたわねぇ。
そして『ハチ公は焼き鳥を食べられていいなぁ。』というとお父さんが『これでお母さんと焼き鳥を食べなさい』
とポケットからお金を取り出してくれたのよ。
私はハチ公のおかげで初めて焼き鳥を食べて、世の中にはこんなに美味しいものがあるんだと思ったのよ」

と懐かしそうに話してくれた。

人は初めて美味しいものを食べた時のことを覚えているものである。
私はおばあさんの話を聞いてハチの焼き鳥好きを確信してさらに好きになった。

4. 農学資料館に展示されているハチ公の臓器-解剖の記録

ハチ公と上野教授の銅像は東大農学部正門を入って左手にある。
正門右の農学資料館には死後直後の1935年 3月 8日に解剖されたハチ公の
ホルマリン漬け臓器と剖検記録が展示されている。

解剖の状況を記した剖観の 7行目には

「胃ニハ内容白色ノ糊様物ト5センチ位ノ長サ5ミリナル竹串先鋭ナルモノ3本鈍端ナルモノ1本存在ス」

と物的証拠の記録が残されている。

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008 2025/11/30(日) 08:27:06 ID:89BGqVf.cg
5. ハチ公が生きた時代 ― 軍国主義とプロパガンダ

ハチは日本の軍国主義の時代を生きた。
1924年1月にハチは秋田県大館市から上野先生の家にやって来た。

しかし上野先生は1925年5月に急逝し、その後ハチは忠犬と言われるようになった。
1934 年には全国の児童が学ぶ尋常小学校2学生の修身の教科書に「恩ヲ忘レルナ」
という忠犬ハチ公物語が掲載され、銅像にもなった。

ハチが死んだ193 年は向ヶ丘(弥生)の旧制一高と駒場の農学部本科のキャンパスが
交換された東大農学部とっても重要な年である。
そして、その年の2年後に日中戦争、6年後に太平洋戦争へと日本は流れていった。

忠犬とは飼い主に忠実な犬と定義される(Weblio 辞書)。
私にとっては、ハチ公は忠犬というよりも戦争のプロパガンダに利用された
可哀そうな犬に思えて仕方がない。

こうした事実を語り継ぐことが私のハチ公物語である。

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009 2025/11/30(日) 08:34:25 ID:HkFSs5Kqik
ハチも途中で気づいたよ。 こりゃダメかもって。
でもやめ時を見失っちゃったんだよ。  家の人もその行為で“忠犬”って事にされてるし毎日散歩でストレス発散もできるし。

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010 2025/11/30(日) 09:13:45 ID:M7POqJ8jOc
真実は小説より奇なりw

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011 2025/11/30(日) 21:06:00 ID:F4QekdHY2w
したり顔で、ハチは焼き鳥目当てだっただけで忠犬じゃないって知ったかぶりするバカがいっぱい沸いてるな。
そういう連中、もっと肝心なことに気づいてないのな。
そもそも、当時の東大農学部は駒場にあって、松濤にすんでた上野教授は山手線に乗る必要なかったんだぞ。おかしいと思わねーの?
でも、「渋谷駅から通勤する上野教授を送り迎えするハチ」って伝説に何の疑問も持たないで、渋谷駅に通ってたことだけ
取り上げて、焼き鳥が欲しかっただけだってズレた批判して無知蒙昧ども。笑えるわ。

当時は西が丘に農林省の国立研究所があって上野教授はそこに通うこともあって、そういう日に送り迎えしてたんだよ。
まあ、低学歴無知蒙昧は東大教授が国立研究所も兼務してるってこと知らないからしょうがないか。

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