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己が「人を見る目」だけは疑わぬ人々 偉大なる生存の報告 Part308
▼ページ最下部
人間の能力にも色々あるが、中でも、
他者の素質を厳正に見計らい適材適所へと公正に登用する
人事の能力というのは、実際の所、神にも等しい能力の内に入るものである。
ほとんどの人間にはそんな能力はないし、あった所で絶対的とまではいかない。
だからこそ歴史上最高の叡智に数えられる諸葛孔明といえども、
弁舌の才に長けていた寵臣の馬謖を実戦登用しては大敗を喫させて、
やむなく引責死させるような過ちをも犯したのである。
人間という生き物は、無能な愚か者ほど自らを虚飾で塗り固めてまで気に入られたがるものだし、
また能力があった所で、不誠実さのためにそれを善用せず、専ら私欲のために
用いてこの世のお荷物と化するような事にもなりかねないものである。
そのような騙し、怠慢といった障壁を越えて、有能さと誠実さを兼ね備えた才人を
登用する機会に恵まれた所でまだ、こちらの領分を侵すほどの活躍への
嫉妬からの追い落としの誘惑に駆られかねないような危険性がある。
それほどにも、適切な人事の履行には多難が伴うというのに、
何の根拠もなく自らの人を見る目だけは全く疑おうともしない者の、なんと多いこと。
本当なら、諸葛孔明をも上回る眼力で、本物の今孔明と偽孔明を厳格に見分けられる
能力の持ち主だけが選挙などにも行くべきなのだが、それでは誰も行けなくなる
ものだから、誰しもが何となく、自分には人を見る目があるように思い込んでいる。
これこそが、民主主義を頓挫させた大元凶たる集団妄想なのでもある。
他者の素質を厳正に見計らい適材適所へと公正に登用する
人事の能力というのは、実際の所、神にも等しい能力の内に入るものである。
ほとんどの人間にはそんな能力はないし、あった所で絶対的とまではいかない。
だからこそ歴史上最高の叡智に数えられる諸葛孔明といえども、
弁舌の才に長けていた寵臣の馬謖を実戦登用しては大敗を喫させて、
やむなく引責死させるような過ちをも犯したのである。
人間という生き物は、無能な愚か者ほど自らを虚飾で塗り固めてまで気に入られたがるものだし、
また能力があった所で、不誠実さのためにそれを善用せず、専ら私欲のために
用いてこの世のお荷物と化するような事にもなりかねないものである。
そのような騙し、怠慢といった障壁を越えて、有能さと誠実さを兼ね備えた才人を
登用する機会に恵まれた所でまだ、こちらの領分を侵すほどの活躍への
嫉妬からの追い落としの誘惑に駆られかねないような危険性がある。
それほどにも、適切な人事の履行には多難が伴うというのに、
何の根拠もなく自らの人を見る目だけは全く疑おうともしない者の、なんと多いこと。
本当なら、諸葛孔明をも上回る眼力で、本物の今孔明と偽孔明を厳格に見分けられる
能力の持ち主だけが選挙などにも行くべきなのだが、それでは誰も行けなくなる
ものだから、誰しもが何となく、自分には人を見る目があるように思い込んでいる。
これこそが、民主主義を頓挫させた大元凶たる集団妄想なのでもある。
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まだ使えるなら、こっちに留まるだけなんだよなあ。
次スレはあの通りで。
次スレはあの通りで。
だからおじいちゃん、その情熱を睡眠につぎ込みなよ?
ほとんど大多数の人間の精神状態がADHD系やASD系に偏ってしまっている以上は、
どちらにも偏らない中庸な精神性の確立者などは実在しないもののように扱われ、仮に現れた所で
ADHD系からはASD側、ASD系からはADHD側のレッテルを貼られて片づけられるのが関の山となる。
情緒障害系や、精神病質系への精神状態の偏りもまた同様な事態を招きがちであり、
特に西洋では長らく、人間の性格といえばこのうちのどちらかであるのが典型だと考えられて来たために、
両者を「天使と悪魔」や「白痴と悪霊(ドストエフスキー)」などと呼びならわしての、
そうであるなりのあるべき姿ばかりが模索され続けて来たのである。
東洋においては、ADHD系にもASD系にも、情緒障害系にも精神病質系にも偏らない中正さこそが、
儒家の中庸や、仏門の中道のような理念を基としながら尊重や追求されて来たのだけれども、
これらもまた微妙不可思議で計り知りがたいものであるのには違いないが故に、オッカムの剃刀のごとき
怠慢を決め込むことなく、理解しがたいものこそを尊んで目指して行くことが重んじられていたのである。
どちらにも偏らない中庸な精神性の確立者などは実在しないもののように扱われ、仮に現れた所で
ADHD系からはASD側、ASD系からはADHD側のレッテルを貼られて片づけられるのが関の山となる。
情緒障害系や、精神病質系への精神状態の偏りもまた同様な事態を招きがちであり、
特に西洋では長らく、人間の性格といえばこのうちのどちらかであるのが典型だと考えられて来たために、
両者を「天使と悪魔」や「白痴と悪霊(ドストエフスキー)」などと呼びならわしての、
そうであるなりのあるべき姿ばかりが模索され続けて来たのである。
東洋においては、ADHD系にもASD系にも、情緒障害系にも精神病質系にも偏らない中正さこそが、
儒家の中庸や、仏門の中道のような理念を基としながら尊重や追求されて来たのだけれども、
これらもまた微妙不可思議で計り知りがたいものであるのには違いないが故に、オッカムの剃刀のごとき
怠慢を決め込むことなく、理解しがたいものこそを尊んで目指して行くことが重んじられていたのである。
中正の庸徳が篤く尊ばれていた頃の東洋諸国などにおいてですら、
大半の一般庶民はその価値を自力で理解まではできないがために、
微妙不可思議な仏の知恵を理解不能なままに他力本願で尊べという
念仏の嗜みなぞが、一種の方便として広く講じられていたのである。
そのような手管もおおむね排除されて、中正であることの偉大さなど
上から下まで忘れ去って久しい現代においては、ADHD系かASD系か、
情緒障害系か精神病質系かの両極ばかりに振り切れる悪癖もまた天下万人へと行き渡り、
人間なんてその程度でしかあり得ないと決め込んでの侮蔑合戦もまた激化している。
さような世相においては、当然同じ穴の狢しか権力の座に上ることもない。
仮に今ウクライナ戦争の大元凶となっているプーチンを精神病質系の狂人として
糾弾して忌み嫌ったりしたところで、そこに対抗しようとする側もまた、
「あっちが精神病質系ならこっちは情緒障害系で」となってしまい、
ウクライナ側へのクラスター爆弾の供与で憎悪の連鎖をさらに
激化させるような真似しかできないままに終わる。
大半の一般庶民はその価値を自力で理解まではできないがために、
微妙不可思議な仏の知恵を理解不能なままに他力本願で尊べという
念仏の嗜みなぞが、一種の方便として広く講じられていたのである。
そのような手管もおおむね排除されて、中正であることの偉大さなど
上から下まで忘れ去って久しい現代においては、ADHD系かASD系か、
情緒障害系か精神病質系かの両極ばかりに振り切れる悪癖もまた天下万人へと行き渡り、
人間なんてその程度でしかあり得ないと決め込んでの侮蔑合戦もまた激化している。
さような世相においては、当然同じ穴の狢しか権力の座に上ることもない。
仮に今ウクライナ戦争の大元凶となっているプーチンを精神病質系の狂人として
糾弾して忌み嫌ったりしたところで、そこに対抗しようとする側もまた、
「あっちが精神病質系ならこっちは情緒障害系で」となってしまい、
ウクライナ側へのクラスター爆弾の供与で憎悪の連鎖をさらに
激化させるような真似しかできないままに終わる。
笠幕府を開く為には、あげまんの女性を娶る必要がある
オレが笠にオススメするのは小室佳代か韓鶴子
オレが笠にオススメするのは小室佳代か韓鶴子
統一自民だ電通だジャニーズだビッグモーターだのといった、
一部の大組織の腐敗をどんなに糾弾してみたところで、それらもまた
中正の庸徳を他力本願に尊ぶことすらできない思い上がりに駆られた、
現代日本人全てにとっての身から出た錆に過ぎないのだから、現状のままでは、
不祥事の発覚した組織を潰してもまた似たようなのが現れるいたちごっこしか期待できない。
山下達郎がKYにジャニー喜多川を擁護していたのも、その心中には、
「みんなやってたことだろうが」という不満があったのかもしれない。
男が体を売って権力に取り入る「佞幸」も東洋では紀元前から確認されている悪癖である上に、
仏門による清廉主義の流布の疎かな時代には何度でもぶり返して来たような代物。
近年の日本では各種大企業はおろか、警察組織あたりまで似たような真似を内輪で
やらかしているようだし、ジャニーズ一つの摘発などで全てが収まるなどとは到底考えられない。
一部の大組織の腐敗をどんなに糾弾してみたところで、それらもまた
中正の庸徳を他力本願に尊ぶことすらできない思い上がりに駆られた、
現代日本人全てにとっての身から出た錆に過ぎないのだから、現状のままでは、
不祥事の発覚した組織を潰してもまた似たようなのが現れるいたちごっこしか期待できない。
山下達郎がKYにジャニー喜多川を擁護していたのも、その心中には、
「みんなやってたことだろうが」という不満があったのかもしれない。
男が体を売って権力に取り入る「佞幸」も東洋では紀元前から確認されている悪癖である上に、
仏門による清廉主義の流布の疎かな時代には何度でもぶり返して来たような代物。
近年の日本では各種大企業はおろか、警察組織あたりまで似たような真似を内輪で
やらかしているようだし、ジャニーズ一つの摘発などで全てが収まるなどとは到底考えられない。
ビッグモーターのごときブラック体質の企業もまた本当は日本中に蔓延していて、
ただちょっとヤンチャが過ぎたぐらいのことに過ぎず、ビグモが解体されたらされたで、
またどこか別の企業が同レベルの親玉へと成り代わるだけであるのにも違いないだろう。
さような各種腐敗の大元締めとなって来た統一自民もまた、中正さへの尊重を欠いた
今の愚民にとっての最善を尽くして来たことには変わりなく、仮に別物に挿げ替えられた所で、
現国民の嗜好に合わせるようなら二の轍、三の轍を踏むだろうにも違いない。
なんなら、カルトによる侵食を許すような所まで含めて、同じ過ちを繰り返すことだろう。
自分たち自身がその域に留まるような相手しか評価もできない分際のままでいるのだし、これ以上に
自明な自業自得などあり得ない現状の限界を以て、自分たち自身の限界とも思い知るべきなのである。
ただちょっとヤンチャが過ぎたぐらいのことに過ぎず、ビグモが解体されたらされたで、
またどこか別の企業が同レベルの親玉へと成り代わるだけであるのにも違いないだろう。
さような各種腐敗の大元締めとなって来た統一自民もまた、中正さへの尊重を欠いた
今の愚民にとっての最善を尽くして来たことには変わりなく、仮に別物に挿げ替えられた所で、
現国民の嗜好に合わせるようなら二の轍、三の轍を踏むだろうにも違いない。
なんなら、カルトによる侵食を許すような所まで含めて、同じ過ちを繰り返すことだろう。
自分たち自身がその域に留まるような相手しか評価もできない分際のままでいるのだし、これ以上に
自明な自業自得などあり得ない現状の限界を以て、自分たち自身の限界とも思い知るべきなのである。
ここまで、主に日本の一般民衆の見識の低さを論って来たけれども、
それでも日本国民の民度は今でも世界トップ級であるのには違いないし、
だからこそどこかの他国民を見習えばいいなんてこともないのである。
もうしばらく前から、主に欧米側からの焚き付けで、
