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「信じる力」を育む 偉大なる生存の報告 Part321
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近ごろの日本人は、「信じる」と聞くとまず不審な宗教勧誘あたりを思い浮かべて
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
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こんな偏屈カスジジイからも中二病ぽさは消えて行くのだな。使う画像もかなりマイルド担ってるし、口調も昔よりかなり弱ってきてる。
まぁそれが世間の正常なのだが
老いて正常になりきった時、このカスジジイは何を思うのだろうなw
まぁそれが世間の正常なのだが
老いて正常になりきった時、このカスジジイは何を思うのだろうなw
お前の中にも中二病があると自覚してるのが面白い。
見当違いなのは、老いも成熟も違いはないという点だ。
このジジイは見たい方向からしか見たいものを見ないので、その姿しか見えない訳だ。
本質は同じものなのに、逆から見ると全く形が違うというもので世の中は構成されてるのに、それを認めようとしないのが未熟だねぇ
見当違いなのは、老いも成熟も違いはないという点だ。
このジジイは見たい方向からしか見たいものを見ないので、その姿しか見えない訳だ。
本質は同じものなのに、逆から見ると全く形が違うというもので世の中は構成されてるのに、それを認めようとしないのが未熟だねぇ
気違いの独り善がりが歳食っただけでまともになるわけがないだろ
世のため人のためさっさとくたばればいいのに
世のため人のためさっさとくたばればいいのに
「自分だけは特別」なヤブ医者にも早々に退散してほしいですね。
アンチスレの手下などもそれらしきことを述べていたように、
カルトこそが、本当は信仰自体いらないのである。
教団への屈服や布施さえあればそれでいい。
連中のいう信仰というのは畢竟、そちらが本体であるとすらいえる。
オウムも脱会希望者を殺害するような真似にまで及んでたし、
統一教会もそこまで行かずとも似たようなリスクを希望者に負わせて来た。
そういう脅しの加味によって、信心なき者同士での結束もさらに盤石たる。
連中が見るからに醜悪で、健全な精神性の持主ほど生理的な嫌悪感を催させる
様相を帯びているのも畢竟、そこで謳われている「信」自体が紛い物だから。
総合的には、人々の信じる力をできる限り損なわしめて、何なら自分たちが
本尊としているものへの信仰すら、上辺だけの偽物であればなおいいという、
信教としての根本からの贋物加減を帯びているからこその醜怪さ。
非合法組織なりの信義をそれなりに重んじていた昔のヤクザ未満、
麻薬カルテルや闇バイト団などとも大差ない、疑心暗鬼の高め合いと共なる結束
というその内実こそが、カタギに最大級の拒絶感を抱かせる随所となっている。
そして残念ながら、そういう性向自体がカルトや非合法組織のみならず、
現代社会のあらゆる組織団体にまで少なからぬ感染を拡大させている始末。
なればこそZ世代も、普通の仕事より闇バイトを選ぶことに躊躇も抱かなったりする。
カルトこそが、本当は信仰自体いらないのである。
教団への屈服や布施さえあればそれでいい。
連中のいう信仰というのは畢竟、そちらが本体であるとすらいえる。
オウムも脱会希望者を殺害するような真似にまで及んでたし、
統一教会もそこまで行かずとも似たようなリスクを希望者に負わせて来た。
そういう脅しの加味によって、信心なき者同士での結束もさらに盤石たる。
連中が見るからに醜悪で、健全な精神性の持主ほど生理的な嫌悪感を催させる
様相を帯びているのも畢竟、そこで謳われている「信」自体が紛い物だから。
総合的には、人々の信じる力をできる限り損なわしめて、何なら自分たちが
本尊としているものへの信仰すら、上辺だけの偽物であればなおいいという、
信教としての根本からの贋物加減を帯びているからこその醜怪さ。
非合法組織なりの信義をそれなりに重んじていた昔のヤクザ未満、
麻薬カルテルや闇バイト団などとも大差ない、疑心暗鬼の高め合いと共なる結束
というその内実こそが、カタギに最大級の拒絶感を抱かせる随所となっている。
そして残念ながら、そういう性向自体がカルトや非合法組織のみならず、
現代社会のあらゆる組織団体にまで少なからぬ感染を拡大させている始末。
なればこそZ世代も、普通の仕事より闇バイトを選ぶことに躊躇も抱かなったりする。
カルトの最大級の被害者と加害者という真逆の立場同士なのに、
何故この二人は、どこか人相面で似通ってるのか?
これは、どちらも「信じる力」を極限まですり減らせた人相だから。
被害者の人のほうが人間不信でそんななってしまってるのは
まだ察せられる所があろうが、幹部や代表級の信者側ですら、
むしろ外部への「不信の力」を高めた上での信仰であるが故に、
人間不信者的な人相へと陥らざるを得ないのが実情である。
古写真や祖父母以前の先祖などを顧みても、昔の日本人などには
ほとんどいなかったことが分かるが、近年には急増していて、
特に政財界の関係者などには多く見られる部類の人相。
かくいう俺自身の親父などにも多少は見られる様相。
ただのリーマンではあるにしても、世の中全体を権益収奪の
ための狩場と見なして不信の対象とし、自社だけの突出した
収益を目論むというのが常態と化しているために、自然とそうなる。
加害者だけでなく、カルトの危害が横行するような世の中の
誰しもが無防備ならば陥ってしまう、不仁者の人相なわけだ。
何故この二人は、どこか人相面で似通ってるのか?
これは、どちらも「信じる力」を極限まですり減らせた人相だから。
被害者の人のほうが人間不信でそんななってしまってるのは
まだ察せられる所があろうが、幹部や代表級の信者側ですら、
むしろ外部への「不信の力」を高めた上での信仰であるが故に、
人間不信者的な人相へと陥らざるを得ないのが実情である。
古写真や祖父母以前の先祖などを顧みても、昔の日本人などには
ほとんどいなかったことが分かるが、近年には急増していて、
特に政財界の関係者などには多く見られる部類の人相。
かくいう俺自身の親父などにも多少は見られる様相。
ただのリーマンではあるにしても、世の中全体を権益収奪の
ための狩場と見なして不信の対象とし、自社だけの突出した
収益を目論むというのが常態と化しているために、自然とそうなる。
加害者だけでなく、カルトの危害が横行するような世の中の
誰しもが無防備ならば陥ってしまう、不仁者の人相なわけだ。
カルトが信者か否かに関わらず、世の中全体へとまき散らして行く部類の
人間不信を、近年の無宗教的な文化文明が抑制できた試しもなく、
中には足並み揃えてより助長させて来たものまである。
そういう世の中の全様相が、人々の信じる力を高めるために念仏信仰などが布教
されていた昔の日本などにも品位で劣るがために、安定度などでも匹敵できたことがない。
しかれば、宗教を馬鹿にできるような資格が、今の人間などにあるわけもない。
ある種の真っ当な信教並みに、世の中の平和や繁栄を保てた試しもないのに、
宗教全般を低レベル扱いして蔑んだりするのは、事実誤認と共にでしかあり得ぬ凶行。
ただ、そういった事実関係を突き付けられようとも、相変わらず宗教全般を
見下してかかるような者がいたりするようなら、それこそは完全なるカルトの眷属。
自分たちが見下してかかっているような部類の邪教の手駒確定という、究極の痴態である。
人間不信を、近年の無宗教的な文化文明が抑制できた試しもなく、
中には足並み揃えてより助長させて来たものまである。
そういう世の中の全様相が、人々の信じる力を高めるために念仏信仰などが布教
されていた昔の日本などにも品位で劣るがために、安定度などでも匹敵できたことがない。
しかれば、宗教を馬鹿にできるような資格が、今の人間などにあるわけもない。
ある種の真っ当な信教並みに、世の中の平和や繁栄を保てた試しもないのに、
宗教全般を低レベル扱いして蔑んだりするのは、事実誤認と共にでしかあり得ぬ凶行。
ただ、そういった事実関係を突き付けられようとも、相変わらず宗教全般を
見下してかかるような者がいたりするようなら、それこそは完全なるカルトの眷属。
自分たちが見下してかかっているような部類の邪教の手駒確定という、究極の痴態である。
たとえば昔の念仏信仰なみに、人々の信じる力を育むことで、
