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「信じる力」を育む 偉大なる生存の報告 Part321
▼ページ最下部
近ごろの日本人は、「信じる」と聞くとまず不審な宗教勧誘あたりを思い浮かべて
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
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どんぐりの背比べ
非親告罪の刑法犯相手に、被害者が手を煩わせなければならない義務など一切ない。
本当なら俺や管理人が動かずとも、おまえの所にお巡りさんがやって来たっておかしくない所だ。
本当なら俺や管理人が動かずとも、おまえの所にお巡りさんがやって来たっておかしくない所だ。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726543591...
このスレの話にも関連して。
ほんの近ごろの、暴対法強化前まで相当な社会的勢力を持ち合わせていた日本のヤクザが、
テロ組織や麻薬カルテルや半グレ、闇バイト団などの他の非合法組織と明らかに
異なっていたのが、「自分たちはあくまで日陰者」というわきまえを持ち合わせていた点。
日本社会は基本的、連中がカタギと呼んで来た一般社会に不法が蔓延らないことを
基本として来たために、非合法組織がそこからのあぶれ者としての自覚も堅固ならしめた。
ここでの一部のサイト利用者による刑法犯の繰り返しなどからもわかるように、
近ごろの日本社会や海外などは、一般社会に至るまで不法行為が平気で繰り返されている
のが実情であるために、非合法組織もただ明白にそうであるのが相違点であるのみ。
だからこそ、昔気質のヤクザなどが勢力を保ち続ける余地なども失われた。
これもまさに、一般社会の信頼関係が毀損され尽くしたからこその現象であって、
少しだって公序良俗が増進したなどと喜んでられる余地もないのである。
このスレの話にも関連して。
ほんの近ごろの、暴対法強化前まで相当な社会的勢力を持ち合わせていた日本のヤクザが、
テロ組織や麻薬カルテルや半グレ、闇バイト団などの他の非合法組織と明らかに
異なっていたのが、「自分たちはあくまで日陰者」というわきまえを持ち合わせていた点。
日本社会は基本的、連中がカタギと呼んで来た一般社会に不法が蔓延らないことを
基本として来たために、非合法組織がそこからのあぶれ者としての自覚も堅固ならしめた。
ここでの一部のサイト利用者による刑法犯の繰り返しなどからもわかるように、
近ごろの日本社会や海外などは、一般社会に至るまで不法行為が平気で繰り返されている
のが実情であるために、非合法組織もただ明白にそうであるのが相違点であるのみ。
だからこそ、昔気質のヤクザなどが勢力を保ち続ける余地なども失われた。
これもまさに、一般社会の信頼関係が毀損され尽くしたからこその現象であって、
少しだって公序良俗が増進したなどと喜んでられる余地もないのである。
ヤクザのような特定の非合法組織に限らず、一般社会全体に
不法行為が蔓延し始めたことによって、日本人はむしろ矮小化した。
近ごろよく取り上げている、オナメン顔貌とでも呼ぶべき様な間抜け面も増えて、
ここの一部の参加者みたいな愚鈍極まる言動に終始するような者も表向きにまで多くいる。
なぜヤーさんたちのような厳つさを帯びることすらなかったのかを問えば、
それは結局、合法非合法の分別をわきまえる厳正さが誰しもに損なわれたからである。
むしろ昔の一般的な日本人のほうが、ヤーさん以上に容貌からの厳粛さを帯びるような
ことだってあったもので、己が身の程のわきまえこそは威厳の元手となるのである。
カタギでいながら不法に平気で手を染めるような者たるや、その故に日陰者としての
わきまえが厳粛なヤーさんにも劣る人相と化する。それはカタギである以上は不法に
手を染めるようなことは避けようとする厳粛さによってこそ解消される病理なのである。
不法行為が蔓延し始めたことによって、日本人はむしろ矮小化した。
近ごろよく取り上げている、オナメン顔貌とでも呼ぶべき様な間抜け面も増えて、
ここの一部の参加者みたいな愚鈍極まる言動に終始するような者も表向きにまで多くいる。
なぜヤーさんたちのような厳つさを帯びることすらなかったのかを問えば、
それは結局、合法非合法の分別をわきまえる厳正さが誰しもに損なわれたからである。
むしろ昔の一般的な日本人のほうが、ヤーさん以上に容貌からの厳粛さを帯びるような
ことだってあったもので、己が身の程のわきまえこそは威厳の元手となるのである。
カタギでいながら不法に平気で手を染めるような者たるや、その故に日陰者としての
わきまえが厳粛なヤーさんにも劣る人相と化する。それはカタギである以上は不法に
手を染めるようなことは避けようとする厳粛さによってこそ解消される病理なのである。
以前から何度も障害者や老人の人権を侵害するような画像を貼っているようなので通報しました。
この「ドンケツ外伝」槇原は、正規の暴力団組員でもないのに、
雑用としての殺しや死体処理を好んで請け負う、まさにヤクザ未満のキャラで、
任侠物の作品にはわりと似たようなキャラがよく出て来るし、本当にその手の人種も
実在するんだろうけど、これがまた典型的なオナメン顔貌の間抜け面で描かれててな。
ただ、このキャラは自分がひどい目に遭っても仕方がないぐらいの覚悟はできていて、
実際そういう目にも遭うんだけど、それでもやはりオナメンであることからは免れ得ない。
覚悟があってもこんな止まりで、なければ指名手配犯のほうの八田與一のようであるのみ。
それが、己が分をわきまえぬ者たちにとっての不可避なる宿命なれば。
「暴君汚吏はその境界をあなどる(孟子・滕文公上)」もまた、
心の底から同化を避けたい領域であるものよな。
雑用としての殺しや死体処理を好んで請け負う、まさにヤクザ未満のキャラで、
任侠物の作品にはわりと似たようなキャラがよく出て来るし、本当にその手の人種も
実在するんだろうけど、これがまた典型的なオナメン顔貌の間抜け面で描かれててな。
ただ、このキャラは自分がひどい目に遭っても仕方がないぐらいの覚悟はできていて、
実際そういう目にも遭うんだけど、それでもやはりオナメンであることからは免れ得ない。
覚悟があってもこんな止まりで、なければ指名手配犯のほうの八田與一のようであるのみ。
それが、己が分をわきまえぬ者たちにとっての不可避なる宿命なれば。
「暴君汚吏はその境界をあなどる(孟子・滕文公上)」もまた、
心の底から同化を避けたい領域であるものよな。
ヤクザにしろ、確信犯の凶悪犯やテロリストにしろ、
凶状によってオナメン顔貌から脱却しようとした人間は逆に、
眉間が極端に寄った状態になる、という現象もまた見られる。
偉人の八田與一などはそうではなく、眉間が広がり過ぎず
寄り過ぎもしない、まるで仏か菩薩のように絶妙な表情でいるもの。
古写真の侍とかにも見られる傾向だし、彼らも決してヤクザなどではない、
清廉な公職者としての誇りによって容貌からの威厳を湛えていたことがわかる。
それこそは、今の時代に本当に完全にといっていいほど絶えてしまって
いる部類の顔立ちであることだし、存命者の誰かを参考にするでもなく、
仏像か古写真あたりを手掛かりにしてでも再興して行くしかないものである。
凶状によってオナメン顔貌から脱却しようとした人間は逆に、
眉間が極端に寄った状態になる、という現象もまた見られる。
偉人の八田與一などはそうではなく、眉間が広がり過ぎず
寄り過ぎもしない、まるで仏か菩薩のように絶妙な表情でいるもの。
古写真の侍とかにも見られる傾向だし、彼らも決してヤクザなどではない、
清廉な公職者としての誇りによって容貌からの威厳を湛えていたことがわかる。
それこそは、今の時代に本当に完全にといっていいほど絶えてしまって
いる部類の顔立ちであることだし、存命者の誰かを参考にするでもなく、
仏像か古写真あたりを手掛かりにしてでも再興して行くしかないものである。
おまえらも、日本よりアメリカのほうが大事な上に、
アメリカが日本より中国を好むようなら、
日本より中国を優遇する手合いなんだよな?
反共、勝共すらただのおためごかしでしかなくて、
とにかく自分たちがいい思いさえできたなら
それでいいだけの、外患誘致オナメン集団なんだよな?
開き直ってキレ散らかすぐらいの反応しか見込まれないが。
アメリカが日本より中国を好むようなら、
日本より中国を優遇する手合いなんだよな?
反共、勝共すらただのおためごかしでしかなくて、
とにかく自分たちがいい思いさえできたなら
それでいいだけの、外患誘致オナメン集団なんだよな?
