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この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である 偉大なる生存の報告 Part313
▼ページ最下部
思想哲学宗教一般としては、仏教などのほうが優れた側面があるし、
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
※省略されてます すべて表示...
今の学校での勉強、特に高偏差値大学を出る域の高度教育は、
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
学生たちに極端な側頭葉のフル活用ばかりを強いるあまりに、
そこまでの側頭葉の活用なんかを必要ともしない世の中の大多数の仕事に対して、
学生たちを無能なままで置かせる上に、そんなままで世の中の支配層に居座ることで
無闇に世の中をひっかき回し、世の中を余計にダメにさせるような事態ばかりを招いている。
江戸時代に佐幕派の武士だった人々の多くは、渋沢栄一が興した傾倒の実業系企業や、
ヤマハのような技術系企業でも辣腕を発揮していたように、側頭葉だけに限らない、
脳のフル活用を儒学や仏道や武芸の修練などによって心がけているようであれば、
それがそのまま各種の社会的な実務にかけての高い能力にも結実するものである。
ただ、そこまで潤沢な教育、修練の機会に恵まれる人間というのは、やはりどうしても
世の中の少数派に限られるもので、江戸時代といえども百姓は側頭葉が弱くて前頭葉が強い、
町人や庄屋は前頭葉が弱くて側頭葉が強いとかいった脳機能の偏りがあったのである。
高度情報化の時代といえども、そういった傾向は変わらないどころか、
むしろ脳のフル活用の能力者など高学歴に至るまで減少の限りを尽くしていて、
ネットの普及も少しだってその後押しにもなっていないと断じる外ないのである。
現状においても、脳のフル活用に長ける万能超人の増産なんてのは夢のまた夢
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
でしかないとした上で、偏った脳機能の持ち主に対しては適材適所への順応を尽くし、
そのうえで副次的にフル活用の達者の増員にもまた取り組んで行くようにするしかない。
ただ気を付けるべきなのは、世の中の支配層にまで側頭葉偏向型の人種などが群がろうものなら、
今の世の中のような閉塞からの衰亡が免れ得ない実情をも反面教師として、権力機構には
なるべく脳機能の偏りの持主などを寄せ付けず、万能超人級のマインドフルネスの会得者が
そこに携わるのであればこの上なし、そこまで行かずとも、特定の脳機能偏向型の人間ばかりに
世の中が支配下に置かれ続けるような事態だけは避けるように取り組んで行くべきなのである。
特に、側頭葉偏向型の人間というのは、他人種よりも悪巧みの能力に長ける場合が多いために、
権力腐敗の元凶になりがちなものだから、そういう人種のわりことしに歯止めをかけるために、
人々の虚栄欲をできる限り抑え込んで行くための、知足の教育なども充実させて行くべきである。
成熟した人間社会というものには、悪党の蠢動もまた付き物であるために、それらによる破滅級の
侵害を防ぎ、その先に特定の思想信条なんかが絶対的な支配者などにはならない、無為自然本位の
世の中をもたらそうとする上でも、やはり相殺目的の作為が必要となるものである。だからこそ、
より積極的な虚静志向である仏道が、無為自然そのものを尊ぶ道家より広く振興されて来たのでもある。
ストーキングスレ、削除したのかされたのか知らんが、
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
なくなったからここに返答を書いとくが。
もちろん、「新作ゴジラの作者が俺のアイデアをパクりやがった!」
なんていう誇大妄想の話ではなく、あの映画のシナリオに相当するようなものを
俺が先に思いついたなんてこともなければ、夢にも思い描いたことはない。
ただ、現代のエンタメといえども、電通案件や製作委員会方式の呪縛から免れて、
より面白いものを作ろうとなれば自然と、おまえらの好き好むような悪趣味から
かけ離れてみた分だけ、俺の好みに少なからず近づく側面がある、というだけのこと。
だいたいが、俺が産まれる前に作られた時代劇や歌舞伎なんかにも、
俺好みの作劇なんていくらでもあるわけだし、そちらに近づけた可能性はもちろんある。
「鬼平犯科帳」にも、鬼平の初恋相手が盗賊に手籠めにされた挙句、
自分も盗賊の一味になって、捕まって島流しにされる話なんかがあるし、
「女もひどい目に遭え」「悪いことをしたら懲らしめる」というのも、
別に俺のオリジナルな発想ではなく、ハードボイルド系の勧善懲悪劇の定石として、
昔からそれなりに観られて来たものでもある。
(>>233の続き)
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
ひろゆき「日本の大学入試は戦士に”かしこさ”のテスト、魔法使いに”つよさ”のテストをしてる」
http://news4wide.net/article/posttime-202312250845....