世の中の信頼関係全般を高めて行ける無宗教的な文化などがあるのなら、
それを振興して行くのでもいいが、少なくとも西洋化まみれな今の日本などには見当たらない。
「鬼滅の刃」みたいに、人々の信頼関係の大切さを、個人の思い上がりの上に
置こうとする部類の創作などが、それに近い意味合いを帯びてはいるけれども、所詮は
娯楽作品の範疇止まりであるために、現実社会の信頼関係を高めて行くほどの影響力までは持ち得ない。
江戸時代の歌舞伎や文楽なども、人々の信頼関係の大切さを人情劇に託していた点では
鬼滅に勝るとも劣らないが、やはり娯楽止まりゆえの限界というのはあるもので、
人々が義務的に信じる力を養って行くための本身たる手段はまた別にあるもの。
伝統仏教の中で最も簡素な部類である念仏でもその条件は満たしている一方、
高い料金払ってセミナー受けさせるような近年の自己啓発プログラムなどはそこにも達してない
ことがほとんどである。あまりにも現代的手段にその条件を満たしているものが絶無であるために、
完全にないものと断じ、世の中の信頼関係の底上げなどあり得ないこととまで思い込んだりもする。
世の中の信頼関係全般を高めて行ける無宗教的な文化などがあるのなら、
それを振興して行くのでもいいが、少なくとも西洋化まみれな今の日本などには見当たらない。
「鬼滅の刃」みたいに、人々の信頼関係の大切さを、個人の思い上がりの上に
置こうとする部類の創作などが、それに近い意味合いを帯びてはいるけれども、所詮は
娯楽作品の範疇止まりであるために、現実社会の信頼関係を高めて行くほどの影響力までは持ち得ない。
江戸時代の歌舞伎や文楽なども、人々の信頼関係の大切さを人情劇に託していた点では
鬼滅に勝るとも劣らないが、やはり娯楽止まりゆえの限界というのはあるもので、
人々が義務的に信じる力を養って行くための本身たる手段はまた別にあるもの。
伝統仏教の中で最も簡素な部類である念仏でもその条件は満たしている一方、
高い料金払ってセミナー受けさせるような近年の自己啓発プログラムなどはそこにも達してない
ことがほとんどである。あまりにも現代的手段にその条件を満たしているものが絶無であるために、
完全にないものと断じ、世の中の信頼関係の底上げなどあり得ないこととまで思い込んだりもする。
>>61の「信用する心を持つことが日本の繁栄につながる」という話を聞いて、
やはりこれも日本という国にこそ深く伝統として根差して来た特色だったんだよなとも気づいた。
欧米であれ中国であれその他の大陸諸国であれ、日本ほど人々の信用性の高さを
頼みとして来た国も他にはなく、疑心暗鬼による騙し合いなども横行しながら、
そのせいで国ごと傾くツケを、他国への侵略や戦乱で払い続けて来たのが実情である。
近代から戦前にかけては、欧米列強への対抗という已む無い理由があってとはいえ、
日本もそのペースに乗っかってしまったけれども、敗戦によってその道も絶たれ、
戦後しばらくの間は、経済的な覇権の拡大を目論む余地は残されたものの、それもまた
プラザ合意や半導体協定からのバブル崩壊といった雁字搦めによって封じられて今に至る。
他国への権益の拡大で国を保たせる選択肢を完全に断たれた今の日本などは、
さらに為替操作や技術流出で国富を米中韓らに吸い上げられているという点を除けば、
鎖国状態だった江戸期の日本などにも似通っているとも言えるのであり、そこで昔並み以上の
人々の信じ合いまでをも反故にしているのだから、亡国まっしぐらなのも必然中の当然というほかない。
やはりこれも日本という国にこそ深く伝統として根差して来た特色だったんだよなとも気づいた。
欧米であれ中国であれその他の大陸諸国であれ、日本ほど人々の信用性の高さを
頼みとして来た国も他にはなく、疑心暗鬼による騙し合いなども横行しながら、
そのせいで国ごと傾くツケを、他国への侵略や戦乱で払い続けて来たのが実情である。
近代から戦前にかけては、欧米列強への対抗という已む無い理由があってとはいえ、
日本もそのペースに乗っかってしまったけれども、敗戦によってその道も絶たれ、
戦後しばらくの間は、経済的な覇権の拡大を目論む余地は残されたものの、それもまた
プラザ合意や半導体協定からのバブル崩壊といった雁字搦めによって封じられて今に至る。
他国への権益の拡大で国を保たせる選択肢を完全に断たれた今の日本などは、
さらに為替操作や技術流出で国富を米中韓らに吸い上げられているという点を除けば、
鎖国状態だった江戸期の日本などにも似通っているとも言えるのであり、そこで昔並み以上の
人々の信じ合いまでをも反故にしているのだから、亡国まっしぐらなのも必然中の当然というほかない。
親鸞聖人もまた夢に出るほど敬い尊んでいた、聖徳太子の十七条憲法にも
「和を以て貴しと為す」とある通り、これが大陸と絶海で隔てられた
日本という閉鎖的国家を保たせる一番の基礎となって来た理念であり、
念仏などもまた、その助成に与するものとして広く振興されて来たものである。
残念ながらその伝統は近代以降に大きく損なわれ、宗教信仰といえばむしろ、
社会全体の人間不信を助長した上で、信者衛門同士が結束で火事場泥棒を目論むのが
その正体だなどという、カルトに乗っ取られた常識までもが通用するようになった。
それでもまだ軍事的、経済的な覇道を国ぐるみで突き進めていたうちは
どうにかなるところがあったが、今やその道は断たれ、にもかかわらず他者を
侵害することで権益を貪るような連中が、国内の弱者相手に暴れ回った挙句に、
国力をより損なってかかるような自殺行為までもが横行する始末ともなっている。
今一度、他国へと覇権を拡大するような野望を抱くべきなのかといえば、決して
そんなことはなく、日本人はそんな真似が得意ではないからこそ先の大戦で敗亡したのだ
という事実をも省みて、他者への侵害ありきな国体運営のほうを見直して行くべきなのである。
そしてそこで今一度見直されるべきなのが、国のあり方としての「以和為貴」なのであり、
その保守のために万民の信頼関係を修復、増進させて行くことにこそ本格たらねばならないのである。
「和を以て貴しと為す」とある通り、これが大陸と絶海で隔てられた
日本という閉鎖的国家を保たせる一番の基礎となって来た理念であり、
念仏などもまた、その助成に与するものとして広く振興されて来たものである。
残念ながらその伝統は近代以降に大きく損なわれ、宗教信仰といえばむしろ、
社会全体の人間不信を助長した上で、信者衛門同士が結束で火事場泥棒を目論むのが
その正体だなどという、カルトに乗っ取られた常識までもが通用するようになった。
それでもまだ軍事的、経済的な覇道を国ぐるみで突き進めていたうちは
どうにかなるところがあったが、今やその道は断たれ、にもかかわらず他者を
侵害することで権益を貪るような連中が、国内の弱者相手に暴れ回った挙句に、
国力をより損なってかかるような自殺行為までもが横行する始末ともなっている。
今一度、他国へと覇権を拡大するような野望を抱くべきなのかといえば、決して
そんなことはなく、日本人はそんな真似が得意ではないからこそ先の大戦で敗亡したのだ
という事実をも省みて、他者への侵害ありきな国体運営のほうを見直して行くべきなのである。
そしてそこで今一度見直されるべきなのが、国のあり方としての「以和為貴」なのであり、
その保守のために万民の信頼関係を修復、増進させて行くことにこそ本格たらねばならないのである。
「アメリカ流の社会統治などは、他国への権益の侵害があって
初めてプラマイゼロ以上たるものなのに、その道を断たれている
今の日本などが真似したところでマイナスにしかならない」とは、
前スレなどでも話して来たことだし、まさにその通りとなったのがこの30年。
ここからの巻き返しのために、真に有効たり得る最も特効薬的な政策が二つ。
一つが上にも書いたような、「以和為貴」への国体の回帰、もう一つが、
スパイ天国状態から脱却できる程度の諜報機関の整備なども伴う、
日本の専守防衛の範囲での再軍備による国家的独立の達成である。
むしろ後者のほうが、とうの昔から自民政権などを通じても実現が目論まれて
来たものではあるけれども、未だ未達である上に、反対者も莫大な人数に上る。
それはただ外圧の犬だったりするだけではなく、日本の戦前帰りを道義的側面からも
許すことが出来ないような人々からの、それなりに由緒のある反対だったりもする。
今の日本の政財界には、戦前の罪過を十分に清算することもなく、アメリカの
靴を舐めながら国民を虐げて私腹を肥やして来たようなならず者が多く残存していて、
