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この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である 偉大なる生存の報告 Part313
▼ページ最下部
思想哲学宗教一般としては、仏教などのほうが優れた側面があるし、
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
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ビルゲイツ「インターネットは世界を合理的にすると思ったが実際は変人の溜まり場になった」
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
「デジタルデトックス」などといって、一定期間ITから距離を置く習慣を身に付けるのが
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
デジタルデトックスにそれなりの求道性を持たせることもまた、
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
ただ、やはり簡単とまでは行かない。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
だいたいが、カルトやカルト的なセミナーほど、まず女を釣ってかかるという特徴もある。
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
[YouTubeで再生]
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
[YouTubeで再生]
合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
ほとんどの現代人は、自分たちがそのような精神的身体的な劣化工作の被害下にあることに
気付いてすらおらず、文武両道の取り組みが苦手なのも生まれ持っての性分だなどと思い込み、
そんな自分の正当化のために、文武両道なんて大した価値がないなどとすら決めつけてかかる。
世の中全体への、特定の思想信条による征服支配は、別にナチスのように明示的なものとは限らない。
むしろ知らず知らずのうちからそこにからめ取られている場合がほとんどであり、自分ではそんな
干渉も受けずに自由に振舞っているつもりでいながら、多くの良質な選択肢を取り上げられての、
ほとんど一つか二つだけの最低劣な領域にのみくすぶり続けることを強いられていたりするもの。
つまり、「偽りの無為自然による統治」というものもこの世にはいくらでも実在するものであり、
まるで人々になんらの拘束、干渉もしていないような風でいながら、その実徹底的な洗脳支配下に
置いてしまうといった部類の作為までをも排することで初めて、真の無為自然による統治ともなる。
太古の昔から、それはやはり世の中の支配層が自主的に心がけるのでなければまず不可能なことで、
所詮は深くものを考える余裕もなくあくせくと働かされる人生を送らされるしかない被治民などに、
選挙権を与えてまで実現を促したところで、決して実現されるようなことはないものなのである。
気付いてすらおらず、文武両道の取り組みが苦手なのも生まれ持っての性分だなどと思い込み、
そんな自分の正当化のために、文武両道なんて大した価値がないなどとすら決めつけてかかる。
世の中全体への、特定の思想信条による征服支配は、別にナチスのように明示的なものとは限らない。
むしろ知らず知らずのうちからそこにからめ取られている場合がほとんどであり、自分ではそんな
干渉も受けずに自由に振舞っているつもりでいながら、多くの良質な選択肢を取り上げられての、
ほとんど一つか二つだけの最低劣な領域にのみくすぶり続けることを強いられていたりするもの。
つまり、「偽りの無為自然による統治」というものもこの世にはいくらでも実在するものであり、
まるで人々になんらの拘束、干渉もしていないような風でいながら、その実徹底的な洗脳支配下に
置いてしまうといった部類の作為までをも排することで初めて、真の無為自然による統治ともなる。
太古の昔から、それはやはり世の中の支配層が自主的に心がけるのでなければまず不可能なことで、
所詮は深くものを考える余裕もなくあくせくと働かされる人生を送らされるしかない被治民などに、
選挙権を与えてまで実現を促したところで、決して実現されるようなことはないものなのである。
洋学やスポーツ振興による文武分裂の文化的退廃は、
日本だと近代以降、すでに150年以上も続いて来たことであり、
もはや誰しもが生まれた頃にはすでに深刻化していたものである。
それ以前に振興されていたような、文武両道の良質な運動文化や学問文化に
深く親しんだ上で、それらが長年にわたって妨害による凋落を被って来たことまでをも、
歴史の研究などで突き詰めることで初めて、劣悪な運動や学術による文武分裂の
文化退廃に歯止めをかけて行ける人材としての、自らの準備もまた初めて整うもの。
そんなことは、少なくとも世の中の大多数の人間に務まることではないし、
最大級にその機会に恵まれた人間が、有志としての気概を最大限に増幅させることで、
やっと務まるかどうかといった所だし、多数決の選挙などがその助けになることももちろんあり得ない。
要するに、乱世における自力での反正などはまず不可能に等しいことであり、
乱世のほうが「もうこんなのイヤだ!」と音を上げて縋り付いてくる所からぐらいしか、
腐敗を極めた時代の転換というのもあり得ないこと、というわけである。
日本だと近代以降、すでに150年以上も続いて来たことであり、
もはや誰しもが生まれた頃にはすでに深刻化していたものである。
それ以前に振興されていたような、文武両道の良質な運動文化や学問文化に
深く親しんだ上で、それらが長年にわたって妨害による凋落を被って来たことまでをも、
歴史の研究などで突き詰めることで初めて、劣悪な運動や学術による文武分裂の
文化退廃に歯止めをかけて行ける人材としての、自らの準備もまた初めて整うもの。
そんなことは、少なくとも世の中の大多数の人間に務まることではないし、
最大級にその機会に恵まれた人間が、有志としての気概を最大限に増幅させることで、
やっと務まるかどうかといった所だし、多数決の選挙などがその助けになることももちろんあり得ない。
要するに、乱世における自力での反正などはまず不可能に等しいことであり、
乱世のほうが「もうこんなのイヤだ!」と音を上げて縋り付いてくる所からぐらいしか、
腐敗を極めた時代の転換というのもあり得ないこと、というわけである。
橋下徹氏大ケガ 宮根誠司と吉村知事とトレーニングした際に…「50歳を過ぎて調子に乗らないように」
https://news.yahoo.co.jp/articles/3936a48bfeb98f8295703...
この男が大阪府政の改革時に、公営の合気道クラブの存続に難色を示していたのもよく覚えてる。
60、70でもピョンピョン飛び回ってる人たちがいくらでもいる運動クラブに対して、
「なんでこんなものを公費でやらなきゃいけないのか」と。そんな無理解の結果が、
おそらくは医療費の公費負担にも頼っての大怪我の治療であったと。
紛れもなくこの男の信条でもある法治主義と、古流の武芸のような文武両道の運動もまた、非常に相性が悪い。
なぜかというに、ただのスポーツや筋トレはほぼ何も考えずに体を動かすだけだが、武芸は頭も使う上に、
臨機応変に体の使い方を変化させて行く工夫もまた上達のために必要となるから。成文化された法律を
杓子定規に守ってさえいればそれでヨシ!というような怠惰性で凝り固まってしまっているような
者にとっては、並みの人間以上に苦手極まる分野となってしまうものなのである。
ただ、その工夫に工夫を重ねて行く運動こそが60、70の老人にも壮健な運動能力を保たせる一方、
ただの筋トレやスポーツは50やそこらの若僧にも大怪我を負わせるほどの不合理性を帯びている。
文武両道の工夫など到底務まらない心の怠惰の亡者にとってのみ、そうでしかあり得ないだけで、
人間たるもの、本当はそんな低い所ばかりにくすぶってしかいられない生き物ではないのである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3936a48bfeb98f8295703...
