自分自身にはマウント願望などがなくとも、生来その手の願望に囚われがちな
人種や動物とつつがなく接して行くために必要となるのは、
「自分と相手は根本的に違う生き物だ」とわきまえる隔絶意識でもある。
どちらが上か下かなども抜きにした、よそはよそ、うちはうちという分別の強化。
それがあるべきだからこそ、古来の家庭道徳もまた、男女夫婦に明確な個別性を
持たせて混同しないようにするのをよしとしたのである。
ただ、そのような古来の家庭道徳が必ずしも男の側のマウント願望を抑止できていたとも限らず、
儒教国時代の朝魚羊や中国などでは、男のほうもまたマウント願望に囚われるがあまりの、
オス犬がメス犬を虐げて下に見るが如き野卑さが広く通用してしまっていたのだった。
想像を絶する…アントニオ猪木が力道山から受けた壮絶な体罰
https://renote.net/articles/19887... 力道山や大山倍達のごとき初代韓流に感化された、団塊以降の戦後日本人などにも
同様な傾向が植え付けられてしまったがために、それが封建的上下関係への
色眼鏡を介した嫌悪感を助長する原因になってしまったキライもまたある。
自分自身がマウント願望の劣情に囚われることなく、必要最低限な上下関係だけを
女や犬たちとの間に介することができるのは、やはり他力本願であろうとも、
仏道に帰依するなみの平等志向の持ち主に限られるのである。
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