開き直ってキレ散らかすぐらいの反応しか見込まれないが。
自分たちが反共だからといって、アベノミクスで中国からの撤退を試みるも、
テンキー機能付き電卓のように技術も生産ラインも何もかも中国に没収された上、
そこにご主人様のアメリカが電気自動車生産などで参入を深めての、
中国とのより一層の蜜月化なぞを招いたという始末。
そのために中国のCO2排出量もウナギ登りであり続け、
それが死傷者すら続発させるほどの超酷暑を日本にもたらす事態ともなっている。
それはどういうことかといえば、
「おまえらは、信じてはならない相手を信じている」ということでもある。
反共という自分たちの望みを叶えてくれるわけでもない相手に、
その後ろ盾としての望みを託して、より一層の中共の栄華を招いた。
アメリカという、信用してはならない相手を信用して、望みに反する結果を招いた。
台湾なぞは、蒋介石が大陸からの退去時に、アメリカが中共を支援していたのを
見つけた所から「アメリカも全面的に信用していい相手ではない」というのを
信条にして来たために、韓日なぞより独立自尊的な体制でいられて来たというのに、
それすら怠っての飼い犬状態という、必要もない過ちを犯して来たのがおまえらである。
テンキー機能付き電卓のように技術も生産ラインも何もかも中国に没収された上、
そこにご主人様のアメリカが電気自動車生産などで参入を深めての、
中国とのより一層の蜜月化なぞを招いたという始末。
そのために中国のCO2排出量もウナギ登りであり続け、
それが死傷者すら続発させるほどの超酷暑を日本にもたらす事態ともなっている。
それはどういうことかといえば、
「おまえらは、信じてはならない相手を信じている」ということでもある。
反共という自分たちの望みを叶えてくれるわけでもない相手に、
その後ろ盾としての望みを託して、より一層の中共の栄華を招いた。
アメリカという、信用してはならない相手を信用して、望みに反する結果を招いた。
台湾なぞは、蒋介石が大陸からの退去時に、アメリカが中共を支援していたのを
見つけた所から「アメリカも全面的に信用していい相手ではない」というのを
信条にして来たために、韓日なぞより独立自尊的な体制でいられて来たというのに、
それすら怠っての飼い犬状態という、必要もない過ちを犯して来たのがおまえらである。
この世には信じるべき相手もそうでない相手もいた上で、
あえて信用してはならない相手を好き好んで信用したのがおまえらだし、
しかもそんなおまえらこそは、信じる相手をあえて選り好みしたがる、
「信じる力」に乏しい部類の、不信のトリコな部類の人種でもある。
まるで、目利きの能力に乏しいど素人が、ガラにもなく骨董に手を出して、
大金で贋物を掴まされるようなヘマを犯したりするのにも似て、
信じる力が乏しいにもかかわらず、無理に何かを信用しようとして、
かえって信用すべきではない相手を信用して、最悪の結果を招いている。
心理面で信頼意識よりも不信のほうが勝る部類の人間のほうが、かえって
他者を信用することに失敗しやすいという実例を示したのがおまえら。
それもそのはず、他者の不信を助長した上での火事場泥棒を目論むような
カルトやカルト組織ほど、他者を救うことなどではなく、自分たちの儲けしか
考えないのが普通なのだから、大いなる不信の上で一応何かを信じてやろう
なんてする部類の小人ほど、そこに引っかかりやすいのも必然なのである。
あえて信用してはならない相手を好き好んで信用したのがおまえらだし、
しかもそんなおまえらこそは、信じる相手をあえて選り好みしたがる、
「信じる力」に乏しい部類の、不信のトリコな部類の人種でもある。
まるで、目利きの能力に乏しいど素人が、ガラにもなく骨董に手を出して、
大金で贋物を掴まされるようなヘマを犯したりするのにも似て、
信じる力が乏しいにもかかわらず、無理に何かを信用しようとして、
かえって信用すべきではない相手を信用して、最悪の結果を招いている。
心理面で信頼意識よりも不信のほうが勝る部類の人間のほうが、かえって
他者を信用することに失敗しやすいという実例を示したのがおまえら。
それもそのはず、他者の不信を助長した上での火事場泥棒を目論むような
カルトやカルト組織ほど、他者を救うことなどではなく、自分たちの儲けしか
考えないのが普通なのだから、大いなる不信の上で一応何かを信じてやろう
なんてする部類の小人ほど、そこに引っかかりやすいのも必然なのである。
日本はアメリカに戦争で敗れたのだから、
体裁上から服従的であることは免れ得なかった面もあるが、
そんな中でも台湾人などと同じように、アメリカを完全に信用など
しないまま何とか日本社会を取り仕切って行こうとした日本人も相当数いた。
そういう日本人がいた程度には、戦後日本も隆盛を実現できた一方、
アメリカに完全服従、全面信頼なんていう連中が介入したぶんだけ
国益も損なわれ、特にそんな連中が政権を完全に乗っ取ったここ30年は、
傾国、亡国への破滅一直線をほしいままにする究極の醜態まみれでのみあった。
これもむしろ、人々の「信じる力」が致命的に損なわれた結果。
それがあればこそ、信じるべき相手とそうでない相手の分別も付く一方、
なければかえってそうでなくなってしまうという法則を、ほかでもない
ここ30年の日本の支配層こそが体現で実証したものだし、別にこちらが
いちいち強く主張するまでもなく、如実な法則として受け止める他ない。
体裁上から服従的であることは免れ得なかった面もあるが、
そんな中でも台湾人などと同じように、アメリカを完全に信用など
しないまま何とか日本社会を取り仕切って行こうとした日本人も相当数いた。
そういう日本人がいた程度には、戦後日本も隆盛を実現できた一方、
アメリカに完全服従、全面信頼なんていう連中が介入したぶんだけ
国益も損なわれ、特にそんな連中が政権を完全に乗っ取ったここ30年は、
傾国、亡国への破滅一直線をほしいままにする究極の醜態まみれでのみあった。
これもむしろ、人々の「信じる力」が致命的に損なわれた結果。
それがあればこそ、信じるべき相手とそうでない相手の分別も付く一方、
なければかえってそうでなくなってしまうという法則を、ほかでもない
ここ30年の日本の支配層こそが体現で実証したものだし、別にこちらが
いちいち強く主張するまでもなく、如実な法則として受け止める他ない。
アメリカの支配層は今もアングロサクソンで、真に一番の友好国もイギリス。
そのイギリスも五枚舌外交などと揶揄される、不遜きわまる他国への侵害によって
一時は世界的覇権まで奪取した国。その、他国を鼻紙か何かのように扱う傲慢さは
ちゃんとアメリカにも受け継がれての、悪の帝国としての暴慢三昧を尽くして来たもの。
連中と比べれば、中国当たりのほうがまだ他国との共存共栄を自主的に尊重した
冊封体制などを営んで来たものだし、今もそれは変わらないからこそ、英米によって
荒廃に追い込まれている貧困国なども、その多くが中国を支持しているのが現状である。
ユダヤ人などとも並んで、組織ぐるみで他者を策謀によってでも侵害し続けて来た度合いでは、
世界でも最悪級の行状であり続けて来た連中なんかを、なぜ面従腹背すらかなぐり捨てての
全面的な信用対象なんかにする馬鹿な真似を、韓日の権力者たちは犯して来たのか?
それこそ、当人たちが他者への不信に溺れた亡者だからである。
あまりにもその功績が明白かつ絶大であるために、敵対する隣国からの評価や信奉すら絶えない
徳川家康ですら、いざとなればタダのデブ呼ばわりできるぐらいには、信じないと決めた相手を
信じないでかかる欲求が大きすぎるために、そこに溺れて何もかもを信じられなくなった結果、
素人の骨董趣味なみに下手くそ極まる信用を便宜的に試みるような真似に及んだのである。
そのイギリスも五枚舌外交などと揶揄される、不遜きわまる他国への侵害によって
一時は世界的覇権まで奪取した国。その、他国を鼻紙か何かのように扱う傲慢さは
ちゃんとアメリカにも受け継がれての、悪の帝国としての暴慢三昧を尽くして来たもの。
連中と比べれば、中国当たりのほうがまだ他国との共存共栄を自主的に尊重した
冊封体制などを営んで来たものだし、今もそれは変わらないからこそ、英米によって
荒廃に追い込まれている貧困国なども、その多くが中国を支持しているのが現状である。
ユダヤ人などとも並んで、組織ぐるみで他者を策謀によってでも侵害し続けて来た度合いでは、
世界でも最悪級の行状であり続けて来た連中なんかを、なぜ面従腹背すらかなぐり捨てての
全面的な信用対象なんかにする馬鹿な真似を、韓日の権力者たちは犯して来たのか?
