織豊の配下扱いだった頃から、全国全土の勢力図を自らに有利となるよう
何十年も根回しし続けて来た家康公にとっても、関ヶ原や大坂の陣などは、
実の所もはや必勝、快勝が始めから約束された舐めプ級の戦いであったことだろう。
そこを見くびられるのを避けるために、むしろ幕府側の人間のほうが、
真田や島津の好敵手としての活躍を半ば誇張気味に吹聴して来たぐらいだろうが。
さりとて、若い頃に三方ヶ原で惨敗を喫した信玄公のような真の強敵がもはや
いなくなった後の世においても、自らが驕慢にかられて道を踏み外すようなことが
ないようにするために、終身にわたって新陰流の修練等に明け暮れたのだった。
「天下の一大事となるような事業は万全の準備の上で決行に写せ(中庸)」
という泰平招来のための教えに即して、天下分け目の大戦オオイクサのほうを舐めプの
域の完勝具合ならしめたことにも意義があったわけで、その後に天下取りとなる者が
家康公のごとき個人的な精進に取り組み続けるべきなのもまた、必然なのである。
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