始めから中正に居着いてそこから離れまいとする儒学のみならず、
(孟子などは「そればかりではいけない」という言も遺してるが、概ねとして)
中正からかけ離れての求道なども過渡的なものとしては許容する仏道をも
兼ねて受容するのであれば、過ぎたる方向への実験ばかりを過剰なほどに
繰り返して来た近現代という時代を完全に超克することも、不可能ではない。
俺が何度か提示した教育制度の改革案のように、儒学や仏学を正規教育の根本に据えながら、
洋学もそれ自体に最高の価値が認められるわけではない雑学扱いで教えて行くという
格付けの下であれば、何一つとして今までの教育の長所を取りこぼさないままでの
中正尊重への立ち戻りが可能となるものであるし、今以上の退化による凋落なぞが
その先に何か招かれる可能性を危ぶんだりする必要も皆無に等しいのだけれども。
それが単純に、面白くないことだと感じる者たちがいる。
中正の徳を全く欠いての、極端から極端への振り切れにこそ陶酔を抱き、
たとえそれが害を招くのだろうとも辞めないではいられないという部類の中毒者
までもが今の世などには多いために、そこに禁欲的な苦しみを見出さずにはいられない。
さような人間が、完全に絶やされるとまでは行かずとも、権力中枢ぐらいからは排されれば、
それだけでも亡国級の危機ぐらいは脱せられようし、極端志向から中正志向への回帰もまた、
中正に適う匙加減を尽くせばこその、真の中正となるところもあるであろう。
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