そんな連中にまた真の国権を明け渡したりしようものなら、アメリカの実質的な
占領下に置かれ続けている今よりも酷いことになりかねないという恐れがあるもの。
初めてプラマイゼロ以上たるものなのに、その道を断たれている
今の日本などが真似したところでマイナスにしかならない」とは、
前スレなどでも話して来たことだし、まさにその通りとなったのがこの30年。
ここからの巻き返しのために、真に有効たり得る最も特効薬的な政策が二つ。
一つが上にも書いたような、「以和為貴」への国体の回帰、もう一つが、
スパイ天国状態から脱却できる程度の諜報機関の整備なども伴う、
日本の専守防衛の範囲での再軍備による国家的独立の達成である。
むしろ後者のほうが、とうの昔から自民政権などを通じても実現が目論まれて
来たものではあるけれども、未だ未達である上に、反対者も莫大な人数に上る。
それはただ外圧の犬だったりするだけではなく、日本の戦前帰りを道義的側面からも
許すことが出来ないような人々からの、それなりに由緒のある反対だったりもする。
今の日本の政財界には、戦前の罪過を十分に清算することもなく、アメリカの
靴を舐めながら国民を虐げて私腹を肥やして来たようなならず者が多く残存していて、
そんな連中にまた真の国権を明け渡したりしようものなら、アメリカの実質的な
占領下に置かれ続けている今よりも酷いことになりかねないという恐れがあるもの。
日本の国家的独立を維持実現できる程度の再軍備自体は、
米中韓なぞに国富を吸い上げられ通しな経済面での惨状の打開のためにも
必要不可欠なことではあるが、そこに獅子身中の虫たる、日本国内の鼠賊への
再支援のような不純物を混ぜ込んだりすることが決してあってはならない。
その手の人種に対して十分な警戒を尽くし、もう二度と権力中枢には立ち入らせない
手筈を踏んだ革命を遂げるのはまだ可能であるとしても、さらにそこから、新たな政権の
担い手たちが連中と同じような過ちを繰り返さないようにする用心のほうが難儀たるもの。
もう二度と連中だけでなく、連中が好き好んで来たような統治手法全般を認めないこと。
世の中を不信ばかりで溢れ返らせて、そこで結束を固めた者たちがタコツボの虚栄を
貪るような、カルトでなくともカルト的であることには変わりない手法の横行を絶ち、
万民がまず信頼関係ありきで世の中を営んで行くという、古くからの日本の伝統に
根差した統治のあり方こそを復興、維持して行くことに専念するのである。
それもまた同時に必ず達成して行けるのであって初めて、この日本という国が
再軍備によってでも真の独立を再獲得して行くことにまで正当性が帯びるのだといえる。
米中韓なぞに国富を吸い上げられ通しな経済面での惨状の打開のためにも
必要不可欠なことではあるが、そこに獅子身中の虫たる、日本国内の鼠賊への
再支援のような不純物を混ぜ込んだりすることが決してあってはならない。
その手の人種に対して十分な警戒を尽くし、もう二度と権力中枢には立ち入らせない
手筈を踏んだ革命を遂げるのはまだ可能であるとしても、さらにそこから、新たな政権の
担い手たちが連中と同じような過ちを繰り返さないようにする用心のほうが難儀たるもの。
もう二度と連中だけでなく、連中が好き好んで来たような統治手法全般を認めないこと。
世の中を不信ばかりで溢れ返らせて、そこで結束を固めた者たちがタコツボの虚栄を
貪るような、カルトでなくともカルト的であることには変わりない手法の横行を絶ち、
万民がまず信頼関係ありきで世の中を営んで行くという、古くからの日本の伝統に
根差した統治のあり方こそを復興、維持して行くことに専念するのである。
それもまた同時に必ず達成して行けるのであって初めて、この日本という国が
再軍備によってでも真の独立を再獲得して行くことにまで正当性が帯びるのだといえる。
>>61
貴方がどのぐらいの年代の人かは知らないけれども、
俺や否定派も含む氷河期世代付近の人間は、未成年のかなり早くのうちから、
万人との信頼関係を見失っていたものと記憶している。
自分たちの親のほか、学校の教師なんかにも団塊世代が多くて、
これが生徒を選り好みしてあっちは褒め、こっちは叱るなんて真似を
平気で繰り返す卑劣さ。その見るからに不仁な振舞いを見せつけられた生徒たちも、
殊更に反発するとまで行かずとも、教師や大人全般を信用しないのが当たり前になって行ったもの。
そしてそれは、残念ながら自分たち同士や、より年下の相手などに対する不信にも派生し、
今の兵庫県知事みたいな万人への薄情きわまる振舞いが板についてしまった。
それが当人たち同士での結束力を極限まで弱め、派遣法改悪などのせいでその多くが
地獄の仕打ちに遭いながらも、まともな抵抗もままならぬという惨めさの原因ともなった。
信頼のおける先輩も後輩も、友人すらもいないのが当たり前というその殺伐さのせいで、
むしろ人間同士の信頼関係の大切さを知らないままでいるような連中のほうが多く、
おそらくこのスレの俺の主張などにもろくに賛意を示すような者もいないだろう。
さりとてやはり、そんな地獄の底でのくすぶりにはもうこれ以上、生き延びる余地もないわけでな。
貴方がどのぐらいの年代の人かは知らないけれども、
俺や否定派も含む氷河期世代付近の人間は、未成年のかなり早くのうちから、
万人との信頼関係を見失っていたものと記憶している。
自分たちの親のほか、学校の教師なんかにも団塊世代が多くて、
これが生徒を選り好みしてあっちは褒め、こっちは叱るなんて真似を
平気で繰り返す卑劣さ。その見るからに不仁な振舞いを見せつけられた生徒たちも、
殊更に反発するとまで行かずとも、教師や大人全般を信用しないのが当たり前になって行ったもの。
そしてそれは、残念ながら自分たち同士や、より年下の相手などに対する不信にも派生し、
今の兵庫県知事みたいな万人への薄情きわまる振舞いが板についてしまった。
それが当人たち同士での結束力を極限まで弱め、派遣法改悪などのせいでその多くが
地獄の仕打ちに遭いながらも、まともな抵抗もままならぬという惨めさの原因ともなった。
信頼のおける先輩も後輩も、友人すらもいないのが当たり前というその殺伐さのせいで、
むしろ人間同士の信頼関係の大切さを知らないままでいるような連中のほうが多く、
おそらくこのスレの俺の主張などにもろくに賛意を示すような者もいないだろう。
さりとてやはり、そんな地獄の底でのくすぶりにはもうこれ以上、生き延びる余地もないわけでな。
それは、元をたどれば親世代の責任なども認められようとて、
自分たち自身までもが不信の権化となってしまっていることを
反省して改めようともしないまま世に訴えてかかるようなら、
それは今の兵庫県知事みたいな総スカンに遭うことまでもが、
自業自得の結実として免れ得ないものとなっている。
現代日本人の中でも最も有能でありながら、疑心暗鬼なのが
デフォと化してしまっている氷河期世代までもが、社会的な信頼関係を
見直して取り戻そうとして行く処からのみ、日本の復調もまたあり得よう。
自分たち自身までもが不信の権化となってしまっていることを
反省して改めようともしないまま世に訴えてかかるようなら、
それは今の兵庫県知事みたいな総スカンに遭うことまでもが、
自業自得の結実として免れ得ないものとなっている。
現代日本人の中でも最も有能でありながら、疑心暗鬼なのが
デフォと化してしまっている氷河期世代までもが、社会的な信頼関係を
見直して取り戻そうとして行く処からのみ、日本の復調もまたあり得よう。
今の世の中全体が、持続不能状態に陥るほどにも人間不信で溢れ返っているという
大局からの問題の解決のためには、それ相応に特殊な手段を要するものである。
キリスト教義などにも「汝の隣人を愛せ」とあるけれども、それでキリスト教圏が
十分な信頼関係で世間を満たせた試しなどがないことからもわかるように、
個人の自助努力だけでどうにかなることなどは決してないのが明らかである。
どちらかといえば、むしろ自分自身が信心によって他者への信頼意識を底上げできた
ことにより、無上の精神の安定などの利益リヤクが得られたことを実感することのほうが
大事な所であると、浄土信仰なども認めているところである。
儒家の三綱五常なども、君臣父子夫婦の関係性を尊ぶ三綱のほうがより重大である
といえども、仁義礼智信の個人的な修養が十分でなければそれが務まらないのもまた、
現実法則として認める所であり、故にこそ顔淵のごとき学問への個人的邁進をも称えているもの。
個人が外的にどうこうするよりも、まず内的な信楽シンギョウを自覚することのほうが、
結果的に世の中全体の信頼関係を高めて行くことにも繋がるが故に、浄土信仰も利他を
