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この世で最高の"イデオロギー"は「無為自然」である 偉大なる生存の報告 Part313
▼ページ最下部
思想哲学宗教一般としては、仏教などのほうが優れた側面があるし、
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
体系的な政治思想としても、儒学などのほうが資料豊富で勉強のし甲斐があるが。
ことに、自由主義や民主主義や独裁主義や資本主義や共産主義のように、
世の中全体を司る役割を担わせるイデオロギーとしては、
老子荘子列子のような道家が謳っている「無為自然」が最も優れているといえる。
言い換えれば、世の中を作為的なイデオロギーによって支配しようなどとすること
自体を放棄してかかる、アンチイデオロギズムこそが最も優れているともいえる。
いま世界最高の理想として欧米が無制限に推し進めようとしている
自由主義や民主主義なども、カタにはまった秩序の中で生活を営んだり、
求道的な修練に取り組んだりしたい人々にとっては、かえって邪魔にしかならない。
一方で、社会秩序こそを最優先しようとして、共産主義や独裁主義のほか、
儒教を絶対的な国の支配原理に据えた場合などでも、酷刑の乱発や
被差別民の増大のような問題性を来たしてきたものである。
仏教を無上の支配原理に据えた東南アジア諸国なども、自国の平和は確立された一方で、
文明発展が滞り、諸外国からの侵略支配をほしいままにするような問題を招いたもの。
この世の全てを司るイデオロギーなんてものは、そもそもないのが一番であり、
神仏儒など多くの思想信教に司られながらも、唯一無二に絶対的な支配原理たる
イデオロギーなんてものは別になかった、昔の日本のようであるのが理想なのである。
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よくここで貼っている>>79画の疋田文五郎は実在の剣豪で、
画像右、作品主人公の柳生兵庫助も実在の新陰流宗家だ。
両者が直接対決した記録はないが、兵庫助の祖父で、
宮本武蔵以上の達人だったとも言われている
柳生石舟斎宗厳を試合で敗ったという公式記録も残っている。
この描写も、文五郎が編み出した記録が残っている
剣術奥義の忠実な描写になっていて、種明かしを見ればそれと分かるが、
この時点ではまだ兵庫助もその種には気づいていないほどにも難解。
種明かしを読んでみた所で、やっぱり達人でないと
使いこなすこともできない奥義なのだとも知れる。
と
み新蔵氏自身が剣術修行に明け暮れてきた身の上である上に、
80近い今でも旺盛に執筆活動を続けているような超人だからこそ、
近ごろの現実ではほとんどあり得ないような、古き良き現実の描写になっているのだろうな。
画像右、作品主人公の柳生兵庫助も実在の新陰流宗家だ。
両者が直接対決した記録はないが、兵庫助の祖父で、
宮本武蔵以上の達人だったとも言われている
柳生石舟斎宗厳を試合で敗ったという公式記録も残っている。
この描写も、文五郎が編み出した記録が残っている
剣術奥義の忠実な描写になっていて、種明かしを見ればそれと分かるが、
この時点ではまだ兵庫助もその種には気づいていないほどにも難解。
種明かしを読んでみた所で、やっぱり達人でないと
使いこなすこともできない奥義なのだとも知れる。
と
み新蔵氏自身が剣術修行に明け暮れてきた身の上である上に、
80近い今でも旺盛に執筆活動を続けているような超人だからこそ、
近ごろの現実ではほとんどあり得ないような、古き良き現実の描写になっているのだろうな。
>>90
俺が文系を自称した覚えなんてないし、
洋学の文系こそは、まずこの世から権威を剥奪してかかるべき最優先対象だぞ。
東大跡地の寺であれば、駒場キャンパスの教養学部跡地で、とりあえず
存在性ぐらいは知っておくべき教養中の雑学講習扱い止まりにまで左遷されるもの。
(もちろんそれだけでなんの学位にもならない)
まず以て、完璧フィクションの新旧約聖書が一番の元手である洋学の文系なんざが、
世界や日本の支配層を占めているのが、この世の不幸の最たるものだよな。
文系の発想はできる限り、フィクションによる現実逃避のために。
そこに満たないものは、文系だったところで劣等な大衆文学以下の扱い。
そういう大前提があるからこそ、文系として高尚ぶっている者ほど、
現実を見るのであればフィクションは見るなともなる。
そういった最低劣な外道としての、自己紹介を続けているのは誰ぞや?
俺が文系を自称した覚えなんてないし、
洋学の文系こそは、まずこの世から権威を剥奪してかかるべき最優先対象だぞ。
東大跡地の寺であれば、駒場キャンパスの教養学部跡地で、とりあえず
存在性ぐらいは知っておくべき教養中の雑学講習扱い止まりにまで左遷されるもの。
(もちろんそれだけでなんの学位にもならない)
まず以て、完璧フィクションの新旧約聖書が一番の元手である洋学の文系なんざが、
世界や日本の支配層を占めているのが、この世の不幸の最たるものだよな。
文系の発想はできる限り、フィクションによる現実逃避のために。
そこに満たないものは、文系だったところで劣等な大衆文学以下の扱い。
そういう大前提があるからこそ、文系として高尚ぶっている者ほど、
現実を見るのであればフィクションは見るなともなる。
そういった最低劣な外道としての、自己紹介を続けているのは誰ぞや?
いまだに自分が悪い、自分たちのほうが悪いという自覚のかけらも
なさそうなあたり、上等にカルト級の迷妄の真っ只中にあると知れる。
それこそは、フィクションによる現実逃避に全力全霊であり続けて来た
後遺症ないし、未だにそれを辞めようともしていない者のそれである。
普通、刑務所での子作りなど許されないのを見ても分かる通り、
罪をまだ償ってもいない犯罪者には。子孫をつなぐ権利もないと
されるのが人間社会一般の常識。償うどころかまだ罪の自覚もない
というのならばなおのことで、そこにまともな家庭を築き上げる
余地などがなかったのもまた必定。俺ではなく、おまえこそが。
警察司法も野放し状態な、超国家規模の権力犯罪だったところで、
本質的にそうであることには変わりないのだし、言い逃れの材料にはならない。
世界規模で世の中を持ち直させて行くための胎動の一環だというのなら、
なおのこと、今まで許されていたものも許してはならないのだ。
なさそうなあたり、上等にカルト級の迷妄の真っ只中にあると知れる。
それこそは、フィクションによる現実逃避に全力全霊であり続けて来た
後遺症ないし、未だにそれを辞めようともしていない者のそれである。
普通、刑務所での子作りなど許されないのを見ても分かる通り、
罪をまだ償ってもいない犯罪者には。子孫をつなぐ権利もないと
されるのが人間社会一般の常識。償うどころかまだ罪の自覚もない
というのならばなおのことで、そこにまともな家庭を築き上げる
余地などがなかったのもまた必定。俺ではなく、おまえこそが。
警察司法も野放し状態な、超国家規模の権力犯罪だったところで、
本質的にそうであることには変わりないのだし、言い逃れの材料にはならない。
世界規模で世の中を持ち直させて行くための胎動の一環だというのなら、
なおのこと、今まで許されていたものも許してはならないのだ。
「なぜ岸田内閣の支持率が上向かないのか不思議」 経団連・十倉雅和会長は政策を評価
https://www.tokyo-np.co.jp/article/29122...
これも東大経済学部という、法学部に次ぐ文系最トップ級の学歴の持ち主だが。
だからといって、自分たち経営者側と、世間一般大多数の労働者側が、
利害相反の搾取関係にあるという現実を受け入れられてなどはいないものだから、
自分たちにとって都合のいい政策をどんどん打ち出してくれる岸田政権が、
どうして国民からの大きな反発や不支持ばかりに見舞われているのかも、本当にわからないままでいる。
経済学部だから、マルクス思想などもさわり程度には学んできているのだろうが。
マルクスの、資本家と労働者が搾取関係にあるという、現実の社会法則への指摘と、
「その問題解消のためには、共産革命による商業の廃絶が必要である」という、
極論すぎて実態に沿わないフィクションな主張とを味噌糞な批判的研究の対象とした結果、
自分たちと労働者の搾取関係なんてものもまた、存在しないかのように思い込んでいるのだろう。
搾取するどころか、むしろ自分たちのほうが労働者に恵んでやっている側なのだから、
どうして自分たちを利する政策を、一般国民たちも共に喜ぼうとしないのか、となる。
もはや認知症すら疑われているような蒙昧状態ではあるけれども、
カルトのみならず、カルトなみにフィクションでの現実逃避を促しているような邪学
などにかぶれるだけでも、これほどもの痴態に陥るものなのだと思い知るべきなのである。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/29122...
これも東大経済学部という、法学部に次ぐ文系最トップ級の学歴の持ち主だが。
だからといって、自分たち経営者側と、世間一般大多数の労働者側が、
利害相反の搾取関係にあるという現実を受け入れられてなどはいないものだから、
自分たちにとって都合のいい政策をどんどん打ち出してくれる岸田政権が、
どうして国民からの大きな反発や不支持ばかりに見舞われているのかも、本当にわからないままでいる。
経済学部だから、マルクス思想などもさわり程度には学んできているのだろうが。
マルクスの、資本家と労働者が搾取関係にあるという、現実の社会法則への指摘と、
「その問題解消のためには、共産革命による商業の廃絶が必要である」という、
極論すぎて実態に沿わないフィクションな主張とを味噌糞な批判的研究の対象とした結果、
自分たちと労働者の搾取関係なんてものもまた、存在しないかのように思い込んでいるのだろう。
搾取するどころか、むしろ自分たちのほうが労働者に恵んでやっている側なのだから、
どうして自分たちを利する政策を、一般国民たちも共に喜ぼうとしないのか、となる。
もはや認知症すら疑われているような蒙昧状態ではあるけれども、
カルトのみならず、カルトなみにフィクションでの現実逃避を促しているような邪学
などにかぶれるだけでも、これほどもの痴態に陥るものなのだと思い知るべきなのである。
経済学は、理系寄りの文系だなどと称されることもあるが、
所詮は理科学としての条件を満たしていないために、文系止まりのものである。
文系だから、そこで学ぶ内容への意見の是非も、学ぶ側の主観に左右される。
結果、マルクス思想みたいな、正しい面もあれば間違った面もある思想を
一概に全否定した結果、経営者と労働者の搾取関係みたいな、中卒でも実感して
いることが多い普遍法則すらも、東大を出ることで見失うようなことになる。
俺が書いたこの図などもまた、今の経済学の範疇で取り沙汰されるのであれば、
マルクスのように批判的研究の材料扱い止まりとされて、余計にここから
目を背けた蒙昧な活動を助長するようなことにもなりかねないもの。
(近ごろだとピケティのr>gなどもそれに似た扱いを受けていたりする)
しかし、たとえば理系であれば、理工学部で学んだ内容を全く無視しながら、
土建や電機の設計施工などを試みようものなら、命を危ぶむほどの大事故にまで
直結しかねないものだから、嫌でも必ず勉強内容に沿って行かなければならない。
文系でそのような厳守的勉強を強いれば、それは即、宗教的だということで
非難排撃の対象となってしまうのが、洋学における基本原則なのだが。
所詮は理科学としての条件を満たしていないために、文系止まりのものである。
文系だから、そこで学ぶ内容への意見の是非も、学ぶ側の主観に左右される。
結果、マルクス思想みたいな、正しい面もあれば間違った面もある思想を
一概に全否定した結果、経営者と労働者の搾取関係みたいな、中卒でも実感して
いることが多い普遍法則すらも、東大を出ることで見失うようなことになる。
俺が書いたこの図などもまた、今の経済学の範疇で取り沙汰されるのであれば、
マルクスのように批判的研究の材料扱い止まりとされて、余計にここから
目を背けた蒙昧な活動を助長するようなことにもなりかねないもの。
(近ごろだとピケティのr>gなどもそれに似た扱いを受けていたりする)
しかし、たとえば理系であれば、理工学部で学んだ内容を全く無視しながら、
土建や電機の設計施工などを試みようものなら、命を危ぶむほどの大事故にまで
直結しかねないものだから、嫌でも必ず勉強内容に沿って行かなければならない。
文系でそのような厳守的勉強を強いれば、それは即、宗教的だということで
非難排撃の対象となってしまうのが、洋学における基本原則なのだが。
儒学や仏学や玄学にかけては、そうではない。
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」なみに、
論理的に自明な判断だけを厳格に積み重ねて行った人文学的論考を、
理系の勉強材料なみに厳守する対象として学んで行くものである。
それは別に、正しいか間違っているかに関わらず信じ込むようなカルト的狂信に
基づいているのではないし、むしろそうであってはならない。あくまで論理的、物理的に
正しいからこそ守る、間違っているようなら即座に改めるシラフさと共にのみ務まるもの。
(念仏などは、カルトではないがこの条件を満たしてはいないから、やはり信仰止まりである)
それでもやはり、洋学の理系なみに数学的帰納法への準拠や反証可能性の確保を
厳格に守ったものとは限らないから、洋学の経済学などと同様、「理系か文系か」
という二者択一を迫られるのであれば、文系のうちに入れられることになるわけだが。
かといって、洋学の文系のようなぞんざいな扱い方をしていいわけでもない。
洋学の文系や理系とは全くの別物な、文理統合の正学としての権威こそを付与すべきなのだ。
(結果、文理分裂止まりな洋学全体の権威が比較的、損なわれることになるのだろうとも)
「悪いことをするぐらいなら何もしないほうがマシ」
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」なみに、
論理的に自明な判断だけを厳格に積み重ねて行った人文学的論考を、
理系の勉強材料なみに厳守する対象として学んで行くものである。
それは別に、正しいか間違っているかに関わらず信じ込むようなカルト的狂信に
基づいているのではないし、むしろそうであってはならない。あくまで論理的、物理的に
正しいからこそ守る、間違っているようなら即座に改めるシラフさと共にのみ務まるもの。
(念仏などは、カルトではないがこの条件を満たしてはいないから、やはり信仰止まりである)
それでもやはり、洋学の理系なみに数学的帰納法への準拠や反証可能性の確保を
厳格に守ったものとは限らないから、洋学の経済学などと同様、「理系か文系か」
という二者択一を迫られるのであれば、文系のうちに入れられることになるわけだが。
かといって、洋学の文系のようなぞんざいな扱い方をしていいわけでもない。
洋学の文系や理系とは全くの別物な、文理統合の正学としての権威こそを付与すべきなのだ。
(結果、文理分裂止まりな洋学全体の権威が比較的、損なわれることになるのだろうとも)
書き貯め放出
(>>59の続き)
永田中将が訴えていたような、消極的な軍事政策こそが支持されて
実現に移されるためには、世の中が軍国主義などであってはならないし、
軍事全般をアレルギー的に否定してかかる盲目な平和主義などでもいけない。
たとえば元寇撃退時の、防衛戦にかけてこそ「驀直進前」の奮闘を見せた
鎌倉武士のあり方などはその理想に近かったが、その戦闘方針を教示したのも
本職の武士ではなく、無学祖元という禅僧であった。そこには軍国主義ほど
武断一辺倒でもなければ、戦後左翼ほどにアレルギー的な軍事嫌いでもない、
中正に適った超俗の視点からの微妙繊細な見識による采配があったわけである。
廃仏毀釈で超俗の精進を否定した近代の日本ではあり得なかったことだし、
もちろんそれは戦後に至るまでそのままであり続けているところである。
(>>59の続き)
永田中将が訴えていたような、消極的な軍事政策こそが支持されて
実現に移されるためには、世の中が軍国主義などであってはならないし、
軍事全般をアレルギー的に否定してかかる盲目な平和主義などでもいけない。
たとえば元寇撃退時の、防衛戦にかけてこそ「驀直進前」の奮闘を見せた
鎌倉武士のあり方などはその理想に近かったが、その戦闘方針を教示したのも
本職の武士ではなく、無学祖元という禅僧であった。そこには軍国主義ほど
武断一辺倒でもなければ、戦後左翼ほどにアレルギー的な軍事嫌いでもない、
中正に適った超俗の視点からの微妙繊細な見識による采配があったわけである。
廃仏毀釈で超俗の精進を否定した近代の日本ではあり得なかったことだし、
もちろんそれは戦後に至るまでそのままであり続けているところである。
「禅門での修行などは、いつの時代も世間一般大多数の人間に務まるものではない」
とも上で述べたけれども、故にこそ禅師からの教示の尊重などは、多数派の意見を
蔑ろにしてまで少数や個人の意見を支持するようなこともなければならない。
故に、多数決が原則の民主主義が絶対であるようなら、それが叶うこともない。
戦前の軍国主義もまた、国民の大多数が(プロパガンダに乗せられてとはいえ)
熱狂的な支持で暴走を激化させて行ったものだし、そこに歯止めをかけるための、
降伏処理の日本側の主導者となったのもまた、玄峰老師という当時随一の禅僧だった。
禅門勢力は決して世の多数などを占めない上に、自分たちからもそれを拒むぐらいだが、
故にこそ多動で盲目な大衆のそれをはるかに上回るような見識の深さで、世の中を
着実な平和や繁栄へと導けるものでもあるし、民主主義も自由主義も独裁主義も、
軍国主義も平和主義も世の中への完全支配を許さないとした上でさらに、それ自体もまた
独裁支配などを目論んだりすることがない禅門の意向に耳を傾けるようなところにこそ、
イデオロギーゼロの世の中ならではの、慧眼による最善の施策の実現が見込まれるのである。
放出ここまで
とも上で述べたけれども、故にこそ禅師からの教示の尊重などは、多数派の意見を
蔑ろにしてまで少数や個人の意見を支持するようなこともなければならない。
故に、多数決が原則の民主主義が絶対であるようなら、それが叶うこともない。
戦前の軍国主義もまた、国民の大多数が(プロパガンダに乗せられてとはいえ)
熱狂的な支持で暴走を激化させて行ったものだし、そこに歯止めをかけるための、
降伏処理の日本側の主導者となったのもまた、玄峰老師という当時随一の禅僧だった。
禅門勢力は決して世の多数などを占めない上に、自分たちからもそれを拒むぐらいだが、
故にこそ多動で盲目な大衆のそれをはるかに上回るような見識の深さで、世の中を
着実な平和や繁栄へと導けるものでもあるし、民主主義も自由主義も独裁主義も、
軍国主義も平和主義も世の中への完全支配を許さないとした上でさらに、それ自体もまた
独裁支配などを目論んだりすることがない禅門の意向に耳を傾けるようなところにこそ、
イデオロギーゼロの世の中ならではの、慧眼による最善の施策の実現が見込まれるのである。
放出ここまで
>>118で、「念仏はやはり学問とまでは行かない信教止まりだが、カルトではない」
と注釈した所について、もう少し釈明しておけば。
念仏もまた、
「たとえ間違っていたとしても信じる(親鸞聖人の法然上人への言)」である一方、
「間違っていたせいで地獄に堕ちるのだとしてもかまわない(同)」というほどにも、
信仰そのものが虚妄を排し去っての、今現在の現実を受け入れたものになっている。
カルトやカルト的思想はこれに違い、
現状への満足などは決してなく、まるで目の前に人参をぶら下げられた馬が、
眼前の人参を求めて走り回るようにして、永続的な現状への不満と、
永遠に達成されることのない理想への渇望だけで成り立ち続けるものである。
「自分が信じているものが間違っていたとしても信じる」というほどにも狂信的で
ある一方、信じているものに即して自分が幸福へと導かれることの方は決して疑わず、
信仰対象に根源的な誤りがあった結果、地獄の苦難に落としいられようものなら普通に、
「なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか?」などという不平をも募らせて行く。
その根本的な破綻性こそが、カルトやカルト的思想への中毒者が欲求不満のせいで、
他者への侵害的な征服欲求などをも募らせてしまう原因となるものであり、
それが致命的であったからこそ江戸時代に、キリシタンや日蓮宗不受不施派などは
禁制をも被ることとなった一方、一向宗含む念仏宗派は許容が続けられたのである。
と注釈した所について、もう少し釈明しておけば。
念仏もまた、
「たとえ間違っていたとしても信じる(親鸞聖人の法然上人への言)」である一方、
「間違っていたせいで地獄に堕ちるのだとしてもかまわない(同)」というほどにも、
信仰そのものが虚妄を排し去っての、今現在の現実を受け入れたものになっている。
カルトやカルト的思想はこれに違い、
現状への満足などは決してなく、まるで目の前に人参をぶら下げられた馬が、
眼前の人参を求めて走り回るようにして、永続的な現状への不満と、
永遠に達成されることのない理想への渇望だけで成り立ち続けるものである。
「自分が信じているものが間違っていたとしても信じる」というほどにも狂信的で
ある一方、信じているものに即して自分が幸福へと導かれることの方は決して疑わず、
信仰対象に根源的な誤りがあった結果、地獄の苦難に落としいられようものなら普通に、
