お浄土への観想も一応は含まれている、来世信仰に付きものな
別世界への思慕が、時には現実逃避の様相をも帯びかねないのも確かなことで、
カルトの来世信仰は大体そういった側面もまた帯びているために、
統一教会信者の家庭崩壊なみの地獄絵図の中に自らが置かれようとも、
それを過渡的なものと見なして受け入れたりするような事態にも時に陥る。
浄土への往生などにもかこつけてのメントレ、イマジネーションの養生は、
「オナメン顔貌が一人もいない世の中」ぐらい具体的な範囲であったほうが、
さような弊害を帯びにくい。無量寿経における極楽浄土の描写などもそのような
条件は満たしているのだが、だからこそ現実逃避級の観想を欲するような、
カルト性の持ち主からはさしたる魅力がないように思われたりもする。
世界の主たる来世信仰の中で、信者たちが自給自足の世の中を営んで行ける程度の
シラフさを帯びているのは浄土教や拝火教やイスラム教である一方、キリスト教や
ユダヤ教やCIAのでっち上げた紛い物のイスラム教などはその条件を満たさない。
これもまたそこで観想されている来世が現実逃避級か否かの違いによるものである。
現実の人間社会をより良くしていくためにも、ある程度は浄土への観想的な
メントレが必要である一方、それが現実逃避の域まで及ばないようにする中庸さ
というものもまた必須たる。世の中が篤い信頼関係で満たされるように企図して
行くこともまた、解き開いてみればかなり複雑なメカニズムを帯びているのである。
返信する