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カルトとレディーファースト 偉大なる生存の報告 Part318
▼ページ最下部
カルトにも色々あって、イスラム原理主義や日本赤軍あたりも
そのうちに入れるのなら、男尊女卑や男女平等がその活動原理になることも
あるわけだけれども。今この日本で猛威を奮い続けている部類のカルトに
ついては、専ら「レディーファースト系」であるという点が共通している。
別に女性優遇や女性専用を表向きに標榜しているわけでもないが、
主には加齢での体力低下や更年期による陰鬱状態に陥ってしまったような
女性たちを甘く優しい言葉でたぶらかし、まず自分たち側に取り込んで、
そこから場合によっては家族や知人友人に至るまでの征服支配を目論む。
統一教会はその典型例だし、元来は男尊女卑な傾向がある仏教系であるはずの
創価学会ですら、カルト故に某芸能人たちのような女性信者に頼る所が大きい。
明確にカルトと見なされず、さらには宗教団体でもないような組織団体だろうとも、
性別不問にもかかわらず結果的に女性優遇状態となっているような所は大体、
カルトに近い傾向を帯びていて、それがゲートドラッグ的なカルトへの橋渡し役
になってしまうこともある。統一教会などはそれ自体、そんなに大きな組織ではないが、
さような団体に至るまでを裾野と考えた場合の領域展開の規模はきわめて大きく、
ゆえに日本中が連中にとっての「濡れ手に泡」な狩場と化してしまっているのである。
そんなレディーファースト系カルトへの傾向分析と、対策の模索が今回の主題である。
そのうちに入れるのなら、男尊女卑や男女平等がその活動原理になることも
あるわけだけれども。今この日本で猛威を奮い続けている部類のカルトに
ついては、専ら「レディーファースト系」であるという点が共通している。
別に女性優遇や女性専用を表向きに標榜しているわけでもないが、
主には加齢での体力低下や更年期による陰鬱状態に陥ってしまったような
女性たちを甘く優しい言葉でたぶらかし、まず自分たち側に取り込んで、
そこから場合によっては家族や知人友人に至るまでの征服支配を目論む。
統一教会はその典型例だし、元来は男尊女卑な傾向がある仏教系であるはずの
創価学会ですら、カルト故に某芸能人たちのような女性信者に頼る所が大きい。
明確にカルトと見なされず、さらには宗教団体でもないような組織団体だろうとも、
性別不問にもかかわらず結果的に女性優遇状態となっているような所は大体、
カルトに近い傾向を帯びていて、それがゲートドラッグ的なカルトへの橋渡し役
になってしまうこともある。統一教会などはそれ自体、そんなに大きな組織ではないが、
さような団体に至るまでを裾野と考えた場合の領域展開の規模はきわめて大きく、
ゆえに日本中が連中にとっての「濡れ手に泡」な狩場と化してしまっているのである。
そんなレディーファースト系カルトへの傾向分析と、対策の模索が今回の主題である。
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漫画原作に関していえば、次世代の日本人たちには相当な人気を博し、
世界でも長年一番人気であり続けている「ベルセルク」が、
旧世代の年寄りの間ではほぼ名前すら知られてない、なんて現象もあるが。
なにしろ、ヒステリー患者にはまともに読みこなすこともできないほどの
悲壮描写の塊で、ストーリーの根幹の所にまでそのダークさが徹底的に
仕込まれ抜いているものだから、改変でのソフトイメージ化の目途も立たない。
国会中継の野党議員の糾弾だけでも身の毛がよだつ嫌悪感に見舞われるほどの
ヒステリーが常態化しているおばさん達こそが主導権を握っている旧世代が、
まともに聞き知ることもできないほどの悲壮さを帯びた漫画作品こそは、
人口面や経済面で発展を続けている世界の人々からの一番の支持をも得ているわけで、
(国内人気もそれなりであるにしろ、アニメ版進撃の巨人なども同様な傾向がある)
そんなヒステリーありきな世の中のほうが持続不能級に異常なのだとも知れるわけだ。
世界でも長年一番人気であり続けている「ベルセルク」が、
旧世代の年寄りの間ではほぼ名前すら知られてない、なんて現象もあるが。
なにしろ、ヒステリー患者にはまともに読みこなすこともできないほどの
悲壮描写の塊で、ストーリーの根幹の所にまでそのダークさが徹底的に
仕込まれ抜いているものだから、改変でのソフトイメージ化の目途も立たない。
国会中継の野党議員の糾弾だけでも身の毛がよだつ嫌悪感に見舞われるほどの
ヒステリーが常態化しているおばさん達こそが主導権を握っている旧世代が、
まともに聞き知ることもできないほどの悲壮さを帯びた漫画作品こそは、
人口面や経済面で発展を続けている世界の人々からの一番の支持をも得ているわけで、
(国内人気もそれなりであるにしろ、アニメ版進撃の巨人なども同様な傾向がある)
そんなヒステリーありきな世の中のほうが持続不能級に異常なのだとも知れるわけだ。
カルトであれ非カルトであれ、レディーファースト系でおばさん達を
たぶらかす互助組織は、要するに「心の老い」を助長している点で共通する。
フィクション作品なんかは、あくまでフィクションなんだから、
えげつない悲壮描写なども必要とあらばどんどんと取り入れて行けばいい。
だからこそ、仁義道徳が広く通用していた江戸時代の日本などでも、
女遊びにうつつを抜かして身を滅ぼす匹夫の男の姿などが、そこに
教訓を込める意味も込めて悲壮の限りを尽くして描かれていたものだが。
(思い上がりのせいで生涯独身の苦難に陥った元美女を描く老女物の能楽なども同様)
あまりにも心が老い過ぎれば、さような描写の一切が受け付けられなくなり、
ベルセルクや進撃の巨人や、原作通りのセクシー田中さんみたいな厳しい描写もある
漫画作品ですらほとんど読めない、無理に読んでも楽しめないなんてことになる。
セクシー田中さんについていえば、世代総出で極貧状態にある次世代の中年女性の、
実地に根差した苦難描写などもあるようだけれども、そこからも目を逸らすことを通じて、
現実の次世代たちの苦悩からも完全に目を背け抜く怠慢が派生することともなる。
悲壮なフィクションも受け付けられない心の老いが、現実の非道にも直結するわけである。
たぶらかす互助組織は、要するに「心の老い」を助長している点で共通する。
フィクション作品なんかは、あくまでフィクションなんだから、
えげつない悲壮描写なども必要とあらばどんどんと取り入れて行けばいい。
だからこそ、仁義道徳が広く通用していた江戸時代の日本などでも、
女遊びにうつつを抜かして身を滅ぼす匹夫の男の姿などが、そこに
教訓を込める意味も込めて悲壮の限りを尽くして描かれていたものだが。
(思い上がりのせいで生涯独身の苦難に陥った元美女を描く老女物の能楽なども同様)
あまりにも心が老い過ぎれば、さような描写の一切が受け付けられなくなり、
ベルセルクや進撃の巨人や、原作通りのセクシー田中さんみたいな厳しい描写もある
漫画作品ですらほとんど読めない、無理に読んでも楽しめないなんてことになる。
セクシー田中さんについていえば、世代総出で極貧状態にある次世代の中年女性の、
実地に根差した苦難描写などもあるようだけれども、そこからも目を逸らすことを通じて、
現実の次世代たちの苦悩からも完全に目を背け抜く怠慢が派生することともなる。
悲壮なフィクションも受け付けられない心の老いが、現実の非道にも直結するわけである。
ベルセルクの一大典拠となっている座頭市なども、
市以外の登場人物は誰も生き残らないような、
悲壮を極めて終わる回などが結構あったものだけれども。
それを作ってたのも、見て楽しんでたのも、
家庭は夫唱婦随が当たり前だった戦前世代。
もちろん戦争を経験してるから悲壮さに強いというのもあるが、
こんな辛い話なんか見たくもない聞きたくもないなんて我を張りながら
偉そうに主張できるおばさんなんかが一人もいなかったからというのもある。
ベルセルクの典拠には「デビルマン」なんかもあるが、
これの作者の永井豪なんかも、過激なエログロ描写で
PTAから目の敵にされ続けていた代表的な漫画家なわけで。
たしかに不健全描写をまだ分別もないような子供にまで見せつけるのは
やり過ぎとなる場合もあるにしろ、そこからヒスおばさん達の願望が
全年齢の社会にまで行き渡り過ぎて、教訓的な意味合いもあっての
悲壮描写すら許されなくなったのが昨今のフィクション業界だったり
もするわけで。それはそれで逆方向への不健全化を来たしているのである。
市以外の登場人物は誰も生き残らないような、
悲壮を極めて終わる回などが結構あったものだけれども。
それを作ってたのも、見て楽しんでたのも、
家庭は夫唱婦随が当たり前だった戦前世代。
もちろん戦争を経験してるから悲壮さに強いというのもあるが、
こんな辛い話なんか見たくもない聞きたくもないなんて我を張りながら
偉そうに主張できるおばさんなんかが一人もいなかったからというのもある。
ベルセルクの典拠には「デビルマン」なんかもあるが、
これの作者の永井豪なんかも、過激なエログロ描写で
PTAから目の敵にされ続けていた代表的な漫画家なわけで。
たしかに不健全描写をまだ分別もないような子供にまで見せつけるのは
やり過ぎとなる場合もあるにしろ、そこからヒスおばさん達の願望が
全年齢の社会にまで行き渡り過ぎて、教訓的な意味合いもあっての
悲壮描写すら許されなくなったのが昨今のフィクション業界だったり
もするわけで。それはそれで逆方向への不健全化を来たしているのである。
そんな不甲斐ない旦那と、いつも機嫌が悪い女房なんかの間に生まれた子供もまた、
それが夫婦の当たり前な姿だと思い込みながら育ち、結婚意欲なんかも萎えさせる。
息子の場合は不甲斐ない父親の姿ばかりを見せられながら育つせいで、男性ホルモンの
分泌量を根底にまで至らしめ、近年チー牛などとも呼ばれるような魅力のなさともなる。
(親世代が完全な夫唱婦随だった団塊にチー牛がいないのもこの逆の理由に基づく)
嫁が統一教会の信者となった家庭ほど、極端な崩壊に見舞われることは稀であるにしろ、
それに準ずるような家族関係の冷え込みを招くために、近年よく取り沙汰されているような
ほとんどの家庭問題の最たる温床ともなっている。宗教的だからではなく、中高年女性たちを
余計なヒステリーに追い込むような不毛さを帯びているからこそ、そうなるのである。
それが夫婦の当たり前な姿だと思い込みながら育ち、結婚意欲なんかも萎えさせる。
息子の場合は不甲斐ない父親の姿ばかりを見せられながら育つせいで、男性ホルモンの
分泌量を根底にまで至らしめ、近年チー牛などとも呼ばれるような魅力のなさともなる。
(親世代が完全な夫唱婦随だった団塊にチー牛がいないのもこの逆の理由に基づく)
嫁が統一教会の信者となった家庭ほど、極端な崩壊に見舞われることは稀であるにしろ、
それに準ずるような家族関係の冷え込みを招くために、近年よく取り沙汰されているような
ほとんどの家庭問題の最たる温床ともなっている。宗教的だからではなく、中高年女性たちを
余計なヒステリーに追い込むような不毛さを帯びているからこそ、そうなるのである。
実際、うちの親も少なからずそういった問題性を帯びていたのは確かだが。
今の日本人家庭なんて9割9分9厘がそうなんだから、
それを特別な醜態として恥じる余地などもない。
おそらくは否定派の親あたりもその傾向が濃厚だったせいで、