それこそ、当人たちが他者への不信に溺れた亡者だからである。
あまりにもその功績が明白かつ絶大であるために、敵対する隣国からの評価や信奉すら絶えない
徳川家康ですら、いざとなればタダのデブ呼ばわりできるぐらいには、信じないと決めた相手を
信じないでかかる欲求が大きすぎるために、そこに溺れて何もかもを信じられなくなった結果、
素人の骨董趣味なみに下手くそ極まる信用を便宜的に試みるような真似に及んだのである。
信じるべき相手を信じ、そうでない相手を信じない慧眼を養うためにこそ、
信じる力を育む必要があるというのが、おまえらこそが示した事実であった。
まず、何ものをもいざとなれば信じられる肯定意識の高さがあった上で、
万事万物万人を等しく比較査定の対象にできた上で、信じるべきものを信じる。
不信の暴走に溺れている亡者はそれが出来ないが故に、信じるべきでないものをも信じてしまう。
前向きであることを奨励する言説自体は巷に広く出回っているものだが、
それはあくまで自分が信じると決めたものを信じることにかけてなどの話で、
まず何もかもに対して肯定的であることなどを促していることは非常に稀である。
やたらと前向きなフリをしている中年おばさんなどが、心中では嫌いたい相手への
憎悪によるヒステリーに常に見舞われているなんてのも非常にありがちなことで、それは
今言ってるような話の中での肯定意識の高さなどとは、似てもいないし非なるものである。
なんなら俺や否定派なみに表向き肯定的というわけでなくてもいいぐらいであった上で、
それでも心中、万物をもいざとなれば肯定できるだけの、信じる底力こそが必要なのである。
信じる力を育む必要があるというのが、おまえらこそが示した事実であった。
まず、何ものをもいざとなれば信じられる肯定意識の高さがあった上で、
万事万物万人を等しく比較査定の対象にできた上で、信じるべきものを信じる。
不信の暴走に溺れている亡者はそれが出来ないが故に、信じるべきでないものをも信じてしまう。
前向きであることを奨励する言説自体は巷に広く出回っているものだが、
それはあくまで自分が信じると決めたものを信じることにかけてなどの話で、
まず何もかもに対して肯定的であることなどを促していることは非常に稀である。
やたらと前向きなフリをしている中年おばさんなどが、心中では嫌いたい相手への
憎悪によるヒステリーに常に見舞われているなんてのも非常にありがちなことで、それは
今言ってるような話の中での肯定意識の高さなどとは、似てもいないし非なるものである。
なんなら俺や否定派なみに表向き肯定的というわけでなくてもいいぐらいであった上で、
それでも心中、万物をもいざとなれば肯定できるだけの、信じる底力こそが必要なのである。
[YouTubeで再生]
今季のサンマも一度だけ食べてみたが、若すぎて皮がパリパリに焼き上がらなくて
全然ダメだった。どうも寿命2年のサンマを生後1年以内から獲り尽くす、
農業でいう青田刈りのような真似で豊漁を装っている模様。
サンマに限らず、海水温の上昇で漁業資源にもあっちが減ってこっちが増えるような
大変動が多発していて、そこに巧みに対応して行ってる業者などもいる一方で、
サンマ漁みたいに旧態依然に固執してろくでもない結果を招いているようなのもいる。
地球温暖化は人間のCO2排出の増加が主因だっていうのは、
実感的にはもう誰しもが認めざるを得ない所に来ているけれども、
俺が科学板で提示した「日陰の気温は42度を超えない法則」などとも同レベルに、
完全な証明などはしきれないでいる因果関係であるために、自らの儲けのため
とあらばそんな問題なぞ知ったことかと暴走を続ける者も後を絶たない。
今季のサンマも一度だけ食べてみたが、若すぎて皮がパリパリに焼き上がらなくて
全然ダメだった。どうも寿命2年のサンマを生後1年以内から獲り尽くす、
農業でいう青田刈りのような真似で豊漁を装っている模様。
サンマに限らず、海水温の上昇で漁業資源にもあっちが減ってこっちが増えるような
大変動が多発していて、そこに巧みに対応して行ってる業者などもいる一方で、
サンマ漁みたいに旧態依然に固執してろくでもない結果を招いているようなのもいる。
地球温暖化は人間のCO2排出の増加が主因だっていうのは、
実感的にはもう誰しもが認めざるを得ない所に来ているけれども、
俺が科学板で提示した「日陰の気温は42度を超えない法則」などとも同レベルに、
完全な証明などはしきれないでいる因果関係であるために、自らの儲けのため
とあらばそんな問題なぞ知ったことかと暴走を続ける者も後を絶たない。
そういう所で、人間の「信じない力」というものもまた功利性を帯びるものなれば、
自らの信じる力を蔑ろにしてでもそちらを保守増進しようなどとする者もまた後を絶たない。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726653672...
このスレでも、中国に温暖化の主因を認められるのが都合が悪い部類の輩が、
酷暑の原因をあろうことか、CO2排出量がむしろ減っている日本の東京などに
擦り付けようなどとしていたものだが、自らの都合と信じない力の発奮によっては、
それぐらいのことは臆面もなく繰り返せるのが人間という生き物の常である。
そういう連中の物言いに耳を貸さないぐらいのことは簡単でも、
連中並みな不信の虜囚に自らまでもが成り果てないようにするのは、
必ずしも簡単なことではなく、ヒステリー一つでも簡単に陥ってしまうものである。
自らの都合で物事の是非を平気で覆すような輩との親交はおろか、
敵対的な論争に及んだりする中でもそうなりがちなものであり、
だからこそ宗教アンチこそがカルトのカモに成り果てるようなことにもなる。
なんなら論争相手の物言いの中にすら、信ずべき論弁が少なからずあり得ることを
見越せるほどの肯定意識の旺盛さこそが、さような不信の徒との同じ穴の狢化を防ぐのである。
自らの信じる力を蔑ろにしてでもそちらを保守増進しようなどとする者もまた後を絶たない。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726653672...
このスレでも、中国に温暖化の主因を認められるのが都合が悪い部類の輩が、
酷暑の原因をあろうことか、CO2排出量がむしろ減っている日本の東京などに
擦り付けようなどとしていたものだが、自らの都合と信じない力の発奮によっては、
それぐらいのことは臆面もなく繰り返せるのが人間という生き物の常である。
そういう連中の物言いに耳を貸さないぐらいのことは簡単でも、
連中並みな不信の虜囚に自らまでもが成り果てないようにするのは、
必ずしも簡単なことではなく、ヒステリー一つでも簡単に陥ってしまうものである。
自らの都合で物事の是非を平気で覆すような輩との親交はおろか、
敵対的な論争に及んだりする中でもそうなりがちなものであり、
だからこそ宗教アンチこそがカルトのカモに成り果てるようなことにもなる。
なんなら論争相手の物言いの中にすら、信ずべき論弁が少なからずあり得ることを
見越せるほどの肯定意識の旺盛さこそが、さような不信の徒との同じ穴の狢化を防ぐのである。
トランプは温暖化人為説否定派だが、
だからこそ電気自動車の無理な普及にも反対で、
それは結果的に現状での世界のCO2排出量の削減にもつながる。
バイデン政権のほうが、電気自動車の普及の推進によって、
海の向こうの生産国でのCO2排出量を爆上げさせたのもまた、
アメリカという国が中国という、信用に値しない国を信じた結果でもある。
米国内や日本の工場や発電所などは、それなりにCO2排出対策にも
取り組んでいて、だからこそコストもはずむ。中国はそんなこともなくて、
未だに石炭利用なども頻繁であるために、大気汚染対策を講じようとも、
CO2の排出までは抑えられていない、それを引き換えにしたコストの低さ。
おかげで電気自動車の原価も下がり、テスラ車も米国などで売れば売るほど
儲けにもなった。金カネのためとあらば信じるべきでないような相手でも信じる
という邪信の結果としての、本末転倒な電気自動車の普及を来たしたもの。
信じるべきものを信じないトランプ以上に、
信じるべきでないものを信じたバイデンやマスクのほうが、
より悲惨な事態を招いたのを見るに、邪信の害は不信にも勝るといえる。
