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「信じる力」を育む 偉大なる生存の報告 Part321
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近ごろの日本人は、「信じる」と聞くとまず不審な宗教勧誘あたりを思い浮かべて
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
嫌悪感を抱くぐらいには、「信じる」という心がけ全般から遠ざかってしまっているもの。
実は、それこそがカルト組織などにとって最も都合の良い情操なのであり、
誰しもが何かを信じてかかったりすること全般を愚かなことだと見なして
控えているような中でこそ、利権の囲い込みによるカルトの肥え太りも捗るのである。
自分は別に何も信じてないんだから大丈夫、とか決め込んでいるような日本人こそが、
統一教会支配下な自民への支持や、創価芸能人だらけなテレビの愛好などで、
知らず知らずのうちからカルトに富を吸い上げられるカモと化して来たもの。
むしろ、「信じる力」というものは人それぞれ十分に持ち合わせた上で、
本当に信じる価値のある本物を信じて行くことのほうが、真のカルトへの撃退手段ともなる。
それは、宗教的な信仰である場合もあるが、むしろそうでないものーーたとえば
本当に有能な人材だとかに至るまでの、信じる力の底上げこそが真に必要なこととなる。
親鸞や蓮如の言行の中には、本当に来世なんて信じてたのか疑わしいものまで散見されるけれども、
その念仏という信仰によって、信じることに価値のある人や物事全般への信じる力を育んでいた
のには違いないからこそ、日本社会を篤い信頼関係で満たされた世の中へと導けていたのである。
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おまえらも、日本よりアメリカのほうが大事な上に、
アメリカが日本より中国を好むようなら、
日本より中国を優遇する手合いなんだよな?
反共、勝共すらただのおためごかしでしかなくて、
とにかく自分たちがいい思いさえできたなら
それでいいだけの、外患誘致オナメン集団なんだよな?
開き直ってキレ散らかすぐらいの反応しか見込まれないが。
アメリカが日本より中国を好むようなら、
日本より中国を優遇する手合いなんだよな?
反共、勝共すらただのおためごかしでしかなくて、
とにかく自分たちがいい思いさえできたなら
それでいいだけの、外患誘致オナメン集団なんだよな?
開き直ってキレ散らかすぐらいの反応しか見込まれないが。
自分たちが反共だからといって、アベノミクスで中国からの撤退を試みるも、
テンキー機能付き電卓のように技術も生産ラインも何もかも中国に没収された上、
そこにご主人様のアメリカが電気自動車生産などで参入を深めての、
中国とのより一層の蜜月化なぞを招いたという始末。
そのために中国のCO2排出量もウナギ登りであり続け、
それが死傷者すら続発させるほどの超酷暑を日本にもたらす事態ともなっている。
それはどういうことかといえば、
「おまえらは、信じてはならない相手を信じている」ということでもある。
反共という自分たちの望みを叶えてくれるわけでもない相手に、
その後ろ盾としての望みを託して、より一層の中共の栄華を招いた。
アメリカという、信用してはならない相手を信用して、望みに反する結果を招いた。
台湾なぞは、蒋介石が大陸からの退去時に、アメリカが中共を支援していたのを
見つけた所から「アメリカも全面的に信用していい相手ではない」というのを
信条にして来たために、韓日なぞより独立自尊的な体制でいられて来たというのに、
それすら怠っての飼い犬状態という、必要もない過ちを犯して来たのがおまえらである。
テンキー機能付き電卓のように技術も生産ラインも何もかも中国に没収された上、
そこにご主人様のアメリカが電気自動車生産などで参入を深めての、
中国とのより一層の蜜月化なぞを招いたという始末。
そのために中国のCO2排出量もウナギ登りであり続け、
それが死傷者すら続発させるほどの超酷暑を日本にもたらす事態ともなっている。
それはどういうことかといえば、
「おまえらは、信じてはならない相手を信じている」ということでもある。
反共という自分たちの望みを叶えてくれるわけでもない相手に、
その後ろ盾としての望みを託して、より一層の中共の栄華を招いた。
アメリカという、信用してはならない相手を信用して、望みに反する結果を招いた。
台湾なぞは、蒋介石が大陸からの退去時に、アメリカが中共を支援していたのを
見つけた所から「アメリカも全面的に信用していい相手ではない」というのを
信条にして来たために、韓日なぞより独立自尊的な体制でいられて来たというのに、
それすら怠っての飼い犬状態という、必要もない過ちを犯して来たのがおまえらである。
この世には信じるべき相手もそうでない相手もいた上で、
あえて信用してはならない相手を好き好んで信用したのがおまえらだし、
しかもそんなおまえらこそは、信じる相手をあえて選り好みしたがる、
「信じる力」に乏しい部類の、不信のトリコな部類の人種でもある。
まるで、目利きの能力に乏しいど素人が、ガラにもなく骨董に手を出して、
大金で贋物を掴まされるようなヘマを犯したりするのにも似て、
信じる力が乏しいにもかかわらず、無理に何かを信用しようとして、
かえって信用すべきではない相手を信用して、最悪の結果を招いている。
心理面で信頼意識よりも不信のほうが勝る部類の人間のほうが、かえって
他者を信用することに失敗しやすいという実例を示したのがおまえら。
それもそのはず、他者の不信を助長した上での火事場泥棒を目論むような
カルトやカルト組織ほど、他者を救うことなどではなく、自分たちの儲けしか
考えないのが普通なのだから、大いなる不信の上で一応何かを信じてやろう
なんてする部類の小人ほど、そこに引っかかりやすいのも必然なのである。
あえて信用してはならない相手を好き好んで信用したのがおまえらだし、
しかもそんなおまえらこそは、信じる相手をあえて選り好みしたがる、
「信じる力」に乏しい部類の、不信のトリコな部類の人種でもある。
まるで、目利きの能力に乏しいど素人が、ガラにもなく骨董に手を出して、
大金で贋物を掴まされるようなヘマを犯したりするのにも似て、
信じる力が乏しいにもかかわらず、無理に何かを信用しようとして、
かえって信用すべきではない相手を信用して、最悪の結果を招いている。
心理面で信頼意識よりも不信のほうが勝る部類の人間のほうが、かえって
他者を信用することに失敗しやすいという実例を示したのがおまえら。
それもそのはず、他者の不信を助長した上での火事場泥棒を目論むような
カルトやカルト組織ほど、他者を救うことなどではなく、自分たちの儲けしか
考えないのが普通なのだから、大いなる不信の上で一応何かを信じてやろう
なんてする部類の小人ほど、そこに引っかかりやすいのも必然なのである。
日本はアメリカに戦争で敗れたのだから、
体裁上から服従的であることは免れ得なかった面もあるが、
そんな中でも台湾人などと同じように、アメリカを完全に信用など
しないまま何とか日本社会を取り仕切って行こうとした日本人も相当数いた。
そういう日本人がいた程度には、戦後日本も隆盛を実現できた一方、
アメリカに完全服従、全面信頼なんていう連中が介入したぶんだけ
国益も損なわれ、特にそんな連中が政権を完全に乗っ取ったここ30年は、
傾国、亡国への破滅一直線をほしいままにする究極の醜態まみれでのみあった。
これもむしろ、人々の「信じる力」が致命的に損なわれた結果。
それがあればこそ、信じるべき相手とそうでない相手の分別も付く一方、
なければかえってそうでなくなってしまうという法則を、ほかでもない
ここ30年の日本の支配層こそが体現で実証したものだし、別にこちらが
いちいち強く主張するまでもなく、如実な法則として受け止める他ない。
体裁上から服従的であることは免れ得なかった面もあるが、
そんな中でも台湾人などと同じように、アメリカを完全に信用など
しないまま何とか日本社会を取り仕切って行こうとした日本人も相当数いた。
そういう日本人がいた程度には、戦後日本も隆盛を実現できた一方、
アメリカに完全服従、全面信頼なんていう連中が介入したぶんだけ
国益も損なわれ、特にそんな連中が政権を完全に乗っ取ったここ30年は、
傾国、亡国への破滅一直線をほしいままにする究極の醜態まみれでのみあった。
これもむしろ、人々の「信じる力」が致命的に損なわれた結果。
それがあればこそ、信じるべき相手とそうでない相手の分別も付く一方、
なければかえってそうでなくなってしまうという法則を、ほかでもない
ここ30年の日本の支配層こそが体現で実証したものだし、別にこちらが
いちいち強く主張するまでもなく、如実な法則として受け止める他ない。
アメリカの支配層は今もアングロサクソンで、真に一番の友好国もイギリス。
そのイギリスも五枚舌外交などと揶揄される、不遜きわまる他国への侵害によって
一時は世界的覇権まで奪取した国。その、他国を鼻紙か何かのように扱う傲慢さは
ちゃんとアメリカにも受け継がれての、悪の帝国としての暴慢三昧を尽くして来たもの。
連中と比べれば、中国当たりのほうがまだ他国との共存共栄を自主的に尊重した
冊封体制などを営んで来たものだし、今もそれは変わらないからこそ、英米によって
荒廃に追い込まれている貧困国なども、その多くが中国を支持しているのが現状である。
ユダヤ人などとも並んで、組織ぐるみで他者を策謀によってでも侵害し続けて来た度合いでは、
世界でも最悪級の行状であり続けて来た連中なんかを、なぜ面従腹背すらかなぐり捨てての
全面的な信用対象なんかにする馬鹿な真似を、韓日の権力者たちは犯して来たのか?