重んずる大乗仏教であるにもかかわらず、信者たちが個人的な救いを自覚することのほうを
より重んじて来たのだし、「信」の増進にかけてはそちらのほうが正しい位相たるのである。
大局からの問題の解決のためには、それ相応に特殊な手段を要するものである。
キリスト教義などにも「汝の隣人を愛せ」とあるけれども、それでキリスト教圏が
十分な信頼関係で世間を満たせた試しなどがないことからもわかるように、
個人の自助努力だけでどうにかなることなどは決してないのが明らかである。
どちらかといえば、むしろ自分自身が信心によって他者への信頼意識を底上げできた
ことにより、無上の精神の安定などの利益リヤクが得られたことを実感することのほうが
大事な所であると、浄土信仰なども認めているところである。
儒家の三綱五常なども、君臣父子夫婦の関係性を尊ぶ三綱のほうがより重大である
といえども、仁義礼智信の個人的な修養が十分でなければそれが務まらないのもまた、
現実法則として認める所であり、故にこそ顔淵のごとき学問への個人的邁進をも称えているもの。
個人が外的にどうこうするよりも、まず内的な信楽シンギョウを自覚することのほうが、
結果的に世の中全体の信頼関係を高めて行くことにも繋がるが故に、浄土信仰も利他を
重んずる大乗仏教であるにもかかわらず、信者たちが個人的な救いを自覚することのほうを
より重んじて来たのだし、「信」の増進にかけてはそちらのほうが正しい位相たるのである。
ユングなどは、人間の性格を内向型と外向型に区別して等分に扱っていたけれども、
人間社会全体が信頼関係を高めて行くために必要となるのは、内観による
至心信楽欲生のごときある種の情操のほうであり、外的な「汝の隣人を愛せ」ではない。
ゆえに、人間社会が信頼関係を高めて行くためには、誰しもが一定以上は内向型であったほうがよい。
近代以降は日本でもその心がけが破られて、覇道一辺倒の外向型な人間が増えて行ったが、
それとほぼ反比例して人々の通用的な信頼関係もまた損ねられて行ったが如く、
外向型でしかいられないような人間に、人間社会の信頼関係を高められる余地は決してないもの。
もちろんアスペというほどに内向一辺倒であれというのでもない。
内向も外向も一辺倒であり過ぎるのは病的であり、ユングも病人への臨床からそこに目が行った
のに過ぎない。内的な修養も、外的な関わりも自由自在であるのが人の理想である一方、
下品下生級の人間にはそうとも行かない愚か者が多く、特に人間社会においては、外向型一辺倒と
化する部類の愚か者が多いが故に、内的な信楽の養生が歯止めとして打ってつけとなる、というのみ。
人間社会全体が信頼関係を高めて行くために必要となるのは、内観による
至心信楽欲生のごときある種の情操のほうであり、外的な「汝の隣人を愛せ」ではない。
ゆえに、人間社会が信頼関係を高めて行くためには、誰しもが一定以上は内向型であったほうがよい。
近代以降は日本でもその心がけが破られて、覇道一辺倒の外向型な人間が増えて行ったが、
それとほぼ反比例して人々の通用的な信頼関係もまた損ねられて行ったが如く、
外向型でしかいられないような人間に、人間社会の信頼関係を高められる余地は決してないもの。
もちろんアスペというほどに内向一辺倒であれというのでもない。
内向も外向も一辺倒であり過ぎるのは病的であり、ユングも病人への臨床からそこに目が行った
のに過ぎない。内的な修養も、外的な関わりも自由自在であるのが人の理想である一方、
下品下生級の人間にはそうとも行かない愚か者が多く、特に人間社会においては、外向型一辺倒と
化する部類の愚か者が多いが故に、内的な信楽の養生が歯止めとして打ってつけとなる、というのみ。
念仏が本尊のみならず、世間一般の多くの人々に対するまでの、
信頼意欲全般を高めることができるのは、本尊が真っ当な信仰対象だからでもある。
阿弥陀仏は釈迦や弘法大師のような歴史的実在性も認められない尊格ではあるが、
そこを信じて往生を希うことに、タコツボでの狂信だけを助長するような
カルト性が伴わないように。厳格な教義面からの調整が凝らされているからこそ、
人々の信頼意欲全般までをも底上げする功徳が伴うようになっている。
それは別に阿弥陀様に限ったことではなく、非カルトな信仰には少なからず
そういう側面があるし、信教ですらない文化や学術などでも同様である。
ただ、やはりその効力には強弱があるし、人々の信頼意欲を高めること以外の、
健全な能力開発などを目的としたような、純正な文化習俗なども多く存在する。
浄土教が「聖道門」などと呼ぶ、より出家修行などに特化した自力作善の仏門
などもそういう場合が多く、それは十分な求道を尽くせる人間にとっては
専修念仏の上位互換たるものではあるが、必ずしもそこまで行けないのが浮世の
衆生の常なれば、自分には念仏ぐらいが相当ということも往々にしてあるのである。
信頼意欲全般を高めることができるのは、本尊が真っ当な信仰対象だからでもある。
阿弥陀仏は釈迦や弘法大師のような歴史的実在性も認められない尊格ではあるが、
そこを信じて往生を希うことに、タコツボでの狂信だけを助長するような
カルト性が伴わないように。厳格な教義面からの調整が凝らされているからこそ、
人々の信頼意欲全般までをも底上げする功徳が伴うようになっている。
それは別に阿弥陀様に限ったことではなく、非カルトな信仰には少なからず
そういう側面があるし、信教ですらない文化や学術などでも同様である。
ただ、やはりその効力には強弱があるし、人々の信頼意欲を高めること以外の、
健全な能力開発などを目的としたような、純正な文化習俗なども多く存在する。
浄土教が「聖道門」などと呼ぶ、より出家修行などに特化した自力作善の仏門
などもそういう場合が多く、それは十分な求道を尽くせる人間にとっては
専修念仏の上位互換たるものではあるが、必ずしもそこまで行けないのが浮世の
衆生の常なれば、自分には念仏ぐらいが相当ということも往々にしてあるのである。
そういう、最底辺も最上層も無法者の人でなしで成り立っている世の中の、
どちらの粛清をより急ぐべきなのかといえば、もちろん上層のほうである。
「法治主義」というものは、自分で法率も変えられないような下々の民への
法的支配を徹底することを実質的に意味するものであるために、さほど役に立たない。
権力上層に法制を尊ばせるためには結局、法治主義はおろか、
古代中国の諸子百家における法家ですらない、権力道徳の本家たる儒学や、
それをさらにアクロバティックな方法で支援してくれる仏神の尊重あるのみとなる。
どちらの粛清をより急ぐべきなのかといえば、もちろん上層のほうである。
「法治主義」というものは、自分で法率も変えられないような下々の民への
法的支配を徹底することを実質的に意味するものであるために、さほど役に立たない。
権力上層に法制を尊ばせるためには結局、法治主義はおろか、
古代中国の諸子百家における法家ですらない、権力道徳の本家たる儒学や、
それをさらにアクロバティックな方法で支援してくれる仏神の尊重あるのみとなる。
それを否定してかかれるような証拠などを、
少なくともここで提示された記憶はただの一つもない。
「俺らは無宗教気取りなせいでカルトの奴隷になったドMだぜ~」
に準ずるような話しか、おまえらからも聞いたことがない。
だから宗教を重んじようなんていう気にもまた、
あまりにも多くのカルトが跋扈している現状からも、
決してなれないので、やはりカルトの廃絶を第一とするしかない。
少なくともここで提示された記憶はただの一つもない。
「俺らは無宗教気取りなせいでカルトの奴隷になったドMだぜ~」
に準ずるような話しか、おまえらからも聞いたことがない。
だから宗教を重んじようなんていう気にもまた、
あまりにも多くのカルトが跋扈している現状からも、
決してなれないので、やはりカルトの廃絶を第一とするしかない。
「不当圧力に屈することの何がいけないの?w」
「(息子は自薩、嫁とは別居中な)おまえの知人が一番まともだなw」
「おまえがおまえはおまえのおまえにおまえこそおま」
こういう連中に迎合したり、屈服したりするのが育ちの良さ?
いや別に、それもおまえらだけに特有というわけでもない、
世の上位者ほど通用させて来た今のエチケットなのかも知れんがなあ。
元貴族級の血筋とはいえ、平民への下野側で本当によかった。
「(息子は自薩、嫁とは別居中な)おまえの知人が一番まともだなw」
「おまえがおまえはおまえのおまえにおまえこそおま」
こういう連中に迎合したり、屈服したりするのが育ちの良さ?