海洋プラスチック汚染の問題などが取り沙汰されているけれども、
そこから「なるべくプラスチック製品を使わないようにしよう」という
論調に直結しているのは、多くの日本人が飛躍に過ぎて不本意に感じている所でもある。
必要なのは、プラ製品を使わないことではなく、ポイ捨てをしないことである。
誰しもが適切に処理することで、海洋へと流出する廃棄物の量を減らしすらすれば
いいことなのに、日本以外の世界中のほとんどの人間はそこにまで考えが及ばず、
ポイ捨てありきでのプラ製品利用の低減のほうばかりを問題にしている。
これだけ見ても、日本人の民度こそが世界でも突出している確かな証拠になっているし、
だからこそ他国の誰かを見習いさえすれば、自分たちの至らなさが
補えるなどと考えるべきでもないのだが。
ただ、自分たちの身の程をよくわきまえる系統の賢明さを今よりも多く持ち合わせていた
昔の日本人などから見れば、おそらく今の日本人などは、平気でポイ捨てする外人並みの
人種として映るだろうにも違いないから、人の振り見て我が振り直せではあるといえる。
もちろん、そんな連中に倣ってのレジ袋有料化みたいな真似なんかは論外なわけだがな。
それでも日本国民の民度は今でも世界トップ級であるのには違いないし、
だからこそどこかの他国民を見習えばいいなんてこともないのである。
もうしばらく前から、主に欧米側からの焚き付けで、
海洋プラスチック汚染の問題などが取り沙汰されているけれども、
そこから「なるべくプラスチック製品を使わないようにしよう」という
論調に直結しているのは、多くの日本人が飛躍に過ぎて不本意に感じている所でもある。
必要なのは、プラ製品を使わないことではなく、ポイ捨てをしないことである。
誰しもが適切に処理することで、海洋へと流出する廃棄物の量を減らしすらすれば
いいことなのに、日本以外の世界中のほとんどの人間はそこにまで考えが及ばず、
ポイ捨てありきでのプラ製品利用の低減のほうばかりを問題にしている。
これだけ見ても、日本人の民度こそが世界でも突出している確かな証拠になっているし、
だからこそ他国の誰かを見習いさえすれば、自分たちの至らなさが
補えるなどと考えるべきでもないのだが。
ただ、自分たちの身の程をよくわきまえる系統の賢明さを今よりも多く持ち合わせていた
昔の日本人などから見れば、おそらく今の日本人などは、平気でポイ捨てする外人並みの
人種として映るだろうにも違いないから、人の振り見て我が振り直せではあるといえる。
もちろん、そんな連中に倣ってのレジ袋有料化みたいな真似なんかは論外なわけだがな。
民主政にしたって、日本人はまだ自分たちが選挙で代表と認めた相手が
失政や不祥事の総合商社状態でいることに自責の念を抱いてる場合があるが
(自民支持者かつカルト支配発覚後の俺の親父などもその一人である)、
欧米の民主主義国の民衆などはそうでもなく、自分たちもまた投票者でいながら、
自分たちと政府を敵対項で捉えての暴動に及ぶような真似も繰り返している。
元より、そういう人間のいるフランスやアメリカ等のほうが民主主義の本場でもあるし、
それほどにも、自分たちの自己破綻加減に気づかないままでいられるような脳足りん達が
幻想に幻想を重ねてでっち上げたのが民主主義であるのだともわきまえるべきなのである。
フランス革命以前までは、仁義なきキリスト教圏ならではの横暴きわまる王政が
欧州中の人々を苦しめ抜いていたものだから、そこから民主化のごとき試みによって、
世相が改善されることが期待されたのにもそれなりの妥当性があったといえるが。
すでに民主制が実施されて、政治責任の国民への丸投げが行き届いて後にも、
自分たちを苦しめるような苛政ばかりが繰り返されているとすれば、そうれはもう、
自分たちの責任なのだから、大いに自責の念に駆られて苦悩するのが嫌なら、あとは
主権を為政者たち自身に返上しての、引責自殺級の責任制と共なる治政を要求するしかない。
失政や不祥事の総合商社状態でいることに自責の念を抱いてる場合があるが
(自民支持者かつカルト支配発覚後の俺の親父などもその一人である)、
欧米の民主主義国の民衆などはそうでもなく、自分たちもまた投票者でいながら、
自分たちと政府を敵対項で捉えての暴動に及ぶような真似も繰り返している。
元より、そういう人間のいるフランスやアメリカ等のほうが民主主義の本場でもあるし、
それほどにも、自分たちの自己破綻加減に気づかないままでいられるような脳足りん達が
幻想に幻想を重ねてでっち上げたのが民主主義であるのだともわきまえるべきなのである。
フランス革命以前までは、仁義なきキリスト教圏ならではの横暴きわまる王政が
欧州中の人々を苦しめ抜いていたものだから、そこから民主化のごとき試みによって、
世相が改善されることが期待されたのにもそれなりの妥当性があったといえるが。
すでに民主制が実施されて、政治責任の国民への丸投げが行き届いて後にも、
自分たちを苦しめるような苛政ばかりが繰り返されているとすれば、そうれはもう、
自分たちの責任なのだから、大いに自責の念に駆られて苦悩するのが嫌なら、あとは
主権を為政者たち自身に返上しての、引責自殺級の責任制と共なる治政を要求するしかない。
そこでなお、為政者たちがまともに政治責任も負わないでの苛政を恣にしたりするようなら、
その時にこそ、今一度の革命によって権力者を断頭台送りにする大義名分が立つことにもなる。
民主化によって、むしろ人々は本当に暴力革命で体制をやり直して行く権限を奪われてしまった。
米仏の憲法などでは一応その権利が保障されてはいるが、所詮はすでに民主化が済んだという
体裁の下での政治なのだから、そこに体制転覆級に盾突く者は「民主主義の敵」呼ばわりの
レッテルを貼られて世の多くを敵に回し、革命も失敗に終わらせることしかできないままに終わる。
民主主義で行き詰った世の中を打開するために必要となるのは、さらなる民主化などではなく、
一端は主権を為政者に返上した上での様子見であり、そこで事態が改善されなかったり、
より悪化したりするようならば革命による転覆も可であることを保証することこそが、
民主主義的な志向性と共に、これ以上に世の中を好転させられる唯一の手段ともなるだろう。
それは結局、「わが治政に問題があれば誰なりかまわず入れ替わるべし」との誓約と共に
天下を握った、かつての徳川などともそう変わることのない政治体制ともなるわけだが。
その時にこそ、今一度の革命によって権力者を断頭台送りにする大義名分が立つことにもなる。
民主化によって、むしろ人々は本当に暴力革命で体制をやり直して行く権限を奪われてしまった。
米仏の憲法などでは一応その権利が保障されてはいるが、所詮はすでに民主化が済んだという
体裁の下での政治なのだから、そこに体制転覆級に盾突く者は「民主主義の敵」呼ばわりの
レッテルを貼られて世の多くを敵に回し、革命も失敗に終わらせることしかできないままに終わる。
民主主義で行き詰った世の中を打開するために必要となるのは、さらなる民主化などではなく、
一端は主権を為政者に返上した上での様子見であり、そこで事態が改善されなかったり、
より悪化したりするようならば革命による転覆も可であることを保証することこそが、
民主主義的な志向性と共に、これ以上に世の中を好転させられる唯一の手段ともなるだろう。
それは結局、「わが治政に問題があれば誰なりかまわず入れ替わるべし」との誓約と共に
天下を握った、かつての徳川などともそう変わることのない政治体制ともなるわけだが。
ああ、吾れこそは民主主義という、現状、全世界共通の理念に疑義を唱える者。
旧西側諸国のみならず、西側からは民主主義の仇敵扱いをされている
中国やロシアや朝魚羊民主主義人民共和国もまた、
理念としての民主主義までをも否定しているわけではなく、ただ、
全世界規模での最終的な民主主義の達成のための手段として、最初は自由化ではなく、
専制や共産化から始めて行くアプローチでいるだけのことである。
民主主義そのものまで否定しているわけではないから、体裁程度の選挙もやっている。
ただ、それが完全な八百長か、選挙資金の山積等による緩やかな八百長のフィルターを
かけているかが違うだけで、どちらも既得権益への優遇を加味させていることにも変わりはない。
俺が民主主義そのものに苦言を呈しているからといって、
中露や北の味方なんてことも全くなくて、むしろ米露中韓北その他、今の国際社会で
横暴をほしいままにしている連中や、その不甲斐ない手下としての日本などの、
現代社会の汚濁全てを相手取っての物言い以外の何物でもないのである。
旧西側諸国のみならず、西側からは民主主義の仇敵扱いをされている
中国やロシアや朝魚羊民主主義人民共和国もまた、
理念としての民主主義までをも否定しているわけではなく、ただ、
全世界規模での最終的な民主主義の達成のための手段として、最初は自由化ではなく、
専制や共産化から始めて行くアプローチでいるだけのことである。
民主主義そのものまで否定しているわけではないから、体裁程度の選挙もやっている。
ただ、それが完全な八百長か、選挙資金の山積等による緩やかな八百長のフィルターを
かけているかが違うだけで、どちらも既得権益への優遇を加味させていることにも変わりはない。
俺が民主主義そのものに苦言を呈しているからといって、
中露や北の味方なんてことも全くなくて、むしろ米露中韓北その他、今の国際社会で
横暴をほしいままにしている連中や、その不甲斐ない手下としての日本などの、
現代社会の汚濁全てを相手取っての物言い以外の何物でもないのである。
民主主義も「絵に描いた餅」らしいというのが、西側の民衆も多少程度に感じて
いることではあるが、さすがに理念として間違っているとまでは考えることもない。
そもそもが「民は神の主なり」(左伝・桓公六年)のように、
古代の封建時代の主君といえども、民意の主上とまで見なすべき重大さを認めるような
発言をしてはいるのだが、ただやはり法定上の国民主権までをも認めていたわけではない。
同様に、古代どころか近世まで、女の社会的主権なども世界的に認められていなかったわけだが、
だからといって女たちを徹底的な圧制下ばかりに置いていたわけではなく、特に日本などにおいては、
アマテラス信仰の功徳などもあって、家内における女房の主体性をよく重んずるような風潮があった。
いることではあるが、さすがに理念として間違っているとまでは考えることもない。
そもそもが「民は神の主なり」(左伝・桓公六年)のように、
古代の封建時代の主君といえども、民意の主上とまで見なすべき重大さを認めるような
発言をしてはいるのだが、ただやはり法定上の国民主権までをも認めていたわけではない。
同様に、古代どころか近世まで、女の社会的主権なども世界的に認められていなかったわけだが、
だからといって女たちを徹底的な圧制下ばかりに置いていたわけではなく、特に日本などにおいては、
アマテラス信仰の功徳などもあって、家内における女房の主体性をよく重んずるような風潮があった。
それと同じように、国民主権などない時代なりに、君子士人が民意を重んじて主たる理念に据えるような
こともまたいくらでもあったわけで、それもまた民主制ではなくとも、民主的であったのには違いない。
民主制はそうではなく、民衆こそが国家の主権を法定上から掌握するというのが要点であり、
たとえ国民の飼い犬扱いとなった政治家がどんなにひどい政治を行おうとも、それが民主主義の
体裁に反しているというわけではないし、ただその責任もまた国民にあるというだけのことである。
民主的であるということと、民主主義や民主制であるということは全く同一ではなく、
むしろ民主主義や民主制のほうが実現されることで、非民主的な苛政が助長されることまでもがある。