この男が大阪府政の改革時に、公営の合気道クラブの存続に難色を示していたのもよく覚えてる。
60、70でもピョンピョン飛び回ってる人たちがいくらでもいる運動クラブに対して、
「なんでこんなものを公費でやらなきゃいけないのか」と。そんな無理解の結果が、
おそらくは医療費の公費負担にも頼っての大怪我の治療であったと。
紛れもなくこの男の信条でもある法治主義と、古流の武芸のような文武両道の運動もまた、非常に相性が悪い。
なぜかというに、ただのスポーツや筋トレはほぼ何も考えずに体を動かすだけだが、武芸は頭も使う上に、
臨機応変に体の使い方を変化させて行く工夫もまた上達のために必要となるから。成文化された法律を
杓子定規に守ってさえいればそれでヨシ!というような怠惰性で凝り固まってしまっているような
者にとっては、並みの人間以上に苦手極まる分野となってしまうものなのである。
ただ、その工夫に工夫を重ねて行く運動こそが60、70の老人にも壮健な運動能力を保たせる一方、
ただの筋トレやスポーツは50やそこらの若僧にも大怪我を負わせるほどの不合理性を帯びている。
文武両道の工夫など到底務まらない心の怠惰の亡者にとってのみ、そうでしかあり得ないだけで、
人間たるもの、本当はそんな低い所ばかりにくすぶってしかいられない生き物ではないのである。
ただ、やはり今の日本全体もまた法治主義だから、
橋下と同じような精神の怠慢を帯びてしまっているが故に、
人間としての可能性を無駄に引き下げてしまっているような人間も非常に多いわけである、
徳治主義の江戸時代などにももちろん法律はあったし、
「十両盗めば斬首」のように、今以上にその取り決めもまた厳酷であったわけだが、
さりとて当時は「法治主義」というものを国是として掲げていた世の中ではなかったから、
そんな状態ならではの怠惰性などが人々に植え付けられるようなこともなく、
誰しもが法律頼みではない工夫、工夫の積み重ねによって社会を営んでいたのである。
確かにそこには、公衆浴場での混浴を何度取り締まってもいつの間にか再開されてるような不法性
もまたそれなりに帯びていたのだが、それ以上に「法律以上」たるための精進もまた多かったのである。
橋下と同じような精神の怠慢を帯びてしまっているが故に、
人間としての可能性を無駄に引き下げてしまっているような人間も非常に多いわけである、
徳治主義の江戸時代などにももちろん法律はあったし、
「十両盗めば斬首」のように、今以上にその取り決めもまた厳酷であったわけだが、
さりとて当時は「法治主義」というものを国是として掲げていた世の中ではなかったから、
そんな状態ならではの怠惰性などが人々に植え付けられるようなこともなく、
誰しもが法律頼みではない工夫、工夫の積み重ねによって社会を営んでいたのである。
確かにそこには、公衆浴場での混浴を何度取り締まってもいつの間にか再開されてるような不法性
もまたそれなりに帯びていたのだが、それ以上に「法律以上」たるための精進もまた多かったのである。
たとえば、労基法に違反するような過重労働は今も昔もある所にはあるといえども、
丁稚出身の松下幸之助が実質創始者である終身雇用制が盤石だった頃には、まだ十二分な
カバーもまた方々に遍在し、重労働に相応な昇給昇進なども可能だったのが、ガチガチの
法治主義者である橋下徹が新進気鋭の政治家として持て囃されたりしているような時代ともなると、
そのカバーのほうだけがなくなって、ブラック労働のほうはゴキブリのように生き延びている始末。
法治主義こそがそのような、法律以上の取り組みによるカバーを失った、合法と違法しかない
世の中を招かざるを得ないものであり、エントロピー増大則のような普遍的な物理法則にもよって、
世相を隆盛以上の荒廃ばかりへと追い込んで行くことが免れ得ないものとなってしまう。故に、
法治主義というものを世に対して征服支配的なイデオロギーならしめることも好ましくないのである。
だいたいが法治主義というもの自体、孔子による儒学の体系化よりも前から幾度も繰り返されては、
その問題性が確認されての徳治への修正が繰り返されて来ているものなのに、それも無視して、
むしろ法治主義のほうが革新的なイデオロギーだなどと思い込んで進取する所からして無知の極みだし、
その程度の知見しか持ち合わせていない分際であるが故の失政もまた当然、免れ得ないものである。
丁稚出身の松下幸之助が実質創始者である終身雇用制が盤石だった頃には、まだ十二分な
カバーもまた方々に遍在し、重労働に相応な昇給昇進なども可能だったのが、ガチガチの
法治主義者である橋下徹が新進気鋭の政治家として持て囃されたりしているような時代ともなると、
そのカバーのほうだけがなくなって、ブラック労働のほうはゴキブリのように生き延びている始末。
法治主義こそがそのような、法律以上の取り組みによるカバーを失った、合法と違法しかない
世の中を招かざるを得ないものであり、エントロピー増大則のような普遍的な物理法則にもよって、
世相を隆盛以上の荒廃ばかりへと追い込んで行くことが免れ得ないものとなってしまう。故に、
法治主義というものを世に対して征服支配的なイデオロギーならしめることも好ましくないのである。
だいたいが法治主義というもの自体、孔子による儒学の体系化よりも前から幾度も繰り返されては、
その問題性が確認されての徳治への修正が繰り返されて来ているものなのに、それも無視して、
むしろ法治主義のほうが革新的なイデオロギーだなどと思い込んで進取する所からして無知の極みだし、
その程度の知見しか持ち合わせていない分際であるが故の失政もまた当然、免れ得ないものである。
近ごろちょっとだけ元気だなあ。
末期の痴ほう老人が寒さも感じなくなってはしゃぎ出すっていう、あれか?