先祖返りの父権志向から極度の親嫌い、女嫌いともなったのだろうし。
そこに異常さを感知できるだけマシな部類とも言えるだろう。
今の日本人家庭なんて9割9分9厘がそうなんだから、
それを特別な醜態として恥じる余地などもない。
おそらくは否定派の親あたりもその傾向が濃厚だったせいで、
先祖返りの父権志向から極度の親嫌い、女嫌いともなったのだろうし。
そこに異常さを感知できるだけマシな部類とも言えるだろう。
おばさん達がヒステリーを増悪させる作用機序の委細については、
たとえば以下のようなものが挙げられる。
女や子供は、大人の男と比べて格段に弱いからこそ、
助けを求める悲鳴がよく聞こえるように、声の音域も高くなっている。
そしてその悲鳴をいざという時には間髪入れず上げられるように、
危機に際しては敏感に戦慄できるような精神構造をも持ち合わせている。
さような生態を持ち合わせている女たちが、中年以降に段違いの体力低下や
更年期に見舞われて、もはや自分だけでは生きて行けなくなりそうだという
危機感を本能的に抱き、常時精神が戦慄状態のままであり続けるようになってしまう。
男でも常時戦場にいたりすれば相当なストレスを感じさせられるものだが、
女たちはただ加齢に見舞われるだけでもそれと同等なストレスを抱き始める。
それでもたとえば、昔話の鬼婆みたいな身寄りのない一人暮らしだったりすると、
助けを求められる相手もいないために、ストレスをこじらせてのヒステリー状態となる。
(つまり鬼婆伝説は希少種だった頃のヒス婆の寓話なのである)
そうでなくとも、男女平等や女性の独立が声高に謳われて、
「今は女のほうが男よりも強い生き物であることが認知された時代」なんていう
思い込みまでもが通用している昨今ともなれば、女たちもたとえ結婚した所で、
下手に夫に助けを求めたり、依存心を抱いたりするのが許されないために、
自業自得でヒス化を強いられるようになっているのである。
たとえば以下のようなものが挙げられる。
女や子供は、大人の男と比べて格段に弱いからこそ、
助けを求める悲鳴がよく聞こえるように、声の音域も高くなっている。
そしてその悲鳴をいざという時には間髪入れず上げられるように、
危機に際しては敏感に戦慄できるような精神構造をも持ち合わせている。
さような生態を持ち合わせている女たちが、中年以降に段違いの体力低下や
更年期に見舞われて、もはや自分だけでは生きて行けなくなりそうだという
危機感を本能的に抱き、常時精神が戦慄状態のままであり続けるようになってしまう。
男でも常時戦場にいたりすれば相当なストレスを感じさせられるものだが、
女たちはただ加齢に見舞われるだけでもそれと同等なストレスを抱き始める。
それでもたとえば、昔話の鬼婆みたいな身寄りのない一人暮らしだったりすると、
助けを求められる相手もいないために、ストレスをこじらせてのヒステリー状態となる。
(つまり鬼婆伝説は希少種だった頃のヒス婆の寓話なのである)
そうでなくとも、男女平等や女性の独立が声高に謳われて、
「今は女のほうが男よりも強い生き物であることが認知された時代」なんていう
思い込みまでもが通用している昨今ともなれば、女たちもたとえ結婚した所で、
下手に夫に助けを求めたり、依存心を抱いたりするのが許されないために、
自業自得でヒス化を強いられるようになっているのである。
鬼婆伝説には、宿泊客を56してその肝を喰らうような、
おぞましい他害の逸話もまた付き物だけれども。
なぜヒス婆がさような他害にまで及びかねないと思われていたのか
について、もう少し身近な現代の実話に即して説明してみればーー
俺が昔、小型の耐火金庫の合鍵を作りたくて鍵屋にいった時のこと。
最初に入った店で出て来たのは、見た目アラフォーぐらいの女の鍵師で、
俺が持って来た鍵と金庫をひとしきり眺めまわした後に、
「これおもちゃも同然な鍵なんですよね」などと、
変な言い訳をして合鍵製作を拒絶しよった。
次に入った鍵屋では、40代ぐらいの男性の鍵師が出て来て、
あっという間にその合鍵を作ってくれた。
鍵師でいながら、ろくに作れる合鍵の種類もないような自らの能力の低さを、
あろうことか鍵の側の責任に転嫁しようとするような卑劣さ。
ただでさえあらゆる能力の低下に苦しめられて、さりとて弱者としての
助けを求めることも出来ないという追い詰められ加減の手前、
自らの責任や落ち度を何もかも認めず、どんな手を使ってでも、
他者にそれを擦り付けようとする、それが時には他害の事態にまで至る。
セクシー田中さんの作者を死なせた、ドラマ制作陣の女たちもまた、
おそらくはそれと同様であり、そこで罪悪感の一つも感じてはいないのである。
おぞましい他害の逸話もまた付き物だけれども。
なぜヒス婆がさような他害にまで及びかねないと思われていたのか
について、もう少し身近な現代の実話に即して説明してみればーー
俺が昔、小型の耐火金庫の合鍵を作りたくて鍵屋にいった時のこと。
最初に入った店で出て来たのは、見た目アラフォーぐらいの女の鍵師で、
俺が持って来た鍵と金庫をひとしきり眺めまわした後に、
「これおもちゃも同然な鍵なんですよね」などと、
変な言い訳をして合鍵製作を拒絶しよった。
次に入った鍵屋では、40代ぐらいの男性の鍵師が出て来て、
あっという間にその合鍵を作ってくれた。
鍵師でいながら、ろくに作れる合鍵の種類もないような自らの能力の低さを、
あろうことか鍵の側の責任に転嫁しようとするような卑劣さ。
ただでさえあらゆる能力の低下に苦しめられて、さりとて弱者としての
助けを求めることも出来ないという追い詰められ加減の手前、
自らの責任や落ち度を何もかも認めず、どんな手を使ってでも、
他者にそれを擦り付けようとする、それが時には他害の事態にまで至る。
セクシー田中さんの作者を死なせた、ドラマ制作陣の女たちもまた、
おそらくはそれと同様であり、そこで罪悪感の一つも感じてはいないのである。
勝俣州和がこの前、仕事場で最年少だったのが
49歳のビビアン・スーだったことを告白したりもしてたものだし、
テレビ業界も多くの大企業などと同じく、氷河期以下の次世代を
締め出し続けて来たことによる高齢化が著しいようで。
なおかつ、テレビ局の中枢には在日韓国人なども多いから、保身のためにも
やり手の日本人なんか寄せ付けたくもない、ましてや男など真っ平御免で、
縁故採用や元タレントの女なんかが優先登用されるようにもなってるんだろう。
そしたらもう、全体が無能だらけな烏合の衆となって、
ドラマの撮影現場などもまったく配慮の余地もない有様となり。
原作に忠実なドラマ化なんかもまともに試みることもできなくなったと。
49歳のビビアン・スーだったことを告白したりもしてたものだし、
テレビ業界も多くの大企業などと同じく、氷河期以下の次世代を
締め出し続けて来たことによる高齢化が著しいようで。
なおかつ、テレビ局の中枢には在日韓国人なども多いから、保身のためにも
やり手の日本人なんか寄せ付けたくもない、ましてや男など真っ平御免で、
縁故採用や元タレントの女なんかが優先登用されるようにもなってるんだろう。
そしたらもう、全体が無能だらけな烏合の衆となって、
ドラマの撮影現場などもまったく配慮の余地もない有様となり。
原作に忠実なドラマ化なんかもまともに試みることもできなくなったと。
他に、タレント事務所の横暴な意向の聞き入れとかもあるだろうけれども、
セクシー田中さんについてはむしろそういう問題のほうが多かったようだ。
無能だらけの職場で、さらに更年期のおばさんだったりもするようなスタッフたるや、
まったく心の余裕もなく、原作無視のドラマ化なんかも、そんな自分たちに
とっての当然の権利ぐらいに思ってたろうし、そのせいで原作者が死んだなんてのも
あまりにも不本意すぎて、自分たちが悪いなどとは到底思えないでいることだろう。
そして、そんな自分たちが弱者としての弱音を吐くことも決して許さない、
男女平等、女性の社会進出推進という風潮。それ自体を敵に回すわけにもいかないので、
結局は夫や彼氏や男一般に怒りを転嫁しての狂乱にでも明け暮れるしかないのだ。
セクシー田中さんについてはむしろそういう問題のほうが多かったようだ。
無能だらけの職場で、さらに更年期のおばさんだったりもするようなスタッフたるや、
まったく心の余裕もなく、原作無視のドラマ化なんかも、そんな自分たちに
とっての当然の権利ぐらいに思ってたろうし、そのせいで原作者が死んだなんてのも
あまりにも不本意すぎて、自分たちが悪いなどとは到底思えないでいることだろう。
そして、そんな自分たちが弱者としての弱音を吐くことも決して許さない、
男女平等、女性の社会進出推進という風潮。それ自体を敵に回すわけにもいかないので、
結局は夫や彼氏や男一般に怒りを転嫁しての狂乱にでも明け暮れるしかないのだ。
人間が「心の老い」とでも呼ぶべき精神現象に見舞われる機序についても詳述すればーー
心そのものは、原理的には老いることを完全に防げる事物ではあるのだが、
ヒトも生物である以上は、身体の老化から完全に免れられることはない。
その、身体の老化に心までもが取り込まれた時に、心の老いまでもが生じてしまう。
囲碁や植物研究のような、それ自体が健康法なわけでもないような
手段であっても、そこへの熱心な取り組みによって心の張りを保てたなら、
心の老いを終身にわたって撃退し抜くことが可能となるものである。
なおかつ、ラージャヨガや座禅行なみに専門的な手段をも正しく修めれば、
心の張りで体の老化を遅らせることまでもが可能となるわけだけれども。
残念ながら、現在ヨガなどと呼ばれているような行法のほとんどは、
そのどちらの効果も発揮することなく、場合によっては体の老化に心が取り込まれての、
心の老いを助長するような逆効果までをも帯びてしまっているのが常となっている。
大メディアが延々とテレビで垂れ流し続けているバラエティやスポーツ番組などもまた、
えてして同様な心の老いを助長する悪影響を帯びているもので、たとえば自分よりも
はるかに若い大谷みたいなスポーツ選手の活躍を見て、それを楽しんだ所で、自分自身
については「もういいや」という諦めが助長されて、心の老いも盤石化するのみとなる。
心そのものは、原理的には老いることを完全に防げる事物ではあるのだが、
ヒトも生物である以上は、身体の老化から完全に免れられることはない。
その、身体の老化に心までもが取り込まれた時に、心の老いまでもが生じてしまう。
囲碁や植物研究のような、それ自体が健康法なわけでもないような
手段であっても、そこへの熱心な取り組みによって心の張りを保てたなら、
心の老いを終身にわたって撃退し抜くことが可能となるものである。
なおかつ、ラージャヨガや座禅行なみに専門的な手段をも正しく修めれば、
心の張りで体の老化を遅らせることまでもが可能となるわけだけれども。
残念ながら、現在ヨガなどと呼ばれているような行法のほとんどは、
そのどちらの効果も発揮することなく、場合によっては体の老化に心が取り込まれての、
心の老いを助長するような逆効果までをも帯びてしまっているのが常となっている。
大メディアが延々とテレビで垂れ流し続けているバラエティやスポーツ番組などもまた、
えてして同様な心の老いを助長する悪影響を帯びているもので、たとえば自分よりも
はるかに若い大谷みたいなスポーツ選手の活躍を見て、それを楽しんだ所で、自分自身
については「もういいや」という諦めが助長されて、心の老いも盤石化するのみとなる。
四六時中他者への嫌がらせをすることしか考えてないクズが!