そもそも絵に描いた餅ですらない、犬の糞が中に詰まった実物の餅とでも呼ぶべきものを
好き好んで食しているのが今の民主主義者たちであるが故に、その根本から認めようがないのである。
こともまたいくらでもあったわけで、それもまた民主制ではなくとも、民主的であったのには違いない。
民主制はそうではなく、民衆こそが国家の主権を法定上から掌握するというのが要点であり、
たとえ国民の飼い犬扱いとなった政治家がどんなにひどい政治を行おうとも、それが民主主義の
体裁に反しているというわけではないし、ただその責任もまた国民にあるというだけのことである。
民主的であるということと、民主主義や民主制であるということは全く同一ではなく、
むしろ民主主義や民主制のほうが実現されることで、非民主的な苛政が助長されることまでもがある。
そもそも絵に描いた餅ですらない、犬の糞が中に詰まった実物の餅とでも呼ぶべきものを
好き好んで食しているのが今の民主主義者たちであるが故に、その根本から認めようがないのである。
政治が民主的(国民の利益を主としている)であるのは、
封建制が主たる政治体制だった太古の昔から一つの理想とされて来たことだが。
その手段を国民主権とするのは、あまりにも無理がありすぎることから、
古代中国でそのような政治体制を提言した墨家もまた、絶滅の道を辿らざるを得なかった。
さらには、そもそも「民主」たる理念を殊更に言葉として掲げようとすることまでもが、
民主性の「絵に描いた餅」化を避けるために、さほど推奨されないことすらもがあった。
「民は神の主なり」(左伝・桓公六年)という、世界最古の民主性にまつわる言葉を述べた
斉の桓公もまた、国力の強大さと引き換えに民を虐げるような苛政を敷いた最原初の覇権主義的な
王侯だったことから、孟子も「五覇(桓公含む)は三王(にとって)の罪人なり」(告子上)
という言葉で、古来の仁政を汚したその罪深さを糾弾していたのだった。
「大道廃れて仁義あり」という老子の言葉も、よく儒家思想全般を非難する言葉として
取り上げられることがあるけれども、そもそも孔孟のごとき儒者は大道を廃れさせた張本人ではない。
まさに自分たちこそが民に利する大道を廃れさせておきながら、民を尊ぶような美辞麗句だけは唱えていた
桓公の如き為政者こそはまさにその主体であり、近年の政治家などもまた多くがこれに該当するもの。
封建制が主たる政治体制だった太古の昔から一つの理想とされて来たことだが。
その手段を国民主権とするのは、あまりにも無理がありすぎることから、
古代中国でそのような政治体制を提言した墨家もまた、絶滅の道を辿らざるを得なかった。
さらには、そもそも「民主」たる理念を殊更に言葉として掲げようとすることまでもが、
民主性の「絵に描いた餅」化を避けるために、さほど推奨されないことすらもがあった。
「民は神の主なり」(左伝・桓公六年)という、世界最古の民主性にまつわる言葉を述べた
斉の桓公もまた、国力の強大さと引き換えに民を虐げるような苛政を敷いた最原初の覇権主義的な
王侯だったことから、孟子も「五覇(桓公含む)は三王(にとって)の罪人なり」(告子上)
という言葉で、古来の仁政を汚したその罪深さを糾弾していたのだった。
「大道廃れて仁義あり」という老子の言葉も、よく儒家思想全般を非難する言葉として
取り上げられることがあるけれども、そもそも孔孟のごとき儒者は大道を廃れさせた張本人ではない。
まさに自分たちこそが民に利する大道を廃れさせておきながら、民を尊ぶような美辞麗句だけは唱えていた
桓公の如き為政者こそはまさにその主体であり、近年の政治家などもまた多くがこれに該当するもの。
政治に民主性なんてなくなってしまったような時代にこそ、民主などという理念が高々と掲げられる
こともあるというのが老子の見解であり、それは体制が民主制か封建制か、その他の専制かなどにも
関わることはない。ただ、民主制であるようなら、すでに政治責任はすべて一般国民にあるのだから、
これ以上革命による民主化などで政治が改善される可能性もないという違いがあるだけである。
民主制以外の、政治責任が為政者たち自身にある体制においても、民主などという理念をあえて
掲げるような為政者こそが本当に仁政を実践する可能性が高いなんてこともなく、それは今の
朝魚羊民主主義人民共和国の圧政極まる有様などを見ても容易に察せられることである。
政治責任を為政者たちが担っている非民主制である上に、為政者も別に民主だなんだと
美辞麗句を垂れ流して済ませたりはせず、むしろ自分たちと民衆の利害を厳密に一致させる
運命共同体化を確立させた上で、自分たち自身が満足かどうかのほうを問題にするぐらいの所にこそ、
口先だけの巧言令色などでは済ませない、最大級の仁政が実現されて行くものであるというのが、
今までの人類の歴史を見ても普遍的であることが認められる法則なのである。
こともあるというのが老子の見解であり、それは体制が民主制か封建制か、その他の専制かなどにも
関わることはない。ただ、民主制であるようなら、すでに政治責任はすべて一般国民にあるのだから、
これ以上革命による民主化などで政治が改善される可能性もないという違いがあるだけである。
民主制以外の、政治責任が為政者たち自身にある体制においても、民主などという理念をあえて
掲げるような為政者こそが本当に仁政を実践する可能性が高いなんてこともなく、それは今の
朝魚羊民主主義人民共和国の圧政極まる有様などを見ても容易に察せられることである。
政治責任を為政者たちが担っている非民主制である上に、為政者も別に民主だなんだと
美辞麗句を垂れ流して済ませたりはせず、むしろ自分たちと民衆の利害を厳密に一致させる
運命共同体化を確立させた上で、自分たち自身が満足かどうかのほうを問題にするぐらいの所にこそ、
口先だけの巧言令色などでは済ませない、最大級の仁政が実現されて行くものであるというのが、
今までの人類の歴史を見ても普遍的であることが認められる法則なのである。
斉の桓公や北の金王朝のごとき非民主制国家の支配者が、
民を虐げる圧政を敷きながら口先だけの民主を掲げているようなら、
その民主こそは「絵に描いた餅」に該当することとなる。
すでに民主制が敷かれ、最底辺の一般国民にまで公正(とされるよう)な
選挙での投票権が付与されているにもかかわらず、このスレに書いて来た
ような諸々の原因によって圧政が蔓延る事態が招かれていたとすれば、
そんな国の人間は、絵に描いた餅ではなく、一応、実物の餅を食べてはいるものの、
中にたんまりと犬の糞が練り込められた餅を食わされている状態とでも言うべき所である。
よく、衆愚政治化した民主制を正当化する言い分として、
「それでも民主制が一番マシな政治体制であることには変わりないから」
という論理が掲げられるけれども、そのマシである真の根拠こそは、
「絵に描いた餅ではない、実物の餅としての民主の享受が保証されているから」
であるのにも違いないのである。
しかし、民を虐げる苛政の禁止までもが保証されているわけではないが故に、
その餅の中に犬の糞が練り込められるようなことにもなり、最悪の場合には、
どでかい犬糞の塊に薄皮一枚程度の餅がコーティングされたような代物とも化してしまう。
それでも、あくまで民主制こそは最もマシな政治体制である場合があるとすれば、
民主制以外の体制は100%苛政でしかあり得ない、犬糞の純塊でしかない場合に限るといえる。
民を虐げる圧政を敷きながら口先だけの民主を掲げているようなら、
その民主こそは「絵に描いた餅」に該当することとなる。
すでに民主制が敷かれ、最底辺の一般国民にまで公正(とされるよう)な
選挙での投票権が付与されているにもかかわらず、このスレに書いて来た
ような諸々の原因によって圧政が蔓延る事態が招かれていたとすれば、
そんな国の人間は、絵に描いた餅ではなく、一応、実物の餅を食べてはいるものの、
中にたんまりと犬の糞が練り込められた餅を食わされている状態とでも言うべき所である。
よく、衆愚政治化した民主制を正当化する言い分として、
「それでも民主制が一番マシな政治体制であることには変わりないから」
という論理が掲げられるけれども、そのマシである真の根拠こそは、
「絵に描いた餅ではない、実物の餅としての民主の享受が保証されているから」
であるのにも違いないのである。
しかし、民を虐げる苛政の禁止までもが保証されているわけではないが故に、
その餅の中に犬の糞が練り込められるようなことにもなり、最悪の場合には、
どでかい犬糞の塊に薄皮一枚程度の餅がコーティングされたような代物とも化してしまう。
それでも、あくまで民主制こそは最もマシな政治体制である場合があるとすれば、
民主制以外の体制は100%苛政でしかあり得ない、犬糞の純塊でしかない場合に限るといえる。
今の中露や北など見てみれば、そのように思われるかもしれないが、
ムバラク政権による長期独裁が敷かれていたエジプトが、「アラブの春」なる
民主化革命によってかえって荒廃してしまったように、非民主制のほうが
善政とまで行かずとも、まだ苛政から遠い政治を執り行うようなことがいくらでもある。
軍事政権による封建制という、ガチガチの専制だった江戸期の日本のほうが、
税率でも所得格差でも平均労働時間でも、今よりもずっと民を厚遇していたように、
民主なんてものが理念として掲げられることもなかったような時代の政権のほうが、
主権ある為政者としての責任意識に駆られての、民主的な治政に取り組むという実例もある。
そんな実例がほぼ皆無に等しいのは、それこそ、民主主義というイデオロギーの
発祥地である西洋諸国ぐらいのもので、民主化以前には大地主の代表としての王族が、
世界史上最大のカルトであるキリスト教団やユダヤ政商とつるんでの
暴政をほしいままにするのがデフォであったがために、薄皮一枚程度の餅に該当する
民主制という体裁が、苛政という犬糞にコーティングされるだけでも満足という、
極めて程度の低い望みばかりに全てが集約されることとなったのである。
ムバラク政権による長期独裁が敷かれていたエジプトが、「アラブの春」なる
民主化革命によってかえって荒廃してしまったように、非民主制のほうが
善政とまで行かずとも、まだ苛政から遠い政治を執り行うようなことがいくらでもある。
軍事政権による封建制という、ガチガチの専制だった江戸期の日本のほうが、
税率でも所得格差でも平均労働時間でも、今よりもずっと民を厚遇していたように、
民主なんてものが理念として掲げられることもなかったような時代の政権のほうが、
主権ある為政者としての責任意識に駆られての、民主的な治政に取り組むという実例もある。
そんな実例がほぼ皆無に等しいのは、それこそ、民主主義というイデオロギーの
発祥地である西洋諸国ぐらいのもので、民主化以前には大地主の代表としての王族が、
世界史上最大のカルトであるキリスト教団やユダヤ政商とつるんでの
暴政をほしいままにするのがデフォであったがために、薄皮一枚程度の餅に該当する
民主制という体裁が、苛政という犬糞にコーティングされるだけでも満足という、
極めて程度の低い望みばかりに全てが集約されることとなったのである。
西欧においては、大地主の代表がそのまま諸国の王族となり、
キリスト教団やユダヤ政商とつるんでの暴政をほしいままにするという
最悪の政治情勢が続いていたところに、王族どもをギロチン送りで皆殺しにする
という革命が講じられたことから、薄皮一枚程度の餅が食えるだけでも、
犬の糞しか食えないよりはマシという程度の改善が民主化によってもたらされた。
地主の強大化は、インフラ整備の不全化や、土地の営利目的による雑用の蔓延を来たすために、