それこそ、当人たちが他者への不信に溺れた亡者だからである。
あまりにもその功績が明白かつ絶大であるために、敵対する隣国からの評価や信奉すら絶えない
徳川家康ですら、いざとなればタダのデブ呼ばわりできるぐらいには、信じないと決めた相手を
信じないでかかる欲求が大きすぎるために、そこに溺れて何もかもを信じられなくなった結果、
素人の骨董趣味なみに下手くそ極まる信用を便宜的に試みるような真似に及んだのである。
そのイギリスも五枚舌外交などと揶揄される、不遜きわまる他国への侵害によって
一時は世界的覇権まで奪取した国。その、他国を鼻紙か何かのように扱う傲慢さは
ちゃんとアメリカにも受け継がれての、悪の帝国としての暴慢三昧を尽くして来たもの。
連中と比べれば、中国当たりのほうがまだ他国との共存共栄を自主的に尊重した
冊封体制などを営んで来たものだし、今もそれは変わらないからこそ、英米によって
荒廃に追い込まれている貧困国なども、その多くが中国を支持しているのが現状である。
ユダヤ人などとも並んで、組織ぐるみで他者を策謀によってでも侵害し続けて来た度合いでは、
世界でも最悪級の行状であり続けて来た連中なんかを、なぜ面従腹背すらかなぐり捨てての
全面的な信用対象なんかにする馬鹿な真似を、韓日の権力者たちは犯して来たのか?
それこそ、当人たちが他者への不信に溺れた亡者だからである。
あまりにもその功績が明白かつ絶大であるために、敵対する隣国からの評価や信奉すら絶えない
徳川家康ですら、いざとなればタダのデブ呼ばわりできるぐらいには、信じないと決めた相手を
信じないでかかる欲求が大きすぎるために、そこに溺れて何もかもを信じられなくなった結果、
素人の骨董趣味なみに下手くそ極まる信用を便宜的に試みるような真似に及んだのである。
信じるべき相手を信じ、そうでない相手を信じない慧眼を養うためにこそ、
信じる力を育む必要があるというのが、おまえらこそが示した事実であった。
まず、何ものをもいざとなれば信じられる肯定意識の高さがあった上で、
万事万物万人を等しく比較査定の対象にできた上で、信じるべきものを信じる。
不信の暴走に溺れている亡者はそれが出来ないが故に、信じるべきでないものをも信じてしまう。
前向きであることを奨励する言説自体は巷に広く出回っているものだが、
それはあくまで自分が信じると決めたものを信じることにかけてなどの話で、
まず何もかもに対して肯定的であることなどを促していることは非常に稀である。
やたらと前向きなフリをしている中年おばさんなどが、心中では嫌いたい相手への
憎悪によるヒステリーに常に見舞われているなんてのも非常にありがちなことで、それは
今言ってるような話の中での肯定意識の高さなどとは、似てもいないし非なるものである。
なんなら俺や否定派なみに表向き肯定的というわけでなくてもいいぐらいであった上で、
それでも心中、万物をもいざとなれば肯定できるだけの、信じる底力こそが必要なのである。
信じる力を育む必要があるというのが、おまえらこそが示した事実であった。
まず、何ものをもいざとなれば信じられる肯定意識の高さがあった上で、
万事万物万人を等しく比較査定の対象にできた上で、信じるべきものを信じる。
不信の暴走に溺れている亡者はそれが出来ないが故に、信じるべきでないものをも信じてしまう。
前向きであることを奨励する言説自体は巷に広く出回っているものだが、
それはあくまで自分が信じると決めたものを信じることにかけてなどの話で、
まず何もかもに対して肯定的であることなどを促していることは非常に稀である。
やたらと前向きなフリをしている中年おばさんなどが、心中では嫌いたい相手への
憎悪によるヒステリーに常に見舞われているなんてのも非常にありがちなことで、それは
今言ってるような話の中での肯定意識の高さなどとは、似てもいないし非なるものである。
なんなら俺や否定派なみに表向き肯定的というわけでなくてもいいぐらいであった上で、
それでも心中、万物をもいざとなれば肯定できるだけの、信じる底力こそが必要なのである。
[YouTubeで再生]
今季のサンマも一度だけ食べてみたが、若すぎて皮がパリパリに焼き上がらなくて
全然ダメだった。どうも寿命2年のサンマを生後1年以内から獲り尽くす、
農業でいう青田刈りのような真似で豊漁を装っている模様。
サンマに限らず、海水温の上昇で漁業資源にもあっちが減ってこっちが増えるような
大変動が多発していて、そこに巧みに対応して行ってる業者などもいる一方で、
サンマ漁みたいに旧態依然に固執してろくでもない結果を招いているようなのもいる。
地球温暖化は人間のCO2排出の増加が主因だっていうのは、
実感的にはもう誰しもが認めざるを得ない所に来ているけれども、
俺が科学板で提示した「日陰の気温は42度を超えない法則」などとも同レベルに、
完全な証明などはしきれないでいる因果関係であるために、自らの儲けのため
とあらばそんな問題なぞ知ったことかと暴走を続ける者も後を絶たない。
今季のサンマも一度だけ食べてみたが、若すぎて皮がパリパリに焼き上がらなくて
全然ダメだった。どうも寿命2年のサンマを生後1年以内から獲り尽くす、
農業でいう青田刈りのような真似で豊漁を装っている模様。
サンマに限らず、海水温の上昇で漁業資源にもあっちが減ってこっちが増えるような
大変動が多発していて、そこに巧みに対応して行ってる業者などもいる一方で、
サンマ漁みたいに旧態依然に固執してろくでもない結果を招いているようなのもいる。
地球温暖化は人間のCO2排出の増加が主因だっていうのは、
実感的にはもう誰しもが認めざるを得ない所に来ているけれども、
俺が科学板で提示した「日陰の気温は42度を超えない法則」などとも同レベルに、
完全な証明などはしきれないでいる因果関係であるために、自らの儲けのため
とあらばそんな問題なぞ知ったことかと暴走を続ける者も後を絶たない。
そういう所で、人間の「信じない力」というものもまた功利性を帯びるものなれば、
自らの信じる力を蔑ろにしてでもそちらを保守増進しようなどとする者もまた後を絶たない。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726653672...
このスレでも、中国に温暖化の主因を認められるのが都合が悪い部類の輩が、
酷暑の原因をあろうことか、CO2排出量がむしろ減っている日本の東京などに
擦り付けようなどとしていたものだが、自らの都合と信じない力の発奮によっては、
それぐらいのことは臆面もなく繰り返せるのが人間という生き物の常である。
そういう連中の物言いに耳を貸さないぐらいのことは簡単でも、
連中並みな不信の虜囚に自らまでもが成り果てないようにするのは、
必ずしも簡単なことではなく、ヒステリー一つでも簡単に陥ってしまうものである。
自らの都合で物事の是非を平気で覆すような輩との親交はおろか、
敵対的な論争に及んだりする中でもそうなりがちなものであり、
だからこそ宗教アンチこそがカルトのカモに成り果てるようなことにもなる。
なんなら論争相手の物言いの中にすら、信ずべき論弁が少なからずあり得ることを
見越せるほどの肯定意識の旺盛さこそが、さような不信の徒との同じ穴の狢化を防ぐのである。
自らの信じる力を蔑ろにしてでもそちらを保守増進しようなどとする者もまた後を絶たない。
https://bbs0.meiwasuisan.com/toriaezu/1726653672...
