奇違いの言葉すべて。
070 笠地蔵 2025/05/01(木) 09:41:46 ID:RSaaCtv9m6
そもそもが、これを認知しておかなければお話にもならないというほどの大前提として、
「東アジアの仏僧というのは全員が全員、儒者を兼ねていた」というのがある。
日本史上最高の名僧である弘法大師空海もまた、出家前に大学などで四書五経を学んでおり、
その知見の深さを「三教指帰」や「十住心論」のような自著の中でも披露している。
仏僧というのは、そもそもが世俗の学問にかけて「無学(もう学ぶことがない)」の域で
あることが大前提として要求されるものであるために(「八宗綱要」などを参照)、
東アジアにおける、俗世の範疇での最たる正学である儒学なども必ず一通り学んでいた。
ゆえに、大乗の仏僧は宗教家であると同時に必ず学者や教員でもあり、
無戒律で修行なんかしない念仏の坊主でも、寺子屋で論語を
子供に教えられる程度の教養は当然のこととしてあった。
なおかつその論語を筆頭とする儒学の教養自体が、洋学なぞとは違って、
最初等からの「心の求道」の体系ともなっているために、そこへの嗜みがある時点で、
多少なりとも求道者でもあった。そこが、儒学がないからこそ仏教に何もかも頼りきりな
東南アジア諸国などとは決定的に異なっていた部分だともいえよう。
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