とっとと消えちまえ
とっとと消えちまえ
社会不適合者が開き直るなよ
1秒でも早く此の世からきえてくらはい
1秒でも早く此の世からきえてくらはい
(>>74の続き)
昨今の世人は、むしろ心の老いを開き直って増悪させて行くことのほうを、
精神的な成長とまで思い込んで開き直っているような場合までもが多々あり、
ラージャヨガ的な嗜みによって、心の張りで体の老いを撃退することはおろか、
牧野富太郎や>>35画の女流棋士のように、たとえ身体が老いようとも、
心の張りだけは保ち続けるといった真似すらそうそうには務まらない。
「ヨガ」を名乗るものがそこら中に広まってるんだから、ラージャヨガだって
修めやすい時代なのかと思いきや、むしろより遠ざかった状態にあるのが現実。
その証拠に、ラージャヨガ仕込みだからこそ常にアゲアゲなここでの
俺の物言いなどにも、嫌悪感を抱いて執拗に叩いてくるような連中が一定数いる。
そういう連中は大体、俺個人の病的な問題性などにその責任を押し付けようとするのだが、
どうせ似たような猛烈さを大谷翔平や松岡修造だって持ち合わせているものだし、それらもただ
遠目に見てるから格好いい面白いと思えるだけで、身近にいれば絶対に対俺並みの嫌悪感を催すもの。
もちろんそれも、大谷や松岡に問題があるからではない。
おまえらのような、最大級に現代の通俗的な価値観に浸かり切っている連中のほうが、
極限まで心を老いさらばえさせながら、それこそを健康で成熟した精神状態だなどと開き直って
いるからこそ、それとは相容れないラージャヨガ的な熱血さが受け付けられないでいるだけなのだ。
昨今の世人は、むしろ心の老いを開き直って増悪させて行くことのほうを、
精神的な成長とまで思い込んで開き直っているような場合までもが多々あり、
ラージャヨガ的な嗜みによって、心の張りで体の老いを撃退することはおろか、
牧野富太郎や>>35画の女流棋士のように、たとえ身体が老いようとも、
心の張りだけは保ち続けるといった真似すらそうそうには務まらない。
「ヨガ」を名乗るものがそこら中に広まってるんだから、ラージャヨガだって
修めやすい時代なのかと思いきや、むしろより遠ざかった状態にあるのが現実。
その証拠に、ラージャヨガ仕込みだからこそ常にアゲアゲなここでの
俺の物言いなどにも、嫌悪感を抱いて執拗に叩いてくるような連中が一定数いる。
そういう連中は大体、俺個人の病的な問題性などにその責任を押し付けようとするのだが、
どうせ似たような猛烈さを大谷翔平や松岡修造だって持ち合わせているものだし、それらもただ
遠目に見てるから格好いい面白いと思えるだけで、身近にいれば絶対に対俺並みの嫌悪感を催すもの。
もちろんそれも、大谷や松岡に問題があるからではない。
おまえらのような、最大級に現代の通俗的な価値観に浸かり切っている連中のほうが、
極限まで心を老いさらばえさせながら、それこそを健康で成熟した精神状態だなどと開き直って
いるからこそ、それとは相容れないラージャヨガ的な熱血さが受け付けられないでいるだけなのだ。
ラージャヨガ的な熱血さを帯びた者の人間性は、まさに太陽の如く。
生身の人間が到達はおろか、水星程度の距離にまで近づいただけでも400度以上の高熱で即死する。
地球上ですら、砂漠や真夏のアスファルト上などの環境によっては、熱中症や脱水症状からの
死傷にも見舞われかねないし、そうでなくたって日光を直視しただけでも目を傷めるがごとく、
太陽は決して人間のような有機生物に対して優しいばかりの存在ではなく、
接し方によっては大いなる危害をももたらしかねないものである。
一方で、太陽光こそは地球上の生態系を育む一大エネルギーともなっていて、
火山噴火などでそれが遮られた場合の冷害や氷河期化などの害も著しい。
仮に火星や冥王星のような、地球よりも太陽から遠くて日光があまり届かない星への移住などを
試みようとも、それ故のエネルギー源の少なさこそが致命的な仇となっての非現実性を帯びたままでいる。
人間という生き物は、太陽に対して近づきすぎず遠ざかり過ぎない、適度な距離感を
保つことで最大級の繁栄を獲得する種族であるのと同じように、ラージャヨガ的な素養の
持ち主もまた、常人が適度な距離感で接することにより最大級の福徳をもたらし得るものである。
そういう人種が疎ましいあまりに、なるべく根絶して、いても徹底的に遠ざけようなどとしている
今の世間一般たるや、それ故に冷害や冥王星への移住にも似た冷え込みに見舞われているわけである。
生身の人間が到達はおろか、水星程度の距離にまで近づいただけでも400度以上の高熱で即死する。
地球上ですら、砂漠や真夏のアスファルト上などの環境によっては、熱中症や脱水症状からの
死傷にも見舞われかねないし、そうでなくたって日光を直視しただけでも目を傷めるがごとく、
太陽は決して人間のような有機生物に対して優しいばかりの存在ではなく、
接し方によっては大いなる危害をももたらしかねないものである。
一方で、太陽光こそは地球上の生態系を育む一大エネルギーともなっていて、
火山噴火などでそれが遮られた場合の冷害や氷河期化などの害も著しい。
仮に火星や冥王星のような、地球よりも太陽から遠くて日光があまり届かない星への移住などを
試みようとも、それ故のエネルギー源の少なさこそが致命的な仇となっての非現実性を帯びたままでいる。
人間という生き物は、太陽に対して近づきすぎず遠ざかり過ぎない、適度な距離感を
保つことで最大級の繁栄を獲得する種族であるのと同じように、ラージャヨガ的な素養の
持ち主もまた、常人が適度な距離感で接することにより最大級の福徳をもたらし得るものである。
そういう人種が疎ましいあまりに、なるべく根絶して、いても徹底的に遠ざけようなどとしている
今の世間一般たるや、それ故に冷害や冥王星への移住にも似た冷え込みに見舞われているわけである。
誰しもが篤く仏門に帰依していた時代の日本でも、必ずしも誰しもが
密教や禅や武芸の修行で、ラージャヨガ的な素養までをも十分に身に付けて
いたわけではなく、大多数は他力本願の念仏あたりに留まっていたのが実情である。
さりとて、現代などとは違って、当時は万民にまでその功徳が行き届き、
人間たち自身の不届きさからの自業自得による戦乱や経済破綻などを
邦から絶やすこともまた、幾度となく実現されていたのには違いない。
それは、自らがラージャヨガ級の熱血さにまでは及ぶことも、その傍らで
平気でいられもしないような凡人もまた、念仏信仰などによって己が至らなさを
相応に弁えての、人との適度な距離感を保つ務めぐらいは果たしていたからである。
廃仏毀釈によって、さような万民向けの仏教的な嗜みまでもが剥奪されて、
なおかつ心の老いこそを精神的な成熟として開き直っておごり高ぶるような
西洋的悪徳が近代以降の日本に持ち込まれたために、ラージャヨガ的な志向性の
持ち主が無宗教的にすら、その本領を発揮できることがほとんどなくなってしまった。
戦前の、末端の日本兵などにはその手の達者も多かったようだが、西洋的悪徳のほうに
取り込まれた軍上層部に捨て駒としてのひどい扱いを受け、なおかつ軍部全体もまた、
より悪徳を極める財閥などの捨て駒扱いにされての敗亡に陥ったのだった。
密教や禅や武芸の修行で、ラージャヨガ的な素養までをも十分に身に付けて
いたわけではなく、大多数は他力本願の念仏あたりに留まっていたのが実情である。
さりとて、現代などとは違って、当時は万民にまでその功徳が行き届き、
人間たち自身の不届きさからの自業自得による戦乱や経済破綻などを
邦から絶やすこともまた、幾度となく実現されていたのには違いない。
それは、自らがラージャヨガ級の熱血さにまでは及ぶことも、その傍らで
平気でいられもしないような凡人もまた、念仏信仰などによって己が至らなさを
相応に弁えての、人との適度な距離感を保つ務めぐらいは果たしていたからである。
廃仏毀釈によって、さような万民向けの仏教的な嗜みまでもが剥奪されて、
なおかつ心の老いこそを精神的な成熟として開き直っておごり高ぶるような
西洋的悪徳が近代以降の日本に持ち込まれたために、ラージャヨガ的な志向性の
持ち主が無宗教的にすら、その本領を発揮できることがほとんどなくなってしまった。
戦前の、末端の日本兵などにはその手の達者も多かったようだが、西洋的悪徳のほうに
取り込まれた軍上層部に捨て駒としてのひどい扱いを受け、なおかつ軍部全体もまた、
より悪徳を極める財閥などの捨て駒扱いにされての敗亡に陥ったのだった。
まだ重機もない時代に、満濃池造成や利根川東遷のような絶大な土木事業を成し遂げて
いた近世以前の日本人なども、ラージャヨガ的な素養をその原動力としていたのだけれども。
近代以降もしばらくの間、大多数の日本人はそれに準ずるような底力を持ち越していたために、
戦争で外国人の捕虜を徒歩で行進させると、自分たちも一緒に歩いてるのに、あまりにも
過酷すぎて死者を出したり、足腰が強すぎて洋式トイレも嫌がったりといった風であった。
戦後はついに、さような世界平均を大きく上回る域の強靭さも凋落に陥ることとなり、
特に椅子や車に頼る生活のせいで、骨盤底筋からの底力を格段に下落させ、そのうえに古来の
低たんぱくな食生活から脱却できないでいるせいでの、外国人以上の虚弱化までをも来たすに至った。
いた近世以前の日本人なども、ラージャヨガ的な素養をその原動力としていたのだけれども。
近代以降もしばらくの間、大多数の日本人はそれに準ずるような底力を持ち越していたために、
戦争で外国人の捕虜を徒歩で行進させると、自分たちも一緒に歩いてるのに、あまりにも
過酷すぎて死者を出したり、足腰が強すぎて洋式トイレも嫌がったりといった風であった。
戦後はついに、さような世界平均を大きく上回る域の強靭さも凋落に陥ることとなり、
特に椅子や車に頼る生活のせいで、骨盤底筋からの底力を格段に下落させ、そのうえに古来の
低たんぱくな食生活から脱却できないでいるせいでの、外国人以上の虚弱化までをも来たすに至った。
スポーツ観戦で大谷みたいなデカマッチョを持て囃すことがあれども、大多数の日本人は
それに多少あやかることすら諦めての、虚弱化一辺倒からの病院頼みという醜態のままでいる。
逆に、他人のスポーツ頼みがそれを助長しているような所すらあるし、ラージャヨガ的な修養の功徳を
他力本願の範疇で万民に広めていた、念仏の代役を果たすようなことも全く達成できていないのである。
その原因は知れたことで、スポーツ観戦でラージャヨガ愛好者の大谷を応援してるような人間も、
所詮は心の老いを精神的な成熟だと思い込んで開き直るような悪徳にドップリと浸かったまま、ただ
そこから遠目に眺めて面白がっているだけなのだから、そこに念仏ほどの功徳もあるはずがないのだ。
それに多少あやかることすら諦めての、虚弱化一辺倒からの病院頼みという醜態のままでいる。
逆に、他人のスポーツ頼みがそれを助長しているような所すらあるし、ラージャヨガ的な修養の功徳を
他力本願の範疇で万民に広めていた、念仏の代役を果たすようなことも全く達成できていないのである。
その原因は知れたことで、スポーツ観戦でラージャヨガ愛好者の大谷を応援してるような人間も、
所詮は心の老いを精神的な成熟だと思い込んで開き直るような悪徳にドップリと浸かったまま、ただ
そこから遠目に眺めて面白がっているだけなのだから、そこに念仏ほどの功徳もあるはずがないのだ。
俺が、自分を大谷あたりと並べて語ったりすれば、「身の程知らずw」などと揶揄する者が現れる。
じゃあ、そういう連中は身の程をわきまえているのかというと、実はそういうわけでもない。
「自分たちは大谷みたいなスターとは別次元の人間」という決め込みがまずあった上で、
大谷が愛好しているラージャヨガの熱血志向などとはまるで真逆な、心の老いを開き直って、
精神的な成熟者気取りで驕り高ぶるような、ヒスおばさんなどにもありがちな下劣さでいるのみ。
なればこそ、執拗なダイエットによって、大谷のようなキャプ翼体型とは真逆な片岡鶴太郎体型へと
自分たちがなろうとすることすら厭わない。別に、身の程をわきまえて謙るような殊勝さもないのに、
凄いと見た相手を持て囃すような真似に及んだものだから、その相手との間に勝手に鉄壁を建立して、
その真逆を行くことでコンプレックスを紛らわすような真似をも兼ね行わねばならなくなっている。
それこそ、太陽の熱さを嫌がるあまりに、火星か冥王星まで逃亡したような状態であり、
地球上での適切な暑熱対策で、太陽とうまく付き合って行く場合のような好影響がないのみならず、
実際に誰も彼もが筋肉量不足で冷え性だらけとなるような、如実な悪影響をも招いているのである。
じゃあ、そういう連中は身の程をわきまえているのかというと、実はそういうわけでもない。
「自分たちは大谷みたいなスターとは別次元の人間」という決め込みがまずあった上で、
大谷が愛好しているラージャヨガの熱血志向などとはまるで真逆な、心の老いを開き直って、