「なんで自分がこんな目に遭わなければならないのか?」などという不平をも募らせて行く。
その根本的な破綻性こそが、カルトやカルト的思想への中毒者が欲求不満のせいで、
他者への侵害的な征服欲求などをも募らせてしまう原因となるものであり、
それが致命的であったからこそ江戸時代に、キリシタンや日蓮宗不受不施派などは
禁制をも被ることとなった一方、一向宗含む念仏宗派は許容が続けられたのである。
まず以て、現時点でまだ俺を怨もうとしている時点で、頭がおかしい。
カルトでもアメリカでもどっかの医者でも、
真に怨みを向けるべき相手はいくらでもいるというのに、
ただ心情的に怨みやすい相手を怨んで、怨みづらい相手は怨むまいとしている、
その時点でまだ頭がいかれたままでいるという他ない。
具体的に言えば、喜多川にグルーミングされたままでいるジャニタレなどと同じ心理状態。
仮に、本当に自分のほうに落ち度があるのなら、その怨みも受け容れて、
統一自民みたいな平謝りで済ますこともなく、ちゃんと責任も取るべきだが。
そうでない上に、巨悪の冤罪を押し付けられて無実の責任を取らされるぐらいなら、
逆に死への覚悟をも以て、断固として拒絶してかかる以外に道義的余地もありはしない。
「それでも二人を結びつける愛」とかも、あった所で真の愛ではない。
それこそ、巨悪にいいように玩ばれて利用されるだけの、偽りの愛でしかないのだからな。
カルトでもアメリカでもどっかの医者でも、
真に怨みを向けるべき相手はいくらでもいるというのに、
ただ心情的に怨みやすい相手を怨んで、怨みづらい相手は怨むまいとしている、
その時点でまだ頭がいかれたままでいるという他ない。
具体的に言えば、喜多川にグルーミングされたままでいるジャニタレなどと同じ心理状態。
仮に、本当に自分のほうに落ち度があるのなら、その怨みも受け容れて、
統一自民みたいな平謝りで済ますこともなく、ちゃんと責任も取るべきだが。
そうでない上に、巨悪の冤罪を押し付けられて無実の責任を取らされるぐらいなら、
逆に死への覚悟をも以て、断固として拒絶してかかる以外に道義的余地もありはしない。
「それでも二人を結びつける愛」とかも、あった所で真の愛ではない。
それこそ、巨悪にいいように玩ばれて利用されるだけの、偽りの愛でしかないのだからな。
よもや、そいつらはどうせ、どうにかすることもできないような
連中なのだから、代わりに俺を怨んでいるというのなら。
所詮は俺もまた、そいつらをどうすることもできない止まりのままで
生涯を終えるに違いない相手なのだと、見込んでいるということ。
その範囲内での「結果」なんてものは、何もしないままでいる以上の
何の価値もないのに違いないし、それこそこちらから願い下げってもんだな。
連中なのだから、代わりに俺を怨んでいるというのなら。
所詮は俺もまた、そいつらをどうすることもできない止まりのままで
生涯を終えるに違いない相手なのだと、見込んでいるということ。
その範囲内での「結果」なんてものは、何もしないままでいる以上の
何の価値もないのに違いないし、それこそこちらから願い下げってもんだな。
地獄の亡者の阿鼻叫喚に、こちらが割を食う形で付き合ってやった所で、
こちらのためにも、相手のためにもなることはあり得ないでな。
大体わかったのは、もう何もかもおしまいだっていう察しもあった上で、
やり場のない怒りを八つ当たり、逆恨み止まりでもいいから
ぶつけておきたい衝動に駆られてるらしいってことだな。
現時点まで、ただの一度も直接口をきいたこともないなんていう時点で、
鷹司孝子を軽く上回るような関係の険悪さであることも確定してるわけだし、
そこでさらに毒を吐くぐらいなんだから、もうそちらも諦めきってるってことだろう。
さりとて、落ち度はあくまでそちら側のみにある。
この世に呪いに該当するような現象もあろうとて、それはあくまで、
正念をくじかれた者のみが精神現象的にもこの世に発現させ得るものだし、
その条件を満たさない自分たちには人に、呪いをかけて逝くような資格もないからこそ、
今ここで不満をぶつけられるだけぶつけておこうっていう算段なんだろう。
一応、見てぐらいはおいてやるから、自称負け犬スレのほうでせいぜい吠えとくことだな。
こちらのためにも、相手のためにもなることはあり得ないでな。
大体わかったのは、もう何もかもおしまいだっていう察しもあった上で、
やり場のない怒りを八つ当たり、逆恨み止まりでもいいから
ぶつけておきたい衝動に駆られてるらしいってことだな。
現時点まで、ただの一度も直接口をきいたこともないなんていう時点で、
鷹司孝子を軽く上回るような関係の険悪さであることも確定してるわけだし、
そこでさらに毒を吐くぐらいなんだから、もうそちらも諦めきってるってことだろう。
さりとて、落ち度はあくまでそちら側のみにある。
この世に呪いに該当するような現象もあろうとて、それはあくまで、
正念をくじかれた者のみが精神現象的にもこの世に発現させ得るものだし、
その条件を満たさない自分たちには人に、呪いをかけて逝くような資格もないからこそ、
今ここで不満をぶつけられるだけぶつけておこうっていう算段なんだろう。
一応、見てぐらいはおいてやるから、自称負け犬スレのほうでせいぜい吠えとくことだな。
いい加減、スレの主題に話を戻して行くとしてーー
イデオロギーゼロの世の中といえども、多様な思想信教の流布を損ねるような真似はせず、
それぞれの志向性が分をわきまえた活動に取り組むことは大いに許容して行くのが、
イデオロギーゼロそのものによる征服的支配などよりも忠実なそれの実践になるのだと、
>>8などでもすでに述べたところだけれども。
特に信教については、殊更に侵害的であるか否かで、そこでも許容されるか否かが決まり、
念仏や普通の題目までは可だが、極度に和を欠いた日蓮宗派やキリシタンなどについては、
さすがに禁制の対象としていった江戸時代の施策あたりが、その模範例にもなっているといえる。
キリシタン禁制後にも、洋学、蘭学という形での西洋の学術の振興は続き、
その許容度もまた時代によって絶妙な調整が働かされるといった有様だった。
東芝創業者のからくり時計や、平賀源内のエレキテルよろしく、先進的な電機文明への
探求もごくごく一部では試みられながらも、それがあまりにも矮小に過ぎたことが、
文明発展の面で日本が西洋に後れを取る原因になってしまったなどと考えられているが。
イデオロギーゼロの世の中といえども、多様な思想信教の流布を損ねるような真似はせず、
それぞれの志向性が分をわきまえた活動に取り組むことは大いに許容して行くのが、
イデオロギーゼロそのものによる征服的支配などよりも忠実なそれの実践になるのだと、
>>8などでもすでに述べたところだけれども。
特に信教については、殊更に侵害的であるか否かで、そこでも許容されるか否かが決まり、
念仏や普通の題目までは可だが、極度に和を欠いた日蓮宗派やキリシタンなどについては、
さすがに禁制の対象としていった江戸時代の施策あたりが、その模範例にもなっているといえる。
キリシタン禁制後にも、洋学、蘭学という形での西洋の学術の振興は続き、
その許容度もまた時代によって絶妙な調整が働かされるといった有様だった。
東芝創業者のからくり時計や、平賀源内のエレキテルよろしく、先進的な電機文明への
探求もごくごく一部では試みられながらも、それがあまりにも矮小に過ぎたことが、
文明発展の面で日本が西洋に後れを取る原因になってしまったなどと考えられているが。
西洋側の発展はといえば、それは単なる学術振興だけによって実現されたものではない。
大航海時代以降、全世界へと侵略征服の魔の手を広げ、世界中を土人状態以上の荒廃に
陥れながら巨万の富を自分たちの元へと集積し、それを元手とした研究開発によって、
産業革命のような劇的な発展をも遂げたわけで、決して学術発展だけで成し得たことではない。
世界中の人々の平穏な生活を侵害してまで、自分たちの元に富を集積して行った弊害もまた生半な
ものではなく、その最終章として、英欧もまた世界中からの移民に乗っ取られようとしているし、
工業生産やIT産業の依存先となった中国やインドの世界的覇権にも呑み込まれようとしている。
それと似たような因果応報を、日本もまた近代以降に欧米の猿真似で侵略征服などを
繰り広げてしまった程度には被っているけれども、それ以前に、侵略行為なども途絶して、
金満や洋学への依存も最小限に止めて行く国の営み方をよく研鑽し抜いていた程度には、
文明発展による因果応報の災禍以降の、世界のあり方を模索して行く主役ともなり得るものである。
近代文明に依存しきりでもなければ、殊更な反文明主義に振り切れるのでもなく、
文明や洋学を無覆無記に該当するような、無害な範囲だけで適切に取り扱って行く指針。
西洋かぶれにも懐古趣味にも振り切れない、中庸精神の復興と共にそれも培われて行くのである。
大航海時代以降、全世界へと侵略征服の魔の手を広げ、世界中を土人状態以上の荒廃に
陥れながら巨万の富を自分たちの元へと集積し、それを元手とした研究開発によって、
産業革命のような劇的な発展をも遂げたわけで、決して学術発展だけで成し得たことではない。
世界中の人々の平穏な生活を侵害してまで、自分たちの元に富を集積して行った弊害もまた生半な
ものではなく、その最終章として、英欧もまた世界中からの移民に乗っ取られようとしているし、
工業生産やIT産業の依存先となった中国やインドの世界的覇権にも呑み込まれようとしている。
それと似たような因果応報を、日本もまた近代以降に欧米の猿真似で侵略征服などを
繰り広げてしまった程度には被っているけれども、それ以前に、侵略行為なども途絶して、
金満や洋学への依存も最小限に止めて行く国の営み方をよく研鑽し抜いていた程度には、
文明発展による因果応報の災禍以降の、世界のあり方を模索して行く主役ともなり得るものである。
近代文明に依存しきりでもなければ、殊更な反文明主義に振り切れるのでもなく、
文明や洋学を無覆無記に該当するような、無害な範囲だけで適切に取り扱って行く指針。
西洋かぶれにも懐古趣味にも振り切れない、中庸精神の復興と共にそれも培われて行くのである。
羽生結弦の祖母「ゆづはまだまだ子供」
https://news.yahoo.co.jp/articles/be17335dc1ae5f127b8f0...
そりゃそうなんだろうけど、そのやんちゃで幼稚っぽい所まで含めて、
当人の女性人気の糧であり続けてきたわけで、そこから脱却した所にあるのは、
今の日本人の多くが「おっさん」などと呼んで唾棄する、魅力なし扱いな男のみなんよ。
結婚するにも、子を持つにも値しない域の、少年的な側面を持ち越したままの
男こそを女たちが欲して、男たちもまたそれに合わせて幼稚化して来てるのだし、
女たちの不埒な色男嗜好のほうに鉄槌を下さないことには、どうにもならないものだね。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be17335dc1ae5f127b8f0...
そりゃそうなんだろうけど、そのやんちゃで幼稚っぽい所まで含めて、
当人の女性人気の糧であり続けてきたわけで、そこから脱却した所にあるのは、
今の日本人の多くが「おっさん」などと呼んで唾棄する、魅力なし扱いな男のみなんよ。
結婚するにも、子を持つにも値しない域の、少年的な側面を持ち越したままの
男こそを女たちが欲して、男たちもまたそれに合わせて幼稚化して来てるのだし、
女たちの不埒な色男嗜好のほうに鉄槌を下さないことには、どうにもならないものだね。
(>>129の続き)
洋学のうちの、文系の学術については、あまりにも劣悪なものが多すぎることから、
軒並みその権威を剥奪して行くに越したことはないとも言い切れるものだが。
理系については、今現在の社会インフラのほか、先進医療で数多の人々の命運を支えて
いるような状態にもあるために、とうてい即座に破棄し去っていいような状態にはない。
そのため当面は保護の対象としながら、人々の依存度を少しずつ下げて行くことが、
医療保険による国の借金の山積で傾いている日本などにとっての指針となるであろうが。
だいたいが、洋学の文系派閥がすでに理系の派閥を抑圧していたりもすることだし、
逆に日本などでは、医学系以外の理系の学術振興がより復調される可能性も高い。
理系の洋学研究は、参加者たちにASD系的な沈鬱志向を強いるものであることから、
アメリカのように国策でそういう人種をシリコンバレー等で保護するぐらいの真似に
及ぶのでもなければ、洋学の権威を認める範疇においても委縮しかねないものである。
洋学のうちの、文系の学術については、あまりにも劣悪なものが多すぎることから、
軒並みその権威を剥奪して行くに越したことはないとも言い切れるものだが。
理系については、今現在の社会インフラのほか、先進医療で数多の人々の命運を支えて
いるような状態にもあるために、とうてい即座に破棄し去っていいような状態にはない。
そのため当面は保護の対象としながら、人々の依存度を少しずつ下げて行くことが、
医療保険による国の借金の山積で傾いている日本などにとっての指針となるであろうが。
だいたいが、洋学の文系派閥がすでに理系の派閥を抑圧していたりもすることだし、
逆に日本などでは、医学系以外の理系の学術振興がより復調される可能性も高い。
理系の洋学研究は、参加者たちにASD系的な沈鬱志向を強いるものであることから、
アメリカのように国策でそういう人種をシリコンバレー等で保護するぐらいの真似に
及ぶのでもなければ、洋学の権威を認める範疇においても委縮しかねないものである。
近年の日本などでは、アキバ系のオタク文化への評価などと共に理系を保護しようなどと
試みられた所もあったが、そんなものも焼け石に水としかならず、慶応閥の文系リア充
あたりにいいようにピンハネのカモにされ尽くした挙句、その総数から減って行ったのだった。
文系の洋学には、学究者の徳性を育む効果もなければ、現実社会の実相を俯瞰する
広い視野を得させる効果もなく、ただひたすら弱肉強食下での勝ち組となることへの野心
ばかりを蓄えさせる代物であるのだと、近年日本などでも多くの事例から察せられるものだが。
それは結局、文系の洋学もまた、江戸期に禁制扱いとなった日蓮宗派やキリシタンなどと同様、
イデオロギーゼロの社会に順応できないほどもの侵害性を帯びているということでもあるし、
ただ権威を剥奪するだけでも十分な改善が期待できないようなら、禁制の対象と
することまでをも考慮の内に入れておく必要があるだろう。
さながらそれは、前漢の武帝が儒学を完了登用のための純正科目に指定したのと引き換えに、
法家や縦横家の素養などをそこから排除したのとも似た機縁となるであろうが。そこから
結果的に中国は儒教一辺倒への道をひた走り始めることともなったわけで、そこで対照的に
儒学の権威が絶対化し過ぎたりすることにも十全な警戒を尽くして行くのでなければなるまい。
試みられた所もあったが、そんなものも焼け石に水としかならず、慶応閥の文系リア充
あたりにいいようにピンハネのカモにされ尽くした挙句、その総数から減って行ったのだった。
文系の洋学には、学究者の徳性を育む効果もなければ、現実社会の実相を俯瞰する
広い視野を得させる効果もなく、ただひたすら弱肉強食下での勝ち組となることへの野心
ばかりを蓄えさせる代物であるのだと、近年日本などでも多くの事例から察せられるものだが。
それは結局、文系の洋学もまた、江戸期に禁制扱いとなった日蓮宗派やキリシタンなどと同様、
イデオロギーゼロの社会に順応できないほどもの侵害性を帯びているということでもあるし、
ただ権威を剥奪するだけでも十分な改善が期待できないようなら、禁制の対象と
することまでをも考慮の内に入れておく必要があるだろう。
さながらそれは、前漢の武帝が儒学を完了登用のための純正科目に指定したのと引き換えに、
法家や縦横家の素養などをそこから排除したのとも似た機縁となるであろうが。そこから
結果的に中国は儒教一辺倒への道をひた走り始めることともなったわけで、そこで対照的に
儒学の権威が絶対化し過ぎたりすることにも十全な警戒を尽くして行くのでなければなるまい。
仮に、洋学(特に文系)がその権威を剥奪されて、儒学や仏学のような
正学が学歴の依拠材料としての正規教育科目に据えられ直すのだとしても、
そこで現代なみの学歴主義に基づくような、頑なな差別などがあってはならない。
近代以降の日本社会における学歴主義というのも、時代を追うごとに深刻化しながら、
世の中全体を低迷に陥らせる一大原因になって来たところがある。
戦前までは、小学校中退の牧野富太郎が東大の研究室に入り浸りながら
超絶飛び級で理学博士号を取得するようなこともあれど、戦後にはなくなった上に、
時を重ねるごとに、高度の洋学教育など必要もないような業界に至るまで、
全ての人事をまず学歴準拠で取り仕切るような事態をより深刻化させていったもの。
一橋卒の大塚久美子よりも、高卒の父親のほうが会社経営の手腕も普遍的に上だったと
すでに確認されたりもしているものだけれども、それ以前にまず、世の中の人事が
学歴ばかりで左右されなかった時代の日本のほうが活況を呈していた一方、ほとんど学歴だけで
全国民の価値が計られるようになると共に「失われた30年」が到来したという実情もまたある。
それはおそらく、儒学に基づく学歴至上主義の世相などが到来した場合にも招かれるに
違いない停滞であるのに違いないのは、儒教時代の中朝の様相などを鑑みても知れることである。
正学が学歴の依拠材料としての正規教育科目に据えられ直すのだとしても、
そこで現代なみの学歴主義に基づくような、頑なな差別などがあってはならない。
近代以降の日本社会における学歴主義というのも、時代を追うごとに深刻化しながら、
世の中全体を低迷に陥らせる一大原因になって来たところがある。
戦前までは、小学校中退の牧野富太郎が東大の研究室に入り浸りながら
超絶飛び級で理学博士号を取得するようなこともあれど、戦後にはなくなった上に、
時を重ねるごとに、高度の洋学教育など必要もないような業界に至るまで、
全ての人事をまず学歴準拠で取り仕切るような事態をより深刻化させていったもの。
一橋卒の大塚久美子よりも、高卒の父親のほうが会社経営の手腕も普遍的に上だったと
すでに確認されたりもしているものだけれども、それ以前にまず、世の中の人事が
学歴ばかりで左右されなかった時代の日本のほうが活況を呈していた一方、ほとんど学歴だけで
全国民の価値が計られるようになると共に「失われた30年」が到来したという実情もまたある。
それはおそらく、儒学に基づく学歴至上主義の世相などが到来した場合にも招かれるに
違いない停滞であるのに違いないのは、儒教時代の中朝の様相などを鑑みても知れることである。
「金持ちしか子供を作らなくなったから少子化になってしまった」と、
この前ひろゆきも言ってたけれども、「金持ちでなければ人にあらず」という風潮と同様、
「高学歴でなければ人にあらず」という風潮もまた世に蔓延した結果、低学歴はもはや
妻子も持てない域の貧窮に追い込まれても仕方がないという常識が定着してしまったもの。
今や、新卒採用でそこそこの会社に就職できるのでもなければ、闇バイトにでも手を出した
ほうがまだ稼げるというのが当たり前と化してしまったことから、Z世代の若者たちも、
ろくに世の中への不満も漏らすことなく、粛々と強盗や特殊詐欺に勤しむ事態ともなっている。
いつの時代も「~でなければ人にあらず」の域の過当競争が蔓延する世の中は自業自得での
衰滅に苛まれるものであり、貧富の格差がその原因になるのはある程度察知されているために
それなりの施策が講じられたりもする一方、学歴差別のほうはまだその試みすら疎かなままである。
みんな勉強ができないよりはできたほうがいい。大学に行く選択肢もないよりはあったほうが
いいということで、泡沫級の低ランク大学なども乱立させた結果、逆に誰しもが、まずは学歴で
その真価を図られるような差別性が蔓延して今に至る。これもまた「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
の結果であり、生きて行く上で必要もないような勉強に全てが支配されるのも不健全なのである。
この前ひろゆきも言ってたけれども、「金持ちでなければ人にあらず」という風潮と同様、
「高学歴でなければ人にあらず」という風潮もまた世に蔓延した結果、低学歴はもはや
妻子も持てない域の貧窮に追い込まれても仕方がないという常識が定着してしまったもの。
今や、新卒採用でそこそこの会社に就職できるのでもなければ、闇バイトにでも手を出した
ほうがまだ稼げるというのが当たり前と化してしまったことから、Z世代の若者たちも、
ろくに世の中への不満も漏らすことなく、粛々と強盗や特殊詐欺に勤しむ事態ともなっている。
いつの時代も「~でなければ人にあらず」の域の過当競争が蔓延する世の中は自業自得での
衰滅に苛まれるものであり、貧富の格差がその原因になるのはある程度察知されているために
それなりの施策が講じられたりもする一方、学歴差別のほうはまだその試みすら疎かなままである。
みんな勉強ができないよりはできたほうがいい。大学に行く選択肢もないよりはあったほうが
いいということで、泡沫級の低ランク大学なども乱立させた結果、逆に誰しもが、まずは学歴で
その真価を図られるような差別性が蔓延して今に至る。これもまた「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
の結果であり、生きて行く上で必要もないような勉強に全てが支配されるのも不健全なのである。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700858297...