かつての欧州では下水道もまともに整備されず、糞尿を家の窓から投げ捨てるのが常態と
化していたのが、民主革命によって地主の権限が大幅に制限されたことで大きく改善され、
区画整理も行き届いての美しい街並みが広がるようにもなったのだった。
日本の場合は、これとは全くの真逆で、かつて封建制によって諸国を統治していた
王侯(大名を諸侯相当とする)こそは地主たる庄屋の権限に制限をかける公明正大な
役職であったのにもかかわらず、封建制の廃止と共にその地位を追われ、かわりに庄屋や
豪商の血筋の者こそが民衆の代表気取りで政財界の要人を歴任するようになったために、
世界でも随一の美しさと清潔さを帯びていたというかつての街並みは跡形もなくなり、
区画整理も疎かで電線やマンション駐車場まみれの、醜悪な景観があふれ返ることとなった。
キリスト教団やユダヤ政商とつるんでの暴政をほしいままにするという
最悪の政治情勢が続いていたところに、王族どもをギロチン送りで皆殺しにする
という革命が講じられたことから、薄皮一枚程度の餅が食えるだけでも、
犬の糞しか食えないよりはマシという程度の改善が民主化によってもたらされた。
地主の強大化は、インフラ整備の不全化や、土地の営利目的による雑用の蔓延を来たすために、
かつての欧州では下水道もまともに整備されず、糞尿を家の窓から投げ捨てるのが常態と
化していたのが、民主革命によって地主の権限が大幅に制限されたことで大きく改善され、
区画整理も行き届いての美しい街並みが広がるようにもなったのだった。
日本の場合は、これとは全くの真逆で、かつて封建制によって諸国を統治していた
王侯(大名を諸侯相当とする)こそは地主たる庄屋の権限に制限をかける公明正大な
役職であったのにもかかわらず、封建制の廃止と共にその地位を追われ、かわりに庄屋や
豪商の血筋の者こそが民衆の代表気取りで政財界の要人を歴任するようになったために、
世界でも随一の美しさと清潔さを帯びていたというかつての街並みは跡形もなくなり、
区画整理も疎かで電線やマンション駐車場まみれの、醜悪な景観があふれ返ることとなった。
テメエの思い込みを勝手に実情扱いするなクソボケ反社会人
西欧なら、犬の糞そのものみたいな悪政に、餅皮がコーティングされる程度の処理が
民主化によって施されたために、その証拠として地主の権限も弱体化し、
街並みがよく整備された程度の目に見える改善もあったわけだが。
日本の場合はそれすらなく、むしろ街並みの景観も悪化の一途を辿ったし、
民の利益などをまともに考慮にも入れないような苛政が新たに招かれることともなった。
何にもいいことなしな政変であったわけだけれども、そもそもが、日本社会が
民主化を進行させる大機縁となった明治維新や、先の敗戦からの米占領支配自体、
国民が主導したものでもなければ、懇願の末に招かれたものでもない。
封建制による徳治こそが世を平定した時代が終わって、誰しもが自由の名の下に
何でも好き勝手出来るようになることに罪悪感すら抱いていたからこそ、
幕末の民衆たちは現実逃避目的のええじゃないか踊りなんかに明け暮れていたのだし、
その傾向がさらに輪をかけてひどくなる危惧に駆られていたからこそ、
敗戦時の国民たちもまた玉音放送にうなだれて、突っ伏して泣いていたのに違いない。
ことに、日本という国における民主化は、百害あって一利ないような世相の荒廃
ばかりしか招かなかったというのが実情だし、なればこそ、日本国民に民主主義への
夢想による愛好を増長させるためには、カルトによる洗脳支配までもが必要となったのだった。
民主化によって施されたために、その証拠として地主の権限も弱体化し、
街並みがよく整備された程度の目に見える改善もあったわけだが。
日本の場合はそれすらなく、むしろ街並みの景観も悪化の一途を辿ったし、
民の利益などをまともに考慮にも入れないような苛政が新たに招かれることともなった。
何にもいいことなしな政変であったわけだけれども、そもそもが、日本社会が
民主化を進行させる大機縁となった明治維新や、先の敗戦からの米占領支配自体、
国民が主導したものでもなければ、懇願の末に招かれたものでもない。
封建制による徳治こそが世を平定した時代が終わって、誰しもが自由の名の下に
何でも好き勝手出来るようになることに罪悪感すら抱いていたからこそ、
幕末の民衆たちは現実逃避目的のええじゃないか踊りなんかに明け暮れていたのだし、
その傾向がさらに輪をかけてひどくなる危惧に駆られていたからこそ、
敗戦時の国民たちもまた玉音放送にうなだれて、突っ伏して泣いていたのに違いない。
ことに、日本という国における民主化は、百害あって一利ないような世相の荒廃
ばかりしか招かなかったというのが実情だし、なればこそ、日本国民に民主主義への
夢想による愛好を増長させるためには、カルトによる洗脳支配までもが必要となったのだった。
かつてええじゃないか踊りで現実逃避に明け暮れ、玉音放送の前でむせび泣いていたような
先祖たちは決して、日本国民にとって百害あって一利もなかった、近代以降の民主化という
潮流に歯止めがかけられて行くことを悲観的には思わないだろうし、その血を継ぐ
今の日本人の大多数もまた、カルト洗脳の迷妄から脱しすらすればそれに倣うだろう。
無論、民主主義の終焉を好き好むとまでは行くまいし、その必要などもない。
ただの無名の一般民衆のままでも、国の主権を掌握できるという民主主義の理屈は、
民衆にとって麻薬的な魅力を感じさせられるものだし、その権限が今からはく奪されるとなれば、
そこにある種の拒絶反応を示してしまうのもまた、万民にとっての常であるに違いない。
ただ、麻薬中毒者が中毒から抜け出して健康を取り戻す時のような、義務感こそが必要なもの。
あるいは、大病を患った人間が苦しい治療を嫌でも受け入れるがごとく、
人をひき殺してしまった人間が、過失といえども相応の服役を受け入れるがごとく、
純粋な義務感によって受け入れるべきことだし、それこそが、多くの日本人が
昔からの徳化によって育んできた持ち前によって得意とすることでもあるのだ。
先祖たちは決して、日本国民にとって百害あって一利もなかった、近代以降の民主化という
潮流に歯止めがかけられて行くことを悲観的には思わないだろうし、その血を継ぐ
今の日本人の大多数もまた、カルト洗脳の迷妄から脱しすらすればそれに倣うだろう。
無論、民主主義の終焉を好き好むとまでは行くまいし、その必要などもない。
ただの無名の一般民衆のままでも、国の主権を掌握できるという民主主義の理屈は、
民衆にとって麻薬的な魅力を感じさせられるものだし、その権限が今からはく奪されるとなれば、
そこにある種の拒絶反応を示してしまうのもまた、万民にとっての常であるに違いない。
ただ、麻薬中毒者が中毒から抜け出して健康を取り戻す時のような、義務感こそが必要なもの。
あるいは、大病を患った人間が苦しい治療を嫌でも受け入れるがごとく、
人をひき殺してしまった人間が、過失といえども相応の服役を受け入れるがごとく、
純粋な義務感によって受け入れるべきことだし、それこそが、多くの日本人が
昔からの徳化によって育んできた持ち前によって得意とすることでもあるのだ。
「こち亀」の大原部長あたりでステレオタイプに描かれながら
おちょくられることで、過去の遺物としての葬送扱いともなって来た、
戦前世代あたりまでにはかなり多くいた、昔気質の堅物な日本人。
両津の合いの手などとしては面白かれど、
本当にあんな頑固爺に付き合わされるのは勘弁というのが、
最長老の団塊を含む大多数の戦後世代にとっての感想にも違いないが。
人間社会を最低限、持続可能ならしめるためには不可欠な人種でもあったればこそ、
さような人々を根絶の域に至らしめた日本もまた、亡国の危機に瀕してしまった。
戦後日本人が専ら軟派さの模範として来たアメリカにしたって、
絶対上意下達の軍隊や、一般人の射殺も辞さない警察と共に初めて成り立っている。
しかもそのような人々が共和党という、二大政党制の一翼を担うほどの勢力をも
保つことで、民主党勢のやりたい放題にも何とか歯止めをかけているような状態。
今の日本たるや、民主党しかないアメリカも同然な状態であって、
そんな国がまともに成り立たないことをこの日本こそが先んじて示したことを、
逆にアメリカもまた反面教師とすべきところである。
おちょくられることで、過去の遺物としての葬送扱いともなって来た、
戦前世代あたりまでにはかなり多くいた、昔気質の堅物な日本人。
両津の合いの手などとしては面白かれど、
本当にあんな頑固爺に付き合わされるのは勘弁というのが、
最長老の団塊を含む大多数の戦後世代にとっての感想にも違いないが。
人間社会を最低限、持続可能ならしめるためには不可欠な人種でもあったればこそ、
さような人々を根絶の域に至らしめた日本もまた、亡国の危機に瀕してしまった。
戦後日本人が専ら軟派さの模範として来たアメリカにしたって、
絶対上意下達の軍隊や、一般人の射殺も辞さない警察と共に初めて成り立っている。
しかもそのような人々が共和党という、二大政党制の一翼を担うほどの勢力をも
保つことで、民主党勢のやりたい放題にも何とか歯止めをかけているような状態。
今の日本たるや、民主党しかないアメリカも同然な状態であって、
そんな国がまともに成り立たないことをこの日本こそが先んじて示したことを、
逆にアメリカもまた反面教師とすべきところである。
世の中が悉皆、大原部長みたいな堅物で塗り固められるのも考えものだし、
戦前までの大日本帝国はそのような面で行き過ぎていた所もあったのに違いない。
その原因は、徴兵制でいざとなれば万民が軍隊教育に従わされていた総力戦体制にもある。
武家時代には、軍事を担うのは武家階級だけだったから、その手の堅物さを万民にまで
押し広めたりする必要もなかったために、比較的軟派な大衆文化なども花開いた。
ただそれは、武家階級こそを主権ある公人として畏敬、尊重する封建的な嗜みがあって
初めて実現されていたことであるがために、民主制のまま実現されるようなこともない。
国民主権と国民皆兵も決して切り離して考えられるものではなく、
スイス並みに徹底的でなくとも、いざとなれば総員で軍事に携わる体裁までは崩せない。
それを忌避し、廃止にまで持って行くことができるのは、やはり国民主権の放棄だけなのであり、
「我が子を戦争に送らない」系の非現実的な反戦主義を訴えている左翼なぞが、
本当に現実にそれを実現するために目指すべきなのも、むしろそちらなのである。
戦前までの大日本帝国はそのような面で行き過ぎていた所もあったのに違いない。
その原因は、徴兵制でいざとなれば万民が軍隊教育に従わされていた総力戦体制にもある。
武家時代には、軍事を担うのは武家階級だけだったから、その手の堅物さを万民にまで
押し広めたりする必要もなかったために、比較的軟派な大衆文化なども花開いた。
ただそれは、武家階級こそを主権ある公人として畏敬、尊重する封建的な嗜みがあって
初めて実現されていたことであるがために、民主制のまま実現されるようなこともない。
国民主権と国民皆兵も決して切り離して考えられるものではなく、
スイス並みに徹底的でなくとも、いざとなれば総員で軍事に携わる体裁までは崩せない。
それを忌避し、廃止にまで持って行くことができるのは、やはり国民主権の放棄だけなのであり、
「我が子を戦争に送らない」系の非現実的な反戦主義を訴えている左翼なぞが、
本当に現実にそれを実現するために目指すべきなのも、むしろそちらなのである。
戦乱級の政争もあくまで自分たち公職者たち同士で担い、
一般庶民は関ヶ原を観戦していた百姓なみの無責任さであること認める。
その上でなおかつ、国の主権は民衆にあるなどとすれば、