精神的な成熟者気取りで驕り高ぶるような、ヒスおばさんなどにもありがちな下劣さでいるのみ。
なればこそ、執拗なダイエットによって、大谷のようなキャプ翼体型とは真逆な片岡鶴太郎体型へと
自分たちがなろうとすることすら厭わない。別に、身の程をわきまえて謙るような殊勝さもないのに、
凄いと見た相手を持て囃すような真似に及んだものだから、その相手との間に勝手に鉄壁を建立して、
その真逆を行くことでコンプレックスを紛らわすような真似をも兼ね行わねばならなくなっている。
それこそ、太陽の熱さを嫌がるあまりに、火星か冥王星まで逃亡したような状態であり、
地球上での適切な暑熱対策で、太陽とうまく付き合って行く場合のような好影響がないのみならず、
実際に誰も彼もが筋肉量不足で冷え性だらけとなるような、如実な悪影響をも招いているのである。
それには、ちゃんと理由があってな。
しかも精神論に止まらない、即物的な理由が。
ヨガは元来「心身統一」を意味する言葉だけれども、
ラージャヨガは骨盤底筋からの底力を、まず心身統一によって
増進させるために、修めている人々はまず下半身から強くなる。
人間の筋肉は下半身が7割だから、
ビルダーが好んでやりたがる上半身の鍛錬なんかよりも、
はるかに直接的な「貯筋」の作用をももたらし、
食事のエネルギーを効率的に体の強さの源とする効果をももたらす。
日本人は、特にそのような体質を、畳や床に直接座る生活で
保っていたわけだけれども、戦後は椅子や車の導入でそれが反故になった上、
心身統一を促すような考え方自体もまた「古臭い精神論」などと
片づけて遠ざけるようになっってしまったのだった。
実際、身体性や物質性を完全に無視するような過度の精神論も
戦前に電通などが広めて横行してしまっていたわけだけれども、
それとはまた別に、心身統一による着実な体力増進を企図した
精神論もまた別にあったわけで、そこまでクソミソに反故にして
しまったのは、本当にもったいないことだと言えるのだ。
しかも精神論に止まらない、即物的な理由が。
ヨガは元来「心身統一」を意味する言葉だけれども、
ラージャヨガは骨盤底筋からの底力を、まず心身統一によって
増進させるために、修めている人々はまず下半身から強くなる。
人間の筋肉は下半身が7割だから、
ビルダーが好んでやりたがる上半身の鍛錬なんかよりも、
はるかに直接的な「貯筋」の作用をももたらし、
食事のエネルギーを効率的に体の強さの源とする効果をももたらす。
日本人は、特にそのような体質を、畳や床に直接座る生活で
保っていたわけだけれども、戦後は椅子や車の導入でそれが反故になった上、
心身統一を促すような考え方自体もまた「古臭い精神論」などと
片づけて遠ざけるようになっってしまったのだった。
実際、身体性や物質性を完全に無視するような過度の精神論も
戦前に電通などが広めて横行してしまっていたわけだけれども、
それとはまた別に、心身統一による着実な体力増進を企図した
精神論もまた別にあったわけで、そこまでクソミソに反故にして
しまったのは、本当にもったいないことだと言えるのだ。
昔の日本人の誰しもが、必ずしも密教や禅でラージャヨガを直接的に
修めていたわけではないけれども、それでもそのおこぼれに与れる
ぐらいの心がけは万人にあったらしい証拠となる言葉が、これ。
「精神的に向上心のない者はばかだ」(夏目漱石「こゝろ」より)
真宗の寺の息子だったKが友人に吐いた言葉だけれども、
その主張が友人にすら通じなかったことを通じてKは自殺し、
友人先生も後を追うという話を通じて、世の中全体が
この程度のわきまえすら失いつつあることを示唆していた。
自らに向上心があるのであれないのであれ、
その認識さえあれば、向上心でアゲアゲになるラージャヨガの功徳に、
馬鹿な側からでも与れる余地が残される一方、精神的な向上心がないことを
開き直って偉ぶり始めたりすれば、それすらもが叶わなくなってしまう。
昔の日本人には、それだけはなかったから、その辺の一般人でも、
世界平均をはるかに上回るほどの底力からの強さを持ち合わせていた。
世の中にラージャヨガの功徳が行き渡る内実たるや、如是なわけだ。
修めていたわけではないけれども、それでもそのおこぼれに与れる
ぐらいの心がけは万人にあったらしい証拠となる言葉が、これ。
「精神的に向上心のない者はばかだ」(夏目漱石「こゝろ」より)
真宗の寺の息子だったKが友人に吐いた言葉だけれども、
その主張が友人にすら通じなかったことを通じてKは自殺し、
友人先生も後を追うという話を通じて、世の中全体が
この程度のわきまえすら失いつつあることを示唆していた。
自らに向上心があるのであれないのであれ、
その認識さえあれば、向上心でアゲアゲになるラージャヨガの功徳に、
馬鹿な側からでも与れる余地が残される一方、精神的な向上心がないことを
開き直って偉ぶり始めたりすれば、それすらもが叶わなくなってしまう。
昔の日本人には、それだけはなかったから、その辺の一般人でも、
世界平均をはるかに上回るほどの底力からの強さを持ち合わせていた。
世の中にラージャヨガの功徳が行き渡る内実たるや、如是なわけだ。
結局、ラージャヨガってのは、現代人の多くが
ステレオタイプに考えている所の「精神論」でもあるんだ。
ただ、たとえば武田信玄の師、快川紹喜和尚の名言
「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し」
などもまた精神論の一つではあるし、これまた法華経の
記述などにも裏打ちされた由緒正しい精神論なのだけれども。
これは、快川和尚が織田信長に焼き討ちを受けて、
もはや死ぬしかないとなった時の、辞世の言葉。
まだ生きていて、しかもまだ人生を盛り立てて行くべき様な
立場にある人間が抱負とすべきような言葉ではないし、それは
赤穂義士が認めていた辞世の句などにも同様のことがいえる。
真言密教の根本教理は「即身成仏」だし、中村天風氏も
「死後のことはここではなく宗教で聞け」と言っていた通り、
ラージャヨガはあくまで存命中の精神論の集成であり、
ゆえに身体面からの生命力をより高めるような効能をも帯びている。
そこを混同して、精神論は何でも身体に悪いと思い込んで
いるような人間が大多数に上ってしまっているのが現代。
その正体も知ることなく遠ざけている人間がほとんどなのである。
ステレオタイプに考えている所の「精神論」でもあるんだ。
ただ、たとえば武田信玄の師、快川紹喜和尚の名言
「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もまた涼し」
などもまた精神論の一つではあるし、これまた法華経の
記述などにも裏打ちされた由緒正しい精神論なのだけれども。
これは、快川和尚が織田信長に焼き討ちを受けて、
もはや死ぬしかないとなった時の、辞世の言葉。
まだ生きていて、しかもまだ人生を盛り立てて行くべき様な
立場にある人間が抱負とすべきような言葉ではないし、それは
赤穂義士が認めていた辞世の句などにも同様のことがいえる。
真言密教の根本教理は「即身成仏」だし、中村天風氏も
「死後のことはここではなく宗教で聞け」と言っていた通り、
ラージャヨガはあくまで存命中の精神論の集成であり、
ゆえに身体面からの生命力をより高めるような効能をも帯びている。
そこを混同して、精神論は何でも身体に悪いと思い込んで
いるような人間が大多数に上ってしまっているのが現代。
その正体も知ることなく遠ざけている人間がほとんどなのである。
いま、ヨガだピラティスだを謳っているような教室の、どこに精神論がある?
むしろ、精神論を徹底的にかなぐり捨ててのひ弱志向ばかりだろ?
(だからこそ心身の衰えたヒスおばさんたちの慰み物ともなっている)
ヨガどころか武道ですら、居合道や古武道などの流派によっては、
心身の衰えた年寄りの慰み物止まりで、精神論なんて排し去っている所も多い。
じゃあ、精神論をしっかり嗜んでいる所はといえば、それはそれで
「武士道とは死ぬことと見つけたり」みたいな極論に走っている所ばかり。
(これは丁稚の滅私奉公を武士道に見立てた葉隠の言葉だけれども)
精神論でもありながら、心身統一によって着実な体力増進をも企図して行くのが、
古来の密教や禅にも即したラージャヨガ的姿勢だというのに、精神論を肯定する側も
否定する側もそこから逸脱しての、水火の害に苛まれているような有り様。
それこそ、その水火の間隙に一本だけ通っている、極楽往生への白道に、まず
心情面が安住するように促す、念仏あたりのほうがまだマシな効能を帯びているもの。
なにしろ、そんなことはしないほうがマシだったりすらしかねないのだから。
むしろ、精神論を徹底的にかなぐり捨ててのひ弱志向ばかりだろ?
(だからこそ心身の衰えたヒスおばさんたちの慰み物ともなっている)
ヨガどころか武道ですら、居合道や古武道などの流派によっては、
心身の衰えた年寄りの慰み物止まりで、精神論なんて排し去っている所も多い。
じゃあ、精神論をしっかり嗜んでいる所はといえば、それはそれで
「武士道とは死ぬことと見つけたり」みたいな極論に走っている所ばかり。
(これは丁稚の滅私奉公を武士道に見立てた葉隠の言葉だけれども)
精神論でもありながら、心身統一によって着実な体力増進をも企図して行くのが、
古来の密教や禅にも即したラージャヨガ的姿勢だというのに、精神論を肯定する側も
否定する側もそこから逸脱しての、水火の害に苛まれているような有り様。
それこそ、その水火の間隙に一本だけ通っている、極楽往生への白道に、まず
心情面が安住するように促す、念仏あたりのほうがまだマシな効能を帯びているもの。
なにしろ、そんなことはしないほうがマシだったりすらしかねないのだから。
話を少し、日テレの某過失致死事件のほうに戻すけれども。
>>55にも書いた通り、日テレは自分たちが小学館所属の漫画家を、ひどい実写ドラマ化への
ショックで死なせるような暴挙に及んだのにも関わらず、そこからドラマ制作サイドなどに
至るまで自殺の連鎖が発生したりする可能性を「二次被害の危険」などと称していた。
これはどういうことかというと、自分たちも原作者も全員が被害者であり、真の加害者は、
全くの部外者にも関わらず怒りをぶちまけて炎上していたネット民たちであるとしているわけだ。
自分たちこそが劣悪極まる実写ドラマ化で、原作者に死ぬほどつらい思いをさせていたのにも関わらず、
なぜその全ての責任をネット民なんかに押し付けたりするような、餓鬼畜生もいいとこな非道さを
平気でひけらかせるのかというに、そこには以下のような理由が考えられるものである。
>>55にも書いた通り、日テレは自分たちが小学館所属の漫画家を、ひどい実写ドラマ化への
ショックで死なせるような暴挙に及んだのにも関わらず、そこからドラマ制作サイドなどに
至るまで自殺の連鎖が発生したりする可能性を「二次被害の危険」などと称していた。
これはどういうことかというと、自分たちも原作者も全員が被害者であり、真の加害者は、
全くの部外者にも関わらず怒りをぶちまけて炎上していたネット民たちであるとしているわけだ。
自分たちこそが劣悪極まる実写ドラマ化で、原作者に死ぬほどつらい思いをさせていたのにも関わらず、
なぜその全ての責任をネット民なんかに押し付けたりするような、餓鬼畜生もいいとこな非道さを
平気でひけらかせるのかというに、そこには以下のような理由が考えられるものである。
日テレ側のドラマ制作陣にも、誰一人として原作者を殺してやろうなんていう害意まではなかった。
ただ、生粋の無能ばかりをあえて重用している自分たち側の至らなさのせいで、やむなく原作に忠実な
ドラマ化なんかできなかっただけで、事件であるとしても上記の通り「過失致死」止まりであると。
それに比して、原作者の自殺前から炎上していたようなネット界隈では、「おまえが死ねよ」
などと明記するようなものまでもが後を絶たないほどの、確信犯の殺意で埋め尽くされている。
自分たちには殺意まではないが、ネット民どもにはそれまでもがある。だから本当の加害者は
ネット民どものほうなのだと、苦しい言い訳ではあるけれどもそういう認識でいるわけである。
ただ、生粋の無能ばかりをあえて重用している自分たち側の至らなさのせいで、やむなく原作に忠実な
ドラマ化なんかできなかっただけで、事件であるとしても上記の通り「過失致死」止まりであると。
それに比して、原作者の自殺前から炎上していたようなネット界隈では、「おまえが死ねよ」
などと明記するようなものまでもが後を絶たないほどの、確信犯の殺意で埋め尽くされている。
自分たちには殺意まではないが、ネット民どもにはそれまでもがある。だから本当の加害者は
ネット民どものほうなのだと、苦しい言い訳ではあるけれどもそういう認識でいるわけである。
心の老いを開き直って、精神的な成熟者気取りでいるような連中には、極めてありがちな挙動。