このスレの8などで多少述べていた、俺個人の洋学から正学への転向にかけての体験談で、
完全に心の重心から乗り換えることには大変な逡巡があったことをも独白しているのだが。
それこそは、当時の俺を含む今の日本や世界の大多数の人々が、
洋学至上主義と学歴至上主義の相乗への心理的屈服を強いられている証拠にもなっているといえる。
世の中には勉強嫌いや低学歴の人間も多かれど、それが即座にコンプレックスを抱かされる
原因となり、人並み以上に卑屈であったりすることを強いられる要因ともなる。それが、
洋学も学歴も必要ないような業務を、プライドを持って取り組んだりすることをも阻害し、
この世のあらゆる仕事をいい加減で適当なものならしめての荒廃をも招いてしまう。
(結果、学歴ぐらいでしか人の真価を量ることもできない事態がより強化される)
今だと正規教育扱いの洋学がその主たる元凶となっているが、儒教時代の中朝などでは、
儒学が全く同様な問題を招いていたことだし、学歴至上主義による征服は必ずそれを招くもの。
老子も「絶学無憂」を謳い、荘子や列子も儒家の勉強志向をこっぴどく非難するような
論弁を遺しているが、それをただ反知性主義の正当化材料にしたりするのは誤りで、
この世が学歴至上主義で覆い尽くされたりしないようにするための牽制材料として
尊重することこそが、イデオロギーゼロの達成のためにも純正な利用方法となるであろう。
このスレの8などで多少述べていた、俺個人の洋学から正学への転向にかけての体験談で、
完全に心の重心から乗り換えることには大変な逡巡があったことをも独白しているのだが。
それこそは、当時の俺を含む今の日本や世界の大多数の人々が、
洋学至上主義と学歴至上主義の相乗への心理的屈服を強いられている証拠にもなっているといえる。
世の中には勉強嫌いや低学歴の人間も多かれど、それが即座にコンプレックスを抱かされる
原因となり、人並み以上に卑屈であったりすることを強いられる要因ともなる。それが、
洋学も学歴も必要ないような業務を、プライドを持って取り組んだりすることをも阻害し、
この世のあらゆる仕事をいい加減で適当なものならしめての荒廃をも招いてしまう。
(結果、学歴ぐらいでしか人の真価を量ることもできない事態がより強化される)
今だと正規教育扱いの洋学がその主たる元凶となっているが、儒教時代の中朝などでは、
儒学が全く同様な問題を招いていたことだし、学歴至上主義による征服は必ずそれを招くもの。
老子も「絶学無憂」を謳い、荘子や列子も儒家の勉強志向をこっぴどく非難するような
論弁を遺しているが、それをただ反知性主義の正当化材料にしたりするのは誤りで、
この世が学歴至上主義で覆い尽くされたりしないようにするための牽制材料として
尊重することこそが、イデオロギーゼロの達成のためにも純正な利用方法となるであろう。
学歴至上主義に限らず、特定の思想信教によるイデオロギー支配が
深刻化してしまっている所には必ずや、文武両道の嗜みの不全化が存在する。
洋学はそれ自体が文弱による机上の空論に特化しているために、
そのような事態を世の中にもたらす傾向が特に顕著であるけれども、
洋学の原産地である西洋にはスポーツという運動文化もまたあり、
儒教時代の中朝などと比べればまだ体育を重んじている傾向もある。
しかし、西洋における運動体系は、体育会系にしろ軍事行動にしろ、
少なからず頭を使わずに体だけを動かすことを要求する志向性を帯びているために、
たとえ洋学とスポーツを共に受容したからといって、真の文武両道たるわけではなく、
ただ単に二足の草鞋を履いているだけの域に止まることとなる。
今の日本だと、体育会系でスポーツマンを兼ねる医者や商社マンなども多かれど、
それが学歴至上主義の蔓延の歯止め役になるどころか、むしろ助長役に
なってしまっていたりすることからもわかるように、そういう人種は文弱の領域では
純粋に文弱たる上に、スポーツ競技の感覚で社会的な弱肉強食をも激化させるような
より一層の悲惨さを招くことしかできないために、少しも文武両道として尊ぶには値しない。
深刻化してしまっている所には必ずや、文武両道の嗜みの不全化が存在する。
洋学はそれ自体が文弱による机上の空論に特化しているために、
そのような事態を世の中にもたらす傾向が特に顕著であるけれども、
洋学の原産地である西洋にはスポーツという運動文化もまたあり、
儒教時代の中朝などと比べればまだ体育を重んじている傾向もある。
しかし、西洋における運動体系は、体育会系にしろ軍事行動にしろ、
少なからず頭を使わずに体だけを動かすことを要求する志向性を帯びているために、
たとえ洋学とスポーツを共に受容したからといって、真の文武両道たるわけではなく、
ただ単に二足の草鞋を履いているだけの域に止まることとなる。
今の日本だと、体育会系でスポーツマンを兼ねる医者や商社マンなども多かれど、
それが学歴至上主義の蔓延の歯止め役になるどころか、むしろ助長役に
なってしまっていたりすることからもわかるように、そういう人種は文弱の領域では
純粋に文弱たる上に、スポーツ競技の感覚で社会的な弱肉強食をも激化させるような
より一層の悲惨さを招くことしかできないために、少しも文武両道として尊ぶには値しない。
スポーツ化した戦後の剣道や柔道を必修科目としている警察官が、
並外れた低能だらけと化してしまっていたりすることからも分かるように、
頭をちゃんと使わない体育会系の運動こそは、知性を鈍麻させるという弊害もある。
真の文武両道と呼ぶべきなのは、古来の武芸や仏道修行なみに、
身体の端々に至るまで知恵を巡らせて完璧な制御下に置く部類の運動と、
それに基づく叡智の獲得のほうであり、それは机上の空論止まりな脳化の知性と、
頭を使わずに体だけ動かしていようとするような運動の両立などとは全くの別物である。
それは実際、大変に困難な嗜みであるために、世の中の大多数の人間には務まらない。
武士も武芸者も仏僧も、いつの時代も世の多数派だったりまではしないでいながら、
そういった取り組みに専念し、人並み以上の崇敬対象としての地位を得ていたわけで、
故にこそ、世の中全体を執拗な支配下に置く全体主義の体現などでもあり得ないのである。
文化系一辺倒や体育会系一辺倒に権威を付与すると、さほどの域にもないような愚か者が
大勢力化しながら世の中全体を強権的な支配下に置くような真似を試み始めるために、それを禁止し、
難儀で少数しか十分に上達できない真の文武両道を、だからこそ権威の拠り所として行くのである。
並外れた低能だらけと化してしまっていたりすることからも分かるように、
頭をちゃんと使わない体育会系の運動こそは、知性を鈍麻させるという弊害もある。
真の文武両道と呼ぶべきなのは、古来の武芸や仏道修行なみに、
身体の端々に至るまで知恵を巡らせて完璧な制御下に置く部類の運動と、
それに基づく叡智の獲得のほうであり、それは机上の空論止まりな脳化の知性と、
頭を使わずに体だけ動かしていようとするような運動の両立などとは全くの別物である。
それは実際、大変に困難な嗜みであるために、世の中の大多数の人間には務まらない。
武士も武芸者も仏僧も、いつの時代も世の多数派だったりまではしないでいながら、
そういった取り組みに専念し、人並み以上の崇敬対象としての地位を得ていたわけで、
故にこそ、世の中全体を執拗な支配下に置く全体主義の体現などでもあり得ないのである。
文化系一辺倒や体育会系一辺倒に権威を付与すると、さほどの域にもないような愚か者が
大勢力化しながら世の中全体を強権的な支配下に置くような真似を試み始めるために、それを禁止し、
難儀で少数しか十分に上達できない真の文武両道を、だからこそ権威の拠り所として行くのである。
真の文武両道は、大多数の人間には務まらない上に、十分な理解もできない。
>>110で引き合いに出した疋田文五郎秘伝の剣術奥義なども、
常人にはまともに活用もできない上に、その凄さも十分には分からない。
まず重心を下げる沈の姿勢での剣術技巧が、実戦性を重んずる流派に重用されて来た
古来の武芸の常識があった上で、裏技としての直ぐ立ちでの攻撃の凄さが強調されているのを
聞き知らされたりした所で、そもそも実戦性を無視して始めから直立で競技している
今の剣道などを剣技の基本だと思い込んでいる現代人からすれば、全くの意味不明となる。
相手の裏の裏の裏をかいて行くような、知恵比べの極北に存在する奥義などを、
常人が理解できないのは当たり前のことであって、必要なのはそこにまで理解を及ばせる
ことではなく、理解できないものをそうであるままに敬い尊べるだけの篤実さなのである。
>>110で引き合いに出した疋田文五郎秘伝の剣術奥義なども、
常人にはまともに活用もできない上に、その凄さも十分には分からない。
まず重心を下げる沈の姿勢での剣術技巧が、実戦性を重んずる流派に重用されて来た
古来の武芸の常識があった上で、裏技としての直ぐ立ちでの攻撃の凄さが強調されているのを
聞き知らされたりした所で、そもそも実戦性を無視して始めから直立で競技している
今の剣道などを剣技の基本だと思い込んでいる現代人からすれば、全くの意味不明となる。
相手の裏の裏の裏をかいて行くような、知恵比べの極北に存在する奥義などを、
常人が理解できないのは当たり前のことであって、必要なのはそこにまで理解を及ばせる
ことではなく、理解できないものをそうであるままに敬い尊べるだけの篤実さなのである。
仏道などもまた同じことで、仏の知恵は、自分たちだけではまともに平穏に世の中を
営んで行くことも出来ない衆愚を本当に救い取るものであればこそ、衆愚側には原理的に
その理解が不能なもの。なればこそそれが選挙で多数に支持されて政権を得るようなこともない。
誰も聞いてパっと理解できるぐらい分かりやすいものがこの世の平和や繁栄を実現できる
ぐらいなら、とっくにそうなっている。その試みの極みこそは、この世を特定の一つ覚えな
イデオロギーで塗り固めるという企てでもあったわけで、それが最良の部類であるはずの
自由主義や民主主義によってもうまくいかなかったことを以て、人間社会が安易な
分かりやすさばかりでやって行けるものではないことを観念する機縁ともすべきなのである。
営んで行くことも出来ない衆愚を本当に救い取るものであればこそ、衆愚側には原理的に
その理解が不能なもの。なればこそそれが選挙で多数に支持されて政権を得るようなこともない。
誰も聞いてパっと理解できるぐらい分かりやすいものがこの世の平和や繁栄を実現できる
ぐらいなら、とっくにそうなっている。その試みの極みこそは、この世を特定の一つ覚えな
イデオロギーで塗り固めるという企てでもあったわけで、それが最良の部類であるはずの
自由主義や民主主義によってもうまくいかなかったことを以て、人間社会が安易な
分かりやすさばかりでやって行けるものではないことを観念する機縁ともすべきなのである。
そりゃあ、梵語版の訳者が洋学者だったりするからじゃないかね?
仏教徒ですらないなんてことは、日本人の仏教学者ならほぼないにしろ、
あくまで研究対象を徹底的な侮蔑、懐疑の標的にして行くことを本位としている
洋学のペースでの訳だったりすると、玄奘三蔵や鳩摩羅什のような本格の仏者が
敬意を込めて漢訳した仏典の再翻訳と比べて、文体の不埒さが読解を邪魔する頻度も高くなる。
そのような、洋学ペースの仏教というものを忠実な実践に移そうとしていた
新興宗教の教団があってね、オウム真理教っていうんだけど、知ってるかな?
「尊師」という言葉も、東大教授の仏教学者である中村元の、原始仏典からの訳語で、
実は仏語じゃない。本来は学校教師とか政治家とか弁護士とか医者とかの、
在俗の指導者を敬って呼ぶ言葉。そんな言葉をあえて仏門の指導者に当てはめたりする
ような真似の積み重ねが、洋学主導の仏典翻訳を読みがたいものにもしてしまうわけだね。
仏教徒ですらないなんてことは、日本人の仏教学者ならほぼないにしろ、
あくまで研究対象を徹底的な侮蔑、懐疑の標的にして行くことを本位としている
洋学のペースでの訳だったりすると、玄奘三蔵や鳩摩羅什のような本格の仏者が
敬意を込めて漢訳した仏典の再翻訳と比べて、文体の不埒さが読解を邪魔する頻度も高くなる。
そのような、洋学ペースの仏教というものを忠実な実践に移そうとしていた
新興宗教の教団があってね、オウム真理教っていうんだけど、知ってるかな?
「尊師」という言葉も、東大教授の仏教学者である中村元の、原始仏典からの訳語で、
実は仏語じゃない。本来は学校教師とか政治家とか弁護士とか医者とかの、
在俗の指導者を敬って呼ぶ言葉。そんな言葉をあえて仏門の指導者に当てはめたりする
ような真似の積み重ねが、洋学主導の仏典翻訳を読みがたいものにもしてしまうわけだね。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700858297...