あまりにも公職者であることが割に合わなすぎることになるから、
誰もなり手がいなくなってしまう。だからこそ公職者こそが主権者たることを認めて、
一般庶民は上士に対するなりの敬意を捧げるぐらいの体裁であるのでなければならない。
かつての日本では専業主婦が当たり前で、男女の平均寿命が大きく開くほどにも
夫ばかりが外で働き詰めていたけれども、だからこそ妻も夫を主人として敬っていた。
官民の関係もまたそれと全く同じことで、命がけ級に責任ある振舞いを求めるのならば、
それを嘱託する側もまたそれ相応の見返りを受け入れなければならないのである。
あくまで、お上や主人への尊重を堅持すらすれば、仁政による安寧や専業主婦としての
恵まれた生活が守られる場合に限っての話であり、封建制だろうが民主制だろうが、
どうあがいても苛政や女の奴隷扱いしかあり得ないような、キリスト教国なみの
荒廃を大前提とするのであれば、さほど意味もないような話ではある。
一般庶民は関ヶ原を観戦していた百姓なみの無責任さであること認める。
その上でなおかつ、国の主権は民衆にあるなどとすれば、
あまりにも公職者であることが割に合わなすぎることになるから、
誰もなり手がいなくなってしまう。だからこそ公職者こそが主権者たることを認めて、
一般庶民は上士に対するなりの敬意を捧げるぐらいの体裁であるのでなければならない。
かつての日本では専業主婦が当たり前で、男女の平均寿命が大きく開くほどにも
夫ばかりが外で働き詰めていたけれども、だからこそ妻も夫を主人として敬っていた。
官民の関係もまたそれと全く同じことで、命がけ級に責任ある振舞いを求めるのならば、
それを嘱託する側もまたそれ相応の見返りを受け入れなければならないのである。
あくまで、お上や主人への尊重を堅持すらすれば、仁政による安寧や専業主婦としての
恵まれた生活が守られる場合に限っての話であり、封建制だろうが民主制だろうが、
どうあがいても苛政や女の奴隷扱いしかあり得ないような、キリスト教国なみの
荒廃を大前提とするのであれば、さほど意味もないような話ではある。
十七条憲法の八条などに倣って、寝る間も惜しんで働いたりすれば、そのせいで寿命も縮まる。
それと引き換えにつつがなく世を治め、妻子も独力で養って行くというのは、
民や妻子からの崇敬を一手に集める士大夫にのみ務まる役儀である。
敬う側もまた堅苦しさを強いられ、敬われる側も寿命を縮めるという、
痛み分けでしかないような試みであるが故に、現代人などには虫唾も走るような嫌悪感と共に
思い起こされる古の慣習だけれども、そうでもしなければ民衆まで血みどろの戦争に駆り出されたり、
女子供も拠り所を失っての鬼婆化や東横キッズ化が避けられないというのが、世の普遍法則であった。
ただあくまで匙加減の問題であり、封建的秩序によって世を泰平へと導くのも、
開き直ってその逆を行くのも、この世に蔓延する苦難を最小限に控えるために加減すべき所であるのも共通する。
江戸時代も武家の支配が主だったのは前半あたりまでで、後半は町人文化の開花などのほうが
顕著だったとも言われるし、封建制も軽量で済むのならそれに越したことはない。ただ、だからといって
民主化級に完全に破棄したのでは、ガチガチの封建支配を上回るような危難が招かれるとも知れたのである。
それと引き換えにつつがなく世を治め、妻子も独力で養って行くというのは、
民や妻子からの崇敬を一手に集める士大夫にのみ務まる役儀である。
敬う側もまた堅苦しさを強いられ、敬われる側も寿命を縮めるという、
痛み分けでしかないような試みであるが故に、現代人などには虫唾も走るような嫌悪感と共に
思い起こされる古の慣習だけれども、そうでもしなければ民衆まで血みどろの戦争に駆り出されたり、
女子供も拠り所を失っての鬼婆化や東横キッズ化が避けられないというのが、世の普遍法則であった。
ただあくまで匙加減の問題であり、封建的秩序によって世を泰平へと導くのも、
開き直ってその逆を行くのも、この世に蔓延する苦難を最小限に控えるために加減すべき所であるのも共通する。
江戸時代も武家の支配が主だったのは前半あたりまでで、後半は町人文化の開花などのほうが
顕著だったとも言われるし、封建制も軽量で済むのならそれに越したことはない。ただ、だからといって
民主化級に完全に破棄したのでは、ガチガチの封建支配を上回るような危難が招かれるとも知れたのである。
封建制をあくまで目的のための手段扱いにとどめ、
官民かかわりなく世俗社会全体を客観する仏道や神道の境地こそをより高尚なものとして
尊んで行く多様性も織り交ぜられていた頃の日本や、古代の中国インドの在り方こそは、
封建制の行き過ぎにも歯止めがかけられていたが故の理想形でもあったのに違いない。
ここ1000年ほどの世界で、封建制を過不足なくうまく取り扱えていた経歴のある国なんて
この日本ぐらいなものである上に、それもまた武家というガチガチの軍事政権と共にで
あったがために、民主化のみならず文民統制までもが敷かれている現代の人々からすれば、
暗黒時代もしくはおとぎ話の世界の遺物ぐらいにしか考えられないのが常ではあるけれども。
今の日本なみの閉塞状態よりはまだマシな封建社会というのも確実に実在し得るものだし、
決して総合的に世の中がより悪くなることなどを恐れて避けるべきものでもないのである。
官民かかわりなく世俗社会全体を客観する仏道や神道の境地こそをより高尚なものとして
尊んで行く多様性も織り交ぜられていた頃の日本や、古代の中国インドの在り方こそは、
封建制の行き過ぎにも歯止めがかけられていたが故の理想形でもあったのに違いない。
ここ1000年ほどの世界で、封建制を過不足なくうまく取り扱えていた経歴のある国なんて
この日本ぐらいなものである上に、それもまた武家というガチガチの軍事政権と共にで
あったがために、民主化のみならず文民統制までもが敷かれている現代の人々からすれば、
暗黒時代もしくはおとぎ話の世界の遺物ぐらいにしか考えられないのが常ではあるけれども。
今の日本なみの閉塞状態よりはまだマシな封建社会というのも確実に実在し得るものだし、
決して総合的に世の中がより悪くなることなどを恐れて避けるべきものでもないのである。
M坊もまたいつものように逃げ出したことだし、
またスレの主題のほうに話を修正して行くか。
一般庶民が人の価値をはかり知ることなど到底ままならない理由が、
また一つ見つかったんで、それもここに付記しておこう。
画像は、ルービックキューブをそろえて行く過程を矢印で示したもの。
一番上の画像の時ももうほとんど六面揃っていて、
実際にあと一段階の手順を踏むだけで下画のように完全に揃うんだが。
その過程で真ん中の画像のように一旦、全面を大胆に崩してしまう必要がある。
つまり、物事が着実に改善されて行くためにこそ、大幅な換骨奪胎が必要になることが
いくらでもあって、しかもそれが完成の直前まで、大後退の様相を呈したりもする。
世の中の諸問題を解決できるような知見、能力の持ち主がいようとも、
その目的達成の過程においては、いくらでも達成からかえって遠ざかっているような
様相を踏まえねばならないのだが、そんなことがあれば大多数の人々は評価せず、
達成する前から低評価を突き付けて引きずりおろしてしまったりするもの。
だからこそ、人事が専門でもないような一般庶民が人の価値をはかり知って、
達者こそを高位に据えて目的を達成してもらうようなこともままならないわけである。
またスレの主題のほうに話を修正して行くか。
一般庶民が人の価値をはかり知ることなど到底ままならない理由が、
また一つ見つかったんで、それもここに付記しておこう。
画像は、ルービックキューブをそろえて行く過程を矢印で示したもの。
一番上の画像の時ももうほとんど六面揃っていて、
実際にあと一段階の手順を踏むだけで下画のように完全に揃うんだが。
その過程で真ん中の画像のように一旦、全面を大胆に崩してしまう必要がある。
つまり、物事が着実に改善されて行くためにこそ、大幅な換骨奪胎が必要になることが
いくらでもあって、しかもそれが完成の直前まで、大後退の様相を呈したりもする。
世の中の諸問題を解決できるような知見、能力の持ち主がいようとも、
その目的達成の過程においては、いくらでも達成からかえって遠ざかっているような
様相を踏まえねばならないのだが、そんなことがあれば大多数の人々は評価せず、
達成する前から低評価を突き付けて引きずりおろしてしまったりするもの。
だからこそ、人事が専門でもないような一般庶民が人の価値をはかり知って、
達者こそを高位に据えて目的を達成してもらうようなこともままならないわけである。
「譬えば山を為すが如し。未だ一簣を成さざるも、止むは吾が止むなり」
「たとえば山を作るにしても、最後の一盛りを欠いたならば、それでもう失敗なのだ」
(子罕第九・一九より)
という論語の言葉なども、完成の瞬間まで大いなる後退の試練が
待ち受け続けている、大道への求道の真相を説いたものだといえる。
第一にはもちろん、実際に求道に取り組む者たちへの心がまえを説いた言葉ではあるが、
同時に、本物の求道者ほど山あり谷ありの道のりを突き進み続けるが故に、
漸次、目に見えての向上、改善ばかりを積み重ねているとは限らないから、
その姿をど素人の他者などが評価することもままならない法則の提示でもあるといえる。
逆に、子供でもちょっと頑張れば上達できるような小道などのほうが、
そういった誰にでも目に見えて分かるような進歩向上続きでいられるもので、だからこそ
その手の小道通いに終始するような小人ばかりが一般からは評価される、などということにもなる。
「たとえば山を作るにしても、最後の一盛りを欠いたならば、それでもう失敗なのだ」
(子罕第九・一九より)
という論語の言葉なども、完成の瞬間まで大いなる後退の試練が
待ち受け続けている、大道への求道の真相を説いたものだといえる。
第一にはもちろん、実際に求道に取り組む者たちへの心がまえを説いた言葉ではあるが、
同時に、本物の求道者ほど山あり谷ありの道のりを突き進み続けるが故に、
漸次、目に見えての向上、改善ばかりを積み重ねているとは限らないから、
その姿をど素人の他者などが評価することもままならない法則の提示でもあるといえる。
逆に、子供でもちょっと頑張れば上達できるような小道などのほうが、
そういった誰にでも目に見えて分かるような進歩向上続きでいられるもので、だからこそ
その手の小道通いに終始するような小人ばかりが一般からは評価される、などということにもなる。
戦国時代に試みられた数々のいくさと比べても、
天下泰平の機縁となった関ヶ原や大阪の陣こそがより絶大な最終決戦となったように、
むしろ最後の最後で最大級の苦難が待ち受けている、なんてこともいくらでもある。
戦国期の戦いは諸国の局地的な争いなれども、
天下分け目の大いくさとなれば、全国を二分する連合勢力同士の大決戦となるわけで、
そこで最大級の争乱が招かれるのは、完全に必然的なことでもあった。
そこまで辛抱強く家康公に同道した家臣や諸大名もいれば、小早川のように日和見の末、
ようよう味方になった者もあり、もちろん最後まで敵対し抜いた者たちも相当数いた。
今から見た後出しジャンケンでは、早く随順しておけばおくほど良かったというしかないが、
未然の真っ最中においてはそうも行かず、どうしてあんなタヌキ爺などに従える者かと、
高を括っていたような者たちが位の上下を問わず多くいて、大坂城に集っていたのである。
徳川という勝ち馬に乗れた側もまた、恣意で支持したなんて人間は少数派なぐらいで、
ほとんどは成り行きや敗戦からの屈従をきっかけとしたもの。それほどにも、
真の大丈夫が本物の偉業を果たす時に、適当に支持できるような人間などいないもの。