いや別に、それもおまえらだけに特有というわけでもない、
世の上位者ほど通用させて来た今のエチケットなのかも知れんがなあ。
元貴族級の血筋とはいえ、平民への下野側で本当によかった。
論考対象が世の中全土などにまでは決して及ばない上に、
自分と他人のような複数の人間の関係性について深く考えることも出来ない。
「おまえがおまえはおまえのおまえにおまえこそおま」か、
「自分は自分が自分に自分の自分こそ自分のじぶ」の二者択一。
常に一人の人間についてまでしかものが考えられないでいるから、
自分がこういうことをすれば、人はどうなるかなんかも想像が付かない。
簡単に言えば単細胞なわけだが、そこからのアクションの強烈さによって、
他者への危害で私腹を肥やすような真似を繰り返して来た上に、
世の中もそれを許容して来たのが、近現代という時代の体たらくでもある。
そういう人間自体はいつの時代にもいるものだし、そこに放辟邪侈の
余地を与えたりしないようにすることのほうが、匙加減の利いた施策たる。
自分と他人のような複数の人間の関係性について深く考えることも出来ない。
「おまえがおまえはおまえのおまえにおまえこそおま」か、
「自分は自分が自分に自分の自分こそ自分のじぶ」の二者択一。
常に一人の人間についてまでしかものが考えられないでいるから、
自分がこういうことをすれば、人はどうなるかなんかも想像が付かない。
簡単に言えば単細胞なわけだが、そこからのアクションの強烈さによって、
他者への危害で私腹を肥やすような真似を繰り返して来た上に、
世の中もそれを許容して来たのが、近現代という時代の体たらくでもある。
そういう人間自体はいつの時代にもいるものだし、そこに放辟邪侈の
余地を与えたりしないようにすることのほうが、匙加減の利いた施策たる。
>>80
そこは、俺は厳格に避けて来ているから、おまえらの側の言いがかりだな。
俺だって、おまえらのあまりにも狂った振舞いや愚かな振舞いに対して
「統失なんじゃないか?」「痴呆なんじゃないか?」とかいったようなことを
言うことはあれど、不正医療行為(傷害罪)にもなりかねないので断定まではしない。
そこから統失や痴呆らしき相手であることを前提とした応対をするようなこともあれど、
それもまた推測の範囲のことであって、なおかつそれが相手への便宜的に適切な
対処になっていたりもするのだから、やめる必要もなくて続ける、なんてこともある。
如是く、理不尽な言いがかりを平気で繰り返して来たのも、おまえらのみである。
それを恥とも思わないのもまた、自分たち自身が反省意識欠けているからなのだろうし、
さような言いがかりから逆怨みに発展したりもしていたりするのだろうな(推測系)。
そこは、俺は厳格に避けて来ているから、おまえらの側の言いがかりだな。
俺だって、おまえらのあまりにも狂った振舞いや愚かな振舞いに対して
「統失なんじゃないか?」「痴呆なんじゃないか?」とかいったようなことを
言うことはあれど、不正医療行為(傷害罪)にもなりかねないので断定まではしない。
そこから統失や痴呆らしき相手であることを前提とした応対をするようなこともあれど、
それもまた推測の範囲のことであって、なおかつそれが相手への便宜的に適切な
対処になっていたりもするのだから、やめる必要もなくて続ける、なんてこともある。
如是く、理不尽な言いがかりを平気で繰り返して来たのも、おまえらのみである。
それを恥とも思わないのもまた、自分たち自身が反省意識欠けているからなのだろうし、
さような言いがかりから逆怨みに発展したりもしていたりするのだろうな(推測系)。
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」が、
人と自分の関係性についての考慮を必要とするのと同じように、
誰かを信じるという行為もまた、その相手との関係性について、
多元的な考慮が可能であって初めて成り立つことである。
ただ、それがカルトの神みたいな形而下には不在の相手とだと、
実在の人間同士の信頼関係を育むことへの応用が不可能となる一方、
形而下に存在し得る相手(これは阿弥陀仏などもその条件を満たしている)
への信心であれば、信頼関係一般を育む助成手段たるものである。
ただし、たとえば空中浮遊風の写真で信者を誑かしていた麻原みたいな、
あり得ないことで他者を誑かす詐欺師の類いへの信心となると、
これまた普通の信頼関係を阻害する原因になってしまうものである。
いちいち世間一般と比べて極端に特別であることを根拠に信仰を
取り付けようとするような部類のカルト性は、その無事是貴人からの
かけ離れようによって、かえって信頼関係一般を損ねるものであり、
宗教であれその他の思想文化であれ、そこを警戒する必要はある。
人と自分の関係性についての考慮を必要とするのと同じように、
誰かを信じるという行為もまた、その相手との関係性について、
多元的な考慮が可能であって初めて成り立つことである。
ただ、それがカルトの神みたいな形而下には不在の相手とだと、
実在の人間同士の信頼関係を育むことへの応用が不可能となる一方、
形而下に存在し得る相手(これは阿弥陀仏などもその条件を満たしている)
への信心であれば、信頼関係一般を育む助成手段たるものである。
ただし、たとえば空中浮遊風の写真で信者を誑かしていた麻原みたいな、
あり得ないことで他者を誑かす詐欺師の類いへの信心となると、
これまた普通の信頼関係を阻害する原因になってしまうものである。
いちいち世間一般と比べて極端に特別であることを根拠に信仰を
取り付けようとするような部類のカルト性は、その無事是貴人からの
かけ離れようによって、かえって信頼関係一般を損ねるものであり、
宗教であれその他の思想文化であれ、そこを警戒する必要はある。
自分を信じる力が強すぎて一切自分を省みようとしない厚顔無恥さ、他人から総スカンを食らっても一切引こうとしない無謀さは、正に兵庫県知事のそれと共通するねw
あの知事についていえば、氷河期世代だし、始めから味方なんかいない。
同年代も上も下も敵だらけであり続けて来たのが今までの生涯だから、
たとえ全議員連盟で辞職を勧告されたところで「だから何?」てのはあるだろうな。
そもそもが前知事の税金使い込みを糾弾する監察的な功労で人気を得て
知事になったのに、それで職員たちに厳しく当たって嫌われたからといって、
それが辞職の理由になるなどとは思えないっていう、論理だてられた判断もあるだろう。
「内に省みて自分が間違っていればボロを着た乞食一人が相手でも譲る。
間違っていなければ百千万の大群が相手でも譲らない」とは孟子も言ってたことだし、
このうちの後者というような面もなくはなかろうな。かといって孟子や俺みたいに、
前者のわきまえもまた十全たろうとしているのかまでは明らかではないが。
同年代も上も下も敵だらけであり続けて来たのが今までの生涯だから、
たとえ全議員連盟で辞職を勧告されたところで「だから何?」てのはあるだろうな。
そもそもが前知事の税金使い込みを糾弾する監察的な功労で人気を得て
知事になったのに、それで職員たちに厳しく当たって嫌われたからといって、
それが辞職の理由になるなどとは思えないっていう、論理だてられた判断もあるだろう。
「内に省みて自分が間違っていればボロを着た乞食一人が相手でも譲る。
間違っていなければ百千万の大群が相手でも譲らない」とは孟子も言ってたことだし、
このうちの後者というような面もなくはなかろうな。かといって孟子や俺みたいに、
前者のわきまえもまた十全たろうとしているのかまでは明らかではないが。
(>>84の続き)
イエス・キリストなんてのはまさに、
無事是貴人^-1、人貴是事無事、無事是貴人の真逆を行く
究極形の信仰対象であるわけで、だからこそそんな相手を
信仰する者もまた、他の何ものをも信頼することができなくなるのである。
別にイエスのように理不尽な目に遭うわけでもなく、
なんだかよく分からない修行で金銀財宝ザックザクの極楽浄土に
往ったとされるだけの阿弥陀仏なんかに、そこまでの奇抜さはない。
イエスと同じように、妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれながらも、
自助努力でそれを克服し、聖人君子の大学者として大成した孔子などもまた、
その泰然自若さのゆえにこそ、信奉の対象とする気にもなれない、となる。
然れども、キリストなぞと比べれば甚だ地味で、そんなものを信奉したりすることに
さしたる面白がりも抱けないような相手たればこそ、それが当人たちのみならず、
誰と言わぬ万人万物万事への信頼意欲を共に高め行く心の糧となるのである。
イエス・キリストなんてのはまさに、
無事是貴人^-1、人貴是事無事、無事是貴人の真逆を行く
究極形の信仰対象であるわけで、だからこそそんな相手を
信仰する者もまた、他の何ものをも信頼することができなくなるのである。
別にイエスのように理不尽な目に遭うわけでもなく、
なんだかよく分からない修行で金銀財宝ザックザクの極楽浄土に
往ったとされるだけの阿弥陀仏なんかに、そこまでの奇抜さはない。