ここでもある程度詳述したことだが、人間、心中に宿している敬意の総量が、
侮蔑の総量を上回っている状態で、初めて十全な精神の安定を確保し、
100年以上の平和や繁栄をこの世にもたらす聖賢たり得るもので、
当然、仏道もまたその条件を満たしている者のみが上達に与れるものである。
まず以て、他力本願の念仏に帰依するためにさえ、その条件を満たす必要があるし、
真っ当な仏道ほど、おしなべてその満了を必須とする精神文化も他にないものである。
禿頭に糞掃衣(袈裟)という、古来の奴隷を模した仏僧の装束もまた、
心中の敬意が侮蔑を上回っている人間でもなければ敬えないものなればこそ、
あえてそうして来ている所があるし、実際、ハゲを馬鹿にする風潮と、
仏門への崇敬意識もまた反比例関係で今の世に偏在しているものである。
ここでもある程度詳述したことだが、人間、心中に宿している敬意の総量が、
侮蔑の総量を上回っている状態で、初めて十全な精神の安定を確保し、
100年以上の平和や繁栄をこの世にもたらす聖賢たり得るもので、
当然、仏道もまたその条件を満たしている者のみが上達に与れるものである。
まず以て、他力本願の念仏に帰依するためにさえ、その条件を満たす必要があるし、
真っ当な仏道ほど、おしなべてその満了を必須とする精神文化も他にないものである。
禿頭に糞掃衣(袈裟)という、古来の奴隷を模した仏僧の装束もまた、
心中の敬意が侮蔑を上回っている人間でもなければ敬えないものなればこそ、
あえてそうして来ている所があるし、実際、ハゲを馬鹿にする風潮と、
仏門への崇敬意識もまた反比例関係で今の世に偏在しているものである。
仏者でなくとも、否定派などのように、並外れた苦労を積み重ねてきた男もまた時に
ハゲるものだが、そこへの敬意を抱けないような人間で溢れ返っているような
世の中では、苦労を馬鹿にして楽したもんがちな悪徳までもがまかり通り、
何もかもが適当にあしらわれた挙句の、世相の荒廃を招いたりもしてしまうものである。
近世まで仏門帰依が入念だった日本人と、その頃もうすでに儒教支配が仏門を
侵害していた中朝の民度の高低を見ても分かる通り、ハゲをも敬えるか否かという、
仏門帰依にかけても重大な関門となる要素がそのまま、世を挙げての栄枯盛衰をも
決定的に左右するものだし、どんなに洋学が絶大な文明発展をもたらすのだろうとも、
それと共に人々の敬意を仏滅級に損ね、ハゲをあざ笑い唾棄する風潮などへと
持ち込むのであれば、多少ほどにも世の中をより安楽ならしめることもないのである。
ハゲるものだが、そこへの敬意を抱けないような人間で溢れ返っているような
世の中では、苦労を馬鹿にして楽したもんがちな悪徳までもがまかり通り、
何もかもが適当にあしらわれた挙句の、世相の荒廃を招いたりもしてしまうものである。
近世まで仏門帰依が入念だった日本人と、その頃もうすでに儒教支配が仏門を
侵害していた中朝の民度の高低を見ても分かる通り、ハゲをも敬えるか否かという、
仏門帰依にかけても重大な関門となる要素がそのまま、世を挙げての栄枯盛衰をも
決定的に左右するものだし、どんなに洋学が絶大な文明発展をもたらすのだろうとも、
それと共に人々の敬意を仏滅級に損ね、ハゲをあざ笑い唾棄する風潮などへと
持ち込むのであれば、多少ほどにも世の中をより安楽ならしめることもないのである。
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているかどうかは、
ハゲの偉人をも崇敬できるかどうかでも判別することができるし、
大勢の前でのスピーチで緊張するかどうかなどでも、概ねの判別が可能である。
日本人などには緊張する人間が多い一方、欧米人にはほとんどいないともされる。
英語の「あなた」と「あなたたち」はどちらも「You」で一括りにされているように、
言語面から相手の多寡を区別する習慣がないから緊張などしないというのもあるのだろうけれども。
「他者というのはとりあえず敬っておくべき可能性のあるもの」というほどにも、
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているのであれば、大人数に対峙した時点ですでに、
可能性の面からの畏怖が増大して、否が応でも緊張する者である一方、侮蔑のほうが敬意の
総量を上回っているようならそうではないから緊張などしないといったこともあるだろう。
ハゲの偉人をも崇敬できるかどうかでも判別することができるし、
大勢の前でのスピーチで緊張するかどうかなどでも、概ねの判別が可能である。
日本人などには緊張する人間が多い一方、欧米人にはほとんどいないともされる。
英語の「あなた」と「あなたたち」はどちらも「You」で一括りにされているように、
言語面から相手の多寡を区別する習慣がないから緊張などしないというのもあるのだろうけれども。
「他者というのはとりあえず敬っておくべき可能性のあるもの」というほどにも、
心中の敬意が侮蔑の総量を上回っているのであれば、大人数に対峙した時点ですでに、
可能性の面からの畏怖が増大して、否が応でも緊張する者である一方、侮蔑のほうが敬意の
総量を上回っているようならそうではないから緊張などしないといったこともあるだろう。
「大勢の前で緊張する」というのは、自分一人よりも多数派の相手に対して自動的に
尊重意識を抱いていることから、心中からの民主主義が盤石な状態であるともいえるために、
むしろ好ましいことなのだとも以前に述べたところであるが。
さような人々で世の中全体が形成されているようであれば自然と、
全体を自分一人の考えでどうにかしてやろうとするような独裁性もまた立ち消えとなり、
民主制などをわざわざ敷くまでもなく、民主的な社会が実現されるであろうから、
イデオロギーの民主主義などよりもそちらの実現のほうを心がけるべきなのだともいえるのである。
真っ当な仏道にしろ神道にしろ儒家にしろ道家にしろ、非カルトの純正な精神文化はみな、
心中の敬意を侮蔑以上ならしめることを本分としているために、それらの忠実な実践者が、
この世にイデオロギー支配級の独裁性を以て君臨しようとするようなことも決してないのである。
尊重意識を抱いていることから、心中からの民主主義が盤石な状態であるともいえるために、
むしろ好ましいことなのだとも以前に述べたところであるが。
さような人々で世の中全体が形成されているようであれば自然と、
全体を自分一人の考えでどうにかしてやろうとするような独裁性もまた立ち消えとなり、
民主制などをわざわざ敷くまでもなく、民主的な社会が実現されるであろうから、
イデオロギーの民主主義などよりもそちらの実現のほうを心がけるべきなのだともいえるのである。
真っ当な仏道にしろ神道にしろ儒家にしろ道家にしろ、非カルトの純正な精神文化はみな、
心中の敬意を侮蔑以上ならしめることを本分としているために、それらの忠実な実践者が、
この世にイデオロギー支配級の独裁性を以て君臨しようとするようなことも決してないのである。
ハゲでも敬おうと思えば敬えるし、大勢の前で演説させられたりすれば緊張するーー
何のことはない、ごく普通の一般的な日本人にありがちな姿だけれども、
そこにこそ古来の良質な精神文化による教化の精髄があったものだし、
西洋化や大陸化によってあえて棄損したりもすべきではなかった所である。
ただ、ほとんどの日本人が未だそのような良俗の把持者でいながら、
近代以降には自由化や民主化を通じて、俺は俺は、私は私はな我欲の発露の達者ほど
評価されて重用される風潮が蔓延し始めたために(選挙政治もその代表格である)、
日本人の中では特級に下衆な悪党や、在日ばかりが権力中枢を牛耳るようになってしまった。
だからこそ、一般的な日本人もまた他者に臆したりしない我欲の強さを持ち合わせるべきだ
などとされて、日本人らしい貞節な性向の持ち主を陰キャなどと呼んでこき下ろし、
他者を踏み台にしてでものし上がろうとするような不埒さの持主ほど陽キャ扱いで
持て囃すといった取り組みが庶民に至るまで強要されているのが現状なのだが。
本当に必要なのはそんなことではなく、権力中枢ほど「意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九・四)な虚静さの持主しか立ち入れないようにして行くことである。
何のことはない、ごく普通の一般的な日本人にありがちな姿だけれども、
そこにこそ古来の良質な精神文化による教化の精髄があったものだし、
西洋化や大陸化によってあえて棄損したりもすべきではなかった所である。
ただ、ほとんどの日本人が未だそのような良俗の把持者でいながら、
近代以降には自由化や民主化を通じて、俺は俺は、私は私はな我欲の発露の達者ほど
評価されて重用される風潮が蔓延し始めたために(選挙政治もその代表格である)、
日本人の中では特級に下衆な悪党や、在日ばかりが権力中枢を牛耳るようになってしまった。
だからこそ、一般的な日本人もまた他者に臆したりしない我欲の強さを持ち合わせるべきだ
などとされて、日本人らしい貞節な性向の持ち主を陰キャなどと呼んでこき下ろし、
他者を踏み台にしてでものし上がろうとするような不埒さの持主ほど陽キャ扱いで
持て囃すといった取り組みが庶民に至るまで強要されているのが現状なのだが。
本当に必要なのはそんなことではなく、権力中枢ほど「意なく、必なく、固なく、我なし」
(子罕第九・四)な虚静さの持主しか立ち入れないようにして行くことである。
国としてのイデオロギーを無為自然、イデオロギーゼロならしめるのもまた、
そのための重大な方針転換となるだろうし、もちろんただそれだけには止まらず、
いま権力機構に巣食っているような、日本在住者の中でも特級に我欲たらたらな下郎ほど、
権力には近づけないようにするための具体的な施策もまた講じられるべきである。
その一つには、この日本こそが近世という比較的近年まで存続させることができていた、
封建社会の支配者すらをも引責自殺に追い込める強度の監察制度の再興なども挙げられる。
古くは魏志倭人伝にも「刺史のような職あり」という記述でその存在が指摘され、
その後も勘解由使や目付などと名称だけは変わりながら存続していた、厳格な監察職。
大陸では刺史から州牧などへと名称を変えながら、北宋の代で士大夫と地主や豪商の
癒着が横行し始めると同時に致命的な形骸化を来たしたのが、蒙古のごとき蛮族による
侵略征服と共に、政治腐敗からの文化荒廃を決定づける最大級の要因ともなったもの。
日本でも、近代以降は同様な事態を招いたし(そもそも地主が政治家を歴任し始めた)、
西洋に至っては始めからそんな職分はなく、フランス革命まで王侯=大地主でもあった。
さような傾向のある社会ほど国家権力=ごみ溜めという常識までもがまかり通り始める
ものであるけれども、イデオロギーゼロや監察職の充実と共に廃せる風潮なのでもある。
そのための重大な方針転換となるだろうし、もちろんただそれだけには止まらず、
いま権力機構に巣食っているような、日本在住者の中でも特級に我欲たらたらな下郎ほど、
権力には近づけないようにするための具体的な施策もまた講じられるべきである。
その一つには、この日本こそが近世という比較的近年まで存続させることができていた、
封建社会の支配者すらをも引責自殺に追い込める強度の監察制度の再興なども挙げられる。
古くは魏志倭人伝にも「刺史のような職あり」という記述でその存在が指摘され、
その後も勘解由使や目付などと名称だけは変わりながら存続していた、厳格な監察職。
大陸では刺史から州牧などへと名称を変えながら、北宋の代で士大夫と地主や豪商の
癒着が横行し始めると同時に致命的な形骸化を来たしたのが、蒙古のごとき蛮族による
侵略征服と共に、政治腐敗からの文化荒廃を決定づける最大級の要因ともなったもの。
日本でも、近代以降は同様な事態を招いたし(そもそも地主が政治家を歴任し始めた)、
西洋に至っては始めからそんな職分はなく、フランス革命まで王侯=大地主でもあった。
さような傾向のある社会ほど国家権力=ごみ溜めという常識までもがまかり通り始める
ものであるけれども、イデオロギーゼロや監察職の充実と共に廃せる風潮なのでもある。
魏志倭人伝に監察官制度の記述があるということは、
儒学や仏教の到来以前からそれがあったということ。
弥生系の日本人が箕子朝魚羊からの渡来者であるという俺の予測が正しければ、
孔子による体系化以前に存在した古代儒教の影響を受けていた可能性もなくはないが、
それもまた体系的な思想性まではまだ持ち合わせてはいなかったわけで、監察制度の充実で
国の自浄作用を保とうとする試み自体、特定の思想信条を発祥とするとも言えないものである。
もう1000年来政治腐敗が蔓延し続けている中国においても、監察制度がまだ実効性を
保っていた漢代などには不祥事にかけての引責自殺が多発し、以て政治の清浄さもまた
保たれていたと「漢書」などにあるのだけれども、その漢帝国がどういう経緯でそんな
自浄作用を保てていたのかを鑑みるに、高祖劉邦から五代文帝に至るまでの道家的な
儒学や仏教の到来以前からそれがあったということ。
弥生系の日本人が箕子朝魚羊からの渡来者であるという俺の予測が正しければ、
孔子による体系化以前に存在した古代儒教の影響を受けていた可能性もなくはないが、
それもまた体系的な思想性まではまだ持ち合わせてはいなかったわけで、監察制度の充実で
国の自浄作用を保とうとする試み自体、特定の思想信条を発祥とするとも言えないものである。
もう1000年来政治腐敗が蔓延し続けている中国においても、監察制度がまだ実効性を
保っていた漢代などには不祥事にかけての引責自殺が多発し、以て政治の清浄さもまた
保たれていたと「漢書」などにあるのだけれども、その漢帝国がどういう経緯でそんな
自浄作用を保てていたのかを鑑みるに、高祖劉邦から五代文帝に至るまでの道家的な
無為自然統治からの結果だろうということが、文帝の代で世相の清浄さが極まったとされる
(前漢の国力が最高潮に達したのは七代武帝から十代宣帝にかけての頃だといわれる)
ことからも察せられるわけで、やはりイデオロギーゼロこそがその源泉になるのだと思われる。
箕子朝魚羊や邪馬台国では、未だ体系的な政治腐敗を試みるならず者による侵害なども
なかったことから、自然と監察制度の充実なども見られたのだけれども、漢帝国などでは、
すでにそういう連中が山ほどいたために、ある程度は道家思想のような故意によってそれらを
撃退して行く必要があった。今の世界などもどちらかといえば漢帝国のほうに事情が似ているわけで、
イデオロギーゼロの実現のためにこそ、腐敗の対消滅目的の無為自然の強調が必要ともなるであろう。
(前漢の国力が最高潮に達したのは七代武帝から十代宣帝にかけての頃だといわれる)
ことからも察せられるわけで、やはりイデオロギーゼロこそがその源泉になるのだと思われる。
箕子朝魚羊や邪馬台国では、未だ体系的な政治腐敗を試みるならず者による侵害なども
なかったことから、自然と監察制度の充実なども見られたのだけれども、漢帝国などでは、
すでにそういう連中が山ほどいたために、ある程度は道家思想のような故意によってそれらを
撃退して行く必要があった。今の世界などもどちらかといえば漢帝国のほうに事情が似ているわけで、
イデオロギーゼロの実現のためにこそ、腐敗の対消滅目的の無為自然の強調が必要ともなるであろう。
12月に入り、いつも俺が聴いているネットラジオ局も毎年恒例な
怒涛のクリスマスソング特集を始めたので、聴くのをやめたのだが。
日本の12月はもはや、クリスマスに乗っ取られた状態にある。
件のラジオ局でもその他のメディアでも、スーパーでもデパートでもその他の商店でも、
「年末商戦=クリスマス」という既成概念が固定化されて、当たり前のように丸々1か月間、
延々とクリスマス一色で何もかもを塗り固めてしまおうとする。
日本におけるクリスマス文化の強制と、ライオンズやロータリーのような政商クラブの
全国への侵出がほぼ時期を一にしているし、おそらくは連中の仕業が発端なのだろうが。
日本の伝統行事にも、全国民に丸一か月間帰服を強いるようなものは存在しない。
いま禅門で行われている臘八接心でも1日から8日までの8日間だし、千日回峰のような
より長期の修行もまた一個人が自己責任で執り行うものでしかない。
怒涛のクリスマスソング特集を始めたので、聴くのをやめたのだが。
日本の12月はもはや、クリスマスに乗っ取られた状態にある。
件のラジオ局でもその他のメディアでも、スーパーでもデパートでもその他の商店でも、
「年末商戦=クリスマス」という既成概念が固定化されて、当たり前のように丸々1か月間、
延々とクリスマス一色で何もかもを塗り固めてしまおうとする。
日本におけるクリスマス文化の強制と、ライオンズやロータリーのような政商クラブの
全国への侵出がほぼ時期を一にしているし、おそらくは連中の仕業が発端なのだろうが。
日本の伝統行事にも、全国民に丸一か月間帰服を強いるようなものは存在しない。
いま禅門で行われている臘八接心でも1日から8日までの8日間だし、千日回峰のような
より長期の修行もまた一個人が自己責任で執り行うものでしかない。
国家規模の大集団が丸一か月程度の帰服を強いられる行事といえば、
たとえばイスラム教のラマダンとかがあるし、それは紛れもなく、
国家社会を完全な服従支配下に置くことを目的とした思想信教のみが試みるものである。
クリスマスもまたキリスト教に組み込まれている行事であるために(発祥は別だが)、
それと似たような志向性をともないながら、日本のような非キリスト教国にまで侵入して来ている。
別に昼夜を問わず座禅を続ける臘八接心のような苦行性を帯びているわけでもないが、
やはりそれはイデオロギーゼロの社会的達成のためには廃絶されなければならないもの。
寺社級の部分的組織で閉鎖的に行われるのならともかく、世の中全体を征服下に置くような
干渉性と共に執り行われることは、一見無害で簡易なものだろうとも禁制とせねばならない。
たとえばイスラム教のラマダンとかがあるし、それは紛れもなく、
国家社会を完全な服従支配下に置くことを目的とした思想信教のみが試みるものである。
クリスマスもまたキリスト教に組み込まれている行事であるために(発祥は別だが)、
それと似たような志向性をともないながら、日本のような非キリスト教国にまで侵入して来ている。
別に昼夜を問わず座禅を続ける臘八接心のような苦行性を帯びているわけでもないが、
やはりそれはイデオロギーゼロの社会的達成のためには廃絶されなければならないもの。
寺社級の部分的組織で閉鎖的に行われるのならともかく、世の中全体を征服下に置くような
干渉性と共に執り行われることは、一見無害で簡易なものだろうとも禁制とせねばならない。
イデオロギーゼロを企図する社会が、丸一か月間世の中全体を征服下に置くような
行事の横行を認めないことには、大メディアの解体などと同様に、
世の中の過度の中央集権化を防ぐ効果もまた見込まれる。
人口25万人やそこらの小都市である徳島市に、100万人以上の観光客を集める阿波踊りなども、
もはや全体の制御ができずに、毎年のように諸問題を頻発させている状態にあるように、
地方のイベントなどがあまりにも大規模すぎることには致命的なほどの負担がかかるもの。
年末商戦の一律なクリスマス化なども、大企業や政商クラブが全国規模のネットワークを
駆使してキャンペーンのテンプレなども流布しているからこそ維持されているものであり、
まるで金太郎飴のようにどこを切っても似たようなもの止まりであることが、
地方の特色性を損ねる文化荒廃の一大原因にもなっているものである。
地方に限らず、今の東京の渋谷や秋葉原などもまた、再開発で外見だけは未来都市然となりながらも、
文化的には画一化が進んでつまらない街へと化してしまっているように、事業が大規模である
ということがかえって、角を矯めて牛を殺すような弊害を世の中にもたらすものであるが故に、
あまりにもイベント行事が大規模化しすぎることなどにも歯止めをかけて行くべきなのである。
行事の横行を認めないことには、大メディアの解体などと同様に、
世の中の過度の中央集権化を防ぐ効果もまた見込まれる。
人口25万人やそこらの小都市である徳島市に、100万人以上の観光客を集める阿波踊りなども、