それと同等以上の偉業などが、選挙政治などで実現される可能性もまた、当然ないのである。
大用現前、軌則を存ぜぬが故に、何事も自分の思い通りばかりであってほしい小市民ほど、
そこで的確な判断からの然るべき相手への支持などを試みることも能わないのだから。
天下泰平の機縁となった関ヶ原や大阪の陣こそがより絶大な最終決戦となったように、
むしろ最後の最後で最大級の苦難が待ち受けている、なんてこともいくらでもある。
戦国期の戦いは諸国の局地的な争いなれども、
天下分け目の大いくさとなれば、全国を二分する連合勢力同士の大決戦となるわけで、
そこで最大級の争乱が招かれるのは、完全に必然的なことでもあった。
そこまで辛抱強く家康公に同道した家臣や諸大名もいれば、小早川のように日和見の末、
ようよう味方になった者もあり、もちろん最後まで敵対し抜いた者たちも相当数いた。
今から見た後出しジャンケンでは、早く随順しておけばおくほど良かったというしかないが、
未然の真っ最中においてはそうも行かず、どうしてあんなタヌキ爺などに従える者かと、
高を括っていたような者たちが位の上下を問わず多くいて、大坂城に集っていたのである。
徳川という勝ち馬に乗れた側もまた、恣意で支持したなんて人間は少数派なぐらいで、
ほとんどは成り行きや敗戦からの屈従をきっかけとしたもの。それほどにも、
真の大丈夫が本物の偉業を果たす時に、適当に支持できるような人間などいないもの。
それと同等以上の偉業などが、選挙政治などで実現される可能性もまた、当然ないのである。
大用現前、軌則を存ぜぬが故に、何事も自分の思い通りばかりであってほしい小市民ほど、
そこで的確な判断からの然るべき相手への支持などを試みることも能わないのだから。
そうだな、虻蜂取らず、二兎一兎的な背伸びによる低迷を
来たしていると誤解して、評価できないような場合もあるだろう。
今の俺もまだまだ、天下を取った時の家康公より年下ではあるが、
それでも、もう伸びしろがないかのように決めつけて諦めを促す者もいる。
キャリアハイがおおむね10代や20代にやってくる、
スポーツやアイドルにでも入れ込んでれば、なおのことそう考えてしまう。
単純な体力はおろか、思考力もまた25歳あたりがピークとなるために、
数学やプロ将棋などでも若者が年寄りより活躍するような傾向があるが。
技術力は年を重ねるごとに向上し続ける上に、心技体の総合的な能力の上達
となれば、これまた死ぬまで進歩向上を続けて行けるのが人間であるわけだが。
複数の波形を複合すれば、どんどん複雑な形状の波形へと様変わりするように、
心技体の総合的な進歩向上などもまた、より複雑怪奇な紆余曲折がなくては済まなくなる。
そこで悪戦苦闘、七転び八起きするのはもはや規定事項といっても過言ではなく、
(数学的にも事実だから、ルービックキューブの解法などにも同様な傾向がある)
そこに虻蜂取らずのようなレッテルが貼られたりするようならば、偉大なる求道の、
人からの支持を取り付けながらの達成などもあり得ない。そしてそれはほぼ人の常でもある。
来たしていると誤解して、評価できないような場合もあるだろう。
今の俺もまだまだ、天下を取った時の家康公より年下ではあるが、
それでも、もう伸びしろがないかのように決めつけて諦めを促す者もいる。
キャリアハイがおおむね10代や20代にやってくる、
スポーツやアイドルにでも入れ込んでれば、なおのことそう考えてしまう。
単純な体力はおろか、思考力もまた25歳あたりがピークとなるために、
数学やプロ将棋などでも若者が年寄りより活躍するような傾向があるが。
技術力は年を重ねるごとに向上し続ける上に、心技体の総合的な能力の上達
となれば、これまた死ぬまで進歩向上を続けて行けるのが人間であるわけだが。
複数の波形を複合すれば、どんどん複雑な形状の波形へと様変わりするように、
心技体の総合的な進歩向上などもまた、より複雑怪奇な紆余曲折がなくては済まなくなる。
そこで悪戦苦闘、七転び八起きするのはもはや規定事項といっても過言ではなく、
(数学的にも事実だから、ルービックキューブの解法などにも同様な傾向がある)
そこに虻蜂取らずのようなレッテルが貼られたりするようならば、偉大なる求道の、
人からの支持を取り付けながらの達成などもあり得ない。そしてそれはほぼ人の常でもある。
手先、足先だけを駆使する運動よりも全身を使った運動のほうが、
表層筋だけの運動よりも深層筋まで使う運動のほうが底力が発揮される代わりに、
そのような運動能力を鍛えるための修練にも多大なる困難が伴う。
単純に、鍛錬後の疲労が些末な表層だけの運動と比べて段違いであるために、
人並み以上に長く深い睡眠や、よく栄養バランスを考えた食事などによる
アフターケアに勤めるのでなければ、いつまでも回復すらままならないようにもなる。
特に、前後左右上下内外本末といった体の対称バランスを変えてしまうような
運動はあまりにもの大損耗を伴うことから、今のスポーツ界でも禁忌とされており、
生まれつきの身体バランスに恵まれないような人間が後天的な修練によって、
生来恵まれている人間の上を行くような選択肢も全く絶たれているわけだが。
古流の武芸や瑜伽行などではそれも一つの選択肢とされて整備されているが故に、
やり方を間違えると命も落としかねないほどの危険性を帯びている代わりに、
達成すらすればスポーツなどとは比べ物にならないほどの効験が期待できるものでもある。
大道ほど、求道者に大いなる後退を強いながらの大成を強いる事例には、
かようなものもまたあり、社会的な外面性から個人的な内面性に至るまで、
どこにでも遍在している法則であるが故に、そういうものをナシとする逃げ場もないのである。
表層筋だけの運動よりも深層筋まで使う運動のほうが底力が発揮される代わりに、
そのような運動能力を鍛えるための修練にも多大なる困難が伴う。
単純に、鍛錬後の疲労が些末な表層だけの運動と比べて段違いであるために、
人並み以上に長く深い睡眠や、よく栄養バランスを考えた食事などによる
アフターケアに勤めるのでなければ、いつまでも回復すらままならないようにもなる。
特に、前後左右上下内外本末といった体の対称バランスを変えてしまうような
運動はあまりにもの大損耗を伴うことから、今のスポーツ界でも禁忌とされており、
生まれつきの身体バランスに恵まれないような人間が後天的な修練によって、
生来恵まれている人間の上を行くような選択肢も全く絶たれているわけだが。
古流の武芸や瑜伽行などではそれも一つの選択肢とされて整備されているが故に、
やり方を間違えると命も落としかねないほどの危険性を帯びている代わりに、
達成すらすればスポーツなどとは比べ物にならないほどの効験が期待できるものでもある。
大道ほど、求道者に大いなる後退を強いながらの大成を強いる事例には、
かようなものもまたあり、社会的な外面性から個人的な内面性に至るまで、
どこにでも遍在している法則であるが故に、そういうものをナシとする逃げ場もないのである。
試行錯誤や厳しい鍛錬のせいで、時に大後退や大損耗を来たしてしまうような求道的試みなどは、
自分がやるのはおろか、そういうことに取り組んでいる人々を他力本願的に尊ぶことすら
疎ましくて忌まわしく思ってしまうような人間が、現代社会の大多数ともなっている。
求道者を尊ぶのなら、そこにまで及ばない自分自身の立場の低さをわきまえて小さくなってる
必要までもが出てくるために、それを受け入れられない思い上がりのあまりに、
求道性によって大いなる成果を挙げるような人間を外的に尊ぶことすら務まらないままに終わる。
そういう相手が大成の直前まで、人並み以上に後退しての悪戦苦闘に苛まれていたりするようなら、
「それ見たことかw」と鬼の首を取ったように囃し立て、やっぱりそんなものは人間があえて
取り組んで行くべき選択肢などではないのだと、自己正当化のさらなる重畳にも取り組むものである。
そんな連中が票を入れる選挙の立候補者などもまた、当然求道者未満に限られて、
大いなる困難が伴う仁政への取り組みなど当然のように疎かにした上での、私利私益の貪りばかりに
走るのが常套ともなる。どこにも不可思議要素などない、確かな原因があっての結果なのである。
自分がやるのはおろか、そういうことに取り組んでいる人々を他力本願的に尊ぶことすら
疎ましくて忌まわしく思ってしまうような人間が、現代社会の大多数ともなっている。
求道者を尊ぶのなら、そこにまで及ばない自分自身の立場の低さをわきまえて小さくなってる
必要までもが出てくるために、それを受け入れられない思い上がりのあまりに、
求道性によって大いなる成果を挙げるような人間を外的に尊ぶことすら務まらないままに終わる。
そういう相手が大成の直前まで、人並み以上に後退しての悪戦苦闘に苛まれていたりするようなら、
「それ見たことかw」と鬼の首を取ったように囃し立て、やっぱりそんなものは人間があえて
取り組んで行くべき選択肢などではないのだと、自己正当化のさらなる重畳にも取り組むものである。
そんな連中が票を入れる選挙の立候補者などもまた、当然求道者未満に限られて、
大いなる困難が伴う仁政への取り組みなど当然のように疎かにした上での、私利私益の貪りばかりに
走るのが常套ともなる。どこにも不可思議要素などない、確かな原因があっての結果なのである。
実際問題、過程においても大損耗、大後退を来たしながら、
その先においても何の救いもない破滅ばかりが待っている、
なんていう残酷無残極まるお手並みもまたこの世には実在する。
物価高、低賃金の上での大増税とかいう、
全身大火傷に死海の超高濃縮塩水を浴びせかけるような真似を
繰り返している今の日本の政治なども、まさにその典型である。
生来、付き従う主人を欲する女たちの性分を蔑ろにしたまま、
女性の独立、社会進出などを大胆に推し進めた結果、
拠り所のなさのせいで多くの女たちがヒスの鬼婆化していたりするのも同様。
目的のための手段が、目的から一時的には遠ざかるような痛みを伴うこともあれど、
そもそも手段が間違っているせいで、金輪際永遠に目的の達成から
遠ざかり続けることしかできないようなドツボにはまるのとは全くの別物である。
今の日本政府も、痛みを伴うような求道性の価値を否定しているような
一般庶民からの支持によって存続しているからには、そのドツボはむしろ、
着実な求道性から遠ざかろうとした所にこそ待ち受けているものだと知るべきなのである。
その先においても何の救いもない破滅ばかりが待っている、
なんていう残酷無残極まるお手並みもまたこの世には実在する。
物価高、低賃金の上での大増税とかいう、
全身大火傷に死海の超高濃縮塩水を浴びせかけるような真似を
繰り返している今の日本の政治なども、まさにその典型である。
生来、付き従う主人を欲する女たちの性分を蔑ろにしたまま、
女性の独立、社会進出などを大胆に推し進めた結果、
拠り所のなさのせいで多くの女たちがヒスの鬼婆化していたりするのも同様。
目的のための手段が、目的から一時的には遠ざかるような痛みを伴うこともあれど、
そもそも手段が間違っているせいで、金輪際永遠に目的の達成から
遠ざかり続けることしかできないようなドツボにはまるのとは全くの別物である。
今の日本政府も、痛みを伴うような求道性の価値を否定しているような
一般庶民からの支持によって存続しているからには、そのドツボはむしろ、
着実な求道性から遠ざかろうとした所にこそ待ち受けているものだと知るべきなのである。
比較的、男よりも女人気の高い現代ヨガでも、
ちゃんとしている所は、男にしか出来ない域の求道性も尊重して、
そういうものは女まで無理にやったりしないように取り決めるなどしている。
