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>>176の続き)
大乗仏教の徒が「自利本位の小乗」として見下して来た上座部仏教などは、
お釈迦様本人の発言としての「無賊害心(法句経)」を鵜呑みにして信じ込むあまりに
自殺や自殺行為も禁止し、それがマニ教を通じてキリスト教などにも剽窃されたのだが、
大乗の門派においては、飢饉時に僧団側の口減らしも兼ねて、有志の即身仏化のような
実質的自害行為もたびたび試みられるなど、さような禁戒が通用して来た事実はない。
その背景には、自利と共に利他を重んずる教義性があるわけだが、
即身仏による口減らしなどは、もはや自利を蔑ろにした利他であるがゆえに、
仏の道からも逸脱した行為だったのではないかとも考えられがちである。
しかし、飢饉時などに将来の働き手となるような子供などを餓死させたのと引き換えに
自分が生き延びたりしたのでは、世の中全体で見た場合の損失はより大きいうえに、
そんな真似によってまで自分のほうが生き延びた後ろめたさが影を落とし続けることともなる。
さような総合面からの差し引きによっては、自害こそが最善なんてことも時になり得るもの。
自害も他害もできる限りないに越したことはないが、あってしまう以上は最小限に、
そのためには時に自害すらもが最善策たることがあるのだし、自らが相応のリスクを冒してでも、
殺伐の領域で最善を尽くそうとするのも、決して全否定されるべきことではない。
なればこそ、自害を絶対の禁忌扱いにしたりすることも、多くの歪みを招くのである。
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