言いたいことはまずまず俺と同じなんだろうけど、実際はもっとひどい。
誰しもに実用性のない勉強ばかりを強いて、世の中を無能であふれ返らせるような
真似にまで及んでいるのだから、適材適所に反しているどころで済む話でもない。
生きて行くうえで何の価値もないような勉強ばかりを強いられた結果、その憂さ晴らしのために
大学も飲んで遊ぶのが主目的な「人生の休日の場」となり、大学に通う上でほぼ唯一の実利
ともなる、コネ作りによる人脈のスクラムだけはダイヤモンドのようにガッチリと固められて、
学閥による利権の奪い合いや寡占が過当競争化しての、社会の閉鎖性もまた深刻化させる始末。
儒学や仏学のような正学の振興ですら、世の中に対して征服的すぎると弊害を招くというのに、
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
曲学阿世の邪学がそれに及べば当然、その害もまたひとしおとなるわけで、結婚適齢期の
女たちまで勉強や奨学金の返済で雁字搦めにしての未婚子無しAV堕ち化まで強いるという、
学術振興にとっての本末転倒な破滅の元凶となることすら歯牙にもかけない。
それでも大学教授などが、自分たちの社会悪化した有り様に疑問の一つも抱かないでいるあたり、
いちいち本人たちの言い分を聞くまでもなく、勉強だけできるバカボン止まりの自己紹介ともなっている。
上から下まで、まともに脳をフル活用も出来ていないせいで、総合的な注意力や責任意識もかえって
人並み以下だったりするような、カタワの高知能の集まりである組織が招いている腐乱であるが故に、
そんな部署に学府としての権威などをこれ以上認め続けているわけにもいかないのである。
近頃、平民が士分の株を買って武家になることもあったような
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
一部の特例を論拠にして、「江戸時代に士農工商のような身分制はなかった」
などといった極論を唱える暴徒がいるのに対して、>>230のような話であるとか、
町人の農村への立入禁止規定の当時における実在(瀧川政次郎「日本法制史」参照)
の提示などで、色々と俺も反論して来たのだけれども。
じゃあ、士農工商の身分制がどれぐらい厳しかったかというと、
今の世においても実質的に通用しているような職業差別未満であったものと思われる。
その根拠材料に挙げられるのが、たとえばこのNYのエンパイアステートビル建設時の
鳶職人たちの画像である。ただ冷や汗握らされるような高所の映像であるだけでなく、
当時としてもスニーカーなどより肉体労働に向かないビジネス用の革靴を履いてるか、
もしくは履かされている。スーツに革靴でビシッと決めたビジネスマンが闊歩している
マンハッタンのど真ん中で、賤しい作業員が最低伝程度にでも自分たちの名誉を
取り繕おうとしたか、あるいは上からの命令でそうさせられたのである。
近年の日本などでも、車で通えないような都心の工事現場に、作業員たちがスーツで
電車通勤した上で、現場で作業着に着替えるなんていう慣習が定着してしまっているんだが、
それもまた現代に実質的に通用してしまっている、商>工の差別意識に即したならではの風習。
ただ古来、日本の職工は相応な名誉、尊厳と共に働いていたために、
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
今でも高所などではより高性能で安全な地下足袋などを履いて作業するのが基本となっている。
それだけ近現代の西洋的かつ身分制が撤廃された時代以上にも、
昔のほうが職工に至るまでの名誉が保証されていたわけである。
些細な所から針小棒大に誇張した話のように思われるかもしれないが、
高所作業で履くのが地下足袋かビジネスシューズかというのは、天と地ほどにも作業員たちの
安全を左右するもので、近代アメリカの高所作業員などは、職工としての名誉が保証されて
いなかったがために、命を軽んずるような真似までをも強いられていたということだ。
実際、当時黒人に準ずるほどの人種差別対象となっていった先住民族が優先的に徴用されたりも
していたというし、職の貴賤など身分制から撤廃されているはずの時代や社会でこそ、実質的な
職業差別がより激化して、下位者には最低限の命の保証も認めないような蛮行がまかり通っている。
それと比べれば、士農工商に該当するような身分制がありながらも、職工に至るまで命の尊厳が
重く認められていた江戸時代の日本などのほうがまだ、実質的な差別は少なかったのである。
これはやはり、士農工商という身分制自体が、あった上で薄かった証拠にもなっているといえる。
身分制による差別であれ、それを廃しながらの実質的な差別であれ、