基本的に、体の老化に心が乗っ取られているものだから、若者などに比して覇気も萎えている。
そのため戦意とか殺意とかも基本的には衰え果てていて、戦いなんか想像するのも嫌という状態。
そんな自分たちこそは生粋の平和主義者であり、ネット上で殺意や戦意をあらわにしているような
連中こそは、その対極にあたる不穏分子であるといったような認識を強固ならしめているもの。
(だからこそ大メディア関係者には、あからさまにネットを敵視するような者も多い)
実際には、自分たちのほうが無能にも拘らず絶大な権益を占有し続けているせいで、世の中に死傷級の
迷惑をまき散らしている害悪の大元凶だったりするのだけれども、それらもあくまで過失致死傷の
範疇であるものだから、殺意すら隠さないような連中よりはマシな姿だなどと思い込んでいる。
江戸期の武士たちが、泰平の世にも常在戦場の心持ちで帯刀を欠かさず、その緊張感によって
権力腐敗や戦乱を防止し、以て治世の礎となっていた姿などとはまさに真逆の有様であることだし、
心の老いのせいで、もはや戦意や殺意を抱けるほどの気力もないからといって、自分たちこそは真の
平和主義者だなどと自負する蒙昧がもたらす危害の大きさを、決して見くびってはならないのである。
基本的に、体の老化に心が乗っ取られているものだから、若者などに比して覇気も萎えている。
そのため戦意とか殺意とかも基本的には衰え果てていて、戦いなんか想像するのも嫌という状態。
そんな自分たちこそは生粋の平和主義者であり、ネット上で殺意や戦意をあらわにしているような
連中こそは、その対極にあたる不穏分子であるといったような認識を強固ならしめているもの。
(だからこそ大メディア関係者には、あからさまにネットを敵視するような者も多い)
実際には、自分たちのほうが無能にも拘らず絶大な権益を占有し続けているせいで、世の中に死傷級の
迷惑をまき散らしている害悪の大元凶だったりするのだけれども、それらもあくまで過失致死傷の
範疇であるものだから、殺意すら隠さないような連中よりはマシな姿だなどと思い込んでいる。
江戸期の武士たちが、泰平の世にも常在戦場の心持ちで帯刀を欠かさず、その緊張感によって
権力腐敗や戦乱を防止し、以て治世の礎となっていた姿などとはまさに真逆の有様であることだし、
心の老いのせいで、もはや戦意や殺意を抱けるほどの気力もないからといって、自分たちこそは真の
平和主義者だなどと自負する蒙昧がもたらす危害の大きさを、決して見くびってはならないのである。
要は、自らの放辟邪侈をどこまでも増長させたいあまりに、
他者への致命的な侵害、迫害をも厭わないような志向性が、
法による規制を待つまでもなく控えられるだけでいいのだが。
見るに明らかな暴徒、無法者の類いのみならず、
心の老いによって穏健をめかしこんでいるような者の中にすら、
さような不埒さを滾らせたままでいる者の、いかに多いことか。
他者への致命的な侵害、迫害をも厭わないような志向性が、
法による規制を待つまでもなく控えられるだけでいいのだが。
見るに明らかな暴徒、無法者の類いのみならず、
心の老いによって穏健をめかしこんでいるような者の中にすら、
さような不埒さを滾らせたままでいる者の、いかに多いことか。
心の老いによって、殺意を抱けるほどの覇気も萎えているからこそ、
ヤクザやテロリストのような無法者の暴力集団はおろか、公儀の側から
必要があっての武威を司っている軍隊や武家までをも忌み嫌うような精神状態。
にもかかわらずではなくだからこそ、そんな自分たちこそはこの世における
平和主義の長者であるなどとまで思い込み、それによって捏造された、
歪んだ正義感の下に、武威とは無縁な範囲での際限なき利権の囲い込みを目論む。
そんな連中こそは、この世における最大級の権力腐敗を招き、以てその
結実としての戦乱や破滅を招く大元凶ともなるのが、たとえば文官の立場から、
軍部の大将だった章邯や岳飛を迫害してまでの、自らへの権力集中に
躍起となった趙高や秦檜こそは、亡国からの大戦争や異民族侵略を招く
張本人となったが如き、歴史上の事跡からもうかがい知ることができるわけである。
その逆である所の、武家統治による恒久平和の実現などと兼ね合わせて考えてみても、
むしろ常在戦場の心持ちでいられる大丈夫こそを、争いをアレルギー的に忌み嫌うような
ヒステリー人種よりも重用したほうが、治世を実現する現実的な手立てになると知れるのだが。
ヤクザやテロリストのような無法者の暴力集団はおろか、公儀の側から
必要があっての武威を司っている軍隊や武家までをも忌み嫌うような精神状態。
にもかかわらずではなくだからこそ、そんな自分たちこそはこの世における
平和主義の長者であるなどとまで思い込み、それによって捏造された、
歪んだ正義感の下に、武威とは無縁な範囲での際限なき利権の囲い込みを目論む。
そんな連中こそは、この世における最大級の権力腐敗を招き、以てその
結実としての戦乱や破滅を招く大元凶ともなるのが、たとえば文官の立場から、
軍部の大将だった章邯や岳飛を迫害してまでの、自らへの権力集中に
躍起となった趙高や秦檜こそは、亡国からの大戦争や異民族侵略を招く
張本人となったが如き、歴史上の事跡からもうかがい知ることができるわけである。
その逆である所の、武家統治による恒久平和の実現などと兼ね合わせて考えてみても、
むしろ常在戦場の心持ちでいられる大丈夫こそを、争いをアレルギー的に忌み嫌うような
ヒステリー人種よりも重用したほうが、治世を実現する現実的な手立てになると知れるのだが。
現代社会で、それに反することで、また同じ過ちを繰り返そうとしている連中たるや、
自分たちは今までの人類史上でろくに実権を持てないで来た女たちを重用しているが故に、
ほぼ男たちだけで作り上げられて来たこれまでの人類史の法則などは打ち破っての、
アレルギー的な戦争嫌いによる恒久平和が実現できるなどとも思い込んでいる節がある。
残念ながら、「乱世には男女の区別がなくなる(左伝)」というのも、何千年も前から
知られて来た一般法則でしかなく、むしろ妲己や虞姫や淀殿のような女たちの意見が、
カカア天下やマザコン級に聞き入れられながら、最大級の戦乱や破滅も招かれて来たもの。
むしろ、乱世の裏には必ずと言っていいほど、表向きの権力者であるような男たち
をも尻に敷いて支配下に置いているような悪婦が付き物なのだし、それと比べれば、
より女たち自身がカルト信仰などを通じて前に出て来ている頻度が高いという所ぐらいしか、
現代の権力腐敗が昔と違っている箇所などありはしない。それによってむしろ、女たちが
心の老いやヒステリーを糧に権力掌握に及ぶことの致命的な問題性があらわとなって、
昔以上にそこへの警戒意識が高められて行く、より教訓的な機縁になっているとは言えよう。
自分たちは今までの人類史上でろくに実権を持てないで来た女たちを重用しているが故に、
ほぼ男たちだけで作り上げられて来たこれまでの人類史の法則などは打ち破っての、
アレルギー的な戦争嫌いによる恒久平和が実現できるなどとも思い込んでいる節がある。
残念ながら、「乱世には男女の区別がなくなる(左伝)」というのも、何千年も前から
知られて来た一般法則でしかなく、むしろ妲己や虞姫や淀殿のような女たちの意見が、
カカア天下やマザコン級に聞き入れられながら、最大級の戦乱や破滅も招かれて来たもの。
むしろ、乱世の裏には必ずと言っていいほど、表向きの権力者であるような男たち
をも尻に敷いて支配下に置いているような悪婦が付き物なのだし、それと比べれば、
より女たち自身がカルト信仰などを通じて前に出て来ている頻度が高いという所ぐらいしか、
現代の権力腐敗が昔と違っている箇所などありはしない。それによってむしろ、女たちが
心の老いやヒステリーを糧に権力掌握に及ぶことの致命的な問題性があらわとなって、
昔以上にそこへの警戒意識が高められて行く、より教訓的な機縁になっているとは言えよう。
心の老いによって、殺意を抱けるほどの気力もなくなっているような輩といえども、
虚栄心によって他者を出し抜くための争いに興じたがるのには変わりない。
ただ、そこで本式の戦闘行為なみの殺し合いは当然避けるし、
殴る蹴る程度のどつき合いだって、特に自分自身が虚弱な女や年寄りなら避けたがる。
なおかつ、不法な詐謀などに手を染めることすら、世間体を保つため程度には避けながら、
それでも争い相手が死傷した場合には、最悪でも過失致死傷に止まるように警戒を凝らす。
ユダヤ金融が世界中での穀物投機によって人工的な餓死者を増産し続けているにしたって、
当人たちはただ儲けのため、会社の仕事をしているだけだという体裁でいて、
そのせいで死者が続出しているのも、あくまで過失致死の範疇だという体裁だから、
今のロシアみたいに確信的な殺戮行為にまで及んだりするのと比べれば、
まだ最低限の一線までは超えてはいないという、自己正当化状態でいる。
虚栄心によって他者を出し抜くための争いに興じたがるのには変わりない。
ただ、そこで本式の戦闘行為なみの殺し合いは当然避けるし、
殴る蹴る程度のどつき合いだって、特に自分自身が虚弱な女や年寄りなら避けたがる。
なおかつ、不法な詐謀などに手を染めることすら、世間体を保つため程度には避けながら、
それでも争い相手が死傷した場合には、最悪でも過失致死傷に止まるように警戒を凝らす。
ユダヤ金融が世界中での穀物投機によって人工的な餓死者を増産し続けているにしたって、
当人たちはただ儲けのため、会社の仕事をしているだけだという体裁でいて、
そのせいで死者が続出しているのも、あくまで過失致死の範疇だという体裁だから、
今のロシアみたいに確信的な殺戮行為にまで及んだりするのと比べれば、
まだ最低限の一線までは超えてはいないという、自己正当化状態でいる。
それと同じような、殺人狂とまではいかないから平和主義者であるという歪んだ自負によって、
過失致死傷の被害者を増産し続け、ついには戦争を上回るほどもの犠牲者をはじき出し、
だったらそんな連中全体を殲滅してかかる武力支配のほうがマシではないか、とまでなる。
(イギリスの実質的植民地化を拒んだミャンマーがやむなく軍国化したが如く)
元より、心の老いによって殺意を抱く気力も萎えているようなヒステリー患者が、
殺人犯とまで行かない過失致死犯としての横暴を繰り返すような真似全般が、
平和主義の名の下に正当化されたりすることから禁止して行けばいいのであり、
その手の人種こそは、軍人や武士はおろか、時にはテロリストやマフィア以上に、
この世に最悪の乱世をもたらしかねない凶賊となることが総出でわきまえられて、
決して要職に就かせたり、家庭を含む組織派閥内で偉そうな支配者ヅラをさせたり
しないようにしさえすれば、それだけでそういった人種をこの世から根絶するまでもなく、
世の中のほうが恒久的な平穏を獲得するには足ることとなるのである。
過失致死傷の被害者を増産し続け、ついには戦争を上回るほどもの犠牲者をはじき出し、
だったらそんな連中全体を殲滅してかかる武力支配のほうがマシではないか、とまでなる。
(イギリスの実質的植民地化を拒んだミャンマーがやむなく軍国化したが如く)
元より、心の老いによって殺意を抱く気力も萎えているようなヒステリー患者が、
殺人犯とまで行かない過失致死犯としての横暴を繰り返すような真似全般が、
平和主義の名の下に正当化されたりすることから禁止して行けばいいのであり、
その手の人種こそは、軍人や武士はおろか、時にはテロリストやマフィア以上に、
この世に最悪の乱世をもたらしかねない凶賊となることが総出でわきまえられて、
決して要職に就かせたり、家庭を含む組織派閥内で偉そうな支配者ヅラをさせたり
しないようにしさえすれば、それだけでそういった人種をこの世から根絶するまでもなく、
世の中のほうが恒久的な平穏を獲得するには足ることとなるのである。
まあ、どっかの誰かの「おまえはモノが専門の人種だろうが!」
という言いがかりから着想を得て立てたスレだったわけだが。
ヒトが専門なら、モノが相手である場合以上の尽力を果たせや。
そういうわけでもなく、それ専門を自負するような連中ほど、
理工系以上に軽薄で、実直さに欠けていて、人様をモノ未満の扱いに
処したくてたまらないような人種ばかりでいるのはなんぞや?
そこには、理系ほどにも人使いが務まらない下衆ばかりが集まっているというだけの話ではないか。
よくそれで、対人のプロフェッショナルだなどと自負できたものだな。
対人の背理法実験のプロだというのなら納得はできるが、その場合の
引責手段は当然、出家で済めば大当たりなんかにもなるわな。
という言いがかりから着想を得て立てたスレだったわけだが。
ヒトが専門なら、モノが相手である場合以上の尽力を果たせや。
そういうわけでもなく、それ専門を自負するような連中ほど、
理工系以上に軽薄で、実直さに欠けていて、人様をモノ未満の扱いに
処したくてたまらないような人種ばかりでいるのはなんぞや?