末期の痴ほう老人が寒さも感じなくなってはしゃぎ出すっていう、あれか?
図星だと腹が立つ
大外れだと腹も立たない
大外れだと腹も立たない
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1702781933...
ここなどで、人に「認められて嬉しい!」と思われるだけの人間に
自分がなろうともしないまま、他者への非難に及んでいるような連中の、
天に向かって唾を吐いているがごとき不毛さを論じてはいたけれども、
やはり、長年そんな真似を続けて来ておきながら、その痴態さ加減にまったく
気付かないままでいられているような連中の自己欺瞞までは未だに解かれないでいる。
なぜいつまでもその恥ずかしさに気づかないのかというと、
自意識過剰のあまりにまったく自分が見えていないからだ。
あまりにも他者にとって、人の価値をどうこういう能力も資格もないことが明白である
現状の自らの身の程にまったく気づかないままでいればこそ、そんな自分が他者を
非難することに、相手に対して反省や苦悩を促すような効果があるなどと思い込んでいる。
鏡を見て、それが自分だと理解できる鏡映認知能力もないような状態であるが故に、
IQでいえば60未満、チンパンジー未満、知的障碍者なみの知能と化しているのが紛れもない
わけだけれども、そんな人間もまたどこかで常人のフリをして生活しているのが今の日本である。
ここなどで、人に「認められて嬉しい!」と思われるだけの人間に
自分がなろうともしないまま、他者への非難に及んでいるような連中の、
天に向かって唾を吐いているがごとき不毛さを論じてはいたけれども、
やはり、長年そんな真似を続けて来ておきながら、その痴態さ加減にまったく
気付かないままでいられているような連中の自己欺瞞までは未だに解かれないでいる。
なぜいつまでもその恥ずかしさに気づかないのかというと、
自意識過剰のあまりにまったく自分が見えていないからだ。
あまりにも他者にとって、人の価値をどうこういう能力も資格もないことが明白である
現状の自らの身の程にまったく気づかないままでいればこそ、そんな自分が他者を
非難することに、相手に対して反省や苦悩を促すような効果があるなどと思い込んでいる。
鏡を見て、それが自分だと理解できる鏡映認知能力もないような状態であるが故に、
IQでいえば60未満、チンパンジー未満、知的障碍者なみの知能と化しているのが紛れもない
わけだけれども、そんな人間もまたどこかで常人のフリをして生活しているのが今の日本である。
そもそもが、外患スパイ兼カルトの手先な候補者たちを政権与党としてのさばらせておいて、
今でも世界の9割以上の人間がその存在も知らないような玉遊びやボードゲームの覇者を
国一、二の大英雄として持て囃したりしているほどにも、人を見る目など皆無でいながら、
そんな自分たちの身の程もわきまえずに選挙制を支持し続けているのが今の大多数の日本人でもある。
「たとえ自分に人を見る目などがないのだろうとも、人を評価せねばならない」というのが、
選挙制を導入している民主主義国の万民にとっての本分であるために、自らの評価能力の低さから
目を背けてかかる部類の自己欺瞞というのも、国を挙げて増強されている状態にあるわけだ。
仮に、人間という生き物の恒常的な知能がIQ60未満の知的障碍者なみであるにも関わらず、
場合によってはIQ100以上にまで引き上げることで健常者のフリをしているような状態もまた、
一種の精神障害であると見なせるのであれば、国を挙げてそれを蔓延させている状態だともいえる。
そういう人間こそはこの国で生きろ、模範的な国民としての誇りを抱けというような欺瞞までをも
国を挙げて流布しているわけだから、それ故に、自らが他者を非難さえすれば、それで相手は
必ず凹むなどと思い込んでいる者もいれば、実際にそれで凹んで自殺までしてしまう者もいる。
これは未熟な民主主義とかではなく、民主主義一般が自明に帯びているイデオロギーとしての病理なのである。
今でも世界の9割以上の人間がその存在も知らないような玉遊びやボードゲームの覇者を
国一、二の大英雄として持て囃したりしているほどにも、人を見る目など皆無でいながら、
そんな自分たちの身の程もわきまえずに選挙制を支持し続けているのが今の大多数の日本人でもある。
「たとえ自分に人を見る目などがないのだろうとも、人を評価せねばならない」というのが、
選挙制を導入している民主主義国の万民にとっての本分であるために、自らの評価能力の低さから
目を背けてかかる部類の自己欺瞞というのも、国を挙げて増強されている状態にあるわけだ。
仮に、人間という生き物の恒常的な知能がIQ60未満の知的障碍者なみであるにも関わらず、
場合によってはIQ100以上にまで引き上げることで健常者のフリをしているような状態もまた、
一種の精神障害であると見なせるのであれば、国を挙げてそれを蔓延させている状態だともいえる。
そういう人間こそはこの国で生きろ、模範的な国民としての誇りを抱けというような欺瞞までをも
国を挙げて流布しているわけだから、それ故に、自らが他者を非難さえすれば、それで相手は
必ず凹むなどと思い込んでいる者もいれば、実際にそれで凹んで自殺までしてしまう者もいる。
これは未熟な民主主義とかではなく、民主主義一般が自明に帯びているイデオロギーとしての病理なのである。
十分に飼い馴らされた犬の、命令を受けての襲撃は、
まったく恐れ一つなく猪突猛進であることに特化されているため、
基本的には逃げながらの対応に専念すべきだともいう。
柳生連也「私は飼い主に忠実な犬達なんだなと思ってます」
(以下作品のネタバレ注意)
なるべくなら犬たちには危害を加えたくない一心で、
逃げの一手でいるにもかかわらず、やはり数匹の犬を斬殺してしまいながら、
漸く伊賀者でもある飼い主の元にたどり着き、その首を刎ねた途端に
犬たちはピタリとその攻撃を止め、散り散りに去っていったというお話。
(ネタバレ終わり)
犬はそういう生き物だし、犬並みの品性の持ち主と化してしまっているような、
人としては恵まれない境遇の部類の人種もまた、そうである以上はそうであろう。
「六韜」虎の巻に、あくまで首魁の撃滅に専念せよとあるのも、
きっとそのような乱世ならではの人間心理を突いているからなのだろう。