このスレでも、中国に温暖化の主因を認められるのが都合が悪い部類の輩が、
酷暑の原因をあろうことか、CO2排出量がむしろ減っている日本の東京などに
擦り付けようなどとしていたものだが、自らの都合と信じない力の発奮によっては、
それぐらいのことは臆面もなく繰り返せるのが人間という生き物の常である。
そういう連中の物言いに耳を貸さないぐらいのことは簡単でも、
連中並みな不信の虜囚に自らまでもが成り果てないようにするのは、
必ずしも簡単なことではなく、ヒステリー一つでも簡単に陥ってしまうものである。
自らの都合で物事の是非を平気で覆すような輩との親交はおろか、
敵対的な論争に及んだりする中でもそうなりがちなものであり、
だからこそ宗教アンチこそがカルトのカモに成り果てるようなことにもなる。
なんなら論争相手の物言いの中にすら、信ずべき論弁が少なからずあり得ることを
見越せるほどの肯定意識の旺盛さこそが、さような不信の徒との同じ穴の狢化を防ぐのである。
トランプは温暖化人為説否定派だが、
だからこそ電気自動車の無理な普及にも反対で、
それは結果的に現状での世界のCO2排出量の削減にもつながる。
バイデン政権のほうが、電気自動車の普及の推進によって、
海の向こうの生産国でのCO2排出量を爆上げさせたのもまた、
アメリカという国が中国という、信用に値しない国を信じた結果でもある。
米国内や日本の工場や発電所などは、それなりにCO2排出対策にも
取り組んでいて、だからこそコストもはずむ。中国はそんなこともなくて、
未だに石炭利用なども頻繁であるために、大気汚染対策を講じようとも、
CO2の排出までは抑えられていない、それを引き換えにしたコストの低さ。
おかげで電気自動車の原価も下がり、テスラ車も米国などで売れば売るほど
儲けにもなった。金カネのためとあらば信じるべきでないような相手でも信じる
という邪信の結果としての、本末転倒な電気自動車の普及を来たしたもの。
信じるべきものを信じないトランプ以上に、
信じるべきでないものを信じたバイデンやマスクのほうが、
より悲惨な事態を招いたのを見るに、邪信の害は不信にも勝るといえる。
行動的な馬鹿は不動よりも始末が悪い、とでもいったところか。
だからこそ電気自動車の無理な普及にも反対で、
それは結果的に現状での世界のCO2排出量の削減にもつながる。
バイデン政権のほうが、電気自動車の普及の推進によって、
海の向こうの生産国でのCO2排出量を爆上げさせたのもまた、
アメリカという国が中国という、信用に値しない国を信じた結果でもある。
米国内や日本の工場や発電所などは、それなりにCO2排出対策にも
取り組んでいて、だからこそコストもはずむ。中国はそんなこともなくて、
未だに石炭利用なども頻繁であるために、大気汚染対策を講じようとも、
CO2の排出までは抑えられていない、それを引き換えにしたコストの低さ。
おかげで電気自動車の原価も下がり、テスラ車も米国などで売れば売るほど
儲けにもなった。金カネのためとあらば信じるべきでないような相手でも信じる
という邪信の結果としての、本末転倒な電気自動車の普及を来たしたもの。
信じるべきものを信じないトランプ以上に、
信じるべきでないものを信じたバイデンやマスクのほうが、
より悲惨な事態を招いたのを見るに、邪信の害は不信にも勝るといえる。
行動的な馬鹿は不動よりも始末が悪い、とでもいったところか。
世の中が不信と邪信ばかりで占められていて、
信じる力の高さありきな正信などが食い入る隙もない。
そんな中でも、個人的に信じる力を育むことは可能ではあるけれども、
それが特段、世の中で特別な才覚として評価されるようなこともなく、
評価されるとしてもそれによって何らかの別の成果を挙げた場合に限ることとなる。
その才覚によって、たとえば何かの発明をしたりすれば、
それはそれで評価されたりもするだろうけれども、その発明に至った
経緯としての、特別な手法などへの信用意識のほうは別に評価されない。
そのために、そのような発明をほかの人間も模倣したり、より発展させたり
といったことまでは現状、期待できないままに終わるであろう。
諸葛孔明などもそのような発明を個人的に多く試みたもので、
饅頭とか猫車とか地雷とか、今にまで残るものも多くあるけれども、
あまりにも本人だけのスタンドプレーに蜀漢全体がおんぶにだっことなり過ぎた
ために人材が育たず、孔明の死後には亡国の憂き目に遭ったのだった。
然れば、やはり世の中に信じる力の強さや、それによる正信が広く通用して
行くことこそは、一人や二人の大天才が生じる以上の力を持つのだとも言える。
後者のほうが見栄えがよかろうとも、真に目指すべきなのは前者のほうなのである。
信じる力の高さありきな正信などが食い入る隙もない。
そんな中でも、個人的に信じる力を育むことは可能ではあるけれども、
それが特段、世の中で特別な才覚として評価されるようなこともなく、
評価されるとしてもそれによって何らかの別の成果を挙げた場合に限ることとなる。
その才覚によって、たとえば何かの発明をしたりすれば、
それはそれで評価されたりもするだろうけれども、その発明に至った
経緯としての、特別な手法などへの信用意識のほうは別に評価されない。
そのために、そのような発明をほかの人間も模倣したり、より発展させたり
といったことまでは現状、期待できないままに終わるであろう。
諸葛孔明などもそのような発明を個人的に多く試みたもので、
饅頭とか猫車とか地雷とか、今にまで残るものも多くあるけれども、
あまりにも本人だけのスタンドプレーに蜀漢全体がおんぶにだっことなり過ぎた
ために人材が育たず、孔明の死後には亡国の憂き目に遭ったのだった。
然れば、やはり世の中に信じる力の強さや、それによる正信が広く通用して
行くことこそは、一人や二人の大天才が生じる以上の力を持つのだとも言える。
後者のほうが見栄えがよかろうとも、真に目指すべきなのは前者のほうなのである。
親鸞や蓮如が民間の下層にまで徹底的に念仏信仰を広めた武家時代も、
どちらかといえば乱世の部類だったし、乱世だから不可能なことでもない。
むしろ乱世であろうとも、着実に人々の信頼関係を高めて行くための
手段として打ってつけなのが、念仏のような方便を凝らした手法でもある。
あの中国で、落とし物をネコババする人間の一人もいなくなったという、
前漢文帝の時代などのように、本物の治世たるや、もはや積極的な取り組み
などを必要とするまでもなく、人々の信頼関係が自然と高まって行くものである。
乱世における、現実社会からの厭離穢土欣求浄土の実現のためにこそ、
人々の信頼関係を積極的に高めて行こうとする試みが意味を持ち合わせて来る。
それは民間での草の根レベルからの場合もあれば、大権力者たちの取り組みで
あることもあり、日本の戦国期から泰平期への転換などを鑑みるに、前者による
前準備があった上で後者の仕上げがかかるというのが、反正の黄金比たるようである。
家康公も信長や秀吉ほど個人としての能力が突出していたわけではないが、
臣下との信頼関係を高めることなどにかけてはより懸命であったが如く、
最上級の権力者に至るまで信への尊重が十分たることで泰平も確立される。
乱世の権力者ほどそれが難しいという所もあるし、それも才能の一種ではあるが。
どちらかといえば乱世の部類だったし、乱世だから不可能なことでもない。
むしろ乱世であろうとも、着実に人々の信頼関係を高めて行くための
手段として打ってつけなのが、念仏のような方便を凝らした手法でもある。
あの中国で、落とし物をネコババする人間の一人もいなくなったという、
前漢文帝の時代などのように、本物の治世たるや、もはや積極的な取り組み
などを必要とするまでもなく、人々の信頼関係が自然と高まって行くものである。
乱世における、現実社会からの厭離穢土欣求浄土の実現のためにこそ、
人々の信頼関係を積極的に高めて行こうとする試みが意味を持ち合わせて来る。
それは民間での草の根レベルからの場合もあれば、大権力者たちの取り組みで
あることもあり、日本の戦国期から泰平期への転換などを鑑みるに、前者による
前準備があった上で後者の仕上げがかかるというのが、反正の黄金比たるようである。
家康公も信長や秀吉ほど個人としての能力が突出していたわけではないが、
臣下との信頼関係を高めることなどにかけてはより懸命であったが如く、
最上級の権力者に至るまで信への尊重が十分たることで泰平も確立される。
乱世の権力者ほどそれが難しいという所もあるし、それも才能の一種ではあるが。
とはいえやはり、諸葛孔明や宮本武蔵のような突出者の孤軍奮闘に憧れを抱く者も、
江戸期の日本のような治世を含むいつの世にも絶えないのが実情でもあるが。
それらはむしろ、乱世の仇花ゆえにこその華々しさであるもので、
天下分け目の大戦での活躍で勝ち切って、撥乱反正を実現したような事実もない。
武蔵の二刀流なども、一対一や一対多の戦いで勝ち抜くために大変な有効性を帯びる
戦法ではあるものの、多対多の集団戦では横切りが同士討ちを招きかねないなどの
