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>>44の続き)
思えば、俺が洋学の勉強ばかりして最大限に西洋精神に毒されていた頃にも、
「何もかもを言語化する」といった野心が仇となって鬱状態に陥り、
まともに文章一つ書けないような事態にまで陥っていたものだった。
今は、書きたいことを書きたいように、言いたいことを言いたいように自由自在に
表現できるようになったと雖も、そこに万物を言語化してやろうなどという思いはない。
言語道断の領域に無尽蔵の不虚なる真実が遍在していることへの尊重意識と共に、
そこから多少のかじり取り程度の言語化を試みているのに過ぎない、という謙譲意識が
あればこそ、文章表現に何らの引っ掛かりも感じさせられることがない。
一方で、そういう文筆姿勢であればこそ、「言葉は神である」といった狂信からの、
何もかもの言語化を志し続けているような連中からは、駄文悪文の誹りなども受ける。
文章で何かを表現しようとしている目的自体が根本的に別物なのだから、
読んでも読んでも落胆しか抱かされないようなことしか書いていないようにも思われよう。
永遠の命を渇望しているカルト信者が、諸行無常への悟りの歓喜に満ちている仏典などを
いくら読み込んだところで、砂を嚙むようなつまらなさしか感じられなかったりする
のとも同じこと。俺も昔はそれに似た心境に陥っていたことがあったものだが、
まずその心持ちの方向性から転換するのでなければ、何も得られるものはないのだ。
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