もはや全体の制御ができずに、毎年のように諸問題を頻発させている状態にあるように、
地方のイベントなどがあまりにも大規模すぎることには致命的なほどの負担がかかるもの。
年末商戦の一律なクリスマス化なども、大企業や政商クラブが全国規模のネットワークを
駆使してキャンペーンのテンプレなども流布しているからこそ維持されているものであり、
まるで金太郎飴のようにどこを切っても似たようなもの止まりであることが、
地方の特色性を損ねる文化荒廃の一大原因にもなっているものである。
地方に限らず、今の東京の渋谷や秋葉原などもまた、再開発で外見だけは未来都市然となりながらも、
文化的には画一化が進んでつまらない街へと化してしまっているように、事業が大規模である
ということがかえって、角を矯めて牛を殺すような弊害を世の中にもたらすものであるが故に、
あまりにもイベント行事が大規模化しすぎることなどにも歯止めをかけて行くべきなのである。
近頃だと、クリスマス以上にハロウィンがその問題性の深刻さを露呈しているし、
元々が西洋かぶれな旧世代であるうちの親ですら、あの乱痴気騒ぎなどを見せられて、
地方の伝統の祭りの意義深さなどを見直し始めている始末ではあるのだが。
如何せん、世の中の利権の大半以上は、そんな祭よりもクリスマスやハロウィンや
バレンタインのほうを偏重し、大メディアもまたその辺のイベントの特集ばかりを
組んで広告し、地方の祭りなどまるでないもののように扱っているのが現状である。
古来の祭りは地域密着すぎて、無責任な金儲けの具材などにしようものなら苦情が
巻き起こるのにも違いないから、舶来物の由緒なきイベントのほうをあえて重用する。
それで日本社会が潤うのならまだしも、中央集権、東京一極化で地方の衰退を招き、かえって
国力を低迷させる原因にまでなってしまっているのだから、功利面でも褒められたものではない。
諸藩の独立性が高い、緩やかな連邦制とでも呼ぶべき状態だった幕藩体制の日本だと、
江戸がやはり日本一の大都市ではあったにしろ、人口密度日本一は金沢だったりもしたというし、
その頃の地方に至るまでの国力の養生こそが、近代以降の日本の世界的な躍進の原動力となった一方、
その貯金を崩し切って、地方どころか大阪京都あたりまで冷遇下においた挙句に
人口減のマイナス成長にまで至らしめてしまったのが今という時代なのである。
元々が西洋かぶれな旧世代であるうちの親ですら、あの乱痴気騒ぎなどを見せられて、
地方の伝統の祭りの意義深さなどを見直し始めている始末ではあるのだが。
如何せん、世の中の利権の大半以上は、そんな祭よりもクリスマスやハロウィンや
バレンタインのほうを偏重し、大メディアもまたその辺のイベントの特集ばかりを
組んで広告し、地方の祭りなどまるでないもののように扱っているのが現状である。
古来の祭りは地域密着すぎて、無責任な金儲けの具材などにしようものなら苦情が
巻き起こるのにも違いないから、舶来物の由緒なきイベントのほうをあえて重用する。
それで日本社会が潤うのならまだしも、中央集権、東京一極化で地方の衰退を招き、かえって
国力を低迷させる原因にまでなってしまっているのだから、功利面でも褒められたものではない。
諸藩の独立性が高い、緩やかな連邦制とでも呼ぶべき状態だった幕藩体制の日本だと、
江戸がやはり日本一の大都市ではあったにしろ、人口密度日本一は金沢だったりもしたというし、
その頃の地方に至るまでの国力の養生こそが、近代以降の日本の世界的な躍進の原動力となった一方、
その貯金を崩し切って、地方どころか大阪京都あたりまで冷遇下においた挙句に
人口減のマイナス成長にまで至らしめてしまったのが今という時代なのである。
「流行語大賞」というイベントにしたって、
日本全体、誰しもがその言葉に慣れ親しんでいたかのような体裁での、
画一化な形式で発表しているものだから、野球偏重などが批判を浴びているわけで、
これが「老人流行語大賞」とでも銘打たれていれば少しも文句なんか出ないのである。
でも、それは嫌だし許せない連中がやっているからこそ、そうしない。
世の中を自分たちの思惑通りの一色に塗り固められなければ気が済まないような、
不埒さの持ち主たちによるイベントだから、分不相応なゴリ押しありきとなっている。
現代の大メディアが絡むところ、いくらでもそのような悪念が潜在しているし、
何ならまったく覇権的な恣意のない広告活動など、全国規模では皆無なぐらいのもの。
ゆえに、全国全土全年齢に年月レベルでの従属を強いるような試み自体、
見てくれの害悪度の高低などとも無関係に、排除されて行くべきなのである。
日本全体、誰しもがその言葉に慣れ親しんでいたかのような体裁での、
画一化な形式で発表しているものだから、野球偏重などが批判を浴びているわけで、
これが「老人流行語大賞」とでも銘打たれていれば少しも文句なんか出ないのである。
でも、それは嫌だし許せない連中がやっているからこそ、そうしない。
世の中を自分たちの思惑通りの一色に塗り固められなければ気が済まないような、
不埒さの持ち主たちによるイベントだから、分不相応なゴリ押しありきとなっている。
現代の大メディアが絡むところ、いくらでもそのような悪念が潜在しているし、
何ならまったく覇権的な恣意のない広告活動など、全国規模では皆無なぐらいのもの。
ゆえに、全国全土全年齢に年月レベルでの従属を強いるような試み自体、
見てくれの害悪度の高低などとも無関係に、排除されて行くべきなのである。
「政を為さば~必ずや名を正さん」(子路第十三・三)
今のユーキャン流行語大賞を、仮に「老人流行語大賞」などと呼べば、
それは自動的に「名を正す」ということになるし、それによって、
自分たちの思惑で世の中を征服下に置きたがるようなプロパガンダの意図も挫かれることになる。
野球好きの老人のためだけにやっているようなイベントなどを、
全国全土に当たり前のように強制流布している現状などにも非難の目が向けられて、
これまた自動的に、その規模を縮小して行くような必要にも駆られて行くであろう。
孔子が政治を任されれば、まず実行に移すとまで明言していた施策なだけあって、
それさえ厳格に執り行えば自動的に、今ここで論じているようなことも実現されてしまう。
つまり、純正な儒学の実践もまた、イデオロギーゼロの実現に資するものである。
儒者と仏僧と道者が同じ酢を吸えば、やはり全員が酸っぱがるように(三聖吸酸)、
その目指すところは同じであり、イデオロギーゼロを体制の根幹に据えるのもまたその内となるのである。
(もちろんカルト化した仏教や儒教などにはその条件を満たさないものもある)
今のユーキャン流行語大賞を、仮に「老人流行語大賞」などと呼べば、
それは自動的に「名を正す」ということになるし、それによって、
自分たちの思惑で世の中を征服下に置きたがるようなプロパガンダの意図も挫かれることになる。
野球好きの老人のためだけにやっているようなイベントなどを、
全国全土に当たり前のように強制流布している現状などにも非難の目が向けられて、
これまた自動的に、その規模を縮小して行くような必要にも駆られて行くであろう。
孔子が政治を任されれば、まず実行に移すとまで明言していた施策なだけあって、
それさえ厳格に執り行えば自動的に、今ここで論じているようなことも実現されてしまう。
つまり、純正な儒学の実践もまた、イデオロギーゼロの実現に資するものである。
儒者と仏僧と道者が同じ酢を吸えば、やはり全員が酸っぱがるように(三聖吸酸)、
その目指すところは同じであり、イデオロギーゼロを体制の根幹に据えるのもまたその内となるのである。
(もちろんカルト化した仏教や儒教などにはその条件を満たさないものもある)
笠地蔵のスレは、立てて盛り上げようと思えばできるんだよなあ。
ただ、ここではそれをなるべく避けているだけで。Q.E.D.
ただ、ここではそれをなるべく避けているだけで。Q.E.D.
プチ強制sage
来たのかな、と
来たのかな、と
赤の他人のお見合い話なんぞが
逆鱗に触れたのはどこの誰ぞや?
山姥か?
山姥か?
[YouTubeで再生]
新作のゴジラ映画が、世界規模ではシンゴジラ以上の人気を獲得。
邦画なんでポリコレ色が薄い上に、長年呪縛となって来たジャニーズの影もない
というプレーンさがそれだけでもウケやすそうな所に、作品の出来もいいと。
かつ朝ドラ「らんまん」でも人気を博した神木・浜辺コンビが主役でもあり。
この映画はまだ観てないけれども、神木隆之介はジャニタレみたいに
変に色男ぶってないのが、出演作品を非常に観やすくしてくれている。
ちゃんとジャニーズ出演作品には性加害を元凶とした不埒さが影を落として
いるが故に観づらくて不興を買って来たのだとも気づかされる。
らんまんのインタビューで、神木は友人で共演者の「志尊と身長を代わって欲しい」
なんて平気でいうぐらいに身長コンプレックスを惜しげもなく公言してたし、
超絶厚底のシークレットブーツを履いて人前に出て来るキムタクの
イキリ加減などとも対照的なところである。
元子役という、非常に失敗しやすい立場をわきまえて貞淑な活動に
徹しているようでもあるし、大メディア級の広告を介するコンテンツが、
多少大人しさを帯びただけでもこれだけマシになるのかと実感させられるもの。
人間、イキリなんてものは本来、未成年で卒業すべきなのであり、それができずに
とっちゃん坊やでいるような輩にいい思いをさせてやるようなことは避けるべきなのである。
新作のゴジラ映画が、世界規模ではシンゴジラ以上の人気を獲得。
邦画なんでポリコレ色が薄い上に、長年呪縛となって来たジャニーズの影もない
というプレーンさがそれだけでもウケやすそうな所に、作品の出来もいいと。
かつ朝ドラ「らんまん」でも人気を博した神木・浜辺コンビが主役でもあり。
この映画はまだ観てないけれども、神木隆之介はジャニタレみたいに
変に色男ぶってないのが、出演作品を非常に観やすくしてくれている。
ちゃんとジャニーズ出演作品には性加害を元凶とした不埒さが影を落として
いるが故に観づらくて不興を買って来たのだとも気づかされる。
らんまんのインタビューで、神木は友人で共演者の「志尊と身長を代わって欲しい」
なんて平気でいうぐらいに身長コンプレックスを惜しげもなく公言してたし、
超絶厚底のシークレットブーツを履いて人前に出て来るキムタクの
イキリ加減などとも対照的なところである。
元子役という、非常に失敗しやすい立場をわきまえて貞淑な活動に
徹しているようでもあるし、大メディア級の広告を介するコンテンツが、
多少大人しさを帯びただけでもこれだけマシになるのかと実感させられるもの。
人間、イキリなんてものは本来、未成年で卒業すべきなのであり、それができずに
とっちゃん坊やでいるような輩にいい思いをさせてやるようなことは避けるべきなのである。
「シンゴジラ」はすでに観ているんだけれども、
あれも監督である庵野のオールドオタクならではの鉄オタ的な
イキリ回りが作品全体を覆っていたようには思われる。
ただ、それはエヴァンゲリオンというカルト的人気を博した作品で、
相応の支持を得ていたものであるために結構なヒットにも結び付いた一方、
もうこれだけでお腹いっぱいだから、同様な実写リメイクの試みを
ウルトラマン、仮面ライダーと繰り返して行くほど尻すぼみになったもの。
麻生政権+電車男あたりから始まった、オタク文化にもそれなりの保護を試みる
という方向性の残滓で、メイド喫茶やAKB劇場でにぎわせた秋葉が風俗街化
したのなどと同様、そんなに良好な影響ばかりを与えたとも言えないもの。
自分もオーディオなどに入れ込んでいたオールドオタクだから、
最初はオタク文化が世間からの厄介者扱いを払拭して行くことに多少の好意を
抱いたりもしたものだが、それも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だったわけで、
渋谷の中心街にまでアニメの広告が爛々と輝いているような画一化のせいで、
日本社会がまたある種の閉塞を帯びてしまっていることも認めざるを得ない。
比較的、自分が親しみを抱いて来たオタク文化といえども、
やはり全国全土を征服する域の大メディアによる助けなどは必要ないと知るものである。
あれも監督である庵野のオールドオタクならではの鉄オタ的な
イキリ回りが作品全体を覆っていたようには思われる。
ただ、それはエヴァンゲリオンというカルト的人気を博した作品で、
相応の支持を得ていたものであるために結構なヒットにも結び付いた一方、
もうこれだけでお腹いっぱいだから、同様な実写リメイクの試みを
ウルトラマン、仮面ライダーと繰り返して行くほど尻すぼみになったもの。
麻生政権+電車男あたりから始まった、オタク文化にもそれなりの保護を試みる
という方向性の残滓で、メイド喫茶やAKB劇場でにぎわせた秋葉が風俗街化
したのなどと同様、そんなに良好な影響ばかりを与えたとも言えないもの。
自分もオーディオなどに入れ込んでいたオールドオタクだから、
最初はオタク文化が世間からの厄介者扱いを払拭して行くことに多少の好意を
抱いたりもしたものだが、それも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」だったわけで、
渋谷の中心街にまでアニメの広告が爛々と輝いているような画一化のせいで、
日本社会がまたある種の閉塞を帯びてしまっていることも認めざるを得ない。
比較的、自分が親しみを抱いて来たオタク文化といえども、
やはり全国全土を征服する域の大メディアによる助けなどは必要ないと知るものである。
あくまでどうしようもないゴミ男だと決めつけておきながら、
どうしてお見合いだけは成功するような論調でいるんだろうねえ?
ひょっとしておまえらが仕組んでる?
まあ、墓場のような結婚生活を自分たちが送らされているからこその、
「そこだけは成功しちまえwww」という怨念の発露かもしれないがなあ。
どうしてお見合いだけは成功するような論調でいるんだろうねえ?
ひょっとしておまえらが仕組んでる?
まあ、墓場のような結婚生活を自分たちが送らされているからこその、
「そこだけは成功しちまえwww」という怨念の発露かもしれないがなあ。
オタク文化やポルノに限らず、なんでも「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず(風姿花伝)」
という所があり、何もかもを万人に露出的に押し付けて行こうとするプロパガンダ的な
姿勢自体が自明に、文化荒廃を呼び込む害悪性を帯びているものである。
寺社なども古来より一般人立ち入り禁止の秘奥区域の存在によって神秘性を保って来たものだし、
それはただ単に雰囲気だけのことではない。一般人には見学者として立ち会うことも許されないほど
センシティブな秘法ーーごく分かりやすい所でいえば人権無視級に厳しい精進修行などもまた
介することで初めて達せられる奥義などもまた実在するために、秘することにも実用的な価値があるもの。
今でもそういう禁域を守っている流派などもなくはないけれども、今や勿体ぶって隠し立てを
しているような所に価値を見出そうともしない、潜在意識からオッカムの剃刀の論理に囚われた
単細胞の衆愚が大多数と化してしまっているが故に、その意義もさほど尊ばれることはない。
それは別に戦後に限ったことではない。
フェロノサと岡倉天心が法隆寺の秘仏を強制的に暴き出し、神社合祀令で日本中の自然が大破壊を
被っていた明治以降にはすでに始まっていたことであり、その元凶にはやはり、何もかもを顕教に
諫言することにしか価値を見出さない西洋的価値観に基づく悪癖があったのである。
という所があり、何もかもを万人に露出的に押し付けて行こうとするプロパガンダ的な
姿勢自体が自明に、文化荒廃を呼び込む害悪性を帯びているものである。
寺社なども古来より一般人立ち入り禁止の秘奥区域の存在によって神秘性を保って来たものだし、
それはただ単に雰囲気だけのことではない。一般人には見学者として立ち会うことも許されないほど
センシティブな秘法ーーごく分かりやすい所でいえば人権無視級に厳しい精進修行などもまた
介することで初めて達せられる奥義などもまた実在するために、秘することにも実用的な価値があるもの。
今でもそういう禁域を守っている流派などもなくはないけれども、今や勿体ぶって隠し立てを
しているような所に価値を見出そうともしない、潜在意識からオッカムの剃刀の論理に囚われた
単細胞の衆愚が大多数と化してしまっているが故に、その意義もさほど尊ばれることはない。
それは別に戦後に限ったことではない。
フェロノサと岡倉天心が法隆寺の秘仏を強制的に暴き出し、神社合祀令で日本中の自然が大破壊を
被っていた明治以降にはすでに始まっていたことであり、その元凶にはやはり、何もかもを顕教に
諫言することにしか価値を見出さない西洋的価値観に基づく悪癖があったのである。
秘するもの、禁域を帯びたもののの価値を認める風潮が全国に通用し、
何でもかんでも暴き出してなんぼなんていう下衆さに囚われている者は
心底見下されるのが当たり前な世の中の実現こそは、多くの思想信条がお互いへの
十全な尊重意識を持ち合わせて、順当な距離感を保つ融和のための基本条件ともなる。
しかし、西洋的価値観は宗教的か学術的かを問わずそれを許さない侵害性を
帯びているために、今のように無制限に受容している状態では決して済まされない。
江戸時代の洋学、蘭学なみに十分な警戒意識と共に制限的に受容されて、
時には大きな改変を迫られるようなこともありながらであって初めて、
他の思想信条を当たり前のように侵害して行く不埒さもまた廃されて、
お寺の秘仏を暴き出すような蛮行に義務感を抱くようなこともなくなるものである。
西洋文化というもの自体、法人税の免除目当てでやってるような新興宗教が
課税対象になった途端に雲散霧消するのと同じように、他者への侵害性を損ねられたら
もはややって行けないような劣悪さを帯びてしまっている側面もまたあるのには違いない。
うるささと共に人々を魅了して来たロック音楽などが、音量を絞ることを迫られれば、
ソフトな音楽以上に魅力をなくしてしまうが如く、西洋文化もまた侵害性の牙を
抜かれた途端に萎縮して、中には衰弱死するようなジャンルもまた出かねない。
(ロックという音楽分野自体が実際、すでにそれに近い様相を呈しているが)
何でもかんでも暴き出してなんぼなんていう下衆さに囚われている者は
心底見下されるのが当たり前な世の中の実現こそは、多くの思想信条がお互いへの
十全な尊重意識を持ち合わせて、順当な距離感を保つ融和のための基本条件ともなる。
しかし、西洋的価値観は宗教的か学術的かを問わずそれを許さない侵害性を
帯びているために、今のように無制限に受容している状態では決して済まされない。
江戸時代の洋学、蘭学なみに十分な警戒意識と共に制限的に受容されて、
時には大きな改変を迫られるようなこともありながらであって初めて、
他の思想信条を当たり前のように侵害して行く不埒さもまた廃されて、
お寺の秘仏を暴き出すような蛮行に義務感を抱くようなこともなくなるものである。
西洋文化というもの自体、法人税の免除目当てでやってるような新興宗教が
課税対象になった途端に雲散霧消するのと同じように、他者への侵害性を損ねられたら
もはややって行けないような劣悪さを帯びてしまっている側面もまたあるのには違いない。
うるささと共に人々を魅了して来たロック音楽などが、音量を絞ることを迫られれば、
ソフトな音楽以上に魅力をなくしてしまうが如く、西洋文化もまた侵害性の牙を
抜かれた途端に萎縮して、中には衰弱死するようなジャンルもまた出かねない。
(ロックという音楽分野自体が実際、すでにそれに近い様相を呈しているが)
その中核中の中核には、そもそも「文化」と呼ぶべきものすら存在しないのである。
マスゴミ「憧れるのをやめるな」
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700041833...
本当の流行語大賞は「憧れるのをやめましょう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/667fff61d7c3667662bed...