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
それと共なる世の中への征服支配が曇天のように重圧的である場合には、
被差別側に回された立場の人間が命の保証もないような窮状に追い込まれる一方、
快晴やそれに近いほど雲量の少ない天気のように軽快な範疇である場合には、
被差別側といえどもさほどの抑圧を受けたりもせず、最低限以上の尊厳を保てるといった法則がある。
近世までの日本における最底辺の被差別階級だった穢多非人といえども、
集落を形成して血を繋いでいく程度の生活は保障されていた上に、
場合によっては豪商なみの富裕に与れていた一方、いま派遣やバイトで
食い繋いでいるような立場の日本人にはその程度の尊厳すら守られていないがごとく、
身分制の有無などは全く関係がない上に、むしろ所得格差の極大化を是正する目的で
敷かれているような身分制があったほうが、名目上の身分平等の時代以上に、
実質的な差別が軽度で済むようなこともまたいくらでもあるものである。
本当に重要なのは、身分制の有無ではなく、権力者たちによる征服支配の軽重であり、
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
政府が所得格差の拡大(特に世代間)を野放しにしておきながら五公五民級の税率を
敷いている今の日本などは、四公六民や五公五民でありながら、その税収がもっぱら
格差拡大の予防や修正のために用いられていた江戸時代など以上に、まともに家族も
持てない強度の貧窮が蔓延してしまっているのも当然のことである上に、それが
身分制や職の貴賤の名目上の否定などで埋め合わされることなども決してないのである。
弱者切り捨てで、貧困側に回された人間には子孫断絶すらあえて強いるような状態では、
労働力不足からの破綻か、それを補うための粗悪移民の流入による荒廃ぐらいしか
選択肢がなくなってしまうが如く、格差拡大の極大化を防ぐのは国全体の安全保障のためにこそ
必須なことなのに、まるで貧困者側の個人的な問題であるかのように決めつけて切り捨てて
かかるような蒙昧もまた、強権支配の横暴さによる暴慢と共に、権力者間で横行するようになる。
そこにもやはり、他者を侵害的に征服支配したがる不埒さがあり、時にそれは
民主主義や自由主義のような聞こえの良いイデオロギーを隠れ蓑にしながらでも増長して行く。
むしろそのような美辞麗句系のイデオロギーこそが、最大級の格差拡大をもたらす
元凶となってしまうのもまた、昨今の日本やアメリカ見れば知れることである。
昔の平民が、身分制によってまでお侍さんへの平伏を強いられていたのは、
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
いかにも強権支配の象徴のように思われがちではあるが、その実はといえば、
むしろ最低限の支配に止めおいていただくための「お願い」であった。
昔のイギリスの軍服を模した制服を着ている今の警察官などに、
一般庶民が平伏したりする必要はないし、もちろん敬意なんかも抱いてないが、
だからこそネズミ捕りの交通取り締まりみたいな卑劣な侵害行為によってまで
自分たちの威力を見せつけることで、人々に脅しをかけておかねばならないし、
「警察無謬の原則」みたいなふざけた慣習によってまで、自分たちの権限を守らねばならない。
自分たちの側に落ち度があった場合には、切腹や御家断絶級の引責まで強いられる
こともあるが故に、不埒な侵害意識などと共に公務に携わることも許されないような、
差し迫った境遇にある公職者が、滞りなく勤めを果たせるようにするために、
人々も平伏を伴うような厳重な尊重性と共にお侍さんへと接していた。その結果、
無闇に人々を侵害征服したりしない、今などよりも支配濃度の低い統治が実現されていた。
身分制というもの自体が強権支配の象徴のように思われがちだし、
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
実際にそういう事態に陥った身分制なども中世ヨーロッパや昔の中朝などにあったわけだが、
時には逆に上記の如く、強権支配を最小限に控えるための身分制が敷かれることもある。
それはある意味、身分制や職の貴賤が否定されている今のような時代のほうが、
実質的な差別が極大化してしまっているような経験を通り抜けた上で知れたことでもある。
未だかつて身分制を介した歴史しか重ねて来なかった江戸時代から近現代への移行に際しては、
身分制を廃しさえすれば、人々への強権支配はより控えられて行くのに違いないと思われていた所、