行動的な馬鹿は不動よりも始末が悪い、とでもいったところか。
だからこそ電気自動車の無理な普及にも反対で、
それは結果的に現状での世界のCO2排出量の削減にもつながる。
バイデン政権のほうが、電気自動車の普及の推進によって、
海の向こうの生産国でのCO2排出量を爆上げさせたのもまた、
アメリカという国が中国という、信用に値しない国を信じた結果でもある。
米国内や日本の工場や発電所などは、それなりにCO2排出対策にも
取り組んでいて、だからこそコストもはずむ。中国はそんなこともなくて、
未だに石炭利用なども頻繁であるために、大気汚染対策を講じようとも、
CO2の排出までは抑えられていない、それを引き換えにしたコストの低さ。
おかげで電気自動車の原価も下がり、テスラ車も米国などで売れば売るほど
儲けにもなった。金カネのためとあらば信じるべきでないような相手でも信じる
という邪信の結果としての、本末転倒な電気自動車の普及を来たしたもの。
信じるべきものを信じないトランプ以上に、
信じるべきでないものを信じたバイデンやマスクのほうが、
より悲惨な事態を招いたのを見るに、邪信の害は不信にも勝るといえる。
行動的な馬鹿は不動よりも始末が悪い、とでもいったところか。
世の中が不信と邪信ばかりで占められていて、
信じる力の高さありきな正信などが食い入る隙もない。
そんな中でも、個人的に信じる力を育むことは可能ではあるけれども、
それが特段、世の中で特別な才覚として評価されるようなこともなく、
評価されるとしてもそれによって何らかの別の成果を挙げた場合に限ることとなる。
その才覚によって、たとえば何かの発明をしたりすれば、
それはそれで評価されたりもするだろうけれども、その発明に至った
経緯としての、特別な手法などへの信用意識のほうは別に評価されない。
そのために、そのような発明をほかの人間も模倣したり、より発展させたり
といったことまでは現状、期待できないままに終わるであろう。
諸葛孔明などもそのような発明を個人的に多く試みたもので、
饅頭とか猫車とか地雷とか、今にまで残るものも多くあるけれども、
あまりにも本人だけのスタンドプレーに蜀漢全体がおんぶにだっことなり過ぎた
ために人材が育たず、孔明の死後には亡国の憂き目に遭ったのだった。
然れば、やはり世の中に信じる力の強さや、それによる正信が広く通用して
行くことこそは、一人や二人の大天才が生じる以上の力を持つのだとも言える。
後者のほうが見栄えがよかろうとも、真に目指すべきなのは前者のほうなのである。
信じる力の高さありきな正信などが食い入る隙もない。
そんな中でも、個人的に信じる力を育むことは可能ではあるけれども、
それが特段、世の中で特別な才覚として評価されるようなこともなく、
評価されるとしてもそれによって何らかの別の成果を挙げた場合に限ることとなる。
その才覚によって、たとえば何かの発明をしたりすれば、
それはそれで評価されたりもするだろうけれども、その発明に至った
経緯としての、特別な手法などへの信用意識のほうは別に評価されない。
そのために、そのような発明をほかの人間も模倣したり、より発展させたり
といったことまでは現状、期待できないままに終わるであろう。
諸葛孔明などもそのような発明を個人的に多く試みたもので、
饅頭とか猫車とか地雷とか、今にまで残るものも多くあるけれども、
あまりにも本人だけのスタンドプレーに蜀漢全体がおんぶにだっことなり過ぎた
ために人材が育たず、孔明の死後には亡国の憂き目に遭ったのだった。
然れば、やはり世の中に信じる力の強さや、それによる正信が広く通用して
行くことこそは、一人や二人の大天才が生じる以上の力を持つのだとも言える。
後者のほうが見栄えがよかろうとも、真に目指すべきなのは前者のほうなのである。
親鸞や蓮如が民間の下層にまで徹底的に念仏信仰を広めた武家時代も、
どちらかといえば乱世の部類だったし、乱世だから不可能なことでもない。
むしろ乱世であろうとも、着実に人々の信頼関係を高めて行くための
手段として打ってつけなのが、念仏のような方便を凝らした手法でもある。
あの中国で、落とし物をネコババする人間の一人もいなくなったという、
前漢文帝の時代などのように、本物の治世たるや、もはや積極的な取り組み
などを必要とするまでもなく、人々の信頼関係が自然と高まって行くものである。
乱世における、現実社会からの厭離穢土欣求浄土の実現のためにこそ、
人々の信頼関係を積極的に高めて行こうとする試みが意味を持ち合わせて来る。
それは民間での草の根レベルからの場合もあれば、大権力者たちの取り組みで
あることもあり、日本の戦国期から泰平期への転換などを鑑みるに、前者による
前準備があった上で後者の仕上げがかかるというのが、反正の黄金比たるようである。
家康公も信長や秀吉ほど個人としての能力が突出していたわけではないが、
臣下との信頼関係を高めることなどにかけてはより懸命であったが如く、
最上級の権力者に至るまで信への尊重が十分たることで泰平も確立される。
乱世の権力者ほどそれが難しいという所もあるし、それも才能の一種ではあるが。
どちらかといえば乱世の部類だったし、乱世だから不可能なことでもない。
むしろ乱世であろうとも、着実に人々の信頼関係を高めて行くための
手段として打ってつけなのが、念仏のような方便を凝らした手法でもある。
あの中国で、落とし物をネコババする人間の一人もいなくなったという、
前漢文帝の時代などのように、本物の治世たるや、もはや積極的な取り組み
などを必要とするまでもなく、人々の信頼関係が自然と高まって行くものである。
乱世における、現実社会からの厭離穢土欣求浄土の実現のためにこそ、
人々の信頼関係を積極的に高めて行こうとする試みが意味を持ち合わせて来る。
それは民間での草の根レベルからの場合もあれば、大権力者たちの取り組みで
あることもあり、日本の戦国期から泰平期への転換などを鑑みるに、前者による
前準備があった上で後者の仕上げがかかるというのが、反正の黄金比たるようである。
家康公も信長や秀吉ほど個人としての能力が突出していたわけではないが、
臣下との信頼関係を高めることなどにかけてはより懸命であったが如く、
最上級の権力者に至るまで信への尊重が十分たることで泰平も確立される。
乱世の権力者ほどそれが難しいという所もあるし、それも才能の一種ではあるが。
とはいえやはり、諸葛孔明や宮本武蔵のような突出者の孤軍奮闘に憧れを抱く者も、
江戸期の日本のような治世を含むいつの世にも絶えないのが実情でもあるが。
それらはむしろ、乱世の仇花ゆえにこその華々しさであるもので、
天下分け目の大戦での活躍で勝ち切って、撥乱反正を実現したような事実もない。
武蔵の二刀流なども、一対一や一対多の戦いで勝ち抜くために大変な有効性を帯びる
戦法ではあるものの、多対多の集団戦では横切りが同士討ちを招きかねないなどの
大いなる欠点があり、かえって周囲の足を引っ張る協調性の低さの原因にもなりかねない。
孔明の突出こそが蜀漢の人材不足の原因になったのなども同じように、
個の突出と集団の強勢化は相容れないところもあるのが現実法則であるが故に、
世の中全体の平和や繁栄を願う以上は、ある程度は滅私の心がけもまたあるのでなければならぬ。
もちろんそれが全体主義級の自己犠牲礼賛などに陥るのも行き過ぎになるものだし、
個の力の養生を集団の繁栄に役立てることにかけても、最善であるべきだというだけのことである。
江戸期の日本のような治世を含むいつの世にも絶えないのが実情でもあるが。
それらはむしろ、乱世の仇花ゆえにこその華々しさであるもので、
天下分け目の大戦での活躍で勝ち切って、撥乱反正を実現したような事実もない。
武蔵の二刀流なども、一対一や一対多の戦いで勝ち抜くために大変な有効性を帯びる
戦法ではあるものの、多対多の集団戦では横切りが同士討ちを招きかねないなどの
大いなる欠点があり、かえって周囲の足を引っ張る協調性の低さの原因にもなりかねない。
孔明の突出こそが蜀漢の人材不足の原因になったのなども同じように、
個の突出と集団の強勢化は相容れないところもあるのが現実法則であるが故に、
世の中全体の平和や繁栄を願う以上は、ある程度は滅私の心がけもまたあるのでなければならぬ。
もちろんそれが全体主義級の自己犠牲礼賛などに陥るのも行き過ぎになるものだし、