そこには、理系ほどにも人使いが務まらない下衆ばかりが集まっているというだけの話ではないか。
よくそれで、対人のプロフェッショナルだなどと自負できたものだな。
対人の背理法実験のプロだというのなら納得はできるが、その場合の
引責手段は当然、出家で済めば大当たりなんかにもなるわな。
(削除されたスレに書きこむ予定だったレス)
別に、ヒトの上に立ち、ヒトを使う側となる人間が、
必ずしも大卒級の理系でなければならないというわけではないが、
やはりヒトをモノ以上の存在として扱うわきまえぐらいは必要なものである。
学問に理系と文系の区別もなかった時代の日本人などが、
どうやってその素養を身に付けていたのかというと、
たとえば「格物致知」(礼記・大学)である。
「名刀よりも人」という名言を残した家康公が、
別に刀嫌いだったり、刀を蔑ろにしていたわけでもない。
武家の棟梁たる幕府将軍なだけあって、最上の名刀を取り揃え、
晩年に至るまでそれらを振りこなしての鍛錬を欠かさなかった有り様などは、
自分の好みで得手勝手に名刀を切り詰めていた信長などよりもよほど、
刀に対するねんごろな愛着までも垣間見られるものである。
さような刀への思いもまたあった上で、さらにそれ以上のヒトへの思いがあり、
それが最晩年に至るまで、最底辺の部下にも敬語を欠かさなかった姿勢などとして現れていた。
つまり、モノの価値をも尊ぶことで、それ以上なヒトへの尊重にも至っていた。
「格物致知誠意正心」というわきまえが、昔の偉大な上司にはあったわけである。
別に、ヒトの上に立ち、ヒトを使う側となる人間が、
必ずしも大卒級の理系でなければならないというわけではないが、
やはりヒトをモノ以上の存在として扱うわきまえぐらいは必要なものである。
学問に理系と文系の区別もなかった時代の日本人などが、
どうやってその素養を身に付けていたのかというと、
たとえば「格物致知」(礼記・大学)である。
「名刀よりも人」という名言を残した家康公が、
別に刀嫌いだったり、刀を蔑ろにしていたわけでもない。
武家の棟梁たる幕府将軍なだけあって、最上の名刀を取り揃え、
晩年に至るまでそれらを振りこなしての鍛錬を欠かさなかった有り様などは、
自分の好みで得手勝手に名刀を切り詰めていた信長などよりもよほど、
刀に対するねんごろな愛着までも垣間見られるものである。
さような刀への思いもまたあった上で、さらにそれ以上のヒトへの思いがあり、
それが最晩年に至るまで、最底辺の部下にも敬語を欠かさなかった姿勢などとして現れていた。
つまり、モノの価値をも尊ぶことで、それ以上なヒトへの尊重にも至っていた。
「格物致知誠意正心」というわきまえが、昔の偉大な上司にはあったわけである。
ヒトとモノを対立項で捉えて、自分はモノは専門外だからと、
モノを粗末に扱うような輩が、ヒトだけは大事に扱えたりするわけもない。
モノのうちでは最も下劣で不浄な扱いを受ける、
ウ●コやゲロにあらゆるヒトやモノを比肩させての、
粗末の限りを尽くす暴慢こそが本望であるような人種また同様。
モノの中では最も尊い宝刀、宝物などもまた尊び、
さらにそれ以上に尊いモノ以上の存在としてのヒトもまた尊ぶ。
そういった君子士人のみが、ただ理系だったりするために、
ヒトとモノを同列程度に扱う者以上に人間社会を隆盛ならしめる一方、
ヒトをモノ以下やゴミクソ並みに扱おうとする連中たるや、
理系が世の中や各種組織を司る場合ほどの健全な成果を挙げられることもなく、
ただ人材をすり減らしてまで短期的な収益を上げることぐらいにしか能がない。
文系最高学府のハーバード閥がCIAなどを通じて、世界中への権力犯罪
による危害を加えることでアメリカへの利権の集約を試みて来たように、
そういう人種ならではの害心を、賊徒ならではの確信犯な切り取り活動などに
転じれば、それなりに絶大な成果を挙げることもあれど、それもまた
ろくでもない所業であることには変わりがないし、やはり別段、そういう
人種の普遍的な存在価値の高さの証拠などにもなり得ないものである。
モノを粗末に扱うような輩が、ヒトだけは大事に扱えたりするわけもない。
モノのうちでは最も下劣で不浄な扱いを受ける、
ウ●コやゲロにあらゆるヒトやモノを比肩させての、
粗末の限りを尽くす暴慢こそが本望であるような人種また同様。
モノの中では最も尊い宝刀、宝物などもまた尊び、
さらにそれ以上に尊いモノ以上の存在としてのヒトもまた尊ぶ。
そういった君子士人のみが、ただ理系だったりするために、
ヒトとモノを同列程度に扱う者以上に人間社会を隆盛ならしめる一方、
ヒトをモノ以下やゴミクソ並みに扱おうとする連中たるや、
理系が世の中や各種組織を司る場合ほどの健全な成果を挙げられることもなく、
ただ人材をすり減らしてまで短期的な収益を上げることぐらいにしか能がない。
文系最高学府のハーバード閥がCIAなどを通じて、世界中への権力犯罪
による危害を加えることでアメリカへの利権の集約を試みて来たように、
そういう人種ならではの害心を、賊徒ならではの確信犯な切り取り活動などに
転じれば、それなりに絶大な成果を挙げることもあれど、それもまた
ろくでもない所業であることには変わりがないし、やはり別段、そういう
人種の普遍的な存在価値の高さの証拠などにもなり得ないものである。
文系の洋学は、ギリシャ神話や旧約聖書の頃から、
人間の悪徳を最大級に網羅し抜くことに特化して来たために、
そんなものを勉強しようものなら、並み以上に他害や放蕩への
意欲ばかりを募らせたならず者とならざるを得ない。
「人間が本来そうあってはならない姿」として、
反面教師的に取り扱うのであれば、まだその勉強に意義を見出す余地はあるし、
俺も若い頃に得てしまった知識をそういう扱いに処しているわけだけれども。
日本でも海外でも、今のところそういった扱いにされることは全くなく、
もっぱら「人間の本質を捉えた精緻な学問分野」としての扱いを受け、
忠実な模倣の対象とするために学ぶのが通例となってしまっている。
結果、世界では国際間や貧富間での他害意欲に満ちた争いを激化させ、
日本では経営者が従業員を、旧世代が次世代をモノ以下の扱いに
処しての迫害が横行するような惨状を招き続けている。
自害行為としての悪影響が覿面なために、日本のほうが見るに明らかな
無様さを帯びてはいるけれども、世界もまた文系洋学の模範としての扱いによって
絶大な災厄を引き入れ、ついには核の危機までをも招いているのには
違いないわけで、いずれも早急な改善を要することには変わりないのである。
人間の悪徳を最大級に網羅し抜くことに特化して来たために、
そんなものを勉強しようものなら、並み以上に他害や放蕩への
意欲ばかりを募らせたならず者とならざるを得ない。
「人間が本来そうあってはならない姿」として、
反面教師的に取り扱うのであれば、まだその勉強に意義を見出す余地はあるし、
俺も若い頃に得てしまった知識をそういう扱いに処しているわけだけれども。
日本でも海外でも、今のところそういった扱いにされることは全くなく、
もっぱら「人間の本質を捉えた精緻な学問分野」としての扱いを受け、
忠実な模倣の対象とするために学ぶのが通例となってしまっている。
結果、世界では国際間や貧富間での他害意欲に満ちた争いを激化させ、
日本では経営者が従業員を、旧世代が次世代をモノ以下の扱いに
処しての迫害が横行するような惨状を招き続けている。
自害行為としての悪影響が覿面なために、日本のほうが見るに明らかな
無様さを帯びてはいるけれども、世界もまた文系洋学の模範としての扱いによって
絶大な災厄を引き入れ、ついには核の危機までをも招いているのには
違いないわけで、いずれも早急な改善を要することには変わりないのである。
>>100で取り上げた夏目漱石の「こゝろ」なんかもまた、
洋学に即した日本文学のうちでの金字塔であるわけだけれども。
俺もそんなものまで一応程度には読み抜いて来たからこそ、
儒仏を排し去っての洋学一辺倒に耽溺し続けて来た、
近代以降の日本社会の病理などを、より如実に把握することができた。
もちろん反面教師的な扱いではあるし、正学への傾倒もまた
入念たればこその結実であるわけだから、無防備な勉学の対象として
漱石文学を推奨できるようなこともまた、今のところないわけだけれども。
消防士が最悪の火災事故を予防目的で学んでおく程度の価値はある。
そういった文系洋学の扱い方を守れないのなら、学ばないほうがマシなのである。
洋学に即した日本文学のうちでの金字塔であるわけだけれども。
俺もそんなものまで一応程度には読み抜いて来たからこそ、
儒仏を排し去っての洋学一辺倒に耽溺し続けて来た、
近代以降の日本社会の病理などを、より如実に把握することができた。
もちろん反面教師的な扱いではあるし、正学への傾倒もまた
入念たればこその結実であるわけだから、無防備な勉学の対象として
漱石文学を推奨できるようなこともまた、今のところないわけだけれども。
消防士が最悪の火災事故を予防目的で学んでおく程度の価値はある。
そういった文系洋学の扱い方を守れないのなら、学ばないほうがマシなのである。
『セクシー田中さん』報告書で見えた“改変・修正無視”
https://www.jprime.jp/articles/-/32340?display=...
>在京各社ドラマプロデューサー「これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない」
×安全にドラマを作る方法なんてない
〇(いないほうがマシなレベルの無能である私らが)安全にドラマを作る方法なんてない
「怖がっちゃいけない」なんて言ってるのは、結局、怖がってるからでもある。
自分たちみたいな出たがりの無能によって、本物の才能の持ち主たちが犠牲になることを。
もちろんそういう人々を尊重しているからじゃない。自分たちの引責が怖いから。
今回はまだ過失致死の範疇なうえ、刑事責任も問えないほどに迂遠な経緯に基づいている。
それがいずれは刑事沙汰にも発展しかねない上、過失で済まない殺人にすらなり得ることも。
そこを恐れられる程度には、確信犯の殺人犯などより穏健な側面もあるのだが、
京アニ放火だって過失致死だったのには変わりないし、今のネタニヤフやプーチンにだって
大量虐殺を正当化する言い訳はあるしで、だからといって少しも人を死なせないで済む
人種としての資格を満たしているわけではないし、さらには「怖がっちゃいけない」などと、
奮い立つべきでもないような処で蛮勇を抱いての立ち向かいにも臨もうとしているしで、
結果的に擁護できるような所はどこにもなくなっている。これが、心の老いのせいで、
殺意を抱いたりすることも忌む域にある連中が、殺人犯並みと化す典型的な実例なわけである。
https://www.jprime.jp/articles/-/32340?display=...
>在京各社ドラマプロデューサー「これで怖がっちゃいけない。安全にドラマを作る方法なんてない」
×安全にドラマを作る方法なんてない
〇(いないほうがマシなレベルの無能である私らが)安全にドラマを作る方法なんてない
「怖がっちゃいけない」なんて言ってるのは、結局、怖がってるからでもある。
自分たちみたいな出たがりの無能によって、本物の才能の持ち主たちが犠牲になることを。
もちろんそういう人々を尊重しているからじゃない。自分たちの引責が怖いから。
今回はまだ過失致死の範疇なうえ、刑事責任も問えないほどに迂遠な経緯に基づいている。
それがいずれは刑事沙汰にも発展しかねない上、過失で済まない殺人にすらなり得ることも。
そこを恐れられる程度には、確信犯の殺人犯などより穏健な側面もあるのだが、
京アニ放火だって過失致死だったのには変わりないし、今のネタニヤフやプーチンにだって
大量虐殺を正当化する言い訳はあるしで、だからといって少しも人を死なせないで済む
人種としての資格を満たしているわけではないし、さらには「怖がっちゃいけない」などと、
奮い立つべきでもないような処で蛮勇を抱いての立ち向かいにも臨もうとしているしで、
結果的に擁護できるような所はどこにもなくなっている。これが、心の老いのせいで、
殺意を抱いたりすることも忌む域にある連中が、殺人犯並みと化す典型的な実例なわけである。
「自分の親も犠牲になりかねないような革命なんかを急がない」
まともな人間性の持ち主であれば、誰しもが納得いくはずの理由付けを
とうの昔から提示済みなのだから、人でなし以外からの糾弾を心配する余地はない。
人でなしの声ばかりが大きければ、真っ当な人間ほどその場での発言は控える。
そんな連中のせいで、まるで眼前が敵ばかりのように化しているのもまた必然でしかない。
そうでいながら、さような状況を嘲笑うような者がいたとしても、
根拠もなく悪念を滾らせるような無理によって、自らの寿命をすり減らしている
だけのことでしかないからには、供養の心持ちで応じる以上にすべきこともあるまい。
まともな人間性の持ち主であれば、誰しもが納得いくはずの理由付けを
とうの昔から提示済みなのだから、人でなし以外からの糾弾を心配する余地はない。
人でなしの声ばかりが大きければ、真っ当な人間ほどその場での発言は控える。
そんな連中のせいで、まるで眼前が敵ばかりのように化しているのもまた必然でしかない。
そうでいながら、さような状況を嘲笑うような者がいたとしても、
根拠もなく悪念を滾らせるような無理によって、自らの寿命をすり減らしている
だけのことでしかないからには、供養の心持ちで応じる以上にすべきこともあるまい。
https://newsmatomedia.com/koyanagi-nagis...