まったく恐れ一つなく猪突猛進であることに特化されているため、
基本的には逃げながらの対応に専念すべきだともいう。
柳生連也「私は飼い主に忠実な犬達なんだなと思ってます」
(以下作品のネタバレ注意)
なるべくなら犬たちには危害を加えたくない一心で、
逃げの一手でいるにもかかわらず、やはり数匹の犬を斬殺してしまいながら、
漸く伊賀者でもある飼い主の元にたどり着き、その首を刎ねた途端に
犬たちはピタリとその攻撃を止め、散り散りに去っていったというお話。
(ネタバレ終わり)
犬はそういう生き物だし、犬並みの品性の持ち主と化してしまっているような、
人としては恵まれない境遇の部類の人種もまた、そうである以上はそうであろう。
「六韜」虎の巻に、あくまで首魁の撃滅に専念せよとあるのも、
きっとそのような乱世ならではの人間心理を突いているからなのだろう。
(>>219の続き)
これは、すでに丸々一スレ割いて語り込んだことだから、
もうそれほど長く詳述する気はないが。
人間という生き物には基本、「人を見る目」というものはない。
世界史上最大級の天才である諸葛孔明といえども、
弁舌ばかりに長けて実力のない馬謖を戦線に投入しては大敗を喫させて、
やむなくその責任を取って死なせねばならないような事態に見舞われたことが
あったように、基本、人間という生き物には理想的な人事を実現できるだけの
十分な他者への評価能力などは持ち合わせていないのが普通なのである。
故に、自分が特別無能である場合などに限らず、それなりに人から評価されるような
能力なり地位や資格なりの持主だろうとも、別にだからといって自分に人様の能力を
公正に評価して適材適所に配置する能力があるなどと断じてかかるべきではない。
にもかかわらず、選挙制込みの民主主義は人々に、自らの能力に応じた参政人事権のみならず、
最低劣の無能に至るまでのそれをあえて認めてかかるという暴挙に及んでいるものである。
それでは、最大限に有能な人間が、自らの至らなさを自覚しながら慎重を尽くして
人事に取り組んだ場合とはまさに真逆な、この世の大多数を構成している無能こそが
身勝手な恣意で行使したならではの、最低最悪級の人選が政治で横行するのも必然とのみなる。
これは、すでに丸々一スレ割いて語り込んだことだから、
もうそれほど長く詳述する気はないが。
人間という生き物には基本、「人を見る目」というものはない。
世界史上最大級の天才である諸葛孔明といえども、
弁舌ばかりに長けて実力のない馬謖を戦線に投入しては大敗を喫させて、
やむなくその責任を取って死なせねばならないような事態に見舞われたことが
あったように、基本、人間という生き物には理想的な人事を実現できるだけの
十分な他者への評価能力などは持ち合わせていないのが普通なのである。
故に、自分が特別無能である場合などに限らず、それなりに人から評価されるような
能力なり地位や資格なりの持主だろうとも、別にだからといって自分に人様の能力を
公正に評価して適材適所に配置する能力があるなどと断じてかかるべきではない。
にもかかわらず、選挙制込みの民主主義は人々に、自らの能力に応じた参政人事権のみならず、
最低劣の無能に至るまでのそれをあえて認めてかかるという暴挙に及んでいるものである。
それでは、最大限に有能な人間が、自らの至らなさを自覚しながら慎重を尽くして
人事に取り組んだ場合とはまさに真逆な、この世の大多数を構成している無能こそが
身勝手な恣意で行使したならではの、最低最悪級の人選が政治で横行するのも必然とのみなる。
「選挙制で政治家に首輪を付けておくのでなければ、プーチンみたいな暴君が生まれてしまう」?
プーチンだって体裁上は選挙制によって政治家であり続けているのだし、
仮にそれが上辺だけの不正な選挙によるのだろうとも、公正な選挙で
イスラエルの首長となったはずのネタニヤフと五十歩百歩である。
公正な選挙によってこそ、カルトの手先が30年にわたって政権を牛耳り続けて来たことが
この日本でも露呈したし、イギリスでも公正な選挙でインド人やムスリムが首相やロンドン市長
になってるし、アメリカでもまた公正な選挙でトランプなんかが大統領に当選しようとしている。
人を見る目などないはずの人間が、その暗愚さを開き直って直接政治家を選んでかかるような、
IQ60未満チンパン未満な知能による為政がついに完全破綻の域に達しつつあるのが、今である。
民主制によって、人を評価する資格などない部類の人間がその権限を行使することを公認して行く
試みもまた、イデオロギーとして劣悪に過ぎるが故に、好ましいだ好ましくないだ以上に、もはや
続けて行こうにも行けない事態に差し掛かっているのが今という時だし、それで共産制やその他の
専制に移行するのが嫌なのだったら、あとはイデオロギーゼロを選択する以外に余地はないのである。
プーチンだって体裁上は選挙制によって政治家であり続けているのだし、
仮にそれが上辺だけの不正な選挙によるのだろうとも、公正な選挙で
イスラエルの首長となったはずのネタニヤフと五十歩百歩である。
公正な選挙によってこそ、カルトの手先が30年にわたって政権を牛耳り続けて来たことが
この日本でも露呈したし、イギリスでも公正な選挙でインド人やムスリムが首相やロンドン市長
になってるし、アメリカでもまた公正な選挙でトランプなんかが大統領に当選しようとしている。
人を見る目などないはずの人間が、その暗愚さを開き直って直接政治家を選んでかかるような、
IQ60未満チンパン未満な知能による為政がついに完全破綻の域に達しつつあるのが、今である。
民主制によって、人を評価する資格などない部類の人間がその権限を行使することを公認して行く
試みもまた、イデオロギーとして劣悪に過ぎるが故に、好ましいだ好ましくないだ以上に、もはや
続けて行こうにも行けない事態に差し掛かっているのが今という時だし、それで共産制やその他の
専制に移行するのが嫌なのだったら、あとはイデオロギーゼロを選択する以外に余地はないのである。
もちろん、今の主人はその後継者にあたるような連中なわけだが。
これの伯父も、金丸と一緒に天皇訪中をゴリ押しして、
皇室にまで中共忖度を強いていたことが外交文書の公開からも発覚してたり。