大いなる欠点があり、かえって周囲の足を引っ張る協調性の低さの原因にもなりかねない。
孔明の突出こそが蜀漢の人材不足の原因になったのなども同じように、
個の突出と集団の強勢化は相容れないところもあるのが現実法則であるが故に、
世の中全体の平和や繁栄を願う以上は、ある程度は滅私の心がけもまたあるのでなければならぬ。
もちろんそれが全体主義級の自己犠牲礼賛などに陥るのも行き過ぎになるものだし、
個の力の養生を集団の繁栄に役立てることにかけても、最善であるべきだというだけのことである。
江戸期の日本のような治世を含むいつの世にも絶えないのが実情でもあるが。
それらはむしろ、乱世の仇花ゆえにこその華々しさであるもので、
天下分け目の大戦での活躍で勝ち切って、撥乱反正を実現したような事実もない。
武蔵の二刀流なども、一対一や一対多の戦いで勝ち抜くために大変な有効性を帯びる
戦法ではあるものの、多対多の集団戦では横切りが同士討ちを招きかねないなどの
大いなる欠点があり、かえって周囲の足を引っ張る協調性の低さの原因にもなりかねない。
孔明の突出こそが蜀漢の人材不足の原因になったのなども同じように、
個の突出と集団の強勢化は相容れないところもあるのが現実法則であるが故に、
世の中全体の平和や繁栄を願う以上は、ある程度は滅私の心がけもまたあるのでなければならぬ。
もちろんそれが全体主義級の自己犠牲礼賛などに陥るのも行き過ぎになるものだし、
個の力の養生を集団の繁栄に役立てることにかけても、最善であるべきだというだけのことである。
大陸側から張り出していた高気圧が、秋雨前線で北に押し上げられて
列島から退去させられたのとほぼ同時に、馬鹿みたいな酷暑も急激な立ち消え。
節気を踏みにじる異常気象の真因がなんだったのかも丸見え。
その過程で、石川の激甚級の大雨被害なども生じてしまったわけで、
数多の大木の流木が洪水の土砂に含まれるほど、未曽有の事態であるのもまた必定。
俺もほんの近ごろ、酷暑の原因を中華のCO2と見定めたばかりだし、
今になってこんなことを言うのも、洞察力という点では
「事後孔明」の域を出ない所があるだろうが。
不信と邪信の積み重ねでこんな事態が招かれて来たのを、
信じる力の養生で打開して行こうという思いの持ち主であるがゆえに、
本当に打開できる可能性があることにまで、些かの疑いも差し挟めることはない。
極端にトリッキーな権謀術数なども多く介するような乱世を、
その性向から矯めて行けるのもまた、そちらであるのに違いなく。
列島から退去させられたのとほぼ同時に、馬鹿みたいな酷暑も急激な立ち消え。
節気を踏みにじる異常気象の真因がなんだったのかも丸見え。
その過程で、石川の激甚級の大雨被害なども生じてしまったわけで、
数多の大木の流木が洪水の土砂に含まれるほど、未曽有の事態であるのもまた必定。
俺もほんの近ごろ、酷暑の原因を中華のCO2と見定めたばかりだし、
今になってこんなことを言うのも、洞察力という点では
「事後孔明」の域を出ない所があるだろうが。
不信と邪信の積み重ねでこんな事態が招かれて来たのを、
信じる力の養生で打開して行こうという思いの持ち主であるがゆえに、
本当に打開できる可能性があることにまで、些かの疑いも差し挟めることはない。
極端にトリッキーな権謀術数なども多く介するような乱世を、
その性向から矯めて行けるのもまた、そちらであるのに違いなく。
人々の信頼関係が高かった時代には、
近所づきあいなりムラ社会なりでの自治関係がより濃厚だったというのは、
ほんの近年までの田舎などにも見られた風習である。
それを人情深さの象徴として懐かしがる向きもある一方で、
個人主義的な価値観によって忌まわしがる者もいる。
ムラ社会自体はそれなりに穏健だった場合もあれば、
私刑まで横行するような陰惨さを帯びた場合もあったりで、
それが評価の良し悪しにそれぞれの異同がある主因ともなっているものである。
一方で、個人主義や核家族化によってそれらが損なわれ、
世の趨勢はもっぱら中央権力からの統制によってのみ左右されるように
なって後の日本社会が破綻の域に達してしまったのも事実だし、
それは同様な体制と共に無数の戦乱や亡国を繰り返して来た西洋なども同じこと。
ムラ社会的な信頼関係を、体裁だけ復興させてみた所でうまくいくはずもなく、
最悪、山口の限界集落でのあの事件みたいなことにすらなりかねないもので、
まず人々の信じる力が十二分ならしめられて後に、その健全な復興も見込まれるものである。
近所づきあいなりムラ社会なりでの自治関係がより濃厚だったというのは、
ほんの近年までの田舎などにも見られた風習である。
それを人情深さの象徴として懐かしがる向きもある一方で、
個人主義的な価値観によって忌まわしがる者もいる。
ムラ社会自体はそれなりに穏健だった場合もあれば、
私刑まで横行するような陰惨さを帯びた場合もあったりで、
それが評価の良し悪しにそれぞれの異同がある主因ともなっているものである。
一方で、個人主義や核家族化によってそれらが損なわれ、
世の趨勢はもっぱら中央権力からの統制によってのみ左右されるように
なって後の日本社会が破綻の域に達してしまったのも事実だし、
それは同様な体制と共に無数の戦乱や亡国を繰り返して来た西洋なども同じこと。
ムラ社会的な信頼関係を、体裁だけ復興させてみた所でうまくいくはずもなく、
最悪、山口の限界集落でのあの事件みたいなことにすらなりかねないもので、
まず人々の信じる力が十二分ならしめられて後に、その健全な復興も見込まれるものである。
少子化著しい今みたいな時代に、職員不足による学校教育の破綻危機
なんてものが問題化していたりするのも、本当は子供への教育なんてものもまた、
寺子屋的なムラ社会に属する小規模さと共に取り組むほうが適切だからである。
日本人の識字率が昔から抜群に高かったりするのも、それが元手であった上で、
近代以降しばらくは、国の正規教育がその残滓と共に成立し、戦後少しくの間は
それも破綻したために、団塊世代のような総員で無教育な世代が生じた一方、
その後またしばらくの間、経済的な富裕のおかげ教育の充実を取り戻した。
バブル崩壊以降はそれも尻すぼみとなり、ついには破綻の危機にまで至っている。
そこを近代以降に普及したような教育制度の再興だけで取り繕おうにも、
世の中の個人主義礼賛の傾向があまりにも深刻化してしまっているために、
集団教育に不満を抱き、不登校に陥るような子供を引き留める目途も立たない。
ゆたぼん一家が打ち出していたような完全な家庭教育一本でもなければ、
大規模な学校での集団教育でもなく、寺子屋ぐらいの規模での教育が世の中に
浸透して行くことが、教育体制を最も盤石ならしめるものであるのだけれども、
そのためにもやはり、まず人々の社会的な信頼関係の底上げが必須となるのである。
なんてものが問題化していたりするのも、本当は子供への教育なんてものもまた、
寺子屋的なムラ社会に属する小規模さと共に取り組むほうが適切だからである。
日本人の識字率が昔から抜群に高かったりするのも、それが元手であった上で、
近代以降しばらくは、国の正規教育がその残滓と共に成立し、戦後少しくの間は
それも破綻したために、団塊世代のような総員で無教育な世代が生じた一方、
その後またしばらくの間、経済的な富裕のおかげ教育の充実を取り戻した。
バブル崩壊以降はそれも尻すぼみとなり、ついには破綻の危機にまで至っている。
そこを近代以降に普及したような教育制度の再興だけで取り繕おうにも、
世の中の個人主義礼賛の傾向があまりにも深刻化してしまっているために、
集団教育に不満を抱き、不登校に陥るような子供を引き留める目途も立たない。
ゆたぼん一家が打ち出していたような完全な家庭教育一本でもなければ、
大規模な学校での集団教育でもなく、寺子屋ぐらいの規模での教育が世の中に
浸透して行くことが、教育体制を最も盤石ならしめるものであるのだけれども、
そのためにもやはり、まず人々の社会的な信頼関係の底上げが必須となるのである。
「大乗仏教」の再興を心から希求しているのには違いない。
小乗仏教とは違って、
仏教発祥以前の古代バラモン教やタントラ教、
ゾロアスター教や古代エジプトのヤーマ信仰、
道教や日本神道や武士道、武芸などとの習合も果たした、
より盛大な世界宗教としての大乗仏教の再興を、な。
小乗仏教とは違って、
仏教発祥以前の古代バラモン教やタントラ教、
ゾロアスター教や古代エジプトのヤーマ信仰、
道教や日本神道や武士道、武芸などとの習合も果たした、
より盛大な世界宗教としての大乗仏教の再興を、な。
小乗仏教の本場であるタイにも、
死刑囚の遺体を多数飾った死体博物館があるように、
仏教国だからといって五戒を完璧に守っているとも限らない。
昔から五戒を奨励事項程度に捉えている
大乗仏教のほうが現実的である上に、
実際問題としてより多くの国々を平和や繁栄へと導いて来ている。
その由緒もなんなら、小乗仏教よりも古代からの、
全世界規模に上るぐらいで、よりカルトと見る余地もない。
いっそのこと、おまえらに対してだけは、
「仏教の再興を望んでいるわけではない」とまで言っておこうか?