イエスと同じように、妾腹の私生児という恵まれない境遇に生まれながらも、
自助努力でそれを克服し、聖人君子の大学者として大成した孔子などもまた、
その泰然自若さのゆえにこそ、信奉の対象とする気にもなれない、となる。
然れども、キリストなぞと比べれば甚だ地味で、そんなものを信奉したりすることに
さしたる面白がりも抱けないような相手たればこそ、それが当人たちのみならず、
誰と言わぬ万人万物万事への信頼意欲を共に高め行く心の糧となるのである。
イエスの肖像がよく中東人にもかかわらず白人の美男子として描かれるのとは裏腹に、
孔子は「怪獣のような容貌だった」という伝承もあって、概ねそのように描かれる。
それ自体にドグマチックな狂信を抱くことを促しているものと、
むしろそれは非とした上での、人間社会全般への篤実さを促しているものとの違い。
非宗教的な儒学は、そのための三綱五常の実践であるとか、徳治の研究や実践に取り組む。
儒教時代の中朝はおろか、近世までの日本でも宗廟を建てて孔子を祀るようなことが
あったようだけれども、それもあくまで学問としての儒学に励むための一手段であった。
時代劇で有名な水戸黄門などもその一人で、湯島聖堂の建立者だったりもするのだけれども、
別に宗教的な狂信者であったらしいような痕跡は、史実上にもまったく垣間見られず、
フィクションの作劇などとも類似した、人情味あふれる活動が多く知られるのみである。
しかしそれこそが、儒学の忠実な実践に取り組む姿でもあった。
孔子への信仰の布教などではなく、その教えの実践としての人情味に満ちた振舞い。
それこそが儒学の正しい実践だったのだし、「念仏は自分のためのもの」と謳う浄土教
などもまた、正しく享受するほど同様な、信教の鳴りは潜めたものとなるのである。
孔子は「怪獣のような容貌だった」という伝承もあって、概ねそのように描かれる。
それ自体にドグマチックな狂信を抱くことを促しているものと、
むしろそれは非とした上での、人間社会全般への篤実さを促しているものとの違い。
非宗教的な儒学は、そのための三綱五常の実践であるとか、徳治の研究や実践に取り組む。
儒教時代の中朝はおろか、近世までの日本でも宗廟を建てて孔子を祀るようなことが
あったようだけれども、それもあくまで学問としての儒学に励むための一手段であった。
時代劇で有名な水戸黄門などもその一人で、湯島聖堂の建立者だったりもするのだけれども、
別に宗教的な狂信者であったらしいような痕跡は、史実上にもまったく垣間見られず、
フィクションの作劇などとも類似した、人情味あふれる活動が多く知られるのみである。
しかしそれこそが、儒学の忠実な実践に取り組む姿でもあった。
孔子への信仰の布教などではなく、その教えの実践としての人情味に満ちた振舞い。
それこそが儒学の正しい実践だったのだし、「念仏は自分のためのもの」と謳う浄土教
などもまた、正しく享受するほど同様な、信教の鳴りは潜めたものとなるのである。
おまえみたいなカルトの下っ端や、
その他の手先を長年相手にし続けて来た上でも気づいたのがな。
非カルトで、天下万民の信頼関係を重んずるまともな人間が、
万民の信頼関係を損ねた上で、そこでの火事場泥棒を目論むような
カルト連中を相手にする時に、まずどんな心がけであるべきかを言えばーー
「ライオンは、ウサギを狩る時にも全力を尽くす」(碧巌録)である。
>>19にも書いた通り、そういう連中ってのは、世の中に対して少数派な上に、
個々人を見ても人一倍の無能やボンクラ揃いでしかない。
だからいざ相手をするとなると、どこか舐めてかかってしまいがちに
なるのだけれども、そのせいで連中にとっての真に有効な攻撃手段たる、
万民の信頼関係を損ねてかかる活動のほうへの牽制を疎かにしてしまい、
弱くて小数な部類の集団であるにもかかわらずの横暴を許してしまうことになる。
その他の手先を長年相手にし続けて来た上でも気づいたのがな。
非カルトで、天下万民の信頼関係を重んずるまともな人間が、
万民の信頼関係を損ねた上で、そこでの火事場泥棒を目論むような
カルト連中を相手にする時に、まずどんな心がけであるべきかを言えばーー
「ライオンは、ウサギを狩る時にも全力を尽くす」(碧巌録)である。
>>19にも書いた通り、そういう連中ってのは、世の中に対して少数派な上に、
個々人を見ても人一倍の無能やボンクラ揃いでしかない。
だからいざ相手をするとなると、どこか舐めてかかってしまいがちに
なるのだけれども、そのせいで連中にとっての真に有効な攻撃手段たる、
万民の信頼関係を損ねてかかる活動のほうへの牽制を疎かにしてしまい、
弱くて小数な部類の集団であるにもかかわらずの横暴を許してしまうことになる。
人間という生き物の力関係は、どうあっても
最強級の個人<組織集団の結束であるのが常なればこそ、
個人戦最強だったあの宮本武蔵にすら、
関ヶ原や島原の乱ではろくな戦果が挙げられなかったという伝承もある。
なればこそ、人々の信頼関係が極限まで損ねられた今のような日本社会では、
信者数が数百万人に上る創価学会はおろか、60万人やそこらの統一教会が
政権与党を支配下に置いて、国政を好き勝手に牛耳るような真似にまで及べた。
1億人を超える日本の全国民の間に、十分な信頼関係からの一定以上の結束が
備わっていれば、鎧袖一触で挫き倒せるような連中までもが、まず誰しもが
他者を軽蔑し、疑ってかかる不遜さの蔓延のせいで倒せやしない。
すでに、万民の信頼関係を人工的に高めて行くことを、念仏などで経験済みな
日本人などからすれば、いざその再開でカルトを撃退することなどは、
鬼殺隊が無惨を倒してかかるほどの労苦も要さない、何なら今よりも
生活などがより楽になりながらの敢行たる可能性すらもがあるのだが、
だからといって舐めてかからず、あんな連中といえども、こちらが
個人主義などであるようなら、武蔵や縁壱ほどに強くとも敵わない
という法則性に警戒を尽くしての、厳重な仕置きに取り組まねばならぬ。
最強級の個人<組織集団の結束であるのが常なればこそ、
個人戦最強だったあの宮本武蔵にすら、
関ヶ原や島原の乱ではろくな戦果が挙げられなかったという伝承もある。
なればこそ、人々の信頼関係が極限まで損ねられた今のような日本社会では、
信者数が数百万人に上る創価学会はおろか、60万人やそこらの統一教会が
政権与党を支配下に置いて、国政を好き勝手に牛耳るような真似にまで及べた。
1億人を超える日本の全国民の間に、十分な信頼関係からの一定以上の結束が
備わっていれば、鎧袖一触で挫き倒せるような連中までもが、まず誰しもが
他者を軽蔑し、疑ってかかる不遜さの蔓延のせいで倒せやしない。
すでに、万民の信頼関係を人工的に高めて行くことを、念仏などで経験済みな
日本人などからすれば、いざその再開でカルトを撃退することなどは、
鬼殺隊が無惨を倒してかかるほどの労苦も要さない、何なら今よりも
生活などがより楽になりながらの敢行たる可能性すらもがあるのだが、
だからといって舐めてかからず、あんな連中といえども、こちらが
個人主義などであるようなら、武蔵や縁壱ほどに強くとも敵わない
という法則性に警戒を尽くしての、厳重な仕置きに取り組まねばならぬ。
万民の信頼関係を重んずる人々が、カルトに対抗するために、
自分たちでもタコツボの結束を固める、なんていう手はまずない。
かつての本願寺なども、そのような傾向が少なからずあったために成敗されたものだし、
たとえその試みが国ぐるみで成功した所で、ナチスドイツや各種の共産国のようになるのみ。
個々人の信頼意識の養生も疎かにしたままでの全体主義による支配もまた、
不毛で薄ら寒いものとなるのが、そういった連中の失敗からもすでに知れたこと。
むしろ組織集団ではなく、自分個人の信頼意欲を高めて行くことのほうが、
今言うところの獅子搏兎としての、殊勝な心がけたる。
たとえば、家の宗教がナンマイダーだなんて、別に珍しいことでも何でもない。
そこに特別感を抱いて新たな結束を志したりする必要も全くないのだけれども、
なればこそ、商売敵級に世間での利害が一時的にかみ合わないでいるような相手までもが
ナンマイダーである可能性をも常に考慮して、子供じみた不信を募らせたりしないようにする。
そういう点にかけて誰しもが獅子搏兎たるのが、
引いてはタコツボカルトの撃退にも繋がるのである。
自分たちでもタコツボの結束を固める、なんていう手はまずない。
かつての本願寺なども、そのような傾向が少なからずあったために成敗されたものだし、
たとえその試みが国ぐるみで成功した所で、ナチスドイツや各種の共産国のようになるのみ。
個々人の信頼意識の養生も疎かにしたままでの全体主義による支配もまた、
不毛で薄ら寒いものとなるのが、そういった連中の失敗からもすでに知れたこと。
むしろ組織集団ではなく、自分個人の信頼意欲を高めて行くことのほうが、
今言うところの獅子搏兎としての、殊勝な心がけたる。
たとえば、家の宗教がナンマイダーだなんて、別に珍しいことでも何でもない。
そこに特別感を抱いて新たな結束を志したりする必要も全くないのだけれども、