現実的には所得や学歴など、多くの自己責任名目の差別基準が残存した上に、それに基づく
差別的支配が身分制の時代以上に激化して国の行く末もままならなく事態に陥ってしまった。
だから、身分制を復活させるべきなのかというと、それはそうだとも断言しきれないが、
少なくとも身分制の撤廃がこの世における強権支配の激化を増しこそすれど減らすことなど
少しもなかったという現実をわきまえた上で、今後の為政が取り組まれて然るべきなのには違いない。
このスレももうすぐ終わり。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
イデオロギーゼロについての話もまだまだできるけれども、
キリがないんでとりあえずこのスレまでとしておこう。
今までに話して来たことと大して内容が変わらないようにも思われるだろうが、
それだけずっと俺のほうはイデオロギーゼロを念頭に置いて話し続けていたということで、
まるで金正恩か何かのような強権支配を目論んでいるなどと思い込んでの抵抗を
試みて来たおまえらの有様のほうが、一人相撲の繰り返しでしかなかったわけだ。
主には儒学や仏道を主眼として話をして来たものだから、道家の無為自然志向を蔑ろに
しているかのようにも近視眼者には思い込まれて来たわけだが、仏道は元来、
道家の完全な上位互換であることを旨としているし、儒学の教説にも、
乱世における退歩を限定的に是認する程度の記述ぐらいはある。
いずれにも元より、洋学や聖書信仰なみに道家の平穏志向と根本から相容れないような
病的側面は帯びていないのであり、いざ整合性を確認すれば縦横無尽たるのも必然なのである。
山の頂上は一つといえども、その上り道は多岐にわたるように、道理もまた然り。
ただ、山を下って地獄の穴を掘り下げ続けようとする背理のみが、相容れないものなのである。
自由主義や民主主義にまで疑念を抱く人間はまだそう多くはないにしろ、
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
資本主義経済がすでに限界の域に達しているのを察している者は数多い。
そこで「じゃあ次に選択すべきイデオロギーは?」「共産主義?」「えーやだー!」
なんていう討論が幾度となく繰り返されては、実のある結論も得られないままに
終わっているような事例も数限りなく見てきたが、そもそもそこに有意義な結論などはない。
孟子が述べていた経済政策などにもそれなりに有意義なものはあったが、部分部分についての
事務的な話に止まっていて、政策全体の理念的な方針までをも一律させようとするほどの
体系性などは見られない。それは別に孟子の見識が不足していたからではなく、そもそもが
経済というもの自体が、新たな手法が思いつかれてはそこに調整や規制が加えられることの
繰り返しで成り立っているものだから、その有様を完全に固定化しようなんてのがすでに愚策だからだ。
市場経済も自由的であるべき時もあれば、規制的であるべき時もある。
民間で好き勝手やらせてそれで経済が健全に発展するようならそれに任せればいいし、
それが行き詰まったり、震災級の災害で危機に瀕したりした時には統制も試みるべきである。
それを、資本主義だ社会主義だ共産主義だといったイデオロギーで完全に一つ覚え方向に
固めてしまおうなんて時点で、すでに失政でしかないのであり、そのしわ寄せこそが、
経済破綻からの戦争のような最悪の破綻となってこの世に招かれてしまうのである。
そうならないための具体的な施策をあえて挙げるとすれば、
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
政府機関は民間からの束縛を完全に脱し、市場を放任することも統制下に置くことも
自在であった上で、なるべくなら無為自然であることを心がけ、どうしても
必要な場合に限って介入に臨んで行けるだけの体制を保っておくことである。
通貨発行権から民間委託で、市場統制なんかしようにもできない状態に国が置かれたり、
逆にあらゆる商業をこの世から絶やして、政府が生産労働を完全な統制下に置いたり
するような両極端こそは避けておくべきものであり、要するに資本主義や共産主義が
理想としてその実現や維持に取り組んでいるようなものこそは、極力避けるべきものである。
政府機関が財界や富裕層の傀儡化して独立性を失わないための税制として、
たとえば画像のようなものを採用したりもすればいいが、昔の日本などでも石高制など、
金融本位ではない別の方法で実質的に実現されていたことだし、そちらを採用したり、
あるいは画像よりもさらに新規な手法での実現を試みるのでも不可などということはない。
ただ、そこで必要となるのはあくまで機微の利いた臨機応変さであって、特定のイデオロギーに