それは確かに男尊女卑的な取り決めだから、
近来のフェミニズムに囚われた女などの中にはその手のヨガ流派を嫌い、
女こそを最上級のヨガ行者として崇め立てるような所に傾倒したがる。
しかし、そんな流派ほどもれなくカルトの巣窟で、
女でもできるような低級な技法だけやって高い参加費を取るか、
もしくは無理なことまでやらせて寿命を縮めさせるようなことばかりやっている。
本物の求道性を尊べないがあまりに、我が身を滅ぼしかねないような
まがい物、ならず者の部類ばかりを引き寄せてしまう。そんなドツボに
はまらないためにこそ、自ら本格の求道に及んだりしない内からでも、
自分以上の存在を想定して尊べるような恭しさは養っておくべきなのである。
ちゃんとしている所は、男にしか出来ない域の求道性も尊重して、
そういうものは女まで無理にやったりしないように取り決めるなどしている。
それは確かに男尊女卑的な取り決めだから、
近来のフェミニズムに囚われた女などの中にはその手のヨガ流派を嫌い、
女こそを最上級のヨガ行者として崇め立てるような所に傾倒したがる。
しかし、そんな流派ほどもれなくカルトの巣窟で、
女でもできるような低級な技法だけやって高い参加費を取るか、
もしくは無理なことまでやらせて寿命を縮めさせるようなことばかりやっている。
本物の求道性を尊べないがあまりに、我が身を滅ぼしかねないような
まがい物、ならず者の部類ばかりを引き寄せてしまう。そんなドツボに
はまらないためにこそ、自ら本格の求道に及んだりしない内からでも、
自分以上の存在を想定して尊べるような恭しさは養っておくべきなのである。
???「近ごろわれらが真の両親、マザームーンや喜多川先生への糾弾がひどいが、何とかできないものか」
???「ビッグモーターという中古車屋風情がですね、我々や創価公明へのお伺いもろくに立てずに、
社長のワンマン経営で荒稼ぎしてるようですので、こいつを槍玉に挙げて誤魔化しましょう!」
この間、自分たちの大口顧客であるトヨタ様も似たようなことをやってないかを確認しようとする者も、
ただの一人もナシ。問題発覚後間もなく>>230の時点でその可能性を察知していた俺よりも明らかに、
洞察力に欠けるような連中しかいないのがおまえらなんじゃないか?
まあ、そういう連中ばかりをあえて集めて走狗化して来たんだろうがなあ。
???「ビッグモーターという中古車屋風情がですね、我々や創価公明へのお伺いもろくに立てずに、
社長のワンマン経営で荒稼ぎしてるようですので、こいつを槍玉に挙げて誤魔化しましょう!」
この間、自分たちの大口顧客であるトヨタ様も似たようなことをやってないかを確認しようとする者も、
ただの一人もナシ。問題発覚後間もなく>>230の時点でその可能性を察知していた俺よりも明らかに、
洞察力に欠けるような連中しかいないのがおまえらなんじゃないか?
まあ、そういう連中ばかりをあえて集めて走狗化して来たんだろうがなあ。
世襲によるサラブレッド化によってまで、生粋の凡愚としての性分を
高め抜くことで、マザームーンや喜多川先生ェに臣従して来たおまえらよりも、
次代を担う者たちが有能でなければならないのはもちろんのことだが。
さりとて、東条英機や近衛文麿並みであればいいわけでもないし、
そうなってしまうことこそが、革命後の日本において最も懸念されることでもあろう。
無能なりに他力本願であった所から、
さほどの有能でもないのに自力本位へと乗り換えられる恐怖。
もちろん近衛や東条にも天皇陛下への臣従意識はあったろうけれども、
完全にお飾り扱いで、実務は自分たちが取り仕切るものだと決め込んでいた。
さほどの見識があるわけでもないのに、自分でどうにかしなければならない義務感に
駆られたが故の、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」のごときイキリ回り。
そのレベルの人種なぞに政権を明け渡すぐらいなら、それなりの後ろ盾がいる
自分たちがその立場でいるほうがマシだとおまえらが考えるのも自然なこと。
その「後ろ盾」が限界を来たすまでは、それでいいのである。
高め抜くことで、マザームーンや喜多川先生ェに臣従して来たおまえらよりも、
次代を担う者たちが有能でなければならないのはもちろんのことだが。
さりとて、東条英機や近衛文麿並みであればいいわけでもないし、
そうなってしまうことこそが、革命後の日本において最も懸念されることでもあろう。
無能なりに他力本願であった所から、
さほどの有能でもないのに自力本位へと乗り換えられる恐怖。
もちろん近衛や東条にも天皇陛下への臣従意識はあったろうけれども、
完全にお飾り扱いで、実務は自分たちが取り仕切るものだと決め込んでいた。
さほどの見識があるわけでもないのに、自分でどうにかしなければならない義務感に
駆られたが故の、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」のごときイキリ回り。
そのレベルの人種なぞに政権を明け渡すぐらいなら、それなりの後ろ盾がいる
自分たちがその立場でいるほうがマシだとおまえらが考えるのも自然なこと。
その「後ろ盾」が限界を来たすまでは、それでいいのである。
喜多川先生ェが「真のお父様」なのはジャニタレ限定だろうし、
おまえらにとっては「真の叔父様」あたりかな。文鮮よりは年下だし。
こいつが何を武器にしてたのかというに、要するに「気違い」だわな。
CIA謹製の街宣右翼が、菊のご紋を掲げながらの気違いじみたほたえまわりによって、
人々の皇室や右翼への忌避意識を募らせていたがごとく、こいつの気違いそのものな
振舞いこそが芸能界参画の関門となることで、名声利権の寡占の一大立役者になっていた。
きたねえジジイにしゃぶられて掘られるのでもなければ男性アイドルとしての大成の余地がない。
それが全国放送の莫大な収益をごく一部の眷属だけで食い物にし続けるための礎に
なってくれて来たからこそ、ジャニタレに限らぬ数多のメディア関係者が忖度を欠かさないで来た。
そしてそれは、凶悪犯罪としての側面もまた間違いなく帯びていた。
国家規模の絶大利権の寡占による虚栄のためには、犯罪級の悪行もまた欠かせぬという証左。
つまり、そんな蜜壺なぞがこの世に現存すること自体が罪悪以外の何物でもないのである。
おまえらにとっては「真の叔父様」あたりかな。文鮮よりは年下だし。
こいつが何を武器にしてたのかというに、要するに「気違い」だわな。
CIA謹製の街宣右翼が、菊のご紋を掲げながらの気違いじみたほたえまわりによって、
人々の皇室や右翼への忌避意識を募らせていたがごとく、こいつの気違いそのものな
振舞いこそが芸能界参画の関門となることで、名声利権の寡占の一大立役者になっていた。
きたねえジジイにしゃぶられて掘られるのでもなければ男性アイドルとしての大成の余地がない。
それが全国放送の莫大な収益をごく一部の眷属だけで食い物にし続けるための礎に
なってくれて来たからこそ、ジャニタレに限らぬ数多のメディア関係者が忖度を欠かさないで来た。
そしてそれは、凶悪犯罪としての側面もまた間違いなく帯びていた。
国家規模の絶大利権の寡占による虚栄のためには、犯罪級の悪行もまた欠かせぬという証左。
つまり、そんな蜜壺なぞがこの世に現存すること自体が罪悪以外の何物でもないのである。
ジャニーズ以前に、野球興行なり美空ひばりなり某演歌歌手その他と、
芸能界と暴力団の癒着もまた長らく問題となって来たものだが。
ごく一部の派閥によるメディア利権の寡占のためには結局、
暴力団か否かに関わらず非合法的な手管を介さねば済まないのが実情であった。
欧米でもMeeToo運動などで、芸能利権にからむ枕営業系のハラスメントが
糾弾の対象となり始めてからすでに久しいが、その結果来たしたのも結局、
日本のアニメやゲームにまで人気で抜かれてしまうほどの、業界全体の低迷だった。
本当に完全な実力主義で、人々を真に楽しませられる者が、その領分に相応の
名声を博するのであれば、そんなタコツボ利権の無理な保護なども必要ないのだが。
全国規模のメディア利権を捧げるにも値するほどの芸能的実力者などは実際問題、
人間社会にはほぼ存在しないのが真相であるが故に、不正な寡占の試みが繰り返されて来た。
芸能界と暴力団の癒着もまた長らく問題となって来たものだが。
ごく一部の派閥によるメディア利権の寡占のためには結局、
暴力団か否かに関わらず非合法的な手管を介さねば済まないのが実情であった。
欧米でもMeeToo運動などで、芸能利権にからむ枕営業系のハラスメントが
糾弾の対象となり始めてからすでに久しいが、その結果来たしたのも結局、
日本のアニメやゲームにまで人気で抜かれてしまうほどの、業界全体の低迷だった。
本当に完全な実力主義で、人々を真に楽しませられる者が、その領分に相応の
名声を博するのであれば、そんなタコツボ利権の無理な保護なども必要ないのだが。
全国規模のメディア利権を捧げるにも値するほどの芸能的実力者などは実際問題、
人間社会にはほぼ存在しないのが真相であるが故に、不正な寡占の試みが繰り返されて来た。
江戸時代の歌舞伎や文楽、落語のような大衆芸能にしたって、
江戸や上方、地方などでそれぞれの流派が興隆しての盛況を博していたのだが、
今やほぼ全ての芸能利権が東京への一極集中となり、全国放送に出演できるタレントと、
地方止まりのそれとの間には極端な格差が遍在するようになっているのである。
(大泉洋などもあくまで成り上がりの落差があった上での持て囃しである)
そこではどうあっても、身の丈に合わないような名声を博しているが故の、
虚栄の空しさを無理にでも守護してやるための後ろ盾が必要となるのであり、
それが非合法級に後ろ暗い側面を帯びるのもまた、必然なわけである。
近代以降の日本社会はそれ以前と比べて、過度の東京一極集中が何かにかけて
試みられた時代であるために、芸能メディアに限らず、政府機構そのものもまた、
日本全土を統治する能力も資格もないような匹夫小人を国会議員級の上座に据える
暴挙の遂行のために、カルト教団による支援のような闇を帯びざるを得なかった。
全ては相応な原因があった上での必然的な結果に過ぎないのであり、その解消のためには、
誰もその責任を取れない強度の一極集中そのものにメスを入れねばならないのである。
江戸や上方、地方などでそれぞれの流派が興隆しての盛況を博していたのだが、
今やほぼ全ての芸能利権が東京への一極集中となり、全国放送に出演できるタレントと、
地方止まりのそれとの間には極端な格差が遍在するようになっているのである。
(大泉洋などもあくまで成り上がりの落差があった上での持て囃しである)
そこではどうあっても、身の丈に合わないような名声を博しているが故の、
虚栄の空しさを無理にでも守護してやるための後ろ盾が必要となるのであり、
それが非合法級に後ろ暗い側面を帯びるのもまた、必然なわけである。
近代以降の日本社会はそれ以前と比べて、過度の東京一極集中が何かにかけて
試みられた時代であるために、芸能メディアに限らず、政府機構そのものもまた、
日本全土を統治する能力も資格もないような匹夫小人を国会議員級の上座に据える
暴挙の遂行のために、カルト教団による支援のような闇を帯びざるを得なかった。
全ては相応な原因があった上での必然的な結果に過ぎないのであり、その解消のためには、
誰もその責任を取れない強度の一極集中そのものにメスを入れねばならないのである。
ロンドンに突如、「民主」「自由」「平等」など"中国政権のスローガン"落書き現れ…波紋広がる
https://news.yahoo.co.jp/articles/7af418a95bdd1f4330dc3...