詳しくはここでも参照してもらいたいんだが。
6年前、中年女性が、ネット上でも自慢げにひけらかしていたチワワ6匹を、
真夏のファミレスの駐車場で熱中症で全頭死亡させるという事件があったんだが、
その遺体画像を観光旅行の自慢話と共にネットに上げるなど、その後の対応が
あまりにも非道すぎたために大炎上するという「火に油」案件ともなったもの。
「自分の命よりも大切な存在」とまで言っておきながら、
いざそれが死のうものならただひたすら保身、ネットで叩かれたからといって
被害者ムーブに徹し始めたその姿はまさに、今の日テレなどにも通じる有り様。
「男らしさ」なんて蛮族の遺物扱いで否定され抜かれている昨今、
男にも似たような真似に及ぶ者は一定数あれど、この、自責の念と被害者意識が
ほぼ反比例の関係となっての狂乱に及ぶ様は、さすがに女たちならではの姿である。
30の境もすぎた自分たちにはもう、体力も衰えきってのBBA化の余生あるのみ
という境遇への絶望のあまり、自責の念を抱くことは完全にシャットアウトし、
それと引き換えのように、できる限り他者への責任転嫁意識は滾らせ抜く。
たとえ人や愛犬が死のうともそれは変わらず、「怖れちゃいけない」となるのみ。
本人たちにはもはや自制心を抱く余地などないのだから、外的な制限あるのみとなる。
詳しくはここでも参照してもらいたいんだが。
6年前、中年女性が、ネット上でも自慢げにひけらかしていたチワワ6匹を、
真夏のファミレスの駐車場で熱中症で全頭死亡させるという事件があったんだが、
その遺体画像を観光旅行の自慢話と共にネットに上げるなど、その後の対応が
あまりにも非道すぎたために大炎上するという「火に油」案件ともなったもの。
「自分の命よりも大切な存在」とまで言っておきながら、
いざそれが死のうものならただひたすら保身、ネットで叩かれたからといって
被害者ムーブに徹し始めたその姿はまさに、今の日テレなどにも通じる有り様。
「男らしさ」なんて蛮族の遺物扱いで否定され抜かれている昨今、
男にも似たような真似に及ぶ者は一定数あれど、この、自責の念と被害者意識が
ほぼ反比例の関係となっての狂乱に及ぶ様は、さすがに女たちならではの姿である。
30の境もすぎた自分たちにはもう、体力も衰えきってのBBA化の余生あるのみ
という境遇への絶望のあまり、自責の念を抱くことは完全にシャットアウトし、
それと引き換えのように、できる限り他者への責任転嫁意識は滾らせ抜く。
たとえ人や愛犬が死のうともそれは変わらず、「怖れちゃいけない」となるのみ。
本人たちにはもはや自制心を抱く余地などないのだから、外的な制限あるのみとなる。
自責の念を丸ごと被害者意識に転嫁する暴慢は、右脳と左脳の
分離性が弱く、論理と感情を分けてものを考えることが
疎かになりがちな女たちに特にありがちな病理ではあるけれども。
政財界の権力者であるような年寄りの男などが、不祥事に際して、
保身のあまりに似たような真似に及ぶこともままあることだし、
男もまた目的のための手段として、あるいはカカア天下な夫婦関係
によるヒス嫁からの感染などによって同類となりがちなものである。
ただやはり、男はそのような痴態を開き直ることに普通は躊躇を
抱く生き物であることだし、世の中全体がトップの権力機構から
さような狂乱によって致命的な腐敗を進行させて行くにはやはり、
ヒスによる開き直りの専門家としての、女様たちの、鬼嫁なり
フェミなりとしての顧問働きまでもが必要となるものである。
男女共同参画、一億総活躍社会なぞを謳う今の日本においてこそ、
誰も傾国の責任すら取ろうともしない権力腐敗もまた極まれり。
完全な世捨て人でもなく、世の中の趨勢に深く関わり合って来た
身の上でありながら、いざその世の中のほうが破綻の域に陥ろう
ものなら、まったくの他人事のように扱って怒り散らしたりする
恥知らずもそこら中にいることだし、ほぼ全国民に共通の病理である。
分離性が弱く、論理と感情を分けてものを考えることが
疎かになりがちな女たちに特にありがちな病理ではあるけれども。
政財界の権力者であるような年寄りの男などが、不祥事に際して、
保身のあまりに似たような真似に及ぶこともままあることだし、
男もまた目的のための手段として、あるいはカカア天下な夫婦関係
によるヒス嫁からの感染などによって同類となりがちなものである。
ただやはり、男はそのような痴態を開き直ることに普通は躊躇を
抱く生き物であることだし、世の中全体がトップの権力機構から
さような狂乱によって致命的な腐敗を進行させて行くにはやはり、
ヒスによる開き直りの専門家としての、女様たちの、鬼嫁なり
フェミなりとしての顧問働きまでもが必要となるものである。
男女共同参画、一億総活躍社会なぞを謳う今の日本においてこそ、
誰も傾国の責任すら取ろうともしない権力腐敗もまた極まれり。
完全な世捨て人でもなく、世の中の趨勢に深く関わり合って来た
身の上でありながら、いざその世の中のほうが破綻の域に陥ろう
ものなら、まったくの他人事のように扱って怒り散らしたりする
恥知らずもそこら中にいることだし、ほぼ全国民に共通の病理である。
自責の念によって、時には引責自殺すら辞さない心意気と、
ヒステリーによって自責の念を被害者意識や他害意識に
転嫁する卑劣さほど相容れないものもまたあり得ないからには、
前者による清廉な統治と、ヒスおば支配もまた、到底相容れるものではない。
女子と小人を反面教師とした修養を重んずる儒学こそが、
江戸期の日本のほか、儒学が初めて国学に指定された漢代の中国などでも、
引責自殺を続出させていたというし、儒学は当然その最たる助けとなるものである。
飢饉時に口減らし目的で仏僧が即身仏を称するミイラ化を試みたり、
出家皇族である公弁法親王の一存で赤穂義士の切腹も決定したりと、
仏門もまたそれによる治世の実現の扶けになることこそあれど、妨げになることはない。
神道は残念ながら、世俗を直接的に司る分には全くその役割を果たさず、
カルトの走狗と化した汚職政治家の片棒を担ぐような真似にまで及んでしまうことが
すでに発覚してしまっていることだし、老荘列の教えなどにも厳格に即した、
超俗への回帰によってその恥を漱いでいくことが必要となろう。
まさに件のような責任転嫁系のヒスこそを強大化させてかかる、
カルト信仰や文系の洋学などは、当然のこととして排除の対象とするしかない。
ヒスおばたち自身への制限以上に、そちらのほうがより抜本的な対策ともなろう。
ヒステリーによって自責の念を被害者意識や他害意識に
転嫁する卑劣さほど相容れないものもまたあり得ないからには、
前者による清廉な統治と、ヒスおば支配もまた、到底相容れるものではない。
女子と小人を反面教師とした修養を重んずる儒学こそが、
江戸期の日本のほか、儒学が初めて国学に指定された漢代の中国などでも、
引責自殺を続出させていたというし、儒学は当然その最たる助けとなるものである。
飢饉時に口減らし目的で仏僧が即身仏を称するミイラ化を試みたり、
出家皇族である公弁法親王の一存で赤穂義士の切腹も決定したりと、
仏門もまたそれによる治世の実現の扶けになることこそあれど、妨げになることはない。
神道は残念ながら、世俗を直接的に司る分には全くその役割を果たさず、
カルトの走狗と化した汚職政治家の片棒を担ぐような真似にまで及んでしまうことが
すでに発覚してしまっていることだし、老荘列の教えなどにも厳格に即した、
超俗への回帰によってその恥を漱いでいくことが必要となろう。
まさに件のような責任転嫁系のヒスこそを強大化させてかかる、
カルト信仰や文系の洋学などは、当然のこととして排除の対象とするしかない。
ヒスおばたち自身への制限以上に、そちらのほうがより抜本的な対策ともなろう。
一昨年のあの事件で、自民党と統一教会の致命的な癒着が
全国に知れ渡るまで、巷ではそんな問題などないも同然のものとして
扱われていたのと同じように、ヒスおばの毒気こそが全国に
まき散らされての世の停滞もまた、未だ認知が皆無に等しい状態。
そういうおばさんが忌まわしい存在だということぐらいは、
それなりに囁かれているものだけれども、画像のようなコラもネット上に長年
流通しておきながら、一昨年まで表社会ではほぼ黙殺状態だったのと同じように、
それが本当に大いなる国難の元凶になっているとまでは承認されないままでいる。
あまりにも当たり前にそこら中に出回っているものというのは、
もはやそれが致命的な害悪を帯びているのだろうとも問題視されないというのは、
たとえばインド人やアフリカ人が、今でも狂犬病持ちの犬やマラリア持ちの蚊や
エボラ持ちの猿と平気で共存している姿などからも察せられることだけれども。
その分だけ、世の中全体の身命への慈しみもまたいつの間にか下がっているもので、
それは結局のところ日本でもまた、Z世代の闇バイトや頂き女子のようなかたちで
非業の噴出を始めているものでもある。今すでに知れている範囲の外側にも、
なんらかの致命的な落ち度が存在し得ることへの警戒を欠かしている以上は、
表向き平和が確立されているように見える世の中にも、必ず破綻の危険が迫るのである。
全国に知れ渡るまで、巷ではそんな問題などないも同然のものとして
扱われていたのと同じように、ヒスおばの毒気こそが全国に
まき散らされての世の停滞もまた、未だ認知が皆無に等しい状態。
そういうおばさんが忌まわしい存在だということぐらいは、
それなりに囁かれているものだけれども、画像のようなコラもネット上に長年
流通しておきながら、一昨年まで表社会ではほぼ黙殺状態だったのと同じように、
それが本当に大いなる国難の元凶になっているとまでは承認されないままでいる。
あまりにも当たり前にそこら中に出回っているものというのは、
もはやそれが致命的な害悪を帯びているのだろうとも問題視されないというのは、
たとえばインド人やアフリカ人が、今でも狂犬病持ちの犬やマラリア持ちの蚊や
エボラ持ちの猿と平気で共存している姿などからも察せられることだけれども。
その分だけ、世の中全体の身命への慈しみもまたいつの間にか下がっているもので、
それは結局のところ日本でもまた、Z世代の闇バイトや頂き女子のようなかたちで
非業の噴出を始めているものでもある。今すでに知れている範囲の外側にも、
なんらかの致命的な落ち度が存在し得ることへの警戒を欠かしている以上は、
表向き平和が確立されているように見える世の中にも、必ず破綻の危険が迫るのである。
今から30年以上前、>>1画で引用させてもらった部分なども含む
最初期のゴー宣で、この人が実は「はやくじじいになりたい」と言ってて、
そこから作中での一人称を「わし」に統一し始めたのを覚えてるんだが。
当時はまだ老人といえば戦前世代で、団塊ですらアラフォーやそこら。
そんな中年期の自分たちから見た場合の年寄りたちの中には、
たとえば四元義隆氏や田中清玄氏のような、命がけで外患スパイ
などから日本の権益を守り抜いていた人々もまだいたりで、
まだそれなりに羨望できるようなところもあったものだから、
(たしかこの人は座頭市や勝新の大ファンでもあったはず)
自分もそのうちの一人のような頑固ジジイになりたかったのだろう。
しかし現実は非情である。
自分たち戦後旧世代たるや、ろくに内憂外患を退けることも能わず、
総員で医療利権頼みによる長生きで若い世代に負担をかけるような
老害集団と化してしまったために、たとえ若者たちの見るに明らかな
落ち度を指摘して怒るような真似に及ぼうとも、邪険にしか扱われない。
オウムにVXで殺されかけたりと、それなりに修羅場も潜り抜けて来た
人ではあるけれども、それでも四元氏らが亡き後に、統一教会に完全に
乗っ取られた自民政権による暴慢を食い止めるほどの力まではなく、
世の中どころか自分自身の現状の体たらくまでをも嘆く羽目に陥っている。
さような戦後旧世代ならではの無念を晴らしてやれるぐらいの革命でもなくば。
最初期のゴー宣で、この人が実は「はやくじじいになりたい」と言ってて、
そこから作中での一人称を「わし」に統一し始めたのを覚えてるんだが。
当時はまだ老人といえば戦前世代で、団塊ですらアラフォーやそこら。
そんな中年期の自分たちから見た場合の年寄りたちの中には、
たとえば四元義隆氏や田中清玄氏のような、命がけで外患スパイ
などから日本の権益を守り抜いていた人々もまだいたりで、
まだそれなりに羨望できるようなところもあったものだから、
(たしかこの人は座頭市や勝新の大ファンでもあったはず)
自分もそのうちの一人のような頑固ジジイになりたかったのだろう。
しかし現実は非情である。