囚われての一つ覚えな突っ走りなどではない。その域の思考や言動にしか及べないような人間は
念仏なみに真っ当な信条に即しようとも、権力中枢に携わらせない取り決めもまたあって然るべきである。
公権力が政商の支配下に置かれないようにするための施策として、
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
>>250画のよう税制を敷いたほうがいい場合もあれば、
より農本的な石高制に近い税制を敷いたほうがいい場合もあるし、
そのいずれでもないより新規な税制を敷いたほうがいい場合もあろう。
商売というもの自体、あの手この手を使って儲けようとする権謀術数の積み重ねが
続けられるものだし、そこにいつでも効果的な統制が加えられるようにするためには、
公権力もまた決して「これでよし(Es ist gut. Let it be. なんくるないさー ケンチャナヨ」
などという怠慢の決め込みに陥るようなことがあってはならないのである。
そもそもがイデオロギーというもの自体、ある種の思想信条への固着によって
世の中を支配下においてやろうとする怠慢性を帯びた理念であるわけで、
故にこそ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらざるが如き
世の中の流動性に対応しきれなくなるか、もしくは無理に世の中の側を
イデオロギーに従わせようとして破綻するかのいずれかに陥る宿命にあるのである。
それは、洋学のような劣悪な異学に基づくイデオロギーによる支配に限った話ではない。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
元よりイデオロギー性を廃してかかる中庸さを帯びた良質な思想信教に恵まれて来た
東洋社会においても、たとえば特に模範的な統治が行われた漢代の中国などでは、
時には儒家的、時には道家的といった政治理念から融通の利いた統治が実現されていた一方、
ここ数百年来の腐敗続きな中国などにおいては、儒教であれ異民族の蛮習であれ
共産主義であれ、何か特定の思想信教が絶対的な支配理念として、
国家が存続する限りにおいて君臨し続けるのが慣例となってしまっている。
同時代の日本が武芸や肉体労働をも健全な営みとして重んじていたのに反し、
近世の儒教絶対支配下の中朝では運動全般を賤民の領分と断じ、王族や貴族は体一つ
動かすことなくデスクワークだけに携わるのが理想ともされていたという。
そこからも当時の東アジアの大陸国が、儒学や仏道のような良質な教学に恵まれながらも、
もはやそれらが尊重している飽くなき精進、切磋琢磨を欠いた怠慢に囚われていたことが知れるのである。
世の中が特定のイデオロギー支配によって怠慢さに囚われてしまうこともあれば、
そうでなくとも同様な危難を招くことがあるわけで、そこは当然どちらも避けて然るべきである。
イデオロギー支配を廃絶さえすれば、世の中が怠慢の危害から解放されるなんていう、
これまた怠慢に囚われた夢想に駆られたりもすべきではないのである。
欧米人や近年の中韓人などは、掃除なんて下賤のやる仕事、
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
できる限り自分はやらないでこそ高貴なんていう怠慢が基本でいるが、
さすがに禅寺修行由来な掃除への尊重意識が豊かな日本人だと、
そこまでひどい怠慢にある場合は少なく、年末の大掃除なども
立場の貴賤などに関わらずやっておこうとするような殊勝さでいる場合が多い。
しかし一方で、自分たち自身が掃除洗濯料理などの家事も率先して執り行う
心がけをヨシとし続けた挙句に、「広い家なんて掃除や管理が面倒になるだけだから」
などという理由で、高所得にもかかわらず狭い家に好んで住み込んだ挙句、近所の騒音がうるさくて
文句をいうなんていう事例が増えている現状を鑑みるに、やはりそこには、掃除や整理まで
自分でこなすのが美徳だなんて社会ならではの怠慢が闖入していたという他ないのである。
イデオロギーなんかを確信的に世の中の支配理念として据えようとするような、
洋学的な目論見が世界を破滅の危機に陥れた一方で、イデオロギーによる独裁支配なんかを
否定してかかる部類の正学正教を頼もうとも、近世の中朝のごとくある種の腐敗に見舞われる
危険があることが、上記のような日本人の行き詰まり加減からも察知されるわけである。
新スレは来年にでもと思ったが、
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
あまり明るい内容ではないし、今日のうちに立てとくかな。
