浄土信仰を参考にするなら、
「仏の知恵の微妙不可思議さをありのままに受け入れる」
といった風な、心の度量の養生もまたあって然るべきものだといえる。
これはもうすでに、今とはまた別の主題にかこつけて何度も論じて来た所だが。
現代人はみな欧米キリスト教が発祥の、「オッカムの剃刀」などと呼ばれる
不信の論理に精神性を乗っ取られているために、完全な証明だとか、
すでに見るに明らかな効果だとかがあるのでもなければなにも
信じないといった風な怠慢さを患っている場合がほとんどである。
世の中には信じてはいけないような詐欺、偽証の類いもまた多かれど、
そこを信じる、信じないを一番の線引きにするのでは、信じることで大きな利益が
得られるのにもかかわらず、その内実が微妙不可思議すぎて、愚かな凡夫などにまでは
到底理解できるように説明できないといった部類の叡智までもが、不信の対象になってしまう。
逆に、見るからに自明で理解できる風にさせながら。人を騙して暴利を巻き上げる
部類の疑似科学などもまた、世の中には溢れ返っているといった問題性もまたある。
この世には、信じるべきものもそうでないものもあるにしろ、
自分の頭で完璧に理解でき(た風にな)るか否かなどをその判断基準にすべきではない。
そこに全てを還元するような思い上がりを排したところで信じられるものを信じ、
信じられないものは信じないでいられるような者こそは、他力本願中の賢者たるのである。
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