なればこそ、商売敵級に世間での利害が一時的にかみ合わないでいるような相手までもが
ナンマイダーである可能性をも常に考慮して、子供じみた不信を募らせたりしないようにする。
そういう点にかけて誰しもが獅子搏兎たるのが、
引いてはタコツボカルトの撃退にも繋がるのである。
カルト的なタコツボ志向に陥っている者たちは、
自らが何らかの形で、見るからに世の中でも特別な存在である
場合に限って評価に値するという狭量さから決して離れようとはしない。
高収入、高学歴、高職歴、高身長、イケメンその他、
何か今の世の中でも評価されるような尺度に即して長じている場合に
限って人間以上、否ならそれ未満というような評価基準の厳しさを
万人に強いようとするけれども、さような評価はあくまで相対的なもの
でしかないために、絶対に大多数の人間が評価対象となることはない。
ただ生きてるだけなんて人間未満という、連中の評価基準なぞに
怖気づいて、現状そんなままでいる自らにコンプレックスを抱いたり
することもなく、ただ生きてることに誇りを持つことにかけても、
獅子搏兎な全力さたることが、これまたカルト撃退の決め手となるだろう。
自らが何らかの形で、見るからに世の中でも特別な存在である
場合に限って評価に値するという狭量さから決して離れようとはしない。
高収入、高学歴、高職歴、高身長、イケメンその他、
何か今の世の中でも評価されるような尺度に即して長じている場合に
限って人間以上、否ならそれ未満というような評価基準の厳しさを
万人に強いようとするけれども、さような評価はあくまで相対的なもの
でしかないために、絶対に大多数の人間が評価対象となることはない。
ただ生きてるだけなんて人間未満という、連中の評価基準なぞに
怖気づいて、現状そんなままでいる自らにコンプレックスを抱いたり
することもなく、ただ生きてることに誇りを持つことにかけても、
獅子搏兎な全力さたることが、これまたカルト撃退の決め手となるだろう。
それは決して、自分だけが特別に秀でているなどと思い込んでの
思い上がりなどではなく、自らがどこにでもいるような普通の人間、
にもかかわらずではなくだからこその誇りでなくんばならぬ。
それは結局、誰しもへのデフォルトとしての信頼意識の高さがあって
初めて抱き得る誇りであるが故に、信じる力の養生こそがその要ともなる。
濁世にはとてもじゃないが信じられない、信じてはいけないような部類の
悪党もまた多いとはいえ、デフォとしては人間一般を信じてかかれる心。
それは誰かがどうであるなどではなく、自らの信頼意欲の旺盛さ如何による所産たるのみ。
思い上がりなどではなく、自らがどこにでもいるような普通の人間、
にもかかわらずではなくだからこその誇りでなくんばならぬ。
それは結局、誰しもへのデフォルトとしての信頼意識の高さがあって
初めて抱き得る誇りであるが故に、信じる力の養生こそがその要ともなる。
濁世にはとてもじゃないが信じられない、信じてはいけないような部類の
悪党もまた多いとはいえ、デフォとしては人間一般を信じてかかれる心。
それは誰かがどうであるなどではなく、自らの信頼意欲の旺盛さ如何による所産たるのみ。
そういう万人への信頼意欲を持ち合わせられるような人間には、
外的にも、今では古写真の中にしか見受けられないような、
滋味を帯びた容貌などにもなるであろう。
それは、少なくともオナニーメンタルではない。
誰しもをとりあえず舐め腐ってかかる部類の不埒さの持ち主こそは、
眉間の筋肉が完全に緩み切ってしまったことなどが原因での、
後天的な間抜けさを容貌面から帯びるもので、たしかに
そういう人間が相手だと積極的に信頼したい思いなんかにもならない。
今の日本社会なんて、そんなオナメン顔貌の持ち主ばかりなものだから、
そこを元手に信頼意欲を高めるなんてことはまず不可能だけれども、
いざ人々が自主的に、万人を信頼、尊重してかかれるぐらいの篤実さを
身に付けさえすれば、そこからオナメン顔貌の間抜け面なども絶えて行き、
今度は誰しもが信頼し合いやすい世の中へと様変わりして行くのである。
外的にも、今では古写真の中にしか見受けられないような、
滋味を帯びた容貌などにもなるであろう。
それは、少なくともオナニーメンタルではない。
誰しもをとりあえず舐め腐ってかかる部類の不埒さの持ち主こそは、
眉間の筋肉が完全に緩み切ってしまったことなどが原因での、
後天的な間抜けさを容貌面から帯びるもので、たしかに
そういう人間が相手だと積極的に信頼したい思いなんかにもならない。
今の日本社会なんて、そんなオナメン顔貌の持ち主ばかりなものだから、
そこを元手に信頼意欲を高めるなんてことはまず不可能だけれども、
いざ人々が自主的に、万人を信頼、尊重してかかれるぐらいの篤実さを
身に付けさえすれば、そこからオナメン顔貌の間抜け面なども絶えて行き、
今度は誰しもが信頼し合いやすい世の中へと様変わりして行くのである。
何かの行いにかけて獅子搏兎たるのではなく、
ただ生きていることにかけてこそ、まず獅子搏兎たれ。
法然親鸞も行不退より信不退こそがまず第一なのだと論じていた通り、
それは何かの行いを担保にしなければ務まらないようではいけない。
しかしそれこそが、オナニーメンタルの不埒者なぞにとっては、
最も舐めてかかりやすい点であるが故にこそ、行いと共によりも難しい所。
そしてそれが、小乗仏教の五戒すら必ずしも守られないような濁世でも、
最低限以上の救いに与れる者と、それすら叶わぬ者との運命をも左右する。
完全にそんなことは不可能だと諦めきってタコツボ志向に走る者だけでなく、
その道を志す者ですら、必ずしも十分に務まるところではないために、
決して舐めてかからないための、獅子搏兎ほどの心がけたるべきなのである。
ただ生きていることにかけてこそ、まず獅子搏兎たれ。
法然親鸞も行不退より信不退こそがまず第一なのだと論じていた通り、
それは何かの行いを担保にしなければ務まらないようではいけない。
しかしそれこそが、オナニーメンタルの不埒者なぞにとっては、
最も舐めてかかりやすい点であるが故にこそ、行いと共によりも難しい所。
そしてそれが、小乗仏教の五戒すら必ずしも守られないような濁世でも、
最低限以上の救いに与れる者と、それすら叶わぬ者との運命をも左右する。
完全にそんなことは不可能だと諦めきってタコツボ志向に走る者だけでなく、
その道を志す者ですら、必ずしも十分に務まるところではないために、
決して舐めてかからないための、獅子搏兎ほどの心がけたるべきなのである。
「存在の絶えられない軽さ」などと聞くと、
人が苦悩を抱く原因と捉えてしまいがちだけれども、
オナニーメンタルの不埒者たちたるや、
逆にその軽薄さを逆手にとっての嬉しがりに酔い痴れる。
仏門では「餓鬼道」などとも呼ばれる部類の精神状態。
それ自体が、ただ年食っただけでも苦悩を抱かせるほど有害な心の未熟さでも
あるのだけれども、戦後世代の日本人で全く帯びてない人間などは皆無と言ってもいい。
だからこそ人間、若くてなんぼ。年食ったらもうそれだけで負け組扱いからの、
開き直りとしての老害の総員守銭奴化なんていう風潮にも陥っているのだが。
その軽薄さを開き直って酔い痴れようとする心持ちこそが、
誰しもがただ生きていることにまで敬意を抱けるような篤実さとは
決して相容れないものであるが故に、まずそこを撃退してかからねばならぬ。
その不埒さこそが、カルト信者たちの精神原理でもあることだし、
この世からカルトを絶やす第一歩として、それほど着実なこともないのである。
人が苦悩を抱く原因と捉えてしまいがちだけれども、
オナニーメンタルの不埒者たちたるや、
逆にその軽薄さを逆手にとっての嬉しがりに酔い痴れる。
仏門では「餓鬼道」などとも呼ばれる部類の精神状態。
それ自体が、ただ年食っただけでも苦悩を抱かせるほど有害な心の未熟さでも
あるのだけれども、戦後世代の日本人で全く帯びてない人間などは皆無と言ってもいい。
だからこそ人間、若くてなんぼ。年食ったらもうそれだけで負け組扱いからの、
開き直りとしての老害の総員守銭奴化なんていう風潮にも陥っているのだが。
その軽薄さを開き直って酔い痴れようとする心持ちこそが、
誰しもがただ生きていることにまで敬意を抱けるような篤実さとは
決して相容れないものであるが故に、まずそこを撃退してかからねばならぬ。
その不埒さこそが、カルト信者たちの精神原理でもあることだし、
この世からカルトを絶やす第一歩として、それほど着実なこともないのである。
なんか、昨日の俺のレスに感化されたかのようなスレも立ってるけれども。
仏典にも如来の境地を「最勝」などと称える形容が多く見受けられるけれども、
ことに浄土門などにおいて、信者の勝ち負けをどうこういうことはない。
煩悩愚縛の凡夫にとってこそ最適の信仰と謳うものであるからには、
むしろ社会的な負け組の部類に至るまでの救いであると考えた方がよい。
然れども、最底辺の負け組に至るまで、人として生まれて来たことへの悦び
ぐらいには与れるようにと。そこに唾棄されて賤しまれるほどの卑下までをも
擦り付けられるのは、人間という生き物全体への冒涜となるが故に許さない。
