
「求道」というと、何か必ず行いが伴わねばならないかのように、
特に多動主義洗脳を植え付けられている現代人には思い込まれがちではあるが、
むしろ、求道は心そのものにかけての修練のほうが本身とすらいえるものである。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1745273764... このスレで、長年数多の罵詈雑言や暴行級の荒らしと付き合って来た俺のことを案じたり、
逆に「気違いだから理解不能」などと突っぱねたりしている者がいるわけだけれども。
確かに、人からの毀誉褒貶を虚実に関わらず真に受けるような域の人間からすれば、
傷心からの自殺級にひどい扱いを受けて来たということにもなるのだろうが。
にもかかわらず平気でいられているのは、別に気違いだからでもない、
「善人には好かれ、悪人には嫌われるのが、誰しもに好かれる以上の栄誉である」( 子路第十三・二四 )
という聖賢の教えを心から信じ、精神の根幹の所にまで徹底的に落とし込む、
「心の求道」を踏まえているから、事実無根の誹謗中傷などに心痛めることもなく、
むしろ「認められるべきでない相手に認められない栄誉」として有難くすら思えているのである。
そういうのは、ちょっとやそっとのメントレどころではない、まさに求道というべきほどの、
心の修練があって初めて実現されることであるから、そんな嗜みが全くないような連中からすれば、
なんで平気でいられるのか訳が分からない、気違いの所業のようにも思われるわけである。
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