個の力の養生を集団の繁栄に役立てることにかけても、最善であるべきだというだけのことである。
大陸側から張り出していた高気圧が、秋雨前線で北に押し上げられて
列島から退去させられたのとほぼ同時に、馬鹿みたいな酷暑も急激な立ち消え。
節気を踏みにじる異常気象の真因がなんだったのかも丸見え。
その過程で、石川の激甚級の大雨被害なども生じてしまったわけで、
数多の大木の流木が洪水の土砂に含まれるほど、未曽有の事態であるのもまた必定。
俺もほんの近ごろ、酷暑の原因を中華のCO2と見定めたばかりだし、
今になってこんなことを言うのも、洞察力という点では
「事後孔明」の域を出ない所があるだろうが。
不信と邪信の積み重ねでこんな事態が招かれて来たのを、
信じる力の養生で打開して行こうという思いの持ち主であるがゆえに、
本当に打開できる可能性があることにまで、些かの疑いも差し挟めることはない。
極端にトリッキーな権謀術数なども多く介するような乱世を、
その性向から矯めて行けるのもまた、そちらであるのに違いなく。
列島から退去させられたのとほぼ同時に、馬鹿みたいな酷暑も急激な立ち消え。
節気を踏みにじる異常気象の真因がなんだったのかも丸見え。
その過程で、石川の激甚級の大雨被害なども生じてしまったわけで、
数多の大木の流木が洪水の土砂に含まれるほど、未曽有の事態であるのもまた必定。
俺もほんの近ごろ、酷暑の原因を中華のCO2と見定めたばかりだし、
今になってこんなことを言うのも、洞察力という点では
「事後孔明」の域を出ない所があるだろうが。
不信と邪信の積み重ねでこんな事態が招かれて来たのを、
信じる力の養生で打開して行こうという思いの持ち主であるがゆえに、
本当に打開できる可能性があることにまで、些かの疑いも差し挟めることはない。
極端にトリッキーな権謀術数なども多く介するような乱世を、
その性向から矯めて行けるのもまた、そちらであるのに違いなく。
人々の信頼関係が高かった時代には、
近所づきあいなりムラ社会なりでの自治関係がより濃厚だったというのは、
ほんの近年までの田舎などにも見られた風習である。
それを人情深さの象徴として懐かしがる向きもある一方で、
個人主義的な価値観によって忌まわしがる者もいる。
ムラ社会自体はそれなりに穏健だった場合もあれば、
私刑まで横行するような陰惨さを帯びた場合もあったりで、
それが評価の良し悪しにそれぞれの異同がある主因ともなっているものである。
一方で、個人主義や核家族化によってそれらが損なわれ、
世の趨勢はもっぱら中央権力からの統制によってのみ左右されるように
なって後の日本社会が破綻の域に達してしまったのも事実だし、
それは同様な体制と共に無数の戦乱や亡国を繰り返して来た西洋なども同じこと。
ムラ社会的な信頼関係を、体裁だけ復興させてみた所でうまくいくはずもなく、
最悪、山口の限界集落でのあの事件みたいなことにすらなりかねないもので、
まず人々の信じる力が十二分ならしめられて後に、その健全な復興も見込まれるものである。
近所づきあいなりムラ社会なりでの自治関係がより濃厚だったというのは、
ほんの近年までの田舎などにも見られた風習である。
それを人情深さの象徴として懐かしがる向きもある一方で、
個人主義的な価値観によって忌まわしがる者もいる。
ムラ社会自体はそれなりに穏健だった場合もあれば、
私刑まで横行するような陰惨さを帯びた場合もあったりで、
それが評価の良し悪しにそれぞれの異同がある主因ともなっているものである。
一方で、個人主義や核家族化によってそれらが損なわれ、
世の趨勢はもっぱら中央権力からの統制によってのみ左右されるように
なって後の日本社会が破綻の域に達してしまったのも事実だし、
それは同様な体制と共に無数の戦乱や亡国を繰り返して来た西洋なども同じこと。
ムラ社会的な信頼関係を、体裁だけ復興させてみた所でうまくいくはずもなく、
最悪、山口の限界集落でのあの事件みたいなことにすらなりかねないもので、
まず人々の信じる力が十二分ならしめられて後に、その健全な復興も見込まれるものである。
少子化著しい今みたいな時代に、職員不足による学校教育の破綻危機
なんてものが問題化していたりするのも、本当は子供への教育なんてものもまた、
寺子屋的なムラ社会に属する小規模さと共に取り組むほうが適切だからである。
日本人の識字率が昔から抜群に高かったりするのも、それが元手であった上で、
近代以降しばらくは、国の正規教育がその残滓と共に成立し、戦後少しくの間は
それも破綻したために、団塊世代のような総員で無教育な世代が生じた一方、
その後またしばらくの間、経済的な富裕のおかげ教育の充実を取り戻した。
バブル崩壊以降はそれも尻すぼみとなり、ついには破綻の危機にまで至っている。
そこを近代以降に普及したような教育制度の再興だけで取り繕おうにも、
世の中の個人主義礼賛の傾向があまりにも深刻化してしまっているために、
集団教育に不満を抱き、不登校に陥るような子供を引き留める目途も立たない。
ゆたぼん一家が打ち出していたような完全な家庭教育一本でもなければ、
大規模な学校での集団教育でもなく、寺子屋ぐらいの規模での教育が世の中に
浸透して行くことが、教育体制を最も盤石ならしめるものであるのだけれども、
そのためにもやはり、まず人々の社会的な信頼関係の底上げが必須となるのである。
なんてものが問題化していたりするのも、本当は子供への教育なんてものもまた、
寺子屋的なムラ社会に属する小規模さと共に取り組むほうが適切だからである。
日本人の識字率が昔から抜群に高かったりするのも、それが元手であった上で、
近代以降しばらくは、国の正規教育がその残滓と共に成立し、戦後少しくの間は
それも破綻したために、団塊世代のような総員で無教育な世代が生じた一方、
その後またしばらくの間、経済的な富裕のおかげ教育の充実を取り戻した。
バブル崩壊以降はそれも尻すぼみとなり、ついには破綻の危機にまで至っている。
そこを近代以降に普及したような教育制度の再興だけで取り繕おうにも、
世の中の個人主義礼賛の傾向があまりにも深刻化してしまっているために、
集団教育に不満を抱き、不登校に陥るような子供を引き留める目途も立たない。
ゆたぼん一家が打ち出していたような完全な家庭教育一本でもなければ、
大規模な学校での集団教育でもなく、寺子屋ぐらいの規模での教育が世の中に
浸透して行くことが、教育体制を最も盤石ならしめるものであるのだけれども、
そのためにもやはり、まず人々の社会的な信頼関係の底上げが必須となるのである。
「大乗仏教」の再興を心から希求しているのには違いない。
小乗仏教とは違って、
仏教発祥以前の古代バラモン教やタントラ教、
ゾロアスター教や古代エジプトのヤーマ信仰、
道教や日本神道や武士道、武芸などとの習合も果たした、
より盛大な世界宗教としての大乗仏教の再興を、な。
小乗仏教とは違って、
仏教発祥以前の古代バラモン教やタントラ教、
ゾロアスター教や古代エジプトのヤーマ信仰、
道教や日本神道や武士道、武芸などとの習合も果たした、
より盛大な世界宗教としての大乗仏教の再興を、な。
小乗仏教の本場であるタイにも、
死刑囚の遺体を多数飾った死体博物館があるように、
仏教国だからといって五戒を完璧に守っているとも限らない。
昔から五戒を奨励事項程度に捉えている
大乗仏教のほうが現実的である上に、
実際問題としてより多くの国々を平和や繁栄へと導いて来ている。
その由緒もなんなら、小乗仏教よりも古代からの、
全世界規模に上るぐらいで、よりカルトと見る余地もない。
いっそのこと、おまえらに対してだけは、
「仏教の再興を望んでいるわけではない」とまで言っておこうか?
「ただの仏教以上に上質な、ある種の世界宗教の復興を望んでいる」と。
死刑囚の遺体を多数飾った死体博物館があるように、
仏教国だからといって五戒を完璧に守っているとも限らない。
昔から五戒を奨励事項程度に捉えている
大乗仏教のほうが現実的である上に、
実際問題としてより多くの国々を平和や繁栄へと導いて来ている。
その由緒もなんなら、小乗仏教よりも古代からの、
全世界規模に上るぐらいで、よりカルトと見る余地もない。
いっそのこと、おまえらに対してだけは、
「仏教の再興を望んでいるわけではない」とまで言っておこうか?