自分たちの自己顕示による征服支配の試みを挫くような不都合さを帯びているようなら、
自分たちこそがゴリ押しして来た野球の、その中でも第一のゴリ押し対象だった
大谷の名言ですら推薦対象から外してかかるのだから、そもそも野球ですらない。
ナチスや共産党による独裁支配などと同じく、最低限の文化性すら劣後しての、
独裁のための独裁、支配のための支配にこそ、プロパガンダ志向は集約される。
洋学やキリスト教もまた、潜在的なプロパガンダ志向を帯びているが故に、
それを無制限に受容し抜いた先にあるのは、人間文化そのものの否定であるからこそ、
この世の文化文明の豊潤さの保全のために、そこへの制限を怖れてはならないのである。
マスゴミ「憧れるのをやめるな」
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1700041833...
本当の流行語大賞は「憧れるのをやめましょう」
https://news.yahoo.co.jp/articles/667fff61d7c3667662bed...
自分たちの自己顕示による征服支配の試みを挫くような不都合さを帯びているようなら、
自分たちこそがゴリ押しして来た野球の、その中でも第一のゴリ押し対象だった
大谷の名言ですら推薦対象から外してかかるのだから、そもそも野球ですらない。
ナチスや共産党による独裁支配などと同じく、最低限の文化性すら劣後しての、
独裁のための独裁、支配のための支配にこそ、プロパガンダ志向は集約される。
洋学やキリスト教もまた、潜在的なプロパガンダ志向を帯びているが故に、
それを無制限に受容し抜いた先にあるのは、人間文化そのものの否定であるからこそ、
この世の文化文明の豊潤さの保全のために、そこへの制限を怖れてはならないのである。
「酒は吸うように飲んで節約せよ(手で隠したらわからんだろ)
(日本のお猪口はちびちび吸うように飲むための道具)」
(四書五経・礼記・郷飲酒儀第四十五より)
近世までは改変のひどい似非儒教による支配、
日本への併合以降も似非神道による支配とかいう、
極度に劣悪な部類の文化的教化ばかりを受けて来た朝魚羊半島こそは、
今でも最も過激派な部類のキリスト教や共産主義の極東における牙城と化しているように、
西洋文化は文化として似非、虚構であることを本質としているものである。
今でも北魚羊の報道などでよく見られる、無機質で薄ら寒い全体主義志向こそは、
他者への侵害性をほとんど不可分なまでに帯びてきた、全ての西洋文化の行き着く先である。
故にこそ、文化的な多様性を謳う自由主義諸国といえども、
ポリコレへの忖度で似たような全体主義に陥り、ハリウッドのエンタメも
世界的人気度で日本産に負けるほどの低迷に見舞われたりしているのである。
共産主義、マルクス主義は旧東側諸国だけが確信的に取り入れたものだけれども、
マルクスが弁証法を借用したヘーゲル哲学は、欧米全体が共通で受容しているもの。
そのヘーゲルの主著である「精神現象学」に、「この試みの先には大きな穴がある」
という旨の記述があるのだけれども、その晦渋な観念主義志向の記述を現実に落とし込んだ
先にあったのもそういった、「もはや文化ですらない不毛」という大穴だったわけである。
(日本のお猪口はちびちび吸うように飲むための道具)」
(四書五経・礼記・郷飲酒儀第四十五より)
近世までは改変のひどい似非儒教による支配、
日本への併合以降も似非神道による支配とかいう、
極度に劣悪な部類の文化的教化ばかりを受けて来た朝魚羊半島こそは、
今でも最も過激派な部類のキリスト教や共産主義の極東における牙城と化しているように、
西洋文化は文化として似非、虚構であることを本質としているものである。
今でも北魚羊の報道などでよく見られる、無機質で薄ら寒い全体主義志向こそは、
他者への侵害性をほとんど不可分なまでに帯びてきた、全ての西洋文化の行き着く先である。
故にこそ、文化的な多様性を謳う自由主義諸国といえども、
ポリコレへの忖度で似たような全体主義に陥り、ハリウッドのエンタメも
世界的人気度で日本産に負けるほどの低迷に見舞われたりしているのである。
共産主義、マルクス主義は旧東側諸国だけが確信的に取り入れたものだけれども、
マルクスが弁証法を借用したヘーゲル哲学は、欧米全体が共通で受容しているもの。
そのヘーゲルの主著である「精神現象学」に、「この試みの先には大きな穴がある」
という旨の記述があるのだけれども、その晦渋な観念主義志向の記述を現実に落とし込んだ
先にあったのもそういった、「もはや文化ですらない不毛」という大穴だったわけである。
たとえ、多様性を謳う修辞を利かせようとも、
その内に覇権主義的な不埒さがある以上は、こうなってしまう。
反ポリコレのロシアと、ポリコレ先進国のイスラエルなどもまた、
国を挙げて侵略、虐殺級の暴行などに及べば、全く同じ穴の狢でしかない。
しかもそれは、ポリコレを偏重するような意識こそが招来するものでもある。
必要なのは、核の炎で全世界を焼き殺すことも可能なほどの文明を持ち合わせている
人類が決して持ち合わせてはならない域の、精神の根源からの不埒さを棄てることである。
それさえ実現されたならば、ポリコレなんぞを謳わずとも、そこで被虐者扱いを
されているような人々への過度の蹂躙などもまた自然と立ちやむもの。
戦争での破壊行為などに限らず、イデオロギーやカルト信仰やプロパガンダで
他者を平和裏の征服下に置いてやろうとするような試みから控えて行けば、
それで自然と、そんなものでどうにかしてやろうとしたがるような問題から消え去る。
全ては自分たちの不埒さが招いているマッチポンプに過ぎないのだと知るべきなのである。
その内に覇権主義的な不埒さがある以上は、こうなってしまう。
反ポリコレのロシアと、ポリコレ先進国のイスラエルなどもまた、
国を挙げて侵略、虐殺級の暴行などに及べば、全く同じ穴の狢でしかない。
しかもそれは、ポリコレを偏重するような意識こそが招来するものでもある。
必要なのは、核の炎で全世界を焼き殺すことも可能なほどの文明を持ち合わせている
人類が決して持ち合わせてはならない域の、精神の根源からの不埒さを棄てることである。
それさえ実現されたならば、ポリコレなんぞを謳わずとも、そこで被虐者扱いを
されているような人々への過度の蹂躙などもまた自然と立ちやむもの。
戦争での破壊行為などに限らず、イデオロギーやカルト信仰やプロパガンダで
他者を平和裏の征服下に置いてやろうとするような試みから控えて行けば、
それで自然と、そんなものでどうにかしてやろうとしたがるような問題から消え去る。
全ては自分たちの不埒さが招いているマッチポンプに過ぎないのだと知るべきなのである。
『ゴジラ-1.0』の成功は、アクション映画の観客が宿題ではなく娯楽を求めていることを物語っている。
https://www.bbc.com/culture/article/20231205-godzi...
何かにかけて世の中の征服支配を渇望する志向性の蔓延の先には、もはや「娯楽」すらもがなくなる。
スターリンや毛沢東や金正恩の説教に耳を傾けるのが国一番の幸福とされるが如く、
アメコミや大長編ドラマへの苦行じみた勉強が楽しみ扱いになる。
勉強は勉強ですべき一方、そんな事柄とは無関係なはずの領域にまで勉強級の苦行を強いる。
近年に限らず、もうアメリカのエンタメなどはかなり前からそれに似た傾向を帯びているようで、
メジャーリーグの試合観戦のために大渋滞や大行列を何時間も我慢し続けるようなことも常識化している。
そこで支配者たちは、大衆に「憧れるのをやめるな」を守るための嬉しがり洗脳などもまた強いる。
本当に面白いものだけを楽しみ、そうでないものには公然と批判の声を挙げるような正直者は、
社会性の低い陰キャだなどといったレッテルを貼っての、つまらなさへの気付きへの妨害に躍起となる。
https://www.bbc.com/culture/article/20231205-godzi...
何かにかけて世の中の征服支配を渇望する志向性の蔓延の先には、もはや「娯楽」すらもがなくなる。
スターリンや毛沢東や金正恩の説教に耳を傾けるのが国一番の幸福とされるが如く、
アメコミや大長編ドラマへの苦行じみた勉強が楽しみ扱いになる。
勉強は勉強ですべき一方、そんな事柄とは無関係なはずの領域にまで勉強級の苦行を強いる。
近年に限らず、もうアメリカのエンタメなどはかなり前からそれに似た傾向を帯びているようで、
メジャーリーグの試合観戦のために大渋滞や大行列を何時間も我慢し続けるようなことも常識化している。
そこで支配者たちは、大衆に「憧れるのをやめるな」を守るための嬉しがり洗脳などもまた強いる。
本当に面白いものだけを楽しみ、そうでないものには公然と批判の声を挙げるような正直者は、
社会性の低い陰キャだなどといったレッテルを貼っての、つまらなさへの気付きへの妨害に躍起となる。
オーウェルの「1984」などでは、極度の監視社会化が、世の中の文化性すら廃するほどの無機質化を
招くように示唆していたけれども、監視自体は古来の目付のような清廉さと共にであれば、むしろ
文化的繁栄の立役者となるもの。そうではなく、監視によって人々の活動を極度の統制下に置こうと
するような支配欲の実現こそが、世の中の文化荒廃級の閉塞を招くのであり、それは監視行為などに
限らず、表向きエンタメを振興して行こうとするような姿勢と共にであろうとも招き得るものである。
相変わらずポリコレ忖度満載なディズニーの新作映画も爆死して、
制作陣は「何がいけなかったのかてんで分からない」とも述べているという。
ポリコレによる画一化が原因なのは分かり切っているのに、それを明言しようものなら自分自身が、
共産主義下の思想改造時のような糾弾を受けて地位を追われてしまうものだから、口が裂けても言えない。
>>115の経団連会長の「なぜ岸田政権が支持されないのか分からない」という痴呆じみた発言なども、
「大衆と利害が相反している経団連の言うことばかり聞いてるからだろ」などと指摘できるような人間が
周囲に一人もいないからこそ、こんなままでいる。自由主義経済を無制限に促進しているはずの勢力といえども、
その姿勢が征服支配的である以上は恐怖政治の様相を呈し、自分たちが望んでいるはずの経済の活性化までもが
滞る本末転倒に陥ってしまう。娯楽といいこれといい、軟派なはずの志向性までもがそうなってしまうのである。
招くように示唆していたけれども、監視自体は古来の目付のような清廉さと共にであれば、むしろ
文化的繁栄の立役者となるもの。そうではなく、監視によって人々の活動を極度の統制下に置こうと
するような支配欲の実現こそが、世の中の文化荒廃級の閉塞を招くのであり、それは監視行為などに
限らず、表向きエンタメを振興して行こうとするような姿勢と共にであろうとも招き得るものである。
相変わらずポリコレ忖度満載なディズニーの新作映画も爆死して、
制作陣は「何がいけなかったのかてんで分からない」とも述べているという。
ポリコレによる画一化が原因なのは分かり切っているのに、それを明言しようものなら自分自身が、
共産主義下の思想改造時のような糾弾を受けて地位を追われてしまうものだから、口が裂けても言えない。
>>115の経団連会長の「なぜ岸田政権が支持されないのか分からない」という痴呆じみた発言なども、
「大衆と利害が相反している経団連の言うことばかり聞いてるからだろ」などと指摘できるような人間が
周囲に一人もいないからこそ、こんなままでいる。自由主義経済を無制限に促進しているはずの勢力といえども、
その姿勢が征服支配的である以上は恐怖政治の様相を呈し、自分たちが望んでいるはずの経済の活性化までもが
滞る本末転倒に陥ってしまう。娯楽といいこれといい、軟派なはずの志向性までもがそうなってしまうのである。
[YouTubeで再生]
世界一番人気のビデオゲームGTA最新作のトレーラー動画、一瞬で一億再生超え。
強盗殺人やりたい放題という、低俗の極みな内容であることから批判も
多く受けて来ているが、これ以外で世界的な人気を誇っているゲームにも、
出来る限り銃撃戦をリアルにシミュレートしたFPSなんかが近年は非常に多いし、
日本人が創意工夫に満ちたゲームを打ち出しては世界トップ級の人気を博していた
昔と比べると、ただただグラフィックのリアルさばかりが発展し続けているだけで、
肝心の内容については、人々の原始的な暴力性を追従するばかりへと陥っているように思われる。
ただ、それもまた他者への合法非合法を問わぬ侵害侵略、征服支配こそを本分としている
西洋文化文明に何もかもが集約されているような時代にとっての、必然なのでもある。
表向き、西洋にも平和主義を訴えるような人間は多く、米民主党なども銃規制の推進を
訴えていたりはするけれども、自分は自分は、自分が自分がな我の張り通し合いで
何もかもを塗り固めてかかる西洋的な精神性の下衆さにまで反省が試みられるようなことは
未だかつてなく、譲り合いの精神に長ける日本人などに対してまで、もっと自分を主張
してかかることを勧めたりするようなお節介に及ぶことも日常茶飯事なままであるもの。
世界一番人気のビデオゲームGTA最新作のトレーラー動画、一瞬で一億再生超え。
強盗殺人やりたい放題という、低俗の極みな内容であることから批判も
多く受けて来ているが、これ以外で世界的な人気を誇っているゲームにも、
出来る限り銃撃戦をリアルにシミュレートしたFPSなんかが近年は非常に多いし、
日本人が創意工夫に満ちたゲームを打ち出しては世界トップ級の人気を博していた
昔と比べると、ただただグラフィックのリアルさばかりが発展し続けているだけで、
肝心の内容については、人々の原始的な暴力性を追従するばかりへと陥っているように思われる。
ただ、それもまた他者への合法非合法を問わぬ侵害侵略、征服支配こそを本分としている
西洋文化文明に何もかもが集約されているような時代にとっての、必然なのでもある。
表向き、西洋にも平和主義を訴えるような人間は多く、米民主党なども銃規制の推進を
訴えていたりはするけれども、自分は自分は、自分が自分がな我の張り通し合いで
何もかもを塗り固めてかかる西洋的な精神性の下衆さにまで反省が試みられるようなことは
未だかつてなく、譲り合いの精神に長ける日本人などに対してまで、もっと自分を主張
してかかることを勧めたりするようなお節介に及ぶことも日常茶飯事なままであるもの。
そこを反省もせずに平和なんかを訴えたところで、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる
ようなものでしかなく、犯罪行為にまで及ばない内でも犯罪ゲームが流行るようなことになるし、
無理にそこにだけ規制をかけたりしたところで、本物の犯罪に手を染める人間が増えたりもする。
親に連れられて唐招提寺に見学旅行に来たカナダの少年が、つまらなさ過ぎて金堂に傷をつけた
のと同じような心持ちでいる人間を増やしこそすれど、減らそうともしていない現状において、
その最終的な目的地点に、ロシアやイスラエルが今けしかけているような本物の戦争がないとも言えない。
ほとんどの人間はそれを忌み嫌ってはいるけれども、行いや姿勢は嫌でもそっちに向かった状態でいる。
人間、主張してなんぼ、行動してなんぼなんていうイキリ回りからして幼稚で忌まわしい様態であり、
何もしないのでも、何もしないまま生涯を終えるのでも満足なままでいられるぐらいの達観こそを
第一の尊重対象とし、それでもしなければならないこと、したほうがいいことに限ってやって行く
堅実さが世の中の本流に据えられるのであって初めて、行いもまた戦争や犯罪を目指しもしないことになる。
本物の犯罪は避けたいから犯罪のゲームで済ませるなんていう、ある意味では惨めな域のもどかしさに
世界中の人々が囚われている現状よりかは、武勇の側面などでもより上質な姿が期待できるあり方となる。
ようなものでしかなく、犯罪行為にまで及ばない内でも犯罪ゲームが流行るようなことになるし、
無理にそこにだけ規制をかけたりしたところで、本物の犯罪に手を染める人間が増えたりもする。
親に連れられて唐招提寺に見学旅行に来たカナダの少年が、つまらなさ過ぎて金堂に傷をつけた
のと同じような心持ちでいる人間を増やしこそすれど、減らそうともしていない現状において、
その最終的な目的地点に、ロシアやイスラエルが今けしかけているような本物の戦争がないとも言えない。
ほとんどの人間はそれを忌み嫌ってはいるけれども、行いや姿勢は嫌でもそっちに向かった状態でいる。
人間、主張してなんぼ、行動してなんぼなんていうイキリ回りからして幼稚で忌まわしい様態であり、
何もしないのでも、何もしないまま生涯を終えるのでも満足なままでいられるぐらいの達観こそを
第一の尊重対象とし、それでもしなければならないこと、したほうがいいことに限ってやって行く