>白く塗りつぶされ、中国の"民主"化を求める活動家がメッセージを上書き
あいつらも民主、おまえらも民主、そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!
違うのは、王族級の大権を掌握した資本家の介在を認めてるか否かだけだ!
もちろん認めなかった所で、上位の共産党員などがその立場に成り代わるだけだし、
体制をどんな体裁に塗り替えた所で、利権の一極集中が行き過ぎるようなら同じことにしかならんのだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7af418a95bdd1f4330dc3...
>白く塗りつぶされ、中国の"民主"化を求める活動家がメッセージを上書き
あいつらも民主、おまえらも民主、そこになんの違いもありゃしねぇだろうが!
違うのは、王族級の大権を掌握した資本家の介在を認めてるか否かだけだ!
もちろん認めなかった所で、上位の共産党員などがその立場に成り代わるだけだし、
体制をどんな体裁に塗り替えた所で、利権の一極集中が行き過ぎるようなら同じことにしかならんのだ。
M坊だけでなく、同世代らしい別のコテハンも寝てない自慢、
悪い奴ほどよく眠る系の既成概念に囚われた絡みを試みてきよる。
ひょっとしてそれが、バブル世代に早死にが多い一番の原因にもなっていやしないか?
睡眠不足が祟っての健康被害っていうのは、それこそ因果の多重性を介する
最たる疾患作用でもあるものだから、現代医学によってはそのほとんどが
迷信扱いに付されて、まともな注意の対象ともされないことになるわけだが。
もうすでに手遅れな域に達しているジジババばかりとなってしまっているが故に、
今更おまえの忠言などに耳を貸してたまるか、40年遅いわ!という意気込みのもと、
完全誤謬を開き直った俺への妄撃にも及んでいるのかもしれんなあ。なむあみだぶつ人
悪い奴ほどよく眠る系の既成概念に囚われた絡みを試みてきよる。
ひょっとしてそれが、バブル世代に早死にが多い一番の原因にもなっていやしないか?
睡眠不足が祟っての健康被害っていうのは、それこそ因果の多重性を介する
最たる疾患作用でもあるものだから、現代医学によってはそのほとんどが
迷信扱いに付されて、まともな注意の対象ともされないことになるわけだが。
もうすでに手遅れな域に達しているジジババばかりとなってしまっているが故に、
今更おまえの忠言などに耳を貸してたまるか、40年遅いわ!という意気込みのもと、
完全誤謬を開き直った俺への妄撃にも及んでいるのかもしれんなあ。なむあみだぶつ人
「寝ない」「エアコン使わない」「神も仏も畏れない」
それこそが精神的に強い、立派な人間のあり方だという、
力道山の猪木へのパワハラを美談扱いしていた世代の固定観念。
そんな連中が管理職を占めて来た、ここ30年来の日本社会がどうなったのかといえば、
知っての通りで、たとえそれが強くて立派なのだろうとも、この世にいらないものである。
無論、そんなのは本物の強さでも何でもない、愚民化洗脳著しい時代の
誤解、誤謬に基づく野卑の正当化に過ぎないのだから、それを強さと相手取っての、
惰弱さの開き直りに及んだりするのもまた禁物であり、そんな真似に及ぶようでは、
旧世代たちと同じ轍を踏むことになってしまうのを警戒すべきなのである。
それこそが精神的に強い、立派な人間のあり方だという、
力道山の猪木へのパワハラを美談扱いしていた世代の固定観念。
そんな連中が管理職を占めて来た、ここ30年来の日本社会がどうなったのかといえば、
知っての通りで、たとえそれが強くて立派なのだろうとも、この世にいらないものである。
無論、そんなのは本物の強さでも何でもない、愚民化洗脳著しい時代の
誤解、誤謬に基づく野卑の正当化に過ぎないのだから、それを強さと相手取っての、
惰弱さの開き直りに及んだりするのもまた禁物であり、そんな真似に及ぶようでは、
旧世代たちと同じ轍を踏むことになってしまうのを警戒すべきなのである。
旧世代には、昔の誤った栄養学的見解を持ち合わせたままでいるような連中も多く、
「タンパク質の多い肉などはスタミナ源」「炭水化物などの糖質が体を大きくしてくれる」
などという、真実とは全く真逆の固定観念によって力士を育成し、若いうちから
糖尿病持ちにさせて平均寿命を数十歳は引き下げるような真似にも及んでいる。
(画像は糖尿病でコロナが悪化して死亡した若手力士)
その過ちの積み重ね具合が、すでに取り返しのつかない域に及んでいるがために、
たとえ今さら過ちに気づこうとも、もはや悔い改めることもできない。
バブル以上の旧世代が既得権益を牛耳っている現状の日本社会もまた、
そのような致命的で取り返しのつかない大過の渦に吞み込まれた状態にあるわけで、
その改善もまた部分的なものでは済まず、総入れ替えに頼る以外に余地はない。
「タンパク質の多い肉などはスタミナ源」「炭水化物などの糖質が体を大きくしてくれる」
などという、真実とは全く真逆の固定観念によって力士を育成し、若いうちから
糖尿病持ちにさせて平均寿命を数十歳は引き下げるような真似にも及んでいる。
(画像は糖尿病でコロナが悪化して死亡した若手力士)
その過ちの積み重ね具合が、すでに取り返しのつかない域に及んでいるがために、
たとえ今さら過ちに気づこうとも、もはや悔い改めることもできない。
バブル以上の旧世代が既得権益を牛耳っている現状の日本社会もまた、
そのような致命的で取り返しのつかない大過の渦に吞み込まれた状態にあるわけで、
その改善もまた部分的なものでは済まず、総入れ替えに頼る以外に余地はない。
相撲に限れば、協会自体を一旦は解散、親方も理事も総辞職させたうえで、
再編に際しても、おかしな栄養知識を持ち越したままでいるような連中は永久追放
なんてことにもなるだろう。それは、大規模な八百長発覚からの大粛清が図られた
12年前の騒動なんかがおままごとに思えてくるぐらいの大変革ともなるだろうし、
失意のままに角界を追われるような人間の数も桁違いとなるのに違いない。
それを、あくまで強行できるだけの辣腕と、犠牲者となった者たちへの出家先の用意
のようなアフターケアにも入念に取り組んで行けるだけの慈悲を共に持ち合わせた者だけが、
それを完遂することもできるだろう。それはある意味、「革命以上」でもなければ
ならないことで、そこにまで視野を広げられるだけの雄大さもまた欠くべからざるものとなる。
フランス革命やロシア革命の先に人々の安寧などなかったが、
乙巳の変や大阪の陣の後にはそれが実現されたのも、革命そのものではなく、
その後の世の中の建て直しのほうがむしろ主眼に置かれていたからである。そのような、
やりっぱなしでは決して済まさない老獪さの持ち主こそが、次代の継承者たるべきなのである。
再編に際しても、おかしな栄養知識を持ち越したままでいるような連中は永久追放
なんてことにもなるだろう。それは、大規模な八百長発覚からの大粛清が図られた
12年前の騒動なんかがおままごとに思えてくるぐらいの大変革ともなるだろうし、
失意のままに角界を追われるような人間の数も桁違いとなるのに違いない。
それを、あくまで強行できるだけの辣腕と、犠牲者となった者たちへの出家先の用意
のようなアフターケアにも入念に取り組んで行けるだけの慈悲を共に持ち合わせた者だけが、
それを完遂することもできるだろう。それはある意味、「革命以上」でもなければ
ならないことで、そこにまで視野を広げられるだけの雄大さもまた欠くべからざるものとなる。
フランス革命やロシア革命の先に人々の安寧などなかったが、
乙巳の変や大阪の陣の後にはそれが実現されたのも、革命そのものではなく、
その後の世の中の建て直しのほうがむしろ主眼に置かれていたからである。そのような、
やりっぱなしでは決して済まさない老獪さの持ち主こそが、次代の継承者たるべきなのである。
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スレッドタイトル:己が「人を見る目」だけは疑わぬ人々