「ただの仏教以上に上質な、ある種の世界宗教の復興を望んでいる」と。
(>>236の続き)
自分自身の学生時代なども振り返ってみるに、学校教育が本当に
指導要領通りの授業や宿題だけで成立していた、なんてことはない。
それらだけでもやっていけてたのなんて一部の天才や秀才だけで、
ほとんどの生徒たちは教師なり塾講師なり友人なりの助けと共に
初めて勉強を十分ならしめていたもので、俺なんかも大怪我
による呼吸困難のせいでその選択肢が完全に絶たれたのが、
正規教育をドロップアウトする一因になったものである。
それは、本当は生徒たちの自主性などに頼ることなく、
学校教育の中に基本的に組み込まれておくべきものなのだけれども、
そこまでの余裕は少なくとも今の教育体制にはなく、子供たちの
信頼関係が世間全体と共に引き下げられた結果、昔の俺のような
ドロップアウトが頻発するようになったのを止めることもできない。
俺並みに奇特な大怪我などでそれが無理になる場合は、
また別のサポートがあるべきだけれども、そうでなくとも、
学生たちが助け合いによって勉強を補完し合って来たりしたことの
復興ないし代替は全般的に必要になって来ているもので、それは
教育制度の改革などに頼るべき所もあるにしろ、その本質の所に、
信頼関係の増進を据えて行くことが必要であるのには違いないのである。
自分自身の学生時代なども振り返ってみるに、学校教育が本当に
指導要領通りの授業や宿題だけで成立していた、なんてことはない。
それらだけでもやっていけてたのなんて一部の天才や秀才だけで、
ほとんどの生徒たちは教師なり塾講師なり友人なりの助けと共に
初めて勉強を十分ならしめていたもので、俺なんかも大怪我
による呼吸困難のせいでその選択肢が完全に絶たれたのが、
正規教育をドロップアウトする一因になったものである。
それは、本当は生徒たちの自主性などに頼ることなく、
学校教育の中に基本的に組み込まれておくべきものなのだけれども、
そこまでの余裕は少なくとも今の教育体制にはなく、子供たちの
信頼関係が世間全体と共に引き下げられた結果、昔の俺のような
ドロップアウトが頻発するようになったのを止めることもできない。
俺並みに奇特な大怪我などでそれが無理になる場合は、
また別のサポートがあるべきだけれども、そうでなくとも、
学生たちが助け合いによって勉強を補完し合って来たりしたことの
復興ないし代替は全般的に必要になって来ているもので、それは
教育制度の改革などに頼るべき所もあるにしろ、その本質の所に、
信頼関係の増進を据えて行くことが必要であるのには違いないのである。
近ごろの子供たちが交友関係などを疎かにしがちなのは、
ネットの普及もまたその一因になっている所があるようで、曰く、
「ネット上にはすごく賢い人がいるのに、自分の周りはサル並みしかいない」
的な失望によって、始めから近場の信頼関係を見限ってかかったりするらしい。
自分もまた、そのすごく賢い人との切磋琢磨などによって自己向上できれば
それもまたアリではあるにしろ、実際には観客に止まるのが十中八九の関の山で、
だからこそ学術目的で軍用から一般へと解放されたネットの普及と共に、
かえって世界中の人々の平均知能も低下の一途を辿ってしまったのである。
この世でアニメを見るほど誰にでも出来ることもなく、
アニメを作るほど誰にでも出来るわけではないこともないように、
賢聖の凄さに感嘆するほど簡単なことはなく、賢聖になるほど難しいことはない。
自分がただ前者としてネット上の賢い人の言動などを見ているだけであるようなら、
そのような身の程をわきまえて、それと比べればサル同然にしか見えないような
周囲の友人などと共に、着実にそこを志すなどの心がけも共にあって然るべきものである。
ネットの普及もまたその一因になっている所があるようで、曰く、
「ネット上にはすごく賢い人がいるのに、自分の周りはサル並みしかいない」
的な失望によって、始めから近場の信頼関係を見限ってかかったりするらしい。
自分もまた、そのすごく賢い人との切磋琢磨などによって自己向上できれば
それもまたアリではあるにしろ、実際には観客に止まるのが十中八九の関の山で、
だからこそ学術目的で軍用から一般へと解放されたネットの普及と共に、
かえって世界中の人々の平均知能も低下の一途を辿ってしまったのである。
この世でアニメを見るほど誰にでも出来ることもなく、
アニメを作るほど誰にでも出来るわけではないこともないように、
賢聖の凄さに感嘆するほど簡単なことはなく、賢聖になるほど難しいことはない。
自分がただ前者としてネット上の賢い人の言動などを見ているだけであるようなら、
そのような身の程をわきまえて、それと比べればサル同然にしか見えないような
周囲の友人などと共に、着実にそこを志すなどの心がけも共にあって然るべきものである。
いざそういう心がけを抱いてみれば、本当に自分がネット上の凄い人並みに
なることなんて夢のまた夢だったのと気づかされて絶望してしまう、
なんてことにもなりやすいために、それを嫌がる気持ちなどもあるだろう。
しかれども、その凄い人たちもまた元々は、自分の周囲に広がっているのとも
同じような無名の田畑の中から頭角を現して行ったのには変わりないわけで、
その大元の所の土壌も尊重できないような者が、そこに至れることも決してない。
日本人も総員で諸外国の人々より知能、技能などで平均値から秀でているからこそ、
この暴政による抑圧下ですら、ポンポンとある種の分野での突出者などが現れ続けている。
その背景には、古くからの密教や禅的な自己求道の体系の普及もまたある一方で、まず
最底辺級の凡夫に至るまで人間不信からの退廃に陥ったりすることなく、いざとなれば
鼻血を恐れないぐらいの努力も進んでできる程度の、心のハリの普及などもあったのである。
念仏信仰などは、それ自体が能力開発の体系であるわけではないが、
誰しもがそのスタートラインに立てる程度の底上げを世にもたらして来たものではある。
自らが能力者そのものにまでならずとも、その母体たる世の中の一員たる手段。
まず自らがそのような最低条件を満たすのでもなければ、凄い人になるのも、
夢のうちに入れることすらおこがましいものと知るべきなのである。
なることなんて夢のまた夢だったのと気づかされて絶望してしまう、
なんてことにもなりやすいために、それを嫌がる気持ちなどもあるだろう。
しかれども、その凄い人たちもまた元々は、自分の周囲に広がっているのとも
同じような無名の田畑の中から頭角を現して行ったのには変わりないわけで、
その大元の所の土壌も尊重できないような者が、そこに至れることも決してない。
日本人も総員で諸外国の人々より知能、技能などで平均値から秀でているからこそ、
この暴政による抑圧下ですら、ポンポンとある種の分野での突出者などが現れ続けている。
その背景には、古くからの密教や禅的な自己求道の体系の普及もまたある一方で、まず
最底辺級の凡夫に至るまで人間不信からの退廃に陥ったりすることなく、いざとなれば
鼻血を恐れないぐらいの努力も進んでできる程度の、心のハリの普及などもあったのである。
念仏信仰などは、それ自体が能力開発の体系であるわけではないが、
誰しもがそのスタートラインに立てる程度の底上げを世にもたらして来たものではある。
自らが能力者そのものにまでならずとも、その母体たる世の中の一員たる手段。
まず自らがそのような最低条件を満たすのでもなければ、凄い人になるのも、
夢のうちに入れることすらおこがましいものと知るべきなのである。
信じる力は才なき者の能力も引き上げ、不信は才ある者まで無能ならしめる。
世の中には孔明や武蔵のような独立独行の突出者もまた少数いるとはいえ、
大多数は人との助け合い、切磋琢磨によってのみ向上が果たせるもの。
なればこそ、大昔から最底辺の平民に至るまでの信頼関係を育んで来た日本こそが、
人々の人間不信をも助長する、騙し合い貶め合いばかりを繰り返して来た
諸外国などよりも各種分野での突出者に恵まれて来たのである。
人との信じ合いは、必ずしも自らの突出を約束するものなどではない。
むしろ自分以外の誰かの成功の助成までともに楽しめればこそのそれ、
とすら言えるものではあるが、それが巡り巡って自らの成功に繋がることもある。
親鸞「念仏は親ですらない、自分ためにするもの」というのも、
要は「情けは人の為ならず」と同じような意味であって、
信じる力の養生はいつでもAll for One、One for Allたるものである。
世の中には孔明や武蔵のような独立独行の突出者もまた少数いるとはいえ、
大多数は人との助け合い、切磋琢磨によってのみ向上が果たせるもの。
なればこそ、大昔から最底辺の平民に至るまでの信頼関係を育んで来た日本こそが、
人々の人間不信をも助長する、騙し合い貶め合いばかりを繰り返して来た
諸外国などよりも各種分野での突出者に恵まれて来たのである。
人との信じ合いは、必ずしも自らの突出を約束するものなどではない。
むしろ自分以外の誰かの成功の助成までともに楽しめればこそのそれ、
とすら言えるものではあるが、それが巡り巡って自らの成功に繋がることもある。
親鸞「念仏は親ですらない、自分ためにするもの」というのも、
要は「情けは人の為ならず」と同じような意味であって、
信じる力の養生はいつでもAll for One、One for Allたるものである。
また、不健康老人は体力の低下のせいで睡眠の質が悪くなりすぎて