自分たち戦後旧世代たるや、ろくに内憂外患を退けることも能わず、
総員で医療利権頼みによる長生きで若い世代に負担をかけるような
老害集団と化してしまったために、たとえ若者たちの見るに明らかな
落ち度を指摘して怒るような真似に及ぼうとも、邪険にしか扱われない。
オウムにVXで殺されかけたりと、それなりに修羅場も潜り抜けて来た
人ではあるけれども、それでも四元氏らが亡き後に、統一教会に完全に
乗っ取られた自民政権による暴慢を食い止めるほどの力まではなく、
世の中どころか自分自身の現状の体たらくまでをも嘆く羽目に陥っている。
さような戦後旧世代ならではの無念を晴らしてやれるぐらいの革命でもなくば。
ニコニコのこのふざけた復旧スタイルを見るに、ろくに
バックアップも取って来なかったんだろうなというのは知れる。
データカートリッジに定期的にバックアップしてただけでも、
ここまで復旧が遅れることはなかったはずなんだよね。
現行のサーバ内にあるデータを全部ウイルスチェックし直してから
上げ直すとかなったら、それが何十年後になるのか知らないけれども、
それに相当するような真似をひけらかしているような状態。
ビッグデータを十分な安全性と共に取り扱う体制を整えて
いなかったというのは、薄々知れていたことではあるにしても、
そこに本当に実体がなかったのが周知されたのは、ご愁傷様なこったね。
さすが創業者すら逃亡犯状態に追い込んでいる界隈。
バックアップも取って来なかったんだろうなというのは知れる。
データカートリッジに定期的にバックアップしてただけでも、
ここまで復旧が遅れることはなかったはずなんだよね。
現行のサーバ内にあるデータを全部ウイルスチェックし直してから
上げ直すとかなったら、それが何十年後になるのか知らないけれども、
それに相当するような真似をひけらかしているような状態。
ビッグデータを十分な安全性と共に取り扱う体制を整えて
いなかったというのは、薄々知れていたことではあるにしても、
そこに本当に実体がなかったのが周知されたのは、ご愁傷様なこったね。
さすが創業者すら逃亡犯状態に追い込んでいる界隈。
スレの主題にまた話を戻すに。
俺が昔通ってた道場に、
「進歩向上の道には困難が伴い、退歩の道は安易である」
という、松下幸之助だかの発言が元の標語が掲げてあったんだが。
あまりにも当たり前に思えて当時はさほど気にしていなかったけれども、
現代の日本たるや、レディーファースト系カルト志向の蔓延によって、
それすらもが見落とされての顛倒夢想までもがまかり通ってしまっている。
進歩向上なんか志さないというのなら、それはそれでともかくとして、
志すのならやはり、そこには困難や厳しさが伴うもの。スパルタ的な
仕打ちを外的に被ったりせずとも、やはり入念な自制心によって、
他者から以上に自分に厳しくあってこそ、そこに何らかの向上がある。
そこがまず、努力したところでもはや伸びしろが知れてる女たちによって
主に否定されて、困難なんかなくても向上があり得るとまで思い込まれ始めた。
俺が昔通ってた道場に、
「進歩向上の道には困難が伴い、退歩の道は安易である」
という、松下幸之助だかの発言が元の標語が掲げてあったんだが。
あまりにも当たり前に思えて当時はさほど気にしていなかったけれども、
現代の日本たるや、レディーファースト系カルト志向の蔓延によって、
それすらもが見落とされての顛倒夢想までもがまかり通ってしまっている。
進歩向上なんか志さないというのなら、それはそれでともかくとして、
志すのならやはり、そこには困難や厳しさが伴うもの。スパルタ的な
仕打ちを外的に被ったりせずとも、やはり入念な自制心によって、
他者から以上に自分に厳しくあってこそ、そこに何らかの向上がある。
そこがまず、努力したところでもはや伸びしろが知れてる女たちによって
主に否定されて、困難なんかなくても向上があり得るとまで思い込まれ始めた。
ヨガ行も元来が修行の手段だから、本当に痛くて苦しいことを試み続ければ、
それで能力開発や健康長寿のような、着実な成果にも与れるようになっているのだが、
ただ気持ちいい範囲だけでやってみたところで、全くなんの成果も挙げられないのみならず、
虚弱化などの弊害をも帯びかねない。にもかかわらずそこにこそ向上性を見出したりする。
特にひどい教室なんかだと、本当にそういうことをやっただけで上級者認定の
免許状などを発行して、レッスン生に向上できた気分にならせたりまでする。
そこに、「精神的に向上心のない者はばかだ」程度の、
最低限の分別をも欠いた、顛倒夢想の精髄がある。
進歩向上が何の困難もなく、むしろ快楽を得るだけで達成できるなどと思い込むのは、
畢竟、淫乱さから正当化される狂態でもあることだし、特にそれをヨガ行のような本格の
修行手段にまで当てはめたりするのは、もはや罰当たりといっても過言ではない所業となる。
そんなものが平気で商売になってたりする世相ともなれば、そこに惑溺している
おばさんたちのみならず、世の中全体が進歩向上のための大原則を見損ない、
それを目指す以上は困難を伴う努力も怠らないという大前提までもが反故にされての、
成長力著しい子供や若者まで甘やかして伸び悩ませる外ない末路に陥ったのである。
それで能力開発や健康長寿のような、着実な成果にも与れるようになっているのだが、
ただ気持ちいい範囲だけでやってみたところで、全くなんの成果も挙げられないのみならず、
虚弱化などの弊害をも帯びかねない。にもかかわらずそこにこそ向上性を見出したりする。
特にひどい教室なんかだと、本当にそういうことをやっただけで上級者認定の
免許状などを発行して、レッスン生に向上できた気分にならせたりまでする。
そこに、「精神的に向上心のない者はばかだ」程度の、
最低限の分別をも欠いた、顛倒夢想の精髄がある。
進歩向上が何の困難もなく、むしろ快楽を得るだけで達成できるなどと思い込むのは、
畢竟、淫乱さから正当化される狂態でもあることだし、特にそれをヨガ行のような本格の
修行手段にまで当てはめたりするのは、もはや罰当たりといっても過言ではない所業となる。
そんなものが平気で商売になってたりする世相ともなれば、そこに惑溺している
おばさんたちのみならず、世の中全体が進歩向上のための大原則を見損ない、
それを目指す以上は困難を伴う努力も怠らないという大前提までもが反故にされての、
成長力著しい子供や若者まで甘やかして伸び悩ませる外ない末路に陥ったのである。
「進歩向上のための困難を伴う努力」というもの自体が、
これまた大きな誤解と共に受け止められるようになったせいで、
そんなものは不合理扱いして敬遠する者が多くなった、というのもある。
たとえば、年取って体力が衰えてくると、
座っていた状態から立ち上がるだけでも「よっこいしょ」などと言いながら、
ある種の一念発起を試みねばならなくなる者が増えてくる。
若い頃にも、その踏ん張りはあったのだけれども、まだ体力が旺盛なために、
何もしていない状態との落差が小さくて、「よっこいしょ」などという必要もなかった。
それと同じように、若い頃は努力がしやすく、年取るとしにくくなる、
特に元から体力が低い女たちはその傾向が強い、というのもまたあるけれども。
古流の武芸などで嗜まれるような、合理的な身体操法によって、座った状態からの
立ち上がりなどをより負担なく行えるようにもなるし、ラージャヨガなどで
試みられるクンバハカの技法によって、「よっこいしょ」の時だけに限らず、
常日頃から一定以上には体全体がエネルギーで満たされるようになり、それプラス
合理的な身体操法で、加齢後も立ち上がり運動などに全く負担を感じないようにはなれる。
これまた大きな誤解と共に受け止められるようになったせいで、
そんなものは不合理扱いして敬遠する者が多くなった、というのもある。
たとえば、年取って体力が衰えてくると、
座っていた状態から立ち上がるだけでも「よっこいしょ」などと言いながら、
ある種の一念発起を試みねばならなくなる者が増えてくる。
若い頃にも、その踏ん張りはあったのだけれども、まだ体力が旺盛なために、
何もしていない状態との落差が小さくて、「よっこいしょ」などという必要もなかった。
それと同じように、若い頃は努力がしやすく、年取るとしにくくなる、
特に元から体力が低い女たちはその傾向が強い、というのもまたあるけれども。
古流の武芸などで嗜まれるような、合理的な身体操法によって、座った状態からの
立ち上がりなどをより負担なく行えるようにもなるし、ラージャヨガなどで
試みられるクンバハカの技法によって、「よっこいしょ」の時だけに限らず、
常日頃から一定以上には体全体がエネルギーで満たされるようになり、それプラス
合理的な身体操法で、加齢後も立ち上がり運動などに全く負担を感じないようにはなれる。
それを志し会得して行くのもまた、進歩向上のための努力であり、
ただ踏ん張って立ち上がることばかりを頑張るのと比べれば、
心技体のうちの心や技の向上を模索する面もまたはるかに多いのが特徴となる。
古来の武芸などはさような心技体総動員の進歩向上を本分としていたものだから、
「80歳を過ぎるまで向上し続け、若者にも負けない(中山博道)」ともされていたのだが、
ただひたすら「よっこいしょ」な踏ん張りの修練ばかりを目論むような小道では、
年寄りが若者に勝てることもないし、中高年のおばさんが何かを得られるようなこともない。
努力の方向性が心技体全方位に行き渡る部類の努力が見失われて、
どれか一つばかりへの努力しか存在しないぐらいに思われているために、
努力の成果も低い所で天井打ちとなり、誰もそんなものを羨望することもなく、
せいぜい生まれつきの才能の消費だけで済ませるような怠慢を開き直ってしまっている。
その矮小さの範疇において、あらゆる伸びしろが絶えたおばさんたちのヒスなども
格段に増悪して行くものだし、決してそれが人間に与えられた唯一の道というわけでもないのだ。
ただ踏ん張って立ち上がることばかりを頑張るのと比べれば、
心技体のうちの心や技の向上を模索する面もまたはるかに多いのが特徴となる。
古来の武芸などはさような心技体総動員の進歩向上を本分としていたものだから、
「80歳を過ぎるまで向上し続け、若者にも負けない(中山博道)」ともされていたのだが、
ただひたすら「よっこいしょ」な踏ん張りの修練ばかりを目論むような小道では、
年寄りが若者に勝てることもないし、中高年のおばさんが何かを得られるようなこともない。
努力の方向性が心技体全方位に行き渡る部類の努力が見失われて、
どれか一つばかりへの努力しか存在しないぐらいに思われているために、
努力の成果も低い所で天井打ちとなり、誰もそんなものを羨望することもなく、
せいぜい生まれつきの才能の消費だけで済ませるような怠慢を開き直ってしまっている。
その矮小さの範疇において、あらゆる伸びしろが絶えたおばさんたちのヒスなども
格段に増悪して行くものだし、決してそれが人間に与えられた唯一の道というわけでもないのだ。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1718010877/16...
絶対に譲れないものがある敵対者同士での会話ってのはな、
どちらかが死ぬか、言葉による相互理解を諦めてその場を去るか、
言語道断の戦闘に移行するのでもない限りは、終わることはないんだよ。
絶対に譲れないものがある敵対者同士での会話ってのはな、
どちらかが死ぬか、言葉による相互理解を諦めてその場を去るか、
言語道断の戦闘に移行するのでもない限りは、終わることはないんだよ。
その恫喝とやらも、恫喝だったところで、
おまえらが散々俺相手に試みて来た恫喝の足元にも
及ばないほどささやかな範囲のものでしかないからこそ、
おまえらのほうが優先的な削除規制の対象となって来たうえに、
そのような管理姿勢が立派な健全運営であると広く認められて、
ここ明和も画像掲示板という、旧式で脱落閉鎖する類似サイトも
多いような形式でいながら、今まで生き延びられて来たのである。
おまえらが散々俺相手に試みて来た恫喝の足元にも
及ばないほどささやかな範囲のものでしかないからこそ、
おまえらのほうが優先的な削除規制の対象となって来たうえに、
そのような管理姿勢が立派な健全運営であると広く認められて、
ここ明和も画像掲示板という、旧式で脱落閉鎖する類似サイトも
多いような形式でいながら、今まで生き延びられて来たのである。
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スレッドタイトル:カルトとレディーファースト