ここ30年の日本は、巧言令色のコミュ力ばかりを査定材料とした
人事によってこそ凋落、荒廃の一途をたどってきたわけだけれども。
それこそ、コミュ力なんてものも、どうせ立場に付いてくるものなのだから、
無位のうちからそんなものを期待すべきではないし、逆に無位のうちから
そんなものに執着して来たような小人のほうが、真の有能さなどは期待できないもの。
アスペ級にコミュ力が人一倍低い者などに対しては、いざ要職に就くからには、
これからはそれなりに人付き合いなども洗練させて行く覚悟を促すぐらいのことは
あって然るべきだけども、それもなくまず登用対象から外すなんてのはおかしい。
「隠れた才覚」のほうは、それこそ隠れているからそうそうには判別が不能なもの。
だからといって見えている部分の即座な利用価値などに囚われることなく、むしろ
見えざる所に本当に重要なものが潜んでいることへの尊重を、人事の本分とすべきである。
今の日本社会で人材に要求される素養は大体、見るからにわかりやすい代わりに、
立場によってどうにでもできるような範囲のもの。そんなものは登用条件から外し、
一見して分かりづらいけれども、立場の如何だけではどうにもし難いような
真の才覚を秘めた者を探り当てて行くことのほうにシフトすべきなのである。
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