見ることもできないという夢をみたものだが。
近頃よく見るのが、東京から実家に帰ろうとするのに帰れない夢。
今朝見たのは、都県境付近の千葉だか埼玉だかの田舎じみた場所から、
自転車で羽田空港まで赴いて飛行機で帰ろうとする夢。
どうも自転車では出発時刻に間に合わないっぽいし、
無理して急いでも交通事故に遭いかねないし、
着いたとしても自転車はどうするんだって話だし、
問題山積で、結局辿り着かないまま夢も終わる。
他には、電車で空港に行こうとしたり、電車で帰ろうとしたりしながら、
乗った電車が空港や実家とは逆方向へと走り始めたり、
徒歩で東京駅や浜松町駅(羽田へのモノレールがある)付近まで
たどり着くも迷ったり、買い物だ外食だしてて出発に間に合わなかったり。
見ることもできないという夢をみたものだが。
近頃よく見るのが、東京から実家に帰ろうとするのに帰れない夢。
今朝見たのは、都県境付近の千葉だか埼玉だかの田舎じみた場所から、
自転車で羽田空港まで赴いて飛行機で帰ろうとする夢。
どうも自転車では出発時刻に間に合わないっぽいし、
無理して急いでも交通事故に遭いかねないし、
着いたとしても自転車はどうするんだって話だし、
問題山積で、結局辿り着かないまま夢も終わる。
他には、電車で空港に行こうとしたり、電車で帰ろうとしたりしながら、
乗った電車が空港や実家とは逆方向へと走り始めたり、
徒歩で東京駅や浜松町駅(羽田へのモノレールがある)付近まで
たどり着くも迷ったり、買い物だ外食だしてて出発に間に合わなかったり。
確かに帰りたいとは思ってるのに、
なんだかんだと些細な問題が重なって帰れない。
起きた時には実家の寝床なので安心するわけだが。
なにか東京でやり残したことがあるのを警鐘する夢かもしれないが、
別に思い当たらない。少なくとも今の自分が東京ですべきことなどは。
当時はまだよく知らなかったけれども、自分が東京に在住していた頃も、
すでに体制が外患カルトに乗っ取られて、その本拠地と化していた
東京も何一つとして理想を追い求められる場所ではなくなっていた。
観光か買い出しぐらいしかやることももうないのに、
あの世界最大の文明構造に呑み込まれたままでいるのは、
かえって空しさを助長するのも、現実でも夢でも感じること。
革命で世直しとかなれば、いくらでもやることはあるだろうが、
自転車でチョロチョロと街中を散策してる分際で考えることでもなし。
逆にそのような、無名の匹夫として都下に潜むこともできるような
時期の終焉を示唆する夢であるというのなら、分からなくもないが。
ろくでもない経験といえども、もう二度とできなくなる、となればな。
なんだかんだと些細な問題が重なって帰れない。
起きた時には実家の寝床なので安心するわけだが。
なにか東京でやり残したことがあるのを警鐘する夢かもしれないが、
別に思い当たらない。少なくとも今の自分が東京ですべきことなどは。
当時はまだよく知らなかったけれども、自分が東京に在住していた頃も、
すでに体制が外患カルトに乗っ取られて、その本拠地と化していた
東京も何一つとして理想を追い求められる場所ではなくなっていた。
観光か買い出しぐらいしかやることももうないのに、
あの世界最大の文明構造に呑み込まれたままでいるのは、
かえって空しさを助長するのも、現実でも夢でも感じること。
革命で世直しとかなれば、いくらでもやることはあるだろうが、
自転車でチョロチョロと街中を散策してる分際で考えることでもなし。
逆にそのような、無名の匹夫として都下に潜むこともできるような
時期の終焉を示唆する夢であるというのなら、分からなくもないが。
ろくでもない経験といえども、もう二度とできなくなる、となればな。
親父が、会社の同年代の同僚複数人を家に招いて宴会を開いたときに、
「とにかく毎日のように夢を見る」というのを、
悩みとして打ち明けてた人が一人いたんだが。
でもその人が一番、会社の将来を真剣に憂慮するような話とかしてて、
それと比べれば他は、とにかく自分の食い扶持が保てればそれでヨシ!
とでもいった風(残念ながらうちの親父含め)。そういう所まで気を配れる余裕は結局、
頻繁に夢を見てられる(それを覚えてられる)ぐらいの体力があってのものなんだろうな。
平安時代ごろまでの皇族や貴族も、夢の吉兆をよく気にしていたようだし、
上記のような観点から見れば、さような心がけ自体が仁慈の旺盛さの現れであったものよ。
「とにかく毎日のように夢を見る」というのを、
悩みとして打ち明けてた人が一人いたんだが。
でもその人が一番、会社の将来を真剣に憂慮するような話とかしてて、
それと比べれば他は、とにかく自分の食い扶持が保てればそれでヨシ!
とでもいった風(残念ながらうちの親父含め)。そういう所まで気を配れる余裕は結局、
頻繁に夢を見てられる(それを覚えてられる)ぐらいの体力があってのものなんだろうな。
平安時代ごろまでの皇族や貴族も、夢の吉兆をよく気にしていたようだし、
上記のような観点から見れば、さような心がけ自体が仁慈の旺盛さの現れであったものよ。
「君子は終身の憂いあるも、一朝の患いなきなり」(孟子)
疲れに負けて、仁慈からの憂慮を抱くことも出来ないでいるのを
指摘されたのが、これまた逆鱗だったのかね?
どうせ逆鱗が全身を覆ってる人種だし、
配慮してやるだけ無駄でしかないが。
疲れに負けて、仁慈からの憂慮を抱くことも出来ないでいるのを
指摘されたのが、これまた逆鱗だったのかね?
どうせ逆鱗が全身を覆ってる人種だし、
配慮してやるだけ無駄でしかないが。
「体力がある」というよりも、
心が疲れに負けてないと夢を覚えとけて、負けてると忘れるんだろうな。
件の同僚も、そんな体力ありげという風でもなかったし。
体力が衰えすぎて、夢を見られるほど寝られてない場合もまた別にあろうが。
心が疲れに負けてないと夢を覚えとけて、負けてると忘れるんだろうな。
件の同僚も、そんな体力ありげという風でもなかったし。
体力が衰えすぎて、夢を見られるほど寝られてない場合もまた別にあろうが。
さんざん人の不幸を食い物にして来ておきながら、
天下万民の共存共栄の時にも立ち会いたいだなんて、
あまりにも烏滸がましいと思わんかね?
昨日はガッツリきついことをやったせいか(もちろん仕事ではない)、
今朝見た夢はよく覚えてない。なんか女が一杯出てきたという程度にしか。
「君子は心を労し、小人は力を労す」(左伝・襄公九年)
世のため人のための大業もまた、大いなる疲労が付き物であろうが、
そこで心が疲労に負けて夢も覚えてられないようになったりしないように。
ましてや、それこそが成熟した大人のあり方だなんて思い込む
顛倒夢想に陥ったりすることが決してないようにと、
終身にわたって誓いを立てぬわけにはいくまい。
天下万民の共存共栄の時にも立ち会いたいだなんて、
あまりにも烏滸がましいと思わんかね?
昨日はガッツリきついことをやったせいか(もちろん仕事ではない)、
今朝見た夢はよく覚えてない。なんか女が一杯出てきたという程度にしか。
「君子は心を労し、小人は力を労す」(左伝・襄公九年)
世のため人のための大業もまた、大いなる疲労が付き物であろうが、
そこで心が疲労に負けて夢も覚えてられないようになったりしないように。
ましてや、それこそが成熟した大人のあり方だなんて思い込む
顛倒夢想に陥ったりすることが決してないようにと、
終身にわたって誓いを立てぬわけにはいくまい。
(>>255の続き)
いい年した大人がよく夢を見るなんて却っておかしいことだという既成概念が
今はあるものだから、件の同僚もそれを悩みに思っていたりもしたわけで。
深慮もできないぐらい心身ともに疲れ切っているせいで夢も見ない、
見てもすぐ忘れるのが「普通の正常な精神の人間」扱いな旧世代。
誰も彼も眉間広々のオナメン顔貌なのが当たり前なせいもあって、
互いに見下し見下されるのがデフォと化してしまっている次世代。
どちらも大変に信頼関係を築き難い差し障りにまみれているのには違いないし、
それはたとえば夢も見れないほどの疲れっぱなしや、真剣にものを考えることも
できないせいでのオナメン顔貌が固着してしまっていることが、人として当たり前
扱いされたりしている、現状の常識から変えて行くことによってのみ是正し得るのである。
一生懸命働いて来たからこそ疲れている、
体罰もパワハラも受けて来なかったからこそオナメンでいられている、
そういった正当化材料があった上でなお、やはり脱却しないでいるよりは
したほうがいいものとしての扱いを定着させて行くのである。
いい年した大人がよく夢を見るなんて却っておかしいことだという既成概念が
今はあるものだから、件の同僚もそれを悩みに思っていたりもしたわけで。
深慮もできないぐらい心身ともに疲れ切っているせいで夢も見ない、
見てもすぐ忘れるのが「普通の正常な精神の人間」扱いな旧世代。
誰も彼も眉間広々のオナメン顔貌なのが当たり前なせいもあって、
互いに見下し見下されるのがデフォと化してしまっている次世代。
どちらも大変に信頼関係を築き難い差し障りにまみれているのには違いないし、
それはたとえば夢も見れないほどの疲れっぱなしや、真剣にものを考えることも
できないせいでのオナメン顔貌が固着してしまっていることが、人として当たり前
扱いされたりしている、現状の常識から変えて行くことによってのみ是正し得るのである。
一生懸命働いて来たからこそ疲れている、
体罰もパワハラも受けて来なかったからこそオナメンでいられている、
