専制というものが、民主制と比べてただひたすら凶暴で恐ろしいもののように思われるのも、
名声利権を極大化させたうえでそれを牛耳っているような独裁者を、多くの人々がまず想像するからである。
国中に特定の指導者の肖像画などが貼りめぐらされて、誰しもがその論弁を崇め立てている姿などを
傍目に見せられようものなら、本人自身は政治とも何の関係もないような芸能人やスポーツ選手こそが
最大級の名声を取り付けている民主主義社会の、なんと平静で健全なものだろうか、などと思われる。
しかし、たとえば昨今の大谷ハラスメントなど、独裁国家におけるプロパガンダなどと比べても、
名声利権の過大さ頼みな試みである点ではまったく遜色がなく、そこにいたいけな大衆たちの
集団ヒステリーやルサンチマンを際限なく増大させる不健全さが伴っている点でもなんら違いはない。
専制も民主制も結局、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であるのには全く変わりがなく、
過大な名声利権で大衆をあおり倒すような不健全さを排した封建社会あたりのほうがよっぽど、
今の日本やアメリカなどよりも人々を健全な統治下におけるのにも違いはない。
そしてそれは結局、「この世で最高のイデオロギーは”無為自然”である」というテーゼにも帰結するわけである。
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