堅実さが世の中の本流に据えられるのであって初めて、行いもまた戦争や犯罪を目指しもしないことになる。
本物の犯罪は避けたいから犯罪のゲームで済ませるなんていう、ある意味では惨めな域のもどかしさに
世界中の人々が囚われている現状よりかは、武勇の側面などでもより上質な姿が期待できるあり方となる。
GTAを含む今のビデオゲームを支えている最大手のグラボメーカーのCEOを、
自民党が地方の公民館みたいな場所で接待したことにも批判が上がっていたけれども。
(時価総額では日本一のトヨタをはるかに上回る準GAFA級の企業でもある)
世界中が殺し合いのリアリティを追求し抜いたゲームばかりに熱狂している実情も
ろくに知らないままでいるからこその所業。今や日本では若者も貧乏過ぎて本格的な
ビデオゲーム等にはあまり参入できず、スマホでのソシャゲに食い付いてるような状態だし、
(SONYも市場規模の貧相さから、国内でのPS5の販促に消極的であり続けていたもの)
日本全体が世界から最も乗り越されている部類のジャンルだからこその狂態にも違いないのだが。
ここから日本人までもが、殺し合い級の侵害行為ばかりに全ての志向性が集約されている
世界の潮流にそのまま乗って行くよりかは、今一度平和性にこそ魅力を感じられるような
分野の開拓者としての先導を切って行くべきであるのに違いない。
任天堂あたりは今でもそれを心がけてはいるようだが、如何せん子供向けにとどまる。
いい年しても任天堂のゲームで遊んでるようなのは幼稚、FPSでガンガン殺し合ってこそ
大人という陰惨きわまる序列関係をひっくり返せるぐらいであってこそ、
大人が子供に敬われる世の中の再来もまた叶うはずである。
自民党が地方の公民館みたいな場所で接待したことにも批判が上がっていたけれども。
(時価総額では日本一のトヨタをはるかに上回る準GAFA級の企業でもある)
世界中が殺し合いのリアリティを追求し抜いたゲームばかりに熱狂している実情も
ろくに知らないままでいるからこその所業。今や日本では若者も貧乏過ぎて本格的な
ビデオゲーム等にはあまり参入できず、スマホでのソシャゲに食い付いてるような状態だし、
(SONYも市場規模の貧相さから、国内でのPS5の販促に消極的であり続けていたもの)
日本全体が世界から最も乗り越されている部類のジャンルだからこその狂態にも違いないのだが。
ここから日本人までもが、殺し合い級の侵害行為ばかりに全ての志向性が集約されている
世界の潮流にそのまま乗って行くよりかは、今一度平和性にこそ魅力を感じられるような
分野の開拓者としての先導を切って行くべきであるのに違いない。
任天堂あたりは今でもそれを心がけてはいるようだが、如何せん子供向けにとどまる。
いい年しても任天堂のゲームで遊んでるようなのは幼稚、FPSでガンガン殺し合ってこそ
大人という陰惨きわまる序列関係をひっくり返せるぐらいであってこそ、
大人が子供に敬われる世の中の再来もまた叶うはずである。
近頃、個人的にCGソフトのBlenderをつついたりもしてるんだが、
基本的な操作は思ったほど難しくない。ただ、近年のハイエンドゲームや
洋画で駆使されているような高精細CGの作製には、膨大な作業量が
必要になるのがすぐに分かるんで、やはり生半ではいかないんだなと感じる。
あれは、膨大な人数のインド人や中国人のモデラーを動員することで
初めて形になっているものであって、日本ではそのような下請けの人海戦術を駆使する体制が整っては
いないものだから、ゲームにしろその他の映像作品にしろ、CGクオリティが段違いに低いままでいる。
仮に、ハリウッドなどでは整っているその手の下請けインフラを日本人が駆使できるようになれば、
邦画や国産ゲーム等のクオリティも息を吹き返しての、世界トップ級の人気を取り戻せるだろうけれども、
安易な殺し合いやそれに準ずるような争いばかりに多くの人間が心酔している現状の世界的潮流に
そのまま乗っかてみたところで、別に今作られているもの以上の何かが得られることもないだろう。
(せいぜい美少年美少女キャラの人数が増えるぐらいのことである)
基本的な操作は思ったほど難しくない。ただ、近年のハイエンドゲームや
洋画で駆使されているような高精細CGの作製には、膨大な作業量が
必要になるのがすぐに分かるんで、やはり生半ではいかないんだなと感じる。
あれは、膨大な人数のインド人や中国人のモデラーを動員することで
初めて形になっているものであって、日本ではそのような下請けの人海戦術を駆使する体制が整っては
いないものだから、ゲームにしろその他の映像作品にしろ、CGクオリティが段違いに低いままでいる。
仮に、ハリウッドなどでは整っているその手の下請けインフラを日本人が駆使できるようになれば、
邦画や国産ゲーム等のクオリティも息を吹き返しての、世界トップ級の人気を取り戻せるだろうけれども、
安易な殺し合いやそれに準ずるような争いばかりに多くの人間が心酔している現状の世界的潮流に
そのまま乗っかてみたところで、別に今作られているもの以上の何かが得られることもないだろう。
(せいぜい美少年美少女キャラの人数が増えるぐらいのことである)
別に、戦いを一切否定した上での創作ばかりに勤めるべきだというのでもない。
戦いの中にも、最終的な平和や繁栄の実現こそを企図して行くような仁義を伴わせることで、
人々に冷酷な現実の中においてもその心を失わせない情操を養わせて行くようにするなど。
今のハリウッド映画などでも多少は試みられているが、あまりにも取って付けたような
偽善止まりに終始するあまり、説教臭くて見てられないなどという批判を受ける原因にもなっている。
そこにこそ最大級のエンターテイメント性を盛り込んで、人々を楽しませながら篤実な性向へと
導くことができるのはひとえに、本物の仁慈、菩提心を帯びた者だけであるのだし、今でもまだその素養に
日本人こそが世界一級に長けているといえども、今以上への精進もまた怠ってはならないものである。
現状のCG関係の下請けインフラなどは英語の人間関係で構築されているものだから、
まずは英語を勉強しなければならないなんていう義務感にも駆られかねないが、
NVIDIAのCEOをボロ部屋に招いた岸田も英語ペラペラなことだし、
そんなことよりもはるかに心がけるべきことが他にあるとも知れるわけである。
戦いの中にも、最終的な平和や繁栄の実現こそを企図して行くような仁義を伴わせることで、
人々に冷酷な現実の中においてもその心を失わせない情操を養わせて行くようにするなど。
今のハリウッド映画などでも多少は試みられているが、あまりにも取って付けたような
偽善止まりに終始するあまり、説教臭くて見てられないなどという批判を受ける原因にもなっている。
そこにこそ最大級のエンターテイメント性を盛り込んで、人々を楽しませながら篤実な性向へと
導くことができるのはひとえに、本物の仁慈、菩提心を帯びた者だけであるのだし、今でもまだその素養に
日本人こそが世界一級に長けているといえども、今以上への精進もまた怠ってはならないものである。
現状のCG関係の下請けインフラなどは英語の人間関係で構築されているものだから、
まずは英語を勉強しなければならないなんていう義務感にも駆られかねないが、
NVIDIAのCEOをボロ部屋に招いた岸田も英語ペラペラなことだし、
そんなことよりもはるかに心がけるべきことが他にあるとも知れるわけである。
いま世界的にヒットしてアカデミー賞候補にもなっている新作のゴジラも、
特別変なメッセージ性などもないプレーンさがウケているというけれども、
その自然に入って来てただ面白いという感覚自体、他者への侵害志向を滾らせる
不埒さを十全に抑制してかかるという篤実さによってこそ実現されているものである。
黒澤映画なども、今でこそ歴史的名作扱いで権威性まで認められているものだが、
いざ観てみれば別に説教臭い所などもなく、ただただ面白いエンタメ作品としての条件
までをも満たしているものばかりである。しかしそのストレートな面白さのためにこそ、
監督脚本や出演者たちの、不埒な域の我欲の自制がなければならないのである。
まず以て、変な意図を持たずにシラフで物事を見定められることが、何が面白くて
なにがつまらないのかを厳格に見極めて、面白いものを抽出するための大前提ともなる。
黒澤明も画像のような、古流の居合術由来の剣技などを見た目にも格好いいものと認めて
殺陣に取り入れたりしたのだけれども。今の武道連盟系(元締めは統一教会の弁護士)の
居合道などは、居合からもなるべく実戦性をそぎ落としたいがために、刀を上に抜くような
技法を排し、本物の居合では必須とされているような神速の動きなども禁止している始末。
特別変なメッセージ性などもないプレーンさがウケているというけれども、
その自然に入って来てただ面白いという感覚自体、他者への侵害志向を滾らせる
不埒さを十全に抑制してかかるという篤実さによってこそ実現されているものである。
黒澤映画なども、今でこそ歴史的名作扱いで権威性まで認められているものだが、
いざ観てみれば別に説教臭い所などもなく、ただただ面白いエンタメ作品としての条件
までをも満たしているものばかりである。しかしそのストレートな面白さのためにこそ、
監督脚本や出演者たちの、不埒な域の我欲の自制がなければならないのである。
まず以て、変な意図を持たずにシラフで物事を見定められることが、何が面白くて
なにがつまらないのかを厳格に見極めて、面白いものを抽出するための大前提ともなる。
黒澤明も画像のような、古流の居合術由来の剣技などを見た目にも格好いいものと認めて
殺陣に取り入れたりしたのだけれども。今の武道連盟系(元締めは統一教会の弁護士)の
居合道などは、居合からもなるべく実戦性をそぎ落としたいがために、刀を上に抜くような
技法を排し、本物の居合では必須とされているような神速の動きなども禁止している始末。
だからこそ格好悪く、ヨボヨボの年寄りが金カネで段位を買うのが本位みたいな醜態にも
陥っているのだが、それは本質的に殺し合いの技法であるものに対してまで、場違いな
戦闘アレルギーを持ち込むような不埒な意図が込められているがゆえの自業自得なのである。
戦いのための技法にはそれなりの実戦性を持たせて、その扱い方が殊更に好戦的だったりしない
ように勤めることのほうが真に平和への貢献ともなるのであり、その条件は今の居合道や剣道
なんかよりも、黒澤映画や鬼滅みたいな漫画アニメのほうがまだ満たしているものである。
だからこそ純粋に格好良くて面白い上に、日本の世界的評価を高める貢献者としての
度合いでも、バラマキしか能がない統一自民などをはるかに上回るものとなっている。
いま普通に「武道精神」とか呼ばれているものには、武術をあえて無力化したがるような、
不埒な意図が込められているのがデフォであるために、それと比べると暴力的な側面が
強かったりもして、体力の衰え切った年寄りなどが眉を顰めるような面もあるのだけれども、
それでもこの世における殺し合いの連鎖を断ち切ろうとする側が、増長させようとする側に
立ち向かって行く姿こそを主体的に描き抜いているような点では、今いう武道精神の持主などを
はるかに上回るものであり、現実的な平和や繁栄への貢献度でも上であり、なおかつ純粋に
格好良くて面白い。いいとこづくめといいとこなしの雌雄しか、そこには見当たらないのである。
陥っているのだが、それは本質的に殺し合いの技法であるものに対してまで、場違いな
戦闘アレルギーを持ち込むような不埒な意図が込められているがゆえの自業自得なのである。
戦いのための技法にはそれなりの実戦性を持たせて、その扱い方が殊更に好戦的だったりしない
ように勤めることのほうが真に平和への貢献ともなるのであり、その条件は今の居合道や剣道
なんかよりも、黒澤映画や鬼滅みたいな漫画アニメのほうがまだ満たしているものである。
だからこそ純粋に格好良くて面白い上に、日本の世界的評価を高める貢献者としての
度合いでも、バラマキしか能がない統一自民などをはるかに上回るものとなっている。
いま普通に「武道精神」とか呼ばれているものには、武術をあえて無力化したがるような、
不埒な意図が込められているのがデフォであるために、それと比べると暴力的な側面が
強かったりもして、体力の衰え切った年寄りなどが眉を顰めるような面もあるのだけれども、
それでもこの世における殺し合いの連鎖を断ち切ろうとする側が、増長させようとする側に
立ち向かって行く姿こそを主体的に描き抜いているような点では、今いう武道精神の持主などを
はるかに上回るものであり、現実的な平和や繁栄への貢献度でも上であり、なおかつ純粋に
格好良くて面白い。いいとこづくめといいとこなしの雌雄しか、そこには見当たらないのである。
任天堂実質創業者、山内溥の名言集
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6086434.htm...
このヒトの予見がだいたい当たってた上で、その危惧が現実化した結果、
高精細の「映画みたいなゲーム」と、課金廃人を量産するスマホゲーなんかに
大人向けのゲームが集約されて、任天堂は子供向けに特化するようになったわけだ。
大人のほうが余計にろくでもないゲームだけやってるぐらいだから、
子供が大人を敬うこともなければ、大人になりたがることもない。
そもそも大人がゲームなんかに夢中になることが幼稚だとも言えなくもないが、
世界中がVRの開発を一大事業と見なしたりもしている中で、もうそんなことも
言ってられない事情もあった上でのことなのだから、陰惨窮まるものである。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6086434.htm...
このヒトの予見がだいたい当たってた上で、その危惧が現実化した結果、
高精細の「映画みたいなゲーム」と、課金廃人を量産するスマホゲーなんかに
大人向けのゲームが集約されて、任天堂は子供向けに特化するようになったわけだ。
大人のほうが余計にろくでもないゲームだけやってるぐらいだから、
子供が大人を敬うこともなければ、大人になりたがることもない。
そもそも大人がゲームなんかに夢中になることが幼稚だとも言えなくもないが、
世界中がVRの開発を一大事業と見なしたりもしている中で、もうそんなことも
言ってられない事情もあった上でのことなのだから、陰惨窮まるものである。
もう一つ、この人の発言で特筆すべきだと思うのが、
「(経営が好きなんですねと言われて)好きなんじゃなくて、
得意だからやってる。好きでやるのはロクな事にならない」というので、
これもまた戦後世代の日本人には根こそぎ奪われ去ってしまったような感覚。
何もかもを好き嫌いに還元すれば、嫌な仕事をする人間がいなくなる上に、
世の中全体が私は俺がな我の張り通し合いからの不毛な争いにも見舞われる。
その結果が、戦後世代で占められた日本社会の30年にわたる低迷の上に、
世界規模でもろくでもない殺人ゲーばかりが流行るような事態となっている。
大人向けで創意工夫にあふれた面白いゲームなどもなくなった結果、
ゲーマーも退屈さのせいでストレスを溜め、そのストレスの発散のために、
どぎつい殺人などを主体とした過激なゲームばかりを求めるようになる悪循環。
宮崎駿もアニメ制作を「好きだからって出来るもんじゃない。才能がないと」
と言っていたものだし、それぞれの才覚による適材適所以上に、個人的な好き嫌いばかりが
優先された先にあったのが、たとえばゲーム業界においてはそのような暗転だったのである。
「(経営が好きなんですねと言われて)好きなんじゃなくて、
得意だからやってる。好きでやるのはロクな事にならない」というので、
これもまた戦後世代の日本人には根こそぎ奪われ去ってしまったような感覚。
何もかもを好き嫌いに還元すれば、嫌な仕事をする人間がいなくなる上に、
世の中全体が私は俺がな我の張り通し合いからの不毛な争いにも見舞われる。
その結果が、戦後世代で占められた日本社会の30年にわたる低迷の上に、
世界規模でもろくでもない殺人ゲーばかりが流行るような事態となっている。
大人向けで創意工夫にあふれた面白いゲームなどもなくなった結果、
ゲーマーも退屈さのせいでストレスを溜め、そのストレスの発散のために、
どぎつい殺人などを主体とした過激なゲームばかりを求めるようになる悪循環。
宮崎駿もアニメ制作を「好きだからって出来るもんじゃない。才能がないと」
と言っていたものだし、それぞれの才覚による適材適所以上に、個人的な好き嫌いばかりが
優先された先にあったのが、たとえばゲーム業界においてはそのような暗転だったのである。
死ぬ直前のご老人がちょっとだけ元気になる現象、あれなんだろうね?
何かやり残したことがある未練からの…?
何かやり残したことがある未練からの…?