「ただの仏教以上に上質な、ある種の世界宗教の復興を望んでいる」と。
死刑囚の遺体を多数飾った死体博物館があるように、
仏教国だからといって五戒を完璧に守っているとも限らない。
昔から五戒を奨励事項程度に捉えている
大乗仏教のほうが現実的である上に、
実際問題としてより多くの国々を平和や繁栄へと導いて来ている。
その由緒もなんなら、小乗仏教よりも古代からの、
全世界規模に上るぐらいで、よりカルトと見る余地もない。
いっそのこと、おまえらに対してだけは、
「仏教の再興を望んでいるわけではない」とまで言っておこうか?
「ただの仏教以上に上質な、ある種の世界宗教の復興を望んでいる」と。
(>>236の続き)
自分自身の学生時代なども振り返ってみるに、学校教育が本当に
指導要領通りの授業や宿題だけで成立していた、なんてことはない。
それらだけでもやっていけてたのなんて一部の天才や秀才だけで、
ほとんどの生徒たちは教師なり塾講師なり友人なりの助けと共に
初めて勉強を十分ならしめていたもので、俺なんかも大怪我
による呼吸困難のせいでその選択肢が完全に絶たれたのが、
正規教育をドロップアウトする一因になったものである。
それは、本当は生徒たちの自主性などに頼ることなく、
学校教育の中に基本的に組み込まれておくべきものなのだけれども、
そこまでの余裕は少なくとも今の教育体制にはなく、子供たちの
信頼関係が世間全体と共に引き下げられた結果、昔の俺のような
ドロップアウトが頻発するようになったのを止めることもできない。
俺並みに奇特な大怪我などでそれが無理になる場合は、
また別のサポートがあるべきだけれども、そうでなくとも、
学生たちが助け合いによって勉強を補完し合って来たりしたことの
復興ないし代替は全般的に必要になって来ているもので、それは
教育制度の改革などに頼るべき所もあるにしろ、その本質の所に、
信頼関係の増進を据えて行くことが必要であるのには違いないのである。
自分自身の学生時代なども振り返ってみるに、学校教育が本当に
指導要領通りの授業や宿題だけで成立していた、なんてことはない。
それらだけでもやっていけてたのなんて一部の天才や秀才だけで、
ほとんどの生徒たちは教師なり塾講師なり友人なりの助けと共に
初めて勉強を十分ならしめていたもので、俺なんかも大怪我
による呼吸困難のせいでその選択肢が完全に絶たれたのが、
正規教育をドロップアウトする一因になったものである。
それは、本当は生徒たちの自主性などに頼ることなく、
学校教育の中に基本的に組み込まれておくべきものなのだけれども、
そこまでの余裕は少なくとも今の教育体制にはなく、子供たちの
信頼関係が世間全体と共に引き下げられた結果、昔の俺のような
ドロップアウトが頻発するようになったのを止めることもできない。
俺並みに奇特な大怪我などでそれが無理になる場合は、
また別のサポートがあるべきだけれども、そうでなくとも、
学生たちが助け合いによって勉強を補完し合って来たりしたことの
復興ないし代替は全般的に必要になって来ているもので、それは
教育制度の改革などに頼るべき所もあるにしろ、その本質の所に、
信頼関係の増進を据えて行くことが必要であるのには違いないのである。
近ごろの子供たちが交友関係などを疎かにしがちなのは、
ネットの普及もまたその一因になっている所があるようで、曰く、
「ネット上にはすごく賢い人がいるのに、自分の周りはサル並みしかいない」
的な失望によって、始めから近場の信頼関係を見限ってかかったりするらしい。
自分もまた、そのすごく賢い人との切磋琢磨などによって自己向上できれば
それもまたアリではあるにしろ、実際には観客に止まるのが十中八九の関の山で、
だからこそ学術目的で軍用から一般へと解放されたネットの普及と共に、
かえって世界中の人々の平均知能も低下の一途を辿ってしまったのである。
この世でアニメを見るほど誰にでも出来ることもなく、
アニメを作るほど誰にでも出来るわけではないこともないように、
賢聖の凄さに感嘆するほど簡単なことはなく、賢聖になるほど難しいことはない。
自分がただ前者としてネット上の賢い人の言動などを見ているだけであるようなら、
そのような身の程をわきまえて、それと比べればサル同然にしか見えないような
周囲の友人などと共に、着実にそこを志すなどの心がけも共にあって然るべきものである。
ネットの普及もまたその一因になっている所があるようで、曰く、
「ネット上にはすごく賢い人がいるのに、自分の周りはサル並みしかいない」
的な失望によって、始めから近場の信頼関係を見限ってかかったりするらしい。
自分もまた、そのすごく賢い人との切磋琢磨などによって自己向上できれば
それもまたアリではあるにしろ、実際には観客に止まるのが十中八九の関の山で、
だからこそ学術目的で軍用から一般へと解放されたネットの普及と共に、
かえって世界中の人々の平均知能も低下の一途を辿ってしまったのである。
この世でアニメを見るほど誰にでも出来ることもなく、
アニメを作るほど誰にでも出来るわけではないこともないように、
賢聖の凄さに感嘆するほど簡単なことはなく、賢聖になるほど難しいことはない。
自分がただ前者としてネット上の賢い人の言動などを見ているだけであるようなら、
そのような身の程をわきまえて、それと比べればサル同然にしか見えないような
周囲の友人などと共に、着実にそこを志すなどの心がけも共にあって然るべきものである。
いざそういう心がけを抱いてみれば、本当に自分がネット上の凄い人並みに
なることなんて夢のまた夢だったのと気づかされて絶望してしまう、
なんてことにもなりやすいために、それを嫌がる気持ちなどもあるだろう。
しかれども、その凄い人たちもまた元々は、自分の周囲に広がっているのとも
同じような無名の田畑の中から頭角を現して行ったのには変わりないわけで、
その大元の所の土壌も尊重できないような者が、そこに至れることも決してない。
日本人も総員で諸外国の人々より知能、技能などで平均値から秀でているからこそ、
この暴政による抑圧下ですら、ポンポンとある種の分野での突出者などが現れ続けている。
その背景には、古くからの密教や禅的な自己求道の体系の普及もまたある一方で、まず
最底辺級の凡夫に至るまで人間不信からの退廃に陥ったりすることなく、いざとなれば
鼻血を恐れないぐらいの努力も進んでできる程度の、心のハリの普及などもあったのである。
念仏信仰などは、それ自体が能力開発の体系であるわけではないが、
誰しもがそのスタートラインに立てる程度の底上げを世にもたらして来たものではある。
自らが能力者そのものにまでならずとも、その母体たる世の中の一員たる手段。
まず自らがそのような最低条件を満たすのでもなければ、凄い人になるのも、
夢のうちに入れることすらおこがましいものと知るべきなのである。
なることなんて夢のまた夢だったのと気づかされて絶望してしまう、
なんてことにもなりやすいために、それを嫌がる気持ちなどもあるだろう。
しかれども、その凄い人たちもまた元々は、自分の周囲に広がっているのとも
同じような無名の田畑の中から頭角を現して行ったのには変わりないわけで、
その大元の所の土壌も尊重できないような者が、そこに至れることも決してない。
日本人も総員で諸外国の人々より知能、技能などで平均値から秀でているからこそ、
この暴政による抑圧下ですら、ポンポンとある種の分野での突出者などが現れ続けている。
その背景には、古くからの密教や禅的な自己求道の体系の普及もまたある一方で、まず
最底辺級の凡夫に至るまで人間不信からの退廃に陥ったりすることなく、いざとなれば
鼻血を恐れないぐらいの努力も進んでできる程度の、心のハリの普及などもあったのである。
念仏信仰などは、それ自体が能力開発の体系であるわけではないが、
誰しもがそのスタートラインに立てる程度の底上げを世にもたらして来たものではある。
自らが能力者そのものにまでならずとも、その母体たる世の中の一員たる手段。
まず自らがそのような最低条件を満たすのでもなければ、凄い人になるのも、
夢のうちに入れることすらおこがましいものと知るべきなのである。
信じる力は才なき者の能力も引き上げ、不信は才ある者まで無能ならしめる。
世の中には孔明や武蔵のような独立独行の突出者もまた少数いるとはいえ、
大多数は人との助け合い、切磋琢磨によってのみ向上が果たせるもの。
なればこそ、大昔から最底辺の平民に至るまでの信頼関係を育んで来た日本こそが、
人々の人間不信をも助長する、騙し合い貶め合いばかりを繰り返して来た
諸外国などよりも各種分野での突出者に恵まれて来たのである。
人との信じ合いは、必ずしも自らの突出を約束するものなどではない。
むしろ自分以外の誰かの成功の助成までともに楽しめればこそのそれ、
とすら言えるものではあるが、それが巡り巡って自らの成功に繋がることもある。
親鸞「念仏は親ですらない、自分ためにするもの」というのも、
要は「情けは人の為ならず」と同じような意味であって、
信じる力の養生はいつでもAll for One、One for Allたるものである。
世の中には孔明や武蔵のような独立独行の突出者もまた少数いるとはいえ、
大多数は人との助け合い、切磋琢磨によってのみ向上が果たせるもの。
なればこそ、大昔から最底辺の平民に至るまでの信頼関係を育んで来た日本こそが、
人々の人間不信をも助長する、騙し合い貶め合いばかりを繰り返して来た
諸外国などよりも各種分野での突出者に恵まれて来たのである。
人との信じ合いは、必ずしも自らの突出を約束するものなどではない。
むしろ自分以外の誰かの成功の助成までともに楽しめればこそのそれ、
とすら言えるものではあるが、それが巡り巡って自らの成功に繋がることもある。
親鸞「念仏は親ですらない、自分ためにするもの」というのも、
要は「情けは人の為ならず」と同じような意味であって、
信じる力の養生はいつでもAll for One、One for Allたるものである。
また、不健康老人は体力の低下のせいで睡眠の質が悪くなりすぎて
見ることもできないという夢をみたものだが。
近頃よく見るのが、東京から実家に帰ろうとするのに帰れない夢。
今朝見たのは、都県境付近の千葉だか埼玉だかの田舎じみた場所から、
自転車で羽田空港まで赴いて飛行機で帰ろうとする夢。
どうも自転車では出発時刻に間に合わないっぽいし、
無理して急いでも交通事故に遭いかねないし、
着いたとしても自転車はどうするんだって話だし、
問題山積で、結局辿り着かないまま夢も終わる。
他には、電車で空港に行こうとしたり、電車で帰ろうとしたりしながら、
乗った電車が空港や実家とは逆方向へと走り始めたり、
徒歩で東京駅や浜松町駅(羽田へのモノレールがある)付近まで
たどり着くも迷ったり、買い物だ外食だしてて出発に間に合わなかったり。
見ることもできないという夢をみたものだが。
近頃よく見るのが、東京から実家に帰ろうとするのに帰れない夢。
今朝見たのは、都県境付近の千葉だか埼玉だかの田舎じみた場所から、
自転車で羽田空港まで赴いて飛行機で帰ろうとする夢。
どうも自転車では出発時刻に間に合わないっぽいし、
無理して急いでも交通事故に遭いかねないし、
着いたとしても自転車はどうするんだって話だし、
問題山積で、結局辿り着かないまま夢も終わる。
他には、電車で空港に行こうとしたり、電車で帰ろうとしたりしながら、
乗った電車が空港や実家とは逆方向へと走り始めたり、
徒歩で東京駅や浜松町駅(羽田へのモノレールがある)付近まで
たどり着くも迷ったり、買い物だ外食だしてて出発に間に合わなかったり。
確かに帰りたいとは思ってるのに、
なんだかんだと些細な問題が重なって帰れない。
起きた時には実家の寝床なので安心するわけだが。
なにか東京でやり残したことがあるのを警鐘する夢かもしれないが、
別に思い当たらない。少なくとも今の自分が東京ですべきことなどは。
当時はまだよく知らなかったけれども、自分が東京に在住していた頃も、
すでに体制が外患カルトに乗っ取られて、その本拠地と化していた
東京も何一つとして理想を追い求められる場所ではなくなっていた。
観光か買い出しぐらいしかやることももうないのに、
あの世界最大の文明構造に呑み込まれたままでいるのは、
かえって空しさを助長するのも、現実でも夢でも感じること。
革命で世直しとかなれば、いくらでもやることはあるだろうが、
自転車でチョロチョロと街中を散策してる分際で考えることでもなし。
逆にそのような、無名の匹夫として都下に潜むこともできるような
時期の終焉を示唆する夢であるというのなら、分からなくもないが。
ろくでもない経験といえども、もう二度とできなくなる、となればな。
なんだかんだと些細な問題が重なって帰れない。
起きた時には実家の寝床なので安心するわけだが。
なにか東京でやり残したことがあるのを警鐘する夢かもしれないが、
別に思い当たらない。少なくとも今の自分が東京ですべきことなどは。
当時はまだよく知らなかったけれども、自分が東京に在住していた頃も、
すでに体制が外患カルトに乗っ取られて、その本拠地と化していた
東京も何一つとして理想を追い求められる場所ではなくなっていた。
観光か買い出しぐらいしかやることももうないのに、
あの世界最大の文明構造に呑み込まれたままでいるのは、
かえって空しさを助長するのも、現実でも夢でも感じること。
革命で世直しとかなれば、いくらでもやることはあるだろうが、
自転車でチョロチョロと街中を散策してる分際で考えることでもなし。
逆にそのような、無名の匹夫として都下に潜むこともできるような
時期の終焉を示唆する夢であるというのなら、分からなくもないが。
ろくでもない経験といえども、もう二度とできなくなる、となればな。
親父が、会社の同年代の同僚複数人を家に招いて宴会を開いたときに、
「とにかく毎日のように夢を見る」というのを、
悩みとして打ち明けてた人が一人いたんだが。
でもその人が一番、会社の将来を真剣に憂慮するような話とかしてて、
それと比べれば他は、とにかく自分の食い扶持が保てればそれでヨシ!
とでもいった風(残念ながらうちの親父含め)。そういう所まで気を配れる余裕は結局、
頻繁に夢を見てられる(それを覚えてられる)ぐらいの体力があってのものなんだろうな。
平安時代ごろまでの皇族や貴族も、夢の吉兆をよく気にしていたようだし、
上記のような観点から見れば、さような心がけ自体が仁慈の旺盛さの現れであったものよ。
「とにかく毎日のように夢を見る」というのを、
悩みとして打ち明けてた人が一人いたんだが。
でもその人が一番、会社の将来を真剣に憂慮するような話とかしてて、
それと比べれば他は、とにかく自分の食い扶持が保てればそれでヨシ!
とでもいった風(残念ながらうちの親父含め)。そういう所まで気を配れる余裕は結局、
頻繁に夢を見てられる(それを覚えてられる)ぐらいの体力があってのものなんだろうな。
平安時代ごろまでの皇族や貴族も、夢の吉兆をよく気にしていたようだし、
上記のような観点から見れば、さような心がけ自体が仁慈の旺盛さの現れであったものよ。
「君子は終身の憂いあるも、一朝の患いなきなり」(孟子)
疲れに負けて、仁慈からの憂慮を抱くことも出来ないでいるのを
指摘されたのが、これまた逆鱗だったのかね?
どうせ逆鱗が全身を覆ってる人種だし、
配慮してやるだけ無駄でしかないが。
疲れに負けて、仁慈からの憂慮を抱くことも出来ないでいるのを
指摘されたのが、これまた逆鱗だったのかね?
どうせ逆鱗が全身を覆ってる人種だし、
配慮してやるだけ無駄でしかないが。
「体力がある」というよりも、
心が疲れに負けてないと夢を覚えとけて、負けてると忘れるんだろうな。
件の同僚も、そんな体力ありげという風でもなかったし。
体力が衰えすぎて、夢を見られるほど寝られてない場合もまた別にあろうが。
心が疲れに負けてないと夢を覚えとけて、負けてると忘れるんだろうな。
件の同僚も、そんな体力ありげという風でもなかったし。
体力が衰えすぎて、夢を見られるほど寝られてない場合もまた別にあろうが。
さんざん人の不幸を食い物にして来ておきながら、
天下万民の共存共栄の時にも立ち会いたいだなんて、
あまりにも烏滸がましいと思わんかね?
昨日はガッツリきついことをやったせいか(もちろん仕事ではない)、
今朝見た夢はよく覚えてない。なんか女が一杯出てきたという程度にしか。
「君子は心を労し、小人は力を労す」(左伝・襄公九年)
世のため人のための大業もまた、大いなる疲労が付き物であろうが、
そこで心が疲労に負けて夢も覚えてられないようになったりしないように。
ましてや、それこそが成熟した大人のあり方だなんて思い込む
顛倒夢想に陥ったりすることが決してないようにと、
終身にわたって誓いを立てぬわけにはいくまい。
天下万民の共存共栄の時にも立ち会いたいだなんて、
あまりにも烏滸がましいと思わんかね?
昨日はガッツリきついことをやったせいか(もちろん仕事ではない)、
今朝見た夢はよく覚えてない。なんか女が一杯出てきたという程度にしか。
「君子は心を労し、小人は力を労す」(左伝・襄公九年)
世のため人のための大業もまた、大いなる疲労が付き物であろうが、
そこで心が疲労に負けて夢も覚えてられないようになったりしないように。
ましてや、それこそが成熟した大人のあり方だなんて思い込む
顛倒夢想に陥ったりすることが決してないようにと、
終身にわたって誓いを立てぬわけにはいくまい。
(>>255の続き)
いい年した大人がよく夢を見るなんて却っておかしいことだという既成概念が
今はあるものだから、件の同僚もそれを悩みに思っていたりもしたわけで。
深慮もできないぐらい心身ともに疲れ切っているせいで夢も見ない、
見てもすぐ忘れるのが「普通の正常な精神の人間」扱いな旧世代。
誰も彼も眉間広々のオナメン顔貌なのが当たり前なせいもあって、
互いに見下し見下されるのがデフォと化してしまっている次世代。
どちらも大変に信頼関係を築き難い差し障りにまみれているのには違いないし、
それはたとえば夢も見れないほどの疲れっぱなしや、真剣にものを考えることも
できないせいでのオナメン顔貌が固着してしまっていることが、人として当たり前
扱いされたりしている、現状の常識から変えて行くことによってのみ是正し得るのである。
一生懸命働いて来たからこそ疲れている、
体罰もパワハラも受けて来なかったからこそオナメンでいられている、
そういった正当化材料があった上でなお、やはり脱却しないでいるよりは
したほうがいいものとしての扱いを定着させて行くのである。
いい年した大人がよく夢を見るなんて却っておかしいことだという既成概念が
今はあるものだから、件の同僚もそれを悩みに思っていたりもしたわけで。
深慮もできないぐらい心身ともに疲れ切っているせいで夢も見ない、
見てもすぐ忘れるのが「普通の正常な精神の人間」扱いな旧世代。
誰も彼も眉間広々のオナメン顔貌なのが当たり前なせいもあって、
互いに見下し見下されるのがデフォと化してしまっている次世代。
どちらも大変に信頼関係を築き難い差し障りにまみれているのには違いないし、
それはたとえば夢も見れないほどの疲れっぱなしや、真剣にものを考えることも
できないせいでのオナメン顔貌が固着してしまっていることが、人として当たり前
扱いされたりしている、現状の常識から変えて行くことによってのみ是正し得るのである。
一生懸命働いて来たからこそ疲れている、
体罰もパワハラも受けて来なかったからこそオナメンでいられている、
そういった正当化材料があった上でなお、やはり脱却しないでいるよりは
したほうがいいものとしての扱いを定着させて行くのである。
所謂「報連相」なんていうのも、
人々の心のハリが十分でないとどうしても疎かになりがちなものである。
会社であれば、上記の同僚のように、社の行く末にまで色々と配慮を
巡らせている者同士ならちゃんと報連相しておこうという気にもなるが、
自分の食い扶持さえ守れればそれでいいなんて者同士だと、たとえ社を挙げて
取り組んで行こうなどと号令したところで疎かになりがちなものである。
買い物のために店に赴いて、所望の品がなかなか見つからない時にも、
店員がいかにも忙殺状態でいたりするようならなかなか聞きづらいが、
忙しかった所でそういう態度を控えていたりするようなら聞きやすいように、
まったくの赤の他人同士にも報連相の難易度差はあるもので、やはり心が
疲労に負けているか否かがそれを左右するという側面もまたある。
人それぞれ、心が疲労に負けずにいられるキャパシティというのがあるもので、
俺だって大変な荒行をこなした日の夜の夢までは覚えてられなかったりする。
そこまで行かない範囲の作業なりをこなすのが、自らが十分な心のハリと共に
いられる許容値であるわけだから、仕事などはその範疇で取り組んで行くこと
こそを美徳とすべきである。ただひたすら疲労もお構いなしに働きまくるほど
偉いなんていう奴隷根性を開き直るようなことは、終わりにすべきなのである。
人々の心のハリが十分でないとどうしても疎かになりがちなものである。
会社であれば、上記の同僚のように、社の行く末にまで色々と配慮を
巡らせている者同士ならちゃんと報連相しておこうという気にもなるが、
自分の食い扶持さえ守れればそれでいいなんて者同士だと、たとえ社を挙げて
取り組んで行こうなどと号令したところで疎かになりがちなものである。
買い物のために店に赴いて、所望の品がなかなか見つからない時にも、
店員がいかにも忙殺状態でいたりするようならなかなか聞きづらいが、
忙しかった所でそういう態度を控えていたりするようなら聞きやすいように、
まったくの赤の他人同士にも報連相の難易度差はあるもので、やはり心が
疲労に負けているか否かがそれを左右するという側面もまたある。
人それぞれ、心が疲労に負けずにいられるキャパシティというのがあるもので、
俺だって大変な荒行をこなした日の夜の夢までは覚えてられなかったりする。
そこまで行かない範囲の作業なりをこなすのが、自らが十分な心のハリと共に
いられる許容値であるわけだから、仕事などはその範疇で取り組んで行くこと
こそを美徳とすべきである。ただひたすら疲労もお構いなしに働きまくるほど
偉いなんていう奴隷根性を開き直るようなことは、終わりにすべきなのである。
忙殺こそを美徳とするような悪徳がこの世から絶やされれば、
おのずと世の人事もまた健全化が落水の如くたるものである。
働きすぎで頭ヘロヘロなんてのが問題ともされないものだから、
60過ぎでも働き続けることが当たり前のように推進され続けている。
それにより若手にいい仕事が任されることもより減って、ヨレヨレの
老い耄れによる重職の牛耳りからの低生産性化なども黙認状態となって来た。
40で初老、60で還暦でいつ死んでももう構わない扱いという、
古来の年代観は、「疲労に負けないだけの心のハリ」という観点に
即して鑑みるのならば、医療の進歩で平均寿命が延びた今でも全く
時代遅れでも何でもない、世間の実相に即した法則となっているもの。
柳生一門の中でも最高傑作と伝わる新陰流六世、柳生厳包こそは、
若干44で主君に隠居を申し出、聞き入れられずに61でようやく
それを認可されたという。別に怠け者というわけでもなく、
自らの理想の高さからはそれが相応な進退だと考えたのだろう。
ただ仕事を続けるだけならできそうでも、さらにそれ以前の所に、
まだ健全に働けるかどうかの関門があるのだと察せねばならぬ。
おのずと世の人事もまた健全化が落水の如くたるものである。
働きすぎで頭ヘロヘロなんてのが問題ともされないものだから、
60過ぎでも働き続けることが当たり前のように推進され続けている。
それにより若手にいい仕事が任されることもより減って、ヨレヨレの
老い耄れによる重職の牛耳りからの低生産性化なども黙認状態となって来た。
40で初老、60で還暦でいつ死んでももう構わない扱いという、
古来の年代観は、「疲労に負けないだけの心のハリ」という観点に
即して鑑みるのならば、医療の進歩で平均寿命が延びた今でも全く
時代遅れでも何でもない、世間の実相に即した法則となっているもの。
柳生一門の中でも最高傑作と伝わる新陰流六世、柳生厳包こそは、
若干44で主君に隠居を申し出、聞き入れられずに61でようやく
それを認可されたという。別に怠け者というわけでもなく、
自らの理想の高さからはそれが相応な進退だと考えたのだろう。
ただ仕事を続けるだけならできそうでも、さらにそれ以前の所に、
まだ健全に働けるかどうかの関門があるのだと察せねばならぬ。
俺がやってる荒行なぞは、加齢後にも疲れにくい体や、
疲れに負けない心を保つためのトレーニングであるが故に、
その過程として、夢も覚えてられないほどの疲労を伴うことがあるのだが。
世間で多くの人々に影響を与え、時には人様の人生を左右まで
しかねないような働きにかけては、さような無理を来たしてはならない。
常に万人への配慮を尽くせるだけの心の余裕と共に、為せることを為す。
それができないようであれば、即座な引退をも辞すべきではない。
最大限、我をも忘れるほどがむしゃらにことをやり抜くこととと、
世間での労働が一如だなんてのは、近年ではごく当たり前な上に、
殊勝なこととまで思い込まれているが、そんな真似は本来、
人に言われたことだけをやる下っ端にしか許された姿ではない。
敗戦後の、何もかもが米中韓の傀儡止まりな働きであることを奨励される
ようになった負け犬人種ならではの病理なのであり、最底辺よりただの
一段でも世間で上たろうというのなら、本来は許されないことなのである。
疲れに負けない心を保つためのトレーニングであるが故に、
その過程として、夢も覚えてられないほどの疲労を伴うことがあるのだが。
世間で多くの人々に影響を与え、時には人様の人生を左右まで
しかねないような働きにかけては、さような無理を来たしてはならない。
常に万人への配慮を尽くせるだけの心の余裕と共に、為せることを為す。
それができないようであれば、即座な引退をも辞すべきではない。
最大限、我をも忘れるほどがむしゃらにことをやり抜くこととと、
世間での労働が一如だなんてのは、近年ではごく当たり前な上に、
殊勝なこととまで思い込まれているが、そんな真似は本来、
人に言われたことだけをやる下っ端にしか許された姿ではない。
敗戦後の、何もかもが米中韓の傀儡止まりな働きであることを奨励される
ようになった負け犬人種ならではの病理なのであり、最底辺よりただの
一段でも世間で上たろうというのなら、本来は許されないことなのである。
世の中には、縁故や赤の他人はおろか、
敵対者同士の間に至るまで、ある種の信頼関係が伴い得るというのが、
武田上杉の「敵に塩を送る」という逸話などからも明らかなものだが。
いま旧西側諸国から見た場合の、紛争当事国としてのロシアなどには、
何一つとして信頼できる所などないように、皆無であることも大いにある。
敵対の中にも、義戦の体裁を保つためなどの確固たる目的性があって、
ある種の信頼関係を築き上げようとしたりするのは、武家時代の日本でも、
北条早雲以降の戦国時代などに限られた風潮で、そこでもやはり血みどろの
争いが繰り広げられていたのには違いないが、後の江戸時代のような泰平へと
世の中が立ち戻って行く兆しを見せ始めた時節であったのには違いない。
平時の観点からみれば、甘っちょろいようにすら思われかねないが、
多くの戦死者が出ているような中でも、機敏に玉石中の玉の如き道義性を見抜いて、
塩を送るような真似ができるのは、それこそ最大級の心のハリを保てた
ままでいる巧者だけにできることであり、ただひたすら疑心暗鬼の
乱戦などに興じたりするよりもさらに難しいこととなるのである。
敵対者同士の間に至るまで、ある種の信頼関係が伴い得るというのが、
武田上杉の「敵に塩を送る」という逸話などからも明らかなものだが。
いま旧西側諸国から見た場合の、紛争当事国としてのロシアなどには、
何一つとして信頼できる所などないように、皆無であることも大いにある。
敵対の中にも、義戦の体裁を保つためなどの確固たる目的性があって、
ある種の信頼関係を築き上げようとしたりするのは、武家時代の日本でも、
北条早雲以降の戦国時代などに限られた風潮で、そこでもやはり血みどろの
争いが繰り広げられていたのには違いないが、後の江戸時代のような泰平へと
世の中が立ち戻って行く兆しを見せ始めた時節であったのには違いない。
平時の観点からみれば、甘っちょろいようにすら思われかねないが、
多くの戦死者が出ているような中でも、機敏に玉石中の玉の如き道義性を見抜いて、
塩を送るような真似ができるのは、それこそ最大級の心のハリを保てた
ままでいる巧者だけにできることであり、ただひたすら疑心暗鬼の
乱戦などに興じたりするよりもさらに難しいこととなるのである。
媚びへつらいの意味合いと共にしか
使われてるのを見たことがないがな。
使われてるのを見たことがないがな。
いやはや 傘地蔵調子悪いねw ざまぁw
”いちばんゴミクソだった部分だけは”
殺人やテロなど極悪な部分はお前の側という認識でよいんだな?w
殺人やテロなど極悪な部分はお前の側という認識でよいんだな?w
俺も子供の頃、ノストラダムスの大予言ブームからの
ハルマゲドン思想の流布などに恐怖していた思い出がある。
今となっては、ハルマゲドン下なみの環境面からの荒廃に、
自分自身が多くの同世代や若者と共にすでに置かれているせいで、
これからやって来るものとしての恐れようなどが、もはやない。
つまり、ハルマゲドン級の災禍の被害者ではあるが、加害者ではない。
その故に、多くの人々がイスラエルの攻撃などに対して
思っているのとも同じように、とにかく今すぐにでも
やめてくれという、厭離穢土欣求浄土の思いしかない。
ここでの不法行為から、世代を挙げての次世代への暴虐に至るまで、
やはりその災禍の加害者側として、あの時のオウムのごとく
振舞っているのもまた、おまえらのほうであるのみだな。
ハルマゲドン思想の流布などに恐怖していた思い出がある。
今となっては、ハルマゲドン下なみの環境面からの荒廃に、
自分自身が多くの同世代や若者と共にすでに置かれているせいで、
これからやって来るものとしての恐れようなどが、もはやない。
つまり、ハルマゲドン級の災禍の被害者ではあるが、加害者ではない。
その故に、多くの人々がイスラエルの攻撃などに対して
思っているのとも同じように、とにかく今すぐにでも
やめてくれという、厭離穢土欣求浄土の思いしかない。
ここでの不法行為から、世代を挙げての次世代への暴虐に至るまで、
やはりその災禍の加害者側として、あの時のオウムのごとく
振舞っているのもまた、おまえらのほうであるのみだな。
あほやこいつ。文章がいちいちおかしいわw
(>>271の続き)
プーチンはすでに死んでいるという噂もあるし、
そうでなくともひどい老耄を来たしているとよく言われる。
そうとしか考えられないほど、やってることが暴慢に過ぎるからと。
昔は、西側勢力なども「世界一のリーダー」などと
評価していたのが、その見る影もなくなったと。
そういった扱い自体