そういった正当化材料があった上でなお、やはり脱却しないでいるよりは
したほうがいいものとしての扱いを定着させて行くのである。
所謂「報連相」なんていうのも、
人々の心のハリが十分でないとどうしても疎かになりがちなものである。
会社であれば、上記の同僚のように、社の行く末にまで色々と配慮を
巡らせている者同士ならちゃんと報連相しておこうという気にもなるが、
自分の食い扶持さえ守れればそれでいいなんて者同士だと、たとえ社を挙げて
取り組んで行こうなどと号令したところで疎かになりがちなものである。
買い物のために店に赴いて、所望の品がなかなか見つからない時にも、
店員がいかにも忙殺状態でいたりするようならなかなか聞きづらいが、
忙しかった所でそういう態度を控えていたりするようなら聞きやすいように、
まったくの赤の他人同士にも報連相の難易度差はあるもので、やはり心が
疲労に負けているか否かがそれを左右するという側面もまたある。
人それぞれ、心が疲労に負けずにいられるキャパシティというのがあるもので、
俺だって大変な荒行をこなした日の夜の夢までは覚えてられなかったりする。
そこまで行かない範囲の作業なりをこなすのが、自らが十分な心のハリと共に
いられる許容値であるわけだから、仕事などはその範疇で取り組んで行くこと
こそを美徳とすべきである。ただひたすら疲労もお構いなしに働きまくるほど
偉いなんていう奴隷根性を開き直るようなことは、終わりにすべきなのである。
人々の心のハリが十分でないとどうしても疎かになりがちなものである。
会社であれば、上記の同僚のように、社の行く末にまで色々と配慮を
巡らせている者同士ならちゃんと報連相しておこうという気にもなるが、
自分の食い扶持さえ守れればそれでいいなんて者同士だと、たとえ社を挙げて
取り組んで行こうなどと号令したところで疎かになりがちなものである。
買い物のために店に赴いて、所望の品がなかなか見つからない時にも、
店員がいかにも忙殺状態でいたりするようならなかなか聞きづらいが、
忙しかった所でそういう態度を控えていたりするようなら聞きやすいように、
まったくの赤の他人同士にも報連相の難易度差はあるもので、やはり心が
疲労に負けているか否かがそれを左右するという側面もまたある。
人それぞれ、心が疲労に負けずにいられるキャパシティというのがあるもので、
俺だって大変な荒行をこなした日の夜の夢までは覚えてられなかったりする。
そこまで行かない範囲の作業なりをこなすのが、自らが十分な心のハリと共に
いられる許容値であるわけだから、仕事などはその範疇で取り組んで行くこと
こそを美徳とすべきである。ただひたすら疲労もお構いなしに働きまくるほど
偉いなんていう奴隷根性を開き直るようなことは、終わりにすべきなのである。
忙殺こそを美徳とするような悪徳がこの世から絶やされれば、
おのずと世の人事もまた健全化が落水の如くたるものである。
働きすぎで頭ヘロヘロなんてのが問題ともされないものだから、
60過ぎでも働き続けることが当たり前のように推進され続けている。
それにより若手にいい仕事が任されることもより減って、ヨレヨレの
老い耄れによる重職の牛耳りからの低生産性化なども黙認状態となって来た。
40で初老、60で還暦でいつ死んでももう構わない扱いという、
古来の年代観は、「疲労に負けないだけの心のハリ」という観点に
即して鑑みるのならば、医療の進歩で平均寿命が延びた今でも全く
時代遅れでも何でもない、世間の実相に即した法則となっているもの。
柳生一門の中でも最高傑作と伝わる新陰流六世、柳生厳包こそは、
若干44で主君に隠居を申し出、聞き入れられずに61でようやく
それを認可されたという。別に怠け者というわけでもなく、
自らの理想の高さからはそれが相応な進退だと考えたのだろう。
ただ仕事を続けるだけならできそうでも、さらにそれ以前の所に、
まだ健全に働けるかどうかの関門があるのだと察せねばならぬ。
おのずと世の人事もまた健全化が落水の如くたるものである。
働きすぎで頭ヘロヘロなんてのが問題ともされないものだから、
60過ぎでも働き続けることが当たり前のように推進され続けている。
それにより若手にいい仕事が任されることもより減って、ヨレヨレの
老い耄れによる重職の牛耳りからの低生産性化なども黙認状態となって来た。
40で初老、60で還暦でいつ死んでももう構わない扱いという、
古来の年代観は、「疲労に負けないだけの心のハリ」という観点に
即して鑑みるのならば、医療の進歩で平均寿命が延びた今でも全く
時代遅れでも何でもない、世間の実相に即した法則となっているもの。
柳生一門の中でも最高傑作と伝わる新陰流六世、柳生厳包こそは、
若干44で主君に隠居を申し出、聞き入れられずに61でようやく
それを認可されたという。別に怠け者というわけでもなく、
自らの理想の高さからはそれが相応な進退だと考えたのだろう。
ただ仕事を続けるだけならできそうでも、さらにそれ以前の所に、
まだ健全に働けるかどうかの関門があるのだと察せねばならぬ。
俺がやってる荒行なぞは、加齢後にも疲れにくい体や、
疲れに負けない心を保つためのトレーニングであるが故に、
その過程として、夢も覚えてられないほどの疲労を伴うことがあるのだが。
世間で多くの人々に影響を与え、時には人様の人生を左右まで
しかねないような働きにかけては、さような無理を来たしてはならない。
常に万人への配慮を尽くせるだけの心の余裕と共に、為せることを為す。
それができないようであれば、即座な引退をも辞すべきではない。
最大限、我をも忘れるほどがむしゃらにことをやり抜くこととと、
世間での労働が一如だなんてのは、近年ではごく当たり前な上に、
殊勝なこととまで思い込まれているが、そんな真似は本来、
人に言われたことだけをやる下っ端にしか許された姿ではない。
敗戦後の、何もかもが米中韓の傀儡止まりな働きであることを奨励される
ようになった負け犬人種ならではの病理なのであり、最底辺よりただの
一段でも世間で上たろうというのなら、本来は許されないことなのである。
疲れに負けない心を保つためのトレーニングであるが故に、
その過程として、夢も覚えてられないほどの疲労を伴うことがあるのだが。
世間で多くの人々に影響を与え、時には人様の人生を左右まで
しかねないような働きにかけては、さような無理を来たしてはならない。
常に万人への配慮を尽くせるだけの心の余裕と共に、為せることを為す。
それができないようであれば、即座な引退をも辞すべきではない。
最大限、我をも忘れるほどがむしゃらにことをやり抜くこととと、
世間での労働が一如だなんてのは、近年ではごく当たり前な上に、
殊勝なこととまで思い込まれているが、そんな真似は本来、
人に言われたことだけをやる下っ端にしか許された姿ではない。
敗戦後の、何もかもが米中韓の傀儡止まりな働きであることを奨励される
ようになった負け犬人種ならではの病理なのであり、最底辺よりただの
一段でも世間で上たろうというのなら、本来は許されないことなのである。
世の中には、縁故や赤の他人はおろか、
敵対者同士の間に至るまで、ある種の信頼関係が伴い得るというのが、
武田上杉の「敵に塩を送る」という逸話などからも明らかなものだが。
いま旧西側諸国から見た場合の、紛争当事国としてのロシアなどには、
何一つとして信頼できる所などないように、皆無であることも大いにある。
敵対の中にも、義戦の体裁を保つためなどの確固たる目的性があって、
ある種の信頼関係を築き上げようとしたりするのは、武家時代の日本でも、
北条早雲以降の戦国時代などに限られた風潮で、そこでもやはり血みどろの
争いが繰り広げられていたのには違いないが、後の江戸時代のような泰平へと
世の中が立ち戻って行く兆しを見せ始めた時節であったのには違いない。
平時の観点からみれば、甘っちょろいようにすら思われかねないが、
多くの戦死者が出ているような中でも、機敏に玉石中の玉の如き道義性を見抜いて、
塩を送るような真似ができるのは、それこそ最大級の心のハリを保てた
ままでいる巧者だけにできることであり、ただひたすら疑心暗鬼の
乱戦などに興じたりするよりもさらに難しいこととなるのである。
敵対者同士の間に至るまで、ある種の信頼関係が伴い得るというのが、
武田上杉の「敵に塩を送る」という逸話などからも明らかなものだが。
いま旧西側諸国から見た場合の、紛争当事国としてのロシアなどには、
何一つとして信頼できる所などないように、皆無であることも大いにある。
敵対の中にも、義戦の体裁を保つためなどの確固たる目的性があって、
ある種の信頼関係を築き上げようとしたりするのは、武家時代の日本でも、
北条早雲以降の戦国時代などに限られた風潮で、そこでもやはり血みどろの
争いが繰り広げられていたのには違いないが、後の江戸時代のような泰平へと
世の中が立ち戻って行く兆しを見せ始めた時節であったのには違いない。
平時の観点からみれば、甘っちょろいようにすら思われかねないが、
多くの戦死者が出ているような中でも、機敏に玉石中の玉の如き道義性を見抜いて、
塩を送るような真似ができるのは、それこそ最大級の心のハリを保てた
ままでいる巧者だけにできることであり、ただひたすら疑心暗鬼の
乱戦などに興じたりするよりもさらに難しいこととなるのである。
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