好き嫌いばかりに全てを還元すれば、世の中つまらなくなる。
「愛してその悪を知り、憎んでその善を知る(礼記)」というほどにも、
愛憎を突き放して物事を考えられる冷徹さこそが、世の秩序を安定させるのみならず、
適材適所な人事によるエンタメ振興で、世の中をより楽しくする原動力ともなる。
高祖劉邦が楚漢戦争後の群臣への論功行賞に悩んでいた時に、
張良が「陛下が最も嫌いな者から恩賞を与えてみてください」と助言し、
劉邦もそれに従って、最も嫌いで裏切り経験もある雍歯への褒賞を最優先したという。
それにより朝廷や諸国もまたよく治まり、誰しもが圧政に苦しんでいた秦代などとは
打って変わって、日夜市中での宴会までもが繰り広げられるようになったという。
街頭での飲酒なんかは基本、世界中で禁止されているし、近年では日本でも渋谷などで
部分的に規制する動きがあるわけだが、世の中じゅうが悪念でまみれているせいで、
路上飲酒なんて認めようものなら暴動にでも発展しかねないような世相では、やむなきこと。
全国総出でのヘイトコントロールが十分な世の中でもなければ認められることではない。
それは、愛憎に囚われない責務を最上級の支配者から最大限に果たし抜いた世の中においてのみ
実現されることで、もはや世界一平和な国であるここ日本ですら損なわれてしまった条件。
「愛してその悪を知り、憎んでその善を知る(礼記)」というほどにも、
愛憎を突き放して物事を考えられる冷徹さこそが、世の秩序を安定させるのみならず、
適材適所な人事によるエンタメ振興で、世の中をより楽しくする原動力ともなる。
高祖劉邦が楚漢戦争後の群臣への論功行賞に悩んでいた時に、
張良が「陛下が最も嫌いな者から恩賞を与えてみてください」と助言し、
劉邦もそれに従って、最も嫌いで裏切り経験もある雍歯への褒賞を最優先したという。
それにより朝廷や諸国もまたよく治まり、誰しもが圧政に苦しんでいた秦代などとは
打って変わって、日夜市中での宴会までもが繰り広げられるようになったという。
街頭での飲酒なんかは基本、世界中で禁止されているし、近年では日本でも渋谷などで
部分的に規制する動きがあるわけだが、世の中じゅうが悪念でまみれているせいで、
路上飲酒なんて認めようものなら暴動にでも発展しかねないような世相では、やむなきこと。
全国総出でのヘイトコントロールが十分な世の中でもなければ認められることではない。
それは、愛憎に囚われない責務を最上級の支配者から最大限に果たし抜いた世の中においてのみ
実現されることで、もはや世界一平和な国であるここ日本ですら損なわれてしまった条件。
ラブ&ピースなんてのは世紀の大ウソで、日本でその実現を試みた統一教会が、
信者間でも全国規模でも憎悪まみれの人間関係ばかりをもたらしたように、
むしろそのせいで、大多数一般の社会構造は憎悪による荒廃のほうが主流となる。
反ベトナム戦争に端を欲したウッドストック世代のロックミュージシャンなどもまた、
ラブ&ピースを一番の理念に掲げていたわけだが、いつまでも自分たちだけで
名声利権を牛耳り続けたために、時代を重ねるほど後継者が育たなくて、
ロックというジャンル自体が尻すぼみの窮状に見舞われ、ブッシュJr.政権による
イラク戦争の強行と共にほぼ死滅したが如く、愛による世の征服を謳う者は、
その酩酊による視野の狭量さのせいで多くの人々の権益を蔑ろにし、
自業自得での衰亡に見舞われることが免れ得ないもの。
それよりはむしろ、最大級の嫌悪の対象となるような相手にまで最低限以上の権益を
保証するような姿勢のほうが、平和や繁栄を着実に実現して行く手立てとなるもの。
愛でも酒でも、まず自分が酔うより、赤の他人や嫌いな相手までその楽しみに与れることを
尊ぶことで、初めて誰しもに行き渡るものであるが故、むしろ本位からは遠ざけるのである。
信者間でも全国規模でも憎悪まみれの人間関係ばかりをもたらしたように、
むしろそのせいで、大多数一般の社会構造は憎悪による荒廃のほうが主流となる。
反ベトナム戦争に端を欲したウッドストック世代のロックミュージシャンなどもまた、
ラブ&ピースを一番の理念に掲げていたわけだが、いつまでも自分たちだけで
名声利権を牛耳り続けたために、時代を重ねるほど後継者が育たなくて、
ロックというジャンル自体が尻すぼみの窮状に見舞われ、ブッシュJr.政権による
イラク戦争の強行と共にほぼ死滅したが如く、愛による世の征服を謳う者は、
その酩酊による視野の狭量さのせいで多くの人々の権益を蔑ろにし、
自業自得での衰亡に見舞われることが免れ得ないもの。
それよりはむしろ、最大級の嫌悪の対象となるような相手にまで最低限以上の権益を
保証するような姿勢のほうが、平和や繁栄を着実に実現して行く手立てとなるもの。
愛でも酒でも、まず自分が酔うより、赤の他人や嫌いな相手までその楽しみに与れることを
尊ぶことで、初めて誰しもに行き渡るものであるが故、むしろ本位からは遠ざけるのである。
近年の日本だと、愛知県や愛媛県のような、県名に「愛」の入っている地方が、
全国でもトップ級の奴隷労働の本場と化してしまっているといった現象も見られる。
個人的に、愛媛の人々とはそこそこの交流経験があるのだが、
実際、県名のせいか「愛」を信条に掲げて生きているような人間も多い。
それは、内輪に対しては大変な親睦を育む原動力ともなっているようで、愛媛県こそは
日本でもトップ級に公立校に至るまでの教育が充実し、県民総出を挙げて頭がよく、
47都府県中最も人口当たりのノーベル賞受賞者数が多い県ともなっているのだが。
その性向が、いざ愛し合いの範疇から外れた途端に並外れた冷酷さへと転じ、
外国人実習生への死傷級のブラック労役のほか、詐欺じみたセミナーなどで他所の人間を
たぶらかして暴利を巻き上げるような知能的悪行にも結び付いている場合が多い。
全国でもトップ級の奴隷労働の本場と化してしまっているといった現象も見られる。
個人的に、愛媛の人々とはそこそこの交流経験があるのだが、
実際、県名のせいか「愛」を信条に掲げて生きているような人間も多い。
それは、内輪に対しては大変な親睦を育む原動力ともなっているようで、愛媛県こそは
日本でもトップ級に公立校に至るまでの教育が充実し、県民総出を挙げて頭がよく、
47都府県中最も人口当たりのノーベル賞受賞者数が多い県ともなっているのだが。
その性向が、いざ愛し合いの範疇から外れた途端に並外れた冷酷さへと転じ、
外国人実習生への死傷級のブラック労役のほか、詐欺じみたセミナーなどで他所の人間を
たぶらかして暴利を巻き上げるような知能的悪行にも結び付いている場合が多い。
今の日本は、全国的には逆に社会規模での仁愛が極度に殺がれている状態だから、
愛を重んずる地方の人々が、総出での教育の充実で平均知能を相対的に高めていたりもするわけで、
そこにある程度は見習うべき所もまたあるのだけれども、それが内輪だけの狭隘さに止まって
いるせいで、よそ者への危害を増長させてしまっていたりするのはやはり考えものである。
社会全体に通用する愛もまた、扱いようによっては好影響をもたらし得るものではあるが、
その弊害もまた大きいものであるために、全てを愛に還元するなどとまで行くのは
避けるべきであり、少なからず限定的である心がけもまたあって然るべきなのである。
愛を重んずる地方の人々が、総出での教育の充実で平均知能を相対的に高めていたりもするわけで、
そこにある程度は見習うべき所もまたあるのだけれども、それが内輪だけの狭隘さに止まって
いるせいで、よそ者への危害を増長させてしまっていたりするのはやはり考えものである。
社会全体に通用する愛もまた、扱いようによっては好影響をもたらし得るものではあるが、
その弊害もまた大きいものであるために、全てを愛に還元するなどとまで行くのは
避けるべきであり、少なからず限定的である心がけもまたあって然るべきなのである。
愛知県などは、近年は大阪神戸を上回る山口組系暴力団の本拠地ともなっているという。
神の愛を謳うキリスト教の創始者であるイエスもまた、当人自身の言動にも反社会的な
要素が多く見られるうえ、自らが冤罪で処刑されるのと引き換えに強盗強姦殺人犯のバラバ等を
無罪放免にさせて世に解き放つという、反社会性極まる暴挙で多くからの支持を得たもの。
愛が世の全てを覆い尽くしたりする所には必ずや、私で公を蔑ろにする反社会性が伴うもの。
最低賃金を下回るようなブラック労働や、信者を破産に追い込むような巨額の教団への献金
などもまた、闇バイトや教団関係者への暗殺をも正当化させかねないような公共の秩序への
挑戦になっている上、それらこそは愛を並外れて偏重する者たちが企てる暴挙でもある。
キリスト教国の南米諸国やブラックアフリカ諸国こそは、世界でもトップ級に凶悪犯罪や
戦乱の蔓延る地域ともなっているし、愛という名目による社会への支配には反社会性が
付き物であるが故に、その恩恵もまたなくはないにしたって控えるべきだと言えるのである。
神の愛を謳うキリスト教の創始者であるイエスもまた、当人自身の言動にも反社会的な
要素が多く見られるうえ、自らが冤罪で処刑されるのと引き換えに強盗強姦殺人犯のバラバ等を
無罪放免にさせて世に解き放つという、反社会性極まる暴挙で多くからの支持を得たもの。
愛が世の全てを覆い尽くしたりする所には必ずや、私で公を蔑ろにする反社会性が伴うもの。
最低賃金を下回るようなブラック労働や、信者を破産に追い込むような巨額の教団への献金
などもまた、闇バイトや教団関係者への暗殺をも正当化させかねないような公共の秩序への
挑戦になっている上、それらこそは愛を並外れて偏重する者たちが企てる暴挙でもある。
キリスト教国の南米諸国やブラックアフリカ諸国こそは、世界でもトップ級に凶悪犯罪や
戦乱の蔓延る地域ともなっているし、愛という名目による社会への支配には反社会性が
付き物であるが故に、その恩恵もまたなくはないにしたって控えるべきだと言えるのである。
今日の昼、NHK-BSでJ.ディーン主演「エデンの東」をやってたんで、
批判的視聴の対象とする目的で初めて観てみたんだが(もちろん受信料抜きで)、
思いのほか上の話とも符合しまくってる内容だったんで、寸評してみよう。
(以下ネタバレ注意)
今風に言えば、母親からの遺伝で強度行動障害系の発達障害を患っている次男が、
敬虔なキリスト教徒である父親に溺愛されている長男を乗り越えて行くお話。
当時はまだ精神病理への理解も進んでいなかった(今も大してだが)ことから、
主人公の無鉄砲さがヤンキーの根本聖典としての熱狂的な支持を得ていたわけだが、
そこにあやかった団塊以下の戦後日本人もろくな人種にならなかったわけで、
ちゃんとあれも病気の一種だったのだと断罪され直す必要があるといえる。
ただ、主人公が反発していた父親の「正しさ」もまた、キリスト教のような
カルト信仰に基づく独善性を帯びていたわけで、そこが五十歩百歩だというのもまた
確かなことだし、団塊からバブル世代あたりにとっての親世代である戦前世代の
日本人もまた、国家神道によってカルト的な独善性を植え付けられていたのを思えば、
当時はそこに十全な配慮の行き届いた裁きを下せなかった側面があるのも分かる。
ただその結果、戦後日本人の多くに似たような行動障害が植え付けられた上に、
それこそがヤンキーとしての格好いい在り方だなどと正当化される原因ともなった。
批判的視聴の対象とする目的で初めて観てみたんだが(もちろん受信料抜きで)、
思いのほか上の話とも符合しまくってる内容だったんで、寸評してみよう。
(以下ネタバレ注意)
今風に言えば、母親からの遺伝で強度行動障害系の発達障害を患っている次男が、
敬虔なキリスト教徒である父親に溺愛されている長男を乗り越えて行くお話。
当時はまだ精神病理への理解も進んでいなかった(今も大してだが)ことから、
主人公の無鉄砲さがヤンキーの根本聖典としての熱狂的な支持を得ていたわけだが、
そこにあやかった団塊以下の戦後日本人もろくな人種にならなかったわけで、
ちゃんとあれも病気の一種だったのだと断罪され直す必要があるといえる。
ただ、主人公が反発していた父親の「正しさ」もまた、キリスト教のような
カルト信仰に基づく独善性を帯びていたわけで、そこが五十歩百歩だというのもまた
確かなことだし、団塊からバブル世代あたりにとっての親世代である戦前世代の
日本人もまた、国家神道によってカルト的な独善性を植え付けられていたのを思えば、
当時はそこに十全な配慮の行き届いた裁きを下せなかった側面があるのも分かる。
ただその結果、戦後日本人の多くに似たような行動障害が植え付けられた上に、
それこそがヤンキーとしての格好いい在り方だなどと正当化される原因ともなった。
気性の激しさ自体は、古来よりの日本人の持ち前といえども、そこに疾患級の
分別のなさが加われば、もはや有害鳥獣に毛が生えたような暴徒止まりとなるわけで、
日本人にとって特別に相性の悪い情操があえて植え付けられたものだともしれる。
この作品の主要なテーマはやはり「愛」であり、主人公の父親の子愛のなさが
親子の軋轢の元凶だったように描かれているけれども、その原因となっていたはずの
キリスト信仰はむしろ愛を重んじている部類の宗教である。にもかかわらずではなく
だからこそ、狂信者が長男ばかりを偏愛して次男を冷遇するような事態をも呈しているもの。
愛を主たるポリシーに据える者ほど、偏愛で疎外の対象を増すものであるが故に、
この世には愛もまた必要なものであるといえども、全ての本尊にまで据えるべきではない。
どうしてもそうせざるを得ないような人間は、人の上に立とうともすべきではない。
WWⅠ中に地元で徴兵事務を任されていた父親が、戦争特需への投資で儲けた
主人公からの金カネをもらうことに拒絶感を示すシーンなどは、主人公の発達ならではの
思慮のなさも問題なら、そんな重大な仕事を請け負うにも値しないほど人間ができてない、
カルト信者としての父親のあり方も問題という、両成敗事案だったわけである(ネタバレ終わり)。
分別のなさが加われば、もはや有害鳥獣に毛が生えたような暴徒止まりとなるわけで、
日本人にとって特別に相性の悪い情操があえて植え付けられたものだともしれる。
この作品の主要なテーマはやはり「愛」であり、主人公の父親の子愛のなさが
親子の軋轢の元凶だったように描かれているけれども、その原因となっていたはずの
キリスト信仰はむしろ愛を重んじている部類の宗教である。にもかかわらずではなく
だからこそ、狂信者が長男ばかりを偏愛して次男を冷遇するような事態をも呈しているもの。
愛を主たるポリシーに据える者ほど、偏愛で疎外の対象を増すものであるが故に、
この世には愛もまた必要なものであるといえども、全ての本尊にまで据えるべきではない。
どうしてもそうせざるを得ないような人間は、人の上に立とうともすべきではない。
WWⅠ中に地元で徴兵事務を任されていた父親が、戦争特需への投資で儲けた
主人公からの金カネをもらうことに拒絶感を示すシーンなどは、主人公の発達ならではの
思慮のなさも問題なら、そんな重大な仕事を請け負うにも値しないほど人間ができてない、
カルト信者としての父親のあり方も問題という、両成敗事案だったわけである(ネタバレ終わり)。
ビルゲイツ「インターネットは世界を合理的にすると思ったが実際は変人の溜まり場になった」
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/10486956.htm...
ここでも嫌というほど思い知らされているこの現象。
ネットの普及と共に人類の平均知能も下がったらしいという試算もあるし、
元来が学術振興を目的としていたネットの一般社会への普及が、
むしろ低能同士の馴れ合いばかりを促進してしまったのは皮肉なものである。
他でも少し話したけれども、たとえばYouTubeで学術動画なんかを漁ってみても、
視聴者の奇をてらうような特殊な知識の動画ばかりが目に付いて、
深海魚に対する魚一般のような基礎知識のほうがいつまでも育たない。
結果、知識を単なるトリビア以上のものとして有効活用するための知恵も育まれない。
そのため、本当に知的好奇心もなくただ馴れ合いを好んでいるだけの愚者に限らず、
それなりに勉強意欲のあるような人間までもが「小人の学」に終始する小物となってしまう。
(体力的に劣勢な男が昔は知恵者となっていた一方、今は弱者男性止まりの場合が多いように)
Windows95や初期iPhoneの発売時には、夢と希望ばかりと共に迎えられていたネット文化も、
GAFAMが超国家規模の大権を確立した頃にはもはや食傷の域に達したものであるが、
かといって未だに「ポストIT」が本気で模索される動きがみられているわけでもない。
「デジタルデトックス」などといって、一定期間ITから距離を置く習慣を身に付けるのが
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
一部で推奨されていたりもするけれども、別にそこで真新しいことをやってみるわけでもなく、
だいたいが児戯止まりとなっての、ネットの泥沼への出戻りに陥ってしまうものである。
ネットから距離を置けて、なおかつ文武両面において高度であることに取り組むことで
初めて、情報共有の道具としてのネットの適正な扱いにもまた立ち戻れるところがある。
ただ遊ぶ、スポーツで体を動かすなんかではなく、逆にネットでの情報検索が部分的な助けに
なるほど知的な高度さをも帯びながら、ディスプレイから目をそらしている必要性もまた
相応に存在するような取り組みこそが、ネットが存在する時代における健全性の極みとなる。
実践性が高い良書の読書でも、よく頭を使わなければ出来ない部類の運動でも、その条件を
満たしている取り組みはいくらでもあるけれども、やはり古来の東洋文化に特に多い物でもある。
未だに非ネットネイティブの旧世代が幅を利かせているせいで、逆により一層のデジタル化
なんてものが国を挙げて謳われている日本などからすれば周回遅れで一等賞になれそうな話
ではあるけれども、その旧世代が西洋かぶれだらけなものだからそうもいかないところである。
デジタルデトックスにそれなりの求道性を持たせることもまた、
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
そこそこ程度には試みられているものだが、それも決して十分なものではなく、
まさに「焼け石に水」という段階でしかないのが実情である。
まず以て、だからこそ「スマホを棄てて~」的な謳い文句と共に試みられる。
それ自体がネット漬けよりも本当に面白くて有意義であるようなら、
ネットから距離を置いたりせずとも、鉄がより強い磁石に引き付けられる
ようにしてそちらへと乗り移って行くものだが、そこまでの魅力はないと
暗に認めているが故に、まずネット絶ちを大前提とするのでもなければならない。
ネット禁止級の求道もまた、それはそれで試みられていいものではあるが、
もはやそれはデジタルデトックスなんて域ではなく、求道の原器の確立のためのもの。
本格の出家者でもない一般人が試みるべきなのはむしろ、ネット利用などとも
並行することで、ネット以上の領域が存在することに気づくことである。
それは、可能か不可能かでいえば可能なことである。
特に、ネットのせいで馬鹿が増えているような時代であることもまた、
その実現を後押しする気概になってくれるものであるけれども。
ただ、やはり簡単とまでは行かない。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
特に文武分裂、文科系か体育会系かばかりに全ての人間性を還元する性分が
心底根付いてしまっているような現代人にとっては、その性分からの脱却を
まず要求される領域であるために、大変な困難をも伴うのに違いない。
また、本格の出家修行者とまで行かずとも、ポストITの領域にネット以上の意義を
見出すためには、時に自らへの人権無視級の荒行までもが必要となるものである。
真っ当なヨガ行や武芸の技法に基づけば、悪性の致命傷を負ったりすることはないにしろ、
自分自身を殺してかかるぐらいの覇気を持って荒行に取り組むことで、初めてそれが
会得されるようなこともあるし、そこでやり方を間違えて大怪我をするようなこともある。
そこでいちいち人権尊重社会ならではの心情的な甘やかしまでをも保ってはいられないし、
なおかつそこで十分な求道を果たせるのは、残念ながら男女のうちでは男だけだから、
男を女以上の生き物として尊ばねばならないような反現代的側面までをも帯びるものである。
だいたいが、カルトやカルト的なセミナーほど、まず女を釣ってかかるという特徴もある。
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
本物のヨガや武芸などは、男にしかできないような強度の荒行なども踏まえた上で、
そこで男たちが蓄えた知見を女たちにも分け与えて行くような指針を持ち合わせているために、
どうしたって男尊女卑的な雰囲気を帯びてしまうのだが、カルトはあえてそれを排するために、
男への尊敬なんか抱きたくもない自意識過剰に駆られた女たちを格好のカモとしてたぶらかし、
甘い言葉で誘ってはろくな効果もない技法などを教示し、それで巨額の対価をせしめようとする。
そういう連中が世に危害をもたらすのみならず、所詮はネット未満でしかないような実物文化で
世の中を蔓延させ、「これならネット漬けでもいたほうがマシだ」という風潮までをももたらす。
統一教会の弁護士が元締めを務めている、今の武道協会下での剣道柔道や相撲などもその実例で、
やったら余計に体を壊すような不正な技法などをあえて取り入れているせいで、そんなものに
没頭するぐらいなら、ネットで古流の動画でも漁ってたほうがまだマシ、ということにもなる。
(残念ながら振興が局地的で、実際に入門しようにも遠くてできなかったりもすることだし)
[YouTubeで再生]
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
このたびめでたくというか、日大アメフト部の廃部も決定したわけだけれども。
体育会系とあらば、男たちが野蛮な暴行に及ぶのも茶飯事であり続けて来た上、
それを徹底的に規制してみた所で、そこにあるのはルール通りにやった所で
身体を壊すような不合理性を帯びた運動技法だらけのスポーツでしかない。
そんなものに男たちが没頭している手前、より体の弱い女たちにその姿を倣えなどと
いうのも無理があり過ぎることで、無理にやっても例の宝塚みたいなことにしかならない。
高度な求道行為で、男たちが男でなければ務まらないほど難儀な荒行に邁進し、
その成果を女子供にも回向してかかったりするのは、それとは全く別次元のことで、
それはあくまで精神的肉体的な合理性を追求するものであるために、たとえば
合気道技法などのように健康長寿にもより資するものとなるし、薬物乱用に及びたく
なるような心の貧しさなどもおのずと解消されて行くものとなるのである。
近頃では、日大アメフト部に限らぬ若者のオーバードーズなども問題化しているし、
文科系か体育会系かなどによらず、精神的な貧困もまた危険水域に達していることが多い。
それはネットでもスポーツでもクスリでもなく、壮健な益荒男でもなければ務まらない域の、
合理性を極めや求道やその回向によってのみ埋め合わされ得る、心の隙間なのである。
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合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
合気道も、出来る人間にはできるが、出来ない人間には全くできないとよく言われる。
「頭を使いながら体の動かし方を工夫する」という取り組みが全くできなくて、
その積み重ねで技法を体得して行く部類の運動が全く手に付かない人種。
それは、座学ばかりに終始して来た文弱のみならず、頭を使わずに体を動かすこと
ばかりに没頭して来た体育会系でも務まらないものであるために、運動が苦手だからとも限らず、
むしろスポーツマンやスポーツ好きのほうがよりとっつきづらいといった傾向も見られる。
しかも、現代の正規教育は文科系であれ体育会系であれ、そういった人種ばかりを増産する
ことを念頭に置いているために、合気道的な体遣いの工夫の適格者もより減っている。
医者や運動機能学者が健康法として人々に教示する体操など、合気道技法と比べれば児戯にも
等しいような低レベルさのものばかりではあるけれども、頭と体を同時に駆使する修練を
子供の頃から怠り抜いている現代人一般のレベルに合わせると、否応なくそうなってしまう。
さような、文武分裂の劣悪な教育の流布による、良質な求道行為への妨害というのもあり、
そのせいで現代日本人なども昔以上に、合理的な体遣いや思考から遠ざかってしまっているもの。
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