ろくでもない連中ほど、世襲によってまで中枢権力を代々牛耳りながら、
腐敗の大元凶となっている現状に多くの人々があきれ返るあまりに、
「世襲政治こそは腐敗の元凶、即刻規制せよ!」などとの声もよく聞かれる。
ただ、世襲自体は江戸時代のような平和で安定的かつ政治腐敗が極限まで
排されていた時代にも今以上に盤石であったものだし、時に引責自殺も辞さないような
清廉な権力機構の世襲はかえって良好な結果を招く一方、汚職続きでもだれも責任を
取らないような腐れ切った権力の世襲はただひたすら壊乱を極めるという、
真逆方向への振り切れの法則があることを、前から俺も指摘して来たものである。
世襲を人事の本位とすることによってこそ、「人を見る目など基本、人間にはない」
という普遍法則に即した無理のない人事が実現されて行くものであるが故に、
昔の人々は世間がなるべく世襲で形成されて行くことをより尊んでいたのである。
ただそれはやはり、あくまで権力機構が清廉さを競い合うほどの風潮と共にある場合に限ってのことであり、
腐敗を競い合うような状態ならもはや権力全体を刷新してしまったほうがマシだということにもなる。
これの伯父も、金丸と一緒に天皇訪中をゴリ押しして、
皇室にまで中共忖度を強いていたことが外交文書の公開からも発覚してたり。
ろくでもない連中ほど、世襲によってまで中枢権力を代々牛耳りながら、
腐敗の大元凶となっている現状に多くの人々があきれ返るあまりに、
「世襲政治こそは腐敗の元凶、即刻規制せよ!」などとの声もよく聞かれる。
ただ、世襲自体は江戸時代のような平和で安定的かつ政治腐敗が極限まで
排されていた時代にも今以上に盤石であったものだし、時に引責自殺も辞さないような
清廉な権力機構の世襲はかえって良好な結果を招く一方、汚職続きでもだれも責任を
取らないような腐れ切った権力の世襲はただひたすら壊乱を極めるという、
真逆方向への振り切れの法則があることを、前から俺も指摘して来たものである。
世襲を人事の本位とすることによってこそ、「人を見る目など基本、人間にはない」
という普遍法則に即した無理のない人事が実現されて行くものであるが故に、
昔の人々は世間がなるべく世襲で形成されて行くことをより尊んでいたのである。
ただそれはやはり、あくまで権力機構が清廉さを競い合うほどの風潮と共にある場合に限ってのことであり、
腐敗を競い合うような状態ならもはや権力全体を刷新してしまったほうがマシだということにもなる。
じゃあ、民主制による政権交代はそれを実現してくれるのかといえば、もちろん
そんなこともなく、ただ腐敗を競い合う政権が交代するだけに終わるようなことになる。
権力機構が清廉を競い合う状態にあるか、腐敗を競い合う状態にあるかは、
そこに在職している人間の才覚の如何以前に、権力機構全体の構造体質がまず決するものであり、
どんなにひどい汚職を重ねようとも、最大級の引責手段は辞職なんていう状態であろうものなら、
(仮にそこで自殺などしようとも、ただの暴挙扱いで、偉業として評価されたりすることもない)
松平定信なみに清廉な為政者が介入しようとも、その腐敗を引き留められることはないのである。
然れども、引責自殺も辞さないような清廉さを帯びた権力機構が、民主制の体裁をも
両立できるのかといえば、まずそんなことはあり得ない。どうせ自分たち自身は無責任な傍観者
でしかないような民衆が、いざとなれば腹を切って薄皮一枚残して首を落とされるような方々を
上から目線で選ぶなど失礼にもほどがあるし、仮にそんな無礼をあえて強行しようものなら、
選挙への立候補者なども絶無と化してしまうのに違いないから、民主制の政治家というのは、
どうあっても引責辞職程度までしか責任を取らなくていい待遇でしかあり得ないのである。
そんなこともなく、ただ腐敗を競い合う政権が交代するだけに終わるようなことになる。
権力機構が清廉を競い合う状態にあるか、腐敗を競い合う状態にあるかは、
そこに在職している人間の才覚の如何以前に、権力機構全体の構造体質がまず決するものであり、
どんなにひどい汚職を重ねようとも、最大級の引責手段は辞職なんていう状態であろうものなら、
(仮にそこで自殺などしようとも、ただの暴挙扱いで、偉業として評価されたりすることもない)
松平定信なみに清廉な為政者が介入しようとも、その腐敗を引き留められることはないのである。
然れども、引責自殺も辞さないような清廉さを帯びた権力機構が、民主制の体裁をも
両立できるのかといえば、まずそんなことはあり得ない。どうせ自分たち自身は無責任な傍観者
でしかないような民衆が、いざとなれば腹を切って薄皮一枚残して首を落とされるような方々を
上から目線で選ぶなど失礼にもほどがあるし、仮にそんな無礼をあえて強行しようものなら、
選挙への立候補者なども絶無と化してしまうのに違いないから、民主制の政治家というのは、
どうあっても引責辞職程度までしか責任を取らなくていい待遇でしかあり得ないのである。
民主制でない体制が、必ずしも腐敗を招かないで済むわけでは決してなく、監察制度を形骸化
させた北宋時代以降の中国や朝魚羊が、腐敗まみれの専制なんていう最悪の政情に陥っていたこと
(さらにいえば欧州なども王権神授説頼みで延々と腐敗まみれの専制であり続けていたこと)
を思えば、それよりはまだ腐敗まみれの民主制のほうがマシなのではないかとも思われがちである。
ただ、民主制は上記のような理由で、政治機構が恒常的に腐敗状態でしかあり得ない一方、
引責自殺を競い合うような制度上からの構造改革によって、それを予防することも事実可能であり、
残念ながらそれは民主制などと共にはまず成り立ち得ないものであるという現実があるのみである。
江戸時代の日本や漢代の中国並みに、権力機構が構造面から腐敗を予防して行く徹底さを
帯びることを担保として民主制を廃し、仮にその構造が瓦解するようなら、民衆による新たな
体制革命も可とするのが、今以上に政治腐敗が予防されて、なおかつその弊害が排される最善の
選択肢となることであろう。なんのことはない、古来の世界史上にままあった慣例ではあるが。
(無論、西欧などごく一部の辺境地域では歴史上、そのような事例が皆無でもあったわけだが)
させた北宋時代以降の中国や朝魚羊が、腐敗まみれの専制なんていう最悪の政情に陥っていたこと
(さらにいえば欧州なども王権神授説頼みで延々と腐敗まみれの専制であり続けていたこと)
を思えば、それよりはまだ腐敗まみれの民主制のほうがマシなのではないかとも思われがちである。
ただ、民主制は上記のような理由で、政治機構が恒常的に腐敗状態でしかあり得ない一方、
引責自殺を競い合うような制度上からの構造改革によって、それを予防することも事実可能であり、
残念ながらそれは民主制などと共にはまず成り立ち得ないものであるという現実があるのみである。
江戸時代の日本や漢代の中国並みに、権力機構が構造面から腐敗を予防して行く徹底さを
帯びることを担保として民主制を廃し、仮にその構造が瓦解するようなら、民衆による新たな
体制革命も可とするのが、今以上に政治腐敗が予防されて、なおかつその弊害が排される最善の
選択肢となることであろう。なんのことはない、古来の世界史上にままあった慣例ではあるが。
(無論、西欧などごく一部の辺境地域では歴史上、そのような事例が皆無でもあったわけだが)
洋学流の思考回路に基づけば、民主制なき所には専制ありとなるのであろう。
江戸時代などもまた、何度も混浴場が禁止されては勝手に横行するようなユルさでいながらも、
平民が公職者たる武士に土下座させられるほどにも官民の上下関係が徹底されていた側面も
あったことを以て、ひとからげに旧態依然とした専制のうちに入れて済ませられるのが現状である。
ただ、官民の上下関係が民主化によってなくなったからといって、この世からあらゆる上下関係が
なくなったなんてことは決してなく、むしろお上が非道な派遣労働の斡旋(口利き)などを
固く禁じて取り締まっていた江戸時代など以上にも、民間での上下関係は極大化し、
企業内での上司と部下、大企業と中小企業などの間での格差は天地の如く開き、
今しがたもトヨタの横暴に振り回されてのダイハツの大不正が発覚したが如き、
民間での昔以上に絶大な腐乱を来たしているのが、昨今の日本の実情である。
だから、俺も皮肉を込めて、今という時代を「民間封建制の時代」などと前から称しているもの。
民主化が別に人間社会の本質的な平等化なんかに貢献したなんてことは全くなくて、ただ、
差別構造が官民間から民間一本に絞られた上に、総合的な差別度はむしろ増したぐらいのものである。
江戸時代などもまた、何度も混浴場が禁止されては勝手に横行するようなユルさでいながらも、
平民が公職者たる武士に土下座させられるほどにも官民の上下関係が徹底されていた側面も
あったことを以て、ひとからげに旧態依然とした専制のうちに入れて済ませられるのが現状である。
ただ、官民の上下関係が民主化によってなくなったからといって、この世からあらゆる上下関係が
なくなったなんてことは決してなく、むしろお上が非道な派遣労働の斡旋(口利き)などを
固く禁じて取り締まっていた江戸時代など以上にも、民間での上下関係は極大化し、
企業内での上司と部下、大企業と中小企業などの間での格差は天地の如く開き、
今しがたもトヨタの横暴に振り回されてのダイハツの大不正が発覚したが如き、
民間での昔以上に絶大な腐乱を来たしているのが、昨今の日本の実情である。
だから、俺も皮肉を込めて、今という時代を「民間封建制の時代」などと前から称しているもの。
民主化が別に人間社会の本質的な平等化なんかに貢献したなんてことは全くなくて、ただ、
差別構造が官民間から民間一本に絞られた上に、総合的な差別度はむしろ増したぐらいのものである。
ゆえに、仮に今の日本社会から民主制が撤廃される代わりに、江戸時代並みに民間での差別構造が
公職者によって厳重に取り締まられるーーなおかつ公職者たちもまた清廉潔白、清貧を旨とする
世の中へと移行するのであれば、それが専制への逆戻りになるなどとは、少なくとも俺は認めない。
日本以上に民主主義の先進国であるアメリカや英仏などを含め、この世の中において民主制が、
少なくとも江戸期の日本などよりも世の中の平等化を実現したなどということは全くなくて、
むしろ所得格差や学歴やそれに基づく代々の血筋からの差別度はより拡大してしまったうえに、
底辺層には家族を築いて一人前の人生を歩んで行く程度の待遇すら保証されないという、
どこを見ても完全によりひどい差別構造を蔓延させてしまっただけなのだと結論付ける外ない。
だからこそ、民主制の撤廃がほんの少しだって、人間社会の平等化にとっての退歩になるなどと
認めることもできない。無論、民主制なみにひどい差別構造を世の中にもたらす専制なども実在する
といえども、それこそ民主制との五十歩百歩、目糞鼻糞であって、人間社会を司る体制としての
品質面で最低最悪級のド底辺からの脱却のためには、その両方からの卒業が必須となるのである。
公職者によって厳重に取り締まられるーーなおかつ公職者たちもまた清廉潔白、清貧を旨とする
世の中へと移行するのであれば、それが専制への逆戻りになるなどとは、少なくとも俺は認めない。
日本以上に民主主義の先進国であるアメリカや英仏などを含め、この世の中において民主制が、
少なくとも江戸期の日本などよりも世の中の平等化を実現したなどということは全くなくて、
むしろ所得格差や学歴やそれに基づく代々の血筋からの差別度はより拡大してしまったうえに、
底辺層には家族を築いて一人前の人生を歩んで行く程度の待遇すら保証されないという、
どこを見ても完全によりひどい差別構造を蔓延させてしまっただけなのだと結論付ける外ない。
だからこそ、民主制の撤廃がほんの少しだって、人間社会の平等化にとっての退歩になるなどと
認めることもできない。無論、民主制なみにひどい差別構造を世の中にもたらす専制なども実在する
といえども、それこそ民主制との五十歩百歩、目糞鼻糞であって、人間社会を司る体制としての
品質面で最低最悪級のド底辺からの脱却のためには、その両方からの卒業が必須となるのである。
江戸時代のような模範的な封建制の時代にも、支配者たる武家の大部分は世襲で、
大金持ちの民間人といえども下士の株を買って底辺の武家になることぐらいしか
許されていなかったのは、特にその辺の問題を偏向的に描き立てている反幕系の
創作が多い、坂本龍馬関係の情報に詳しい人間などがよく知るところだろうが。
そのような、官民の絶対的な上下関係が撤廃された今は、どうであろう?
政官に誰でも好きに介入できる体裁となり、実際に田中角栄みたいな、血筋も学歴もド底辺な
新潟人までもが首相になれるようになった時代にも、政治家なんてただ批判されるばかりで、
割に合わない立場だからと、まともな判断力の持主ほど寄り付かず、官僚も激務のわりに
稼げないからと、大企業の重役などよりもあえてやる価値などない職分扱いされている始末。
結局、官民の体裁上からの断絶などがあろうがなかろうが、政官なんぞなるべくなら誰も
請け負いたくもない立場であることには変わりなく、ただ、断絶の上での公職者への高い地位や
名誉が保証されていた時代には、それ相応の責任を背負って職務に取り組もうとする君子士人もまた
いた一方で、民主化の時代にはそれが丸ごと撤廃され、誰もやりたがらない仕事を嫌々やる上に、
不祥事を起こそうが誰も責任も取らないという、完全下位互換の政府人事のみが招かれたのである。
大金持ちの民間人といえども下士の株を買って底辺の武家になることぐらいしか
許されていなかったのは、特にその辺の問題を偏向的に描き立てている反幕系の
創作が多い、坂本龍馬関係の情報に詳しい人間などがよく知るところだろうが。
そのような、官民の絶対的な上下関係が撤廃された今は、どうであろう?
政官に誰でも好きに介入できる体裁となり、実際に田中角栄みたいな、血筋も学歴もド底辺な
新潟人までもが首相になれるようになった時代にも、政治家なんてただ批判されるばかりで、
割に合わない立場だからと、まともな判断力の持主ほど寄り付かず、官僚も激務のわりに
稼げないからと、大企業の重役などよりもあえてやる価値などない職分扱いされている始末。
結局、官民の体裁上からの断絶などがあろうがなかろうが、政官なんぞなるべくなら誰も
請け負いたくもない立場であることには変わりなく、ただ、断絶の上での公職者への高い地位や
名誉が保証されていた時代には、それ相応の責任を背負って職務に取り組もうとする君子士人もまた
いた一方で、民主化の時代にはそれが丸ごと撤廃され、誰もやりたがらない仕事を嫌々やる上に、
不祥事を起こそうが誰も責任も取らないという、完全下位互換の政府人事のみが招かれたのである。
どちらもつらい仕事を嫌々やらされる上に、今でいう東大ぐらいは軽く出られるぐらいの知性がないと
済まない所もあるから(儒学や仏学を本分としていた時代の公人にも当然、それ以上の知能があった)、
どちらにしたって、世襲込みでもなければできる人間がいなくなってしまうのも同じことで、ただ、
政官に地位と名誉のあった時代には、責任意識の高さと共に世襲されていた一方、民主制の時代には、
どうやって責任を逃れるかを模索する卑屈さばかりと共に世襲が繰り返されているという相違がある。
そこで世襲される血筋もまた、大脳の前頭葉に良質な知恵が蓄積されることに長けた血筋だったり、
側頭葉で悪知恵を凝らすことに長けた血筋だったりして、遺伝子面からもまったく別の生き物となる。
都合の悪いことはすぐに忘れて、心の底から「記憶にございません!」と答弁できるようになるために、
前頭葉の長期記憶能力は人並み以上に萎縮したりと、人として常人未満な負の能力開発込みでの世襲が
繰り返された結果、ちょっとその辺にはいないような兇徒ばかりがそこに代々駐在する血筋になったりと、
負の世襲は紛れもなく権力腐敗をより盤石ならしめる元凶となるために、当然排されるべきには違いないが、
そこだけを排しようたってまず無理なほどに、その時点ですでにその政府はまず手遅れと化しているのである。
済まない所もあるから(儒学や仏学を本分としていた時代の公人にも当然、それ以上の知能があった)、
どちらにしたって、世襲込みでもなければできる人間がいなくなってしまうのも同じことで、ただ、
政官に地位と名誉のあった時代には、責任意識の高さと共に世襲されていた一方、民主制の時代には、
どうやって責任を逃れるかを模索する卑屈さばかりと共に世襲が繰り返されているという相違がある。
そこで世襲される血筋もまた、大脳の前頭葉に良質な知恵が蓄積されることに長けた血筋だったり、
側頭葉で悪知恵を凝らすことに長けた血筋だったりして、遺伝子面からもまったく別の生き物となる。
都合の悪いことはすぐに忘れて、心の底から「記憶にございません!」と答弁できるようになるために、
前頭葉の長期記憶能力は人並み以上に萎縮したりと、人として常人未満な負の能力開発込みでの世襲が
繰り返された結果、ちょっとその辺にはいないような兇徒ばかりがそこに代々駐在する血筋になったりと、
負の世襲は紛れもなく権力腐敗をより盤石ならしめる元凶となるために、当然排されるべきには違いないが、
そこだけを排しようたってまず無理なほどに、その時点ですでにその政府はまず手遅れと化しているのである。
「東大ぐらいは出られる知性」とは言ったけれども、
所詮はその東大が洋学の教育機関止まりでしかないのだから、
逆に、それだけではまだ為政者の資質として不足とすらいえるものである。
洋学の試験勉強などは、ほぼ大脳の側頭葉だけで済ませられる所があるから、
側頭葉だけは並外れて発達しているような、偏った脳構造の人種ばかりが長ずることとなる。
(そのため試験が終われば勉強したことをゴッソリ忘れてしまったり、
「一切記憶にございません」の責任逃れ系忘却能力に秀でたりもする)
儒学や仏学の体得級の勉強のためには、死ぬまで忘れることがない前頭葉の長期記憶域に
その教えをしっかりと刻み付けて行く必要があるために、そんな人種にはまず務まらないもの。
なおかつ、世の中には側頭葉での悪巧みを凝らすような悪党もまた絶えないものだから、
儒仏の教えを現実社会の統治のために有効活用する上では、そんな連中を上回るほどの、
側頭葉の稼働能力もまた用心として持ち合わせておくのでなければならない。
(そのため古来の仏門も、あらゆる学問への通暁者を入門資格者としていたのである)
つまり、洋学の勉強止まりなら、側頭葉頼みのカタワな脳活用だけでも済むが、
儒学や仏学のような正学の勉強のためには、脳のフル活用が本当に必要になるということ。
それは、脳の使い方がヘタな人間にとっては難儀で受け付け難いこととなるが、
逆言すれば、正しい脳の使い方の修練を通じて精神の障害を克服、予防して行く手立てともなる。
所詮はその東大が洋学の教育機関止まりでしかないのだから、
逆に、それだけではまだ為政者の資質として不足とすらいえるものである。
洋学の試験勉強などは、ほぼ大脳の側頭葉だけで済ませられる所があるから、
側頭葉だけは並外れて発達しているような、偏った脳構造の人種ばかりが長ずることとなる。
(そのため試験が終われば勉強したことをゴッソリ忘れてしまったり、
「一切記憶にございません」の責任逃れ系忘却能力に秀でたりもする)
儒学や仏学の体得級の勉強のためには、死ぬまで忘れることがない前頭葉の長期記憶域に
その教えをしっかりと刻み付けて行く必要があるために、そんな人種にはまず務まらないもの。
なおかつ、世の中には側頭葉での悪巧みを凝らすような悪党もまた絶えないものだから、
儒仏の教えを現実社会の統治のために有効活用する上では、そんな連中を上回るほどの、
側頭葉の稼働能力もまた用心として持ち合わせておくのでなければならない。
(そのため古来の仏門も、あらゆる学問への通暁者を入門資格者としていたのである)
つまり、洋学の勉強止まりなら、側頭葉頼みのカタワな脳活用だけでも済むが、
儒学や仏学のような正学の勉強のためには、脳のフル活用が本当に必要になるということ。
それは、脳の使い方がヘタな人間にとっては難儀で受け付け難いこととなるが、
逆言すれば、正しい脳の使い方の修練を通じて精神の障害を克服、予防して行く手立てともなる。
近頃また、東大出身アイドルが努力否定論者を叩いて炎上なんて事案も発生しているが、
おそらくは当人もまたいうほど脳の使い方がうまいわけではなく、ただ洋学の試験勉強には
大変向いている部類の、側頭葉活性型の人種ではあったのだろうとは見受けられる。
そのために、誰でも努力さえすれば東大ぐらい入れるように自分尺度では思われるけれども、
そもそもが大学の入学試験なんてもの自体が相対評価で、受かる人間もいれば落ちる人間も
いるように調整されるものである上に、この世の中には側頭葉の活用にかけてはさほど秀でて
いないような部類の人間もまたいくらでもいて、そういう人々にとっては、洋学の試験勉強だけは
どんなに努力したところで落とされる側に回される他ない、諦めの対象となってしまうのである。
別に、そういう人間が必ずしもあらゆる面で東大生よりも格下だなんてわけでもなく、
側頭葉以外の脳の部位の活用能力ではより秀でていて、ある種の分野で秀でることもあるし、
そうでなくたって脳の使い方が特別、東大生などよりも劣っているとも限らないのである。
側頭葉であれ後頭葉であれ、右脳であれ左脳であれ、脳の活性域が偏っているような人間は
所詮、脳の扱い方がヘタな人間である点では同じ穴の狢で、件の東大出身アイドルなども、
自分もまたその範疇の人種でしかないからこそ、勉強で努力できない部類の人間を嫌悪するような、
他者の個人事情を十分に推し量ることも出来ない心の余裕のなさのままでいるのである。
おそらくは当人もまたいうほど脳の使い方がうまいわけではなく、ただ洋学の試験勉強には
大変向いている部類の、側頭葉活性型の人種ではあったのだろうとは見受けられる。
そのために、誰でも努力さえすれば東大ぐらい入れるように自分尺度では思われるけれども、
そもそもが大学の入学試験なんてもの自体が相対評価で、受かる人間もいれば落ちる人間も
いるように調整されるものである上に、この世の中には側頭葉の活用にかけてはさほど秀でて
いないような部類の人間もまたいくらでもいて、そういう人々にとっては、洋学の試験勉強だけは
どんなに努力したところで落とされる側に回される他ない、諦めの対象となってしまうのである。
別に、そういう人間が必ずしもあらゆる面で東大生よりも格下だなんてわけでもなく、
側頭葉以外の脳の部位の活用能力ではより秀でていて、ある種の分野で秀でることもあるし、
そうでなくたって脳の使い方が特別、東大生などよりも劣っているとも限らないのである。
側頭葉であれ後頭葉であれ、右脳であれ左脳であれ、脳の活性域が偏っているような人間は
所詮、脳の扱い方がヘタな人間である点では同じ穴の狢で、件の東大出身アイドルなども、
自分もまたその範疇の人種でしかないからこそ、勉強で努力できない部類の人間を嫌悪するような、
他者の個人事情を十分に推し量ることも出来ない心の余裕のなさのままでいるのである。
今の学校での勉強、特に高偏差値大学を出る域の高度教育は、
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
現状においても、脳のフル活用に長ける万能超人の増産なんてのは夢のまた夢
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
ストーキングスレ、削除したのかされたのか知らんが、
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
(>>233の続き)
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
儒学や仏学のような正学の振興ですら、世の中に対して征服的すぎると弊害を招くというのに、
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
近頃、平民が士分の株を買って武家になることもあったような
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
ただ古来、日本の職工は相応な名誉、尊厳と共に働いていたために、
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
身分制による差別であれ、それを廃しながらの実質的な差別であれ、
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
本当に重要なのは、身分制の有無ではなく、権力者たちによる征服支配の軽重であり、
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
昔の平民が、身分制によってまでお侍さんへの平伏を強いられていたのは、
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
身分制というもの自体が強権支配の象徴のように思われがちだし、
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
このスレももうすぐ終わり。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
自由主義や民主主義にまで疑念を抱く人間はまだそう多くはないにしろ、
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
そうならないための具体的な施策をあえて挙げるとすれば、
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
公権力が政商の支配下に置かれないようにするための施策として、
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
それは、洋学のような劣悪な異学に基づくイデオロギーによる支配に限った話ではない。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
欧米人や近年の中韓人などは、掃除なんて下賤のやる仕事、
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
新スレは来年にでもと思ったが、
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
[YouTubeで再生]
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
ネットの普及もかえって馬鹿を増産してしまったとビルゲイツも認めているように、
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
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