その最底辺に至るまでの人間尊重の意識に欠けているようでは、人種平等宣言で
黒人への保護を謳いながらも、結局はアジア人などへの差別をいたちごっこ的に
激化させてしまっている今のアメリカなどのようにもなりかねない。
人間社会に競争は付き物だし、それを全否定するのも共産主義的な堕落の
原因になりかねないので避けるべきではあるが、競争で負けたからといって、
そこに地獄を用意するような極度の下向き傾向だけは絶やしてかかるべきなのである。
仏典にも如来の境地を「最勝」などと称える形容が多く見受けられるけれども、
ことに浄土門などにおいて、信者の勝ち負けをどうこういうことはない。
煩悩愚縛の凡夫にとってこそ最適の信仰と謳うものであるからには、
むしろ社会的な負け組の部類に至るまでの救いであると考えた方がよい。
然れども、最底辺の負け組に至るまで、人として生まれて来たことへの悦び
ぐらいには与れるようにと。そこに唾棄されて賤しまれるほどの卑下までをも
擦り付けられるのは、人間という生き物全体への冒涜となるが故に許さない。
その最底辺に至るまでの人間尊重の意識に欠けているようでは、人種平等宣言で
黒人への保護を謳いながらも、結局はアジア人などへの差別をいたちごっこ的に
激化させてしまっている今のアメリカなどのようにもなりかねない。
人間社会に競争は付き物だし、それを全否定するのも共産主義的な堕落の
原因になりかねないので避けるべきではあるが、競争で負けたからといって、
そこに地獄を用意するような極度の下向き傾向だけは絶やしてかかるべきなのである。
[YouTubeで再生]
在俗、無戒律の分際で勝利、勝利などとうそぶくのは
不相応すぎて醜怪でしかないのは、こういうのを見ても分かる通り。
実際、こいつらなんかは組織としての世間に対する勝利的なことを
目論み続けても来たわけで、やはりタコツボの結束を助長するテーゼとなって来たもの。
戒律厳守、社会的活動なんかも徹底的に自制し尽くした上での、
高野山か永平寺あたりでの本格修行に勤しむような域の仏者こそが、
最勝かどうかなんてのも問題とすべきところであり、世間とは無縁なこと。
世俗での競争、勝ち負けというのは、それはもう仏道とは基本何の関係もない。
仏法からは遠くかけ離れた兵法や商法の駆使によってこそ勝てることもあるのが
世間の常なれば、その勝利はむしろ仏の悟りによる勝利などからは遠ざかるものと見るべき。
なんならそれは、浄土門における他力本願の往生からすら遠ざかりかねないもの。
人間社会の不信を助長して、そこでの火事場泥棒で虚栄に与ることすらある種の勝利扱い
にされ得るものなのだし、やはり勝利なんて一旦は抜きにして考えるのでなければならない。
在俗、無戒律の分際で勝利、勝利などとうそぶくのは
不相応すぎて醜怪でしかないのは、こういうのを見ても分かる通り。
実際、こいつらなんかは組織としての世間に対する勝利的なことを
目論み続けても来たわけで、やはりタコツボの結束を助長するテーゼとなって来たもの。
戒律厳守、社会的活動なんかも徹底的に自制し尽くした上での、
高野山か永平寺あたりでの本格修行に勤しむような域の仏者こそが、
最勝かどうかなんてのも問題とすべきところであり、世間とは無縁なこと。
世俗での競争、勝ち負けというのは、それはもう仏道とは基本何の関係もない。
仏法からは遠くかけ離れた兵法や商法の駆使によってこそ勝てることもあるのが
世間の常なれば、その勝利はむしろ仏の悟りによる勝利などからは遠ざかるものと見るべき。
なんならそれは、浄土門における他力本願の往生からすら遠ざかりかねないもの。
人間社会の不信を助長して、そこでの火事場泥棒で虚栄に与ることすらある種の勝利扱い
にされ得るものなのだし、やはり勝利なんて一旦は抜きにして考えるのでなければならない。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726280845...
>>113あたりで書いてたことと関連した話のスレ。
人々が篤い信頼意識を持って付き合うのが当たり前となった世の中たるや、
誰しもがその心がけのためにオナニーメンタルから卒業し、
見るからに信用できなさそうなオナメン顔貌であることなども絶えて、
今とは打って変わっての、人間同士がより信頼し合いやすい世の中が到来する。
目の前に垂直に立てた薄板が右に倒れるか、左に倒れるかぐらい、
信頼関係の篤い世の中と、薄い世の中というのは位相から食い違うもので、
夏の暑い日に冬の寒さを、冬の寒い日に夏の暑さを実感的に思い出すのが
難しいことなどとも同じように、片方にいる時にもう一方を想像するのも難しい。
だから、浄土門でもお浄土への観想なんてものが特に重視されたりもする。
それは現世とはまた別の世界という体裁を採れども、現世での範疇でも似たような
様変わりというものがいくらでもあり得るものであるために、今書いているような、
オナメン顔貌の絶えた社会へのメントレ的な役割なども帯びられるわけである。
>>113あたりで書いてたことと関連した話のスレ。
人々が篤い信頼意識を持って付き合うのが当たり前となった世の中たるや、
誰しもがその心がけのためにオナニーメンタルから卒業し、
見るからに信用できなさそうなオナメン顔貌であることなども絶えて、
今とは打って変わっての、人間同士がより信頼し合いやすい世の中が到来する。
目の前に垂直に立てた薄板が右に倒れるか、左に倒れるかぐらい、
信頼関係の篤い世の中と、薄い世の中というのは位相から食い違うもので、
夏の暑い日に冬の寒さを、冬の寒い日に夏の暑さを実感的に思い出すのが
難しいことなどとも同じように、片方にいる時にもう一方を想像するのも難しい。
だから、浄土門でもお浄土への観想なんてものが特に重視されたりもする。
それは現世とはまた別の世界という体裁を採れども、現世での範疇でも似たような
様変わりというものがいくらでもあり得るものであるために、今書いているような、
オナメン顔貌の絶えた社会へのメントレ的な役割なども帯びられるわけである。
お浄土への観想も一応は含まれている、来世信仰に付きものな
別世界への思慕が、時には現実逃避の様相をも帯びかねないのも確かなことで、
カルトの来世信仰は大体そういった側面もまた帯びているために、
統一教会信者の家庭崩壊なみの地獄絵図の中に自らが置かれようとも、
それを過渡的なものと見なして受け入れたりするような事態にも時に陥る。
浄土への往生などにもかこつけてのメントレ、イマジネーションの養生は、
「オナメン顔貌が一人もいない世の中」ぐらい具体的な範囲であったほうが、
さような弊害を帯びにくい。無量寿経における極楽浄土の描写などもそのような
条件は満たしているのだが、だからこそ現実逃避級の観想を欲するような、
カルト性の持ち主からはさしたる魅力がないように思われたりもする。
世界の主たる来世信仰の中で、信者たちが自給自足の世の中を営んで行ける程度の
シラフさを帯びているのは浄土教や拝火教やイスラム教である一方、キリスト教や
ユダヤ教やCIAのでっち上げた紛い物のイスラム教などはその条件を満たさない。
これもまたそこで観想されている来世が現実逃避級か否かの違いによるものである。
現実の人間社会をより良くしていくためにも、ある程度は浄土への観想的な
メントレが必要である一方、それが現実逃避の域まで及ばないようにする中庸さ
というものもまた必須たる。世の中が篤い信頼関係で満たされるように企図して
行くこともまた、解き開いてみればかなり複雑なメカニズムを帯びているのである。
別世界への思慕が、時には現実逃避の様相をも帯びかねないのも確かなことで、
カルトの来世信仰は大体そういった側面もまた帯びているために、
統一教会信者の家庭崩壊なみの地獄絵図の中に自らが置かれようとも、
それを過渡的なものと見なして受け入れたりするような事態にも時に陥る。
浄土への往生などにもかこつけてのメントレ、イマジネーションの養生は、
「オナメン顔貌が一人もいない世の中」ぐらい具体的な範囲であったほうが、
さような弊害を帯びにくい。無量寿経における極楽浄土の描写などもそのような
条件は満たしているのだが、だからこそ現実逃避級の観想を欲するような、
カルト性の持ち主からはさしたる魅力がないように思われたりもする。
世界の主たる来世信仰の中で、信者たちが自給自足の世の中を営んで行ける程度の
シラフさを帯びているのは浄土教や拝火教やイスラム教である一方、キリスト教や
ユダヤ教やCIAのでっち上げた紛い物のイスラム教などはその条件を満たさない。
これもまたそこで観想されている来世が現実逃避級か否かの違いによるものである。
現実の人間社会をより良くしていくためにも、ある程度は浄土への観想的な
メントレが必要である一方、それが現実逃避の域まで及ばないようにする中庸さ
というものもまた必須たる。世の中が篤い信頼関係で満たされるように企図して
行くこともまた、解き開いてみればかなり複雑なメカニズムを帯びているのである。
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