普通の日本人なら忙しいはずの年末にも、火病で燃え上がってるのがちらほら。
そういう立場の日本人か、あるいは旧暦のほうが本位な国の人々か。
正月にはごく一部の職種を除いて誰しもが休業、
食料一つ買い出せなくなるから、おせちが非常食としての役割も果たしてた
なんていう時代も今は昔。そんなもん買った所で空しくなるだけだから、
「大して美味くない」だのなんだのと難癖つけてやめるお一人様なども多い。
自分たちの都合で古来の伝統を棄損し回る側でばかりいる竹中経団連サイドなどは、
それをこそ「日本人の価値観の多様化」だなんだと言い張ったりもするのだろうが、
実際には粗悪なジャンク文化もしくは文化ですらない威勢的圧迫によって、昔の文化を
排他的に亡きものにしてやろうとする試みが繰り返されているだけのことである。
現時点の年末年始の恒例行事なども、必ずしも伝統的なものばかりではなく、
初詣なども近年に作られた風習で、より以前は正月に限らず幾度となく寺社への参詣を
繰り返すのが当たり前だっというが、近代化で伝統文化が軽んじられるようになった
ことへの対処として初詣キャンペーンなども講じられたわけで、伝統文化の棄損自体は
今に始まったことではなく、近代以降すでに幾度となく積み重ねられて来たものである。
[YouTubeで再生]
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
新しい物を取り入れて進化して行くことが、古い物の棄損と共に進行するのは、
温故知新の心がけを欠いているが故に、進歩のつもりの退歩なども多く孕むものである。
アメリカ文化なんて一切合切がそれ止まりなものだから、筋トレ用のトレーニングマシン
一つとっても前の世代のもののほうがより効果的だなんてことがいくらでもあるという。
俺もアメリカ製の軍装品の物色で、新型よりも旧型のほうが明らかに有用なんて事例を
いくつも目にして来たし(日本は粗悪な中国製か普及の軌道に乗ってない超ハイブランド
しかまだないのでもっと頼りようがない分野)、なんといっても今年発売されたiPhone15が、
筐体に熱伝導率の低いチタンを使ってるせいで、熱暴走がひどくてまともに使えないなんて
いう無様さが、平気で進歩と退歩を一緒に繰り返すアメリカナイズの象徴例となったもの。
極端に西洋かぶれがひどい連中の中には、欧米こそは進歩主義、東洋は守旧的で頑迷だ
などと思い込んでいる連中もいるが、むしろ古来の温故知新を旨とした東洋的価値観のほうが、
進歩と退歩を同時に繰り返して、結局のところ総合的には退歩のほうがひどくなっている
なんていう真似を許さず、必ず退歩以上の進歩があるように心がけて来ているものである。
故にこそ、どうあがいてもこれ以上があり得ないようなものを伝統として堅く持ち保って
行くようなことも多いだけで、それは決して人類の進歩を否定したものなどではないのである。
ネットの普及もかえって馬鹿を増産してしまったとビルゲイツも認めているように、
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
科学技術もまた人々の進歩を助成することもあれば、退歩を助長することもある。
だからこそ科学の進歩さえあれば、人類も常に上位互換へと進化し続けるものだ
なんていう短絡志向もまた避けねばならないのである。
ネットなら、今ここで暴れ回っている俺アンチのように、完全にそこに絡め取られて
もがき苦しむだけの亡者と化してしまうようなことを極力避けて、ネットとは
また別個の存在としての自らの精神的、技術的、肉体的な養生にはげみ、
ネットもまたその邪魔になることなく、純粋な助けとなるように扱う。
そこで必要となるのも、新たな科学技術などではなく、人間たち自身の精進意識である。
それを得るためにこなすべきなのも、日々の座禅だとか武芸や瑜伽の修練だとかの
古来の技法か、それを現代人ならではの至らなさに対応させたようなものに限られる。
(古典ヨガが直接会得できない域の未熟者に前座としての現代ヨガがあてがわれるように)
ネットを全否定するでも、そこに惑溺した亡者となるでもなく、うまい付き合い方で
自らの修養の助けにできるような者こそは、最大級に進歩的な人材でもあり得よう。
そこで必要となるのもやはり、ただ一つの理念ばかりに囚われて他を見失ったりする
ことがない、イデオロギー的怠慢を十分に制する大人びた心持ちでこそあるのである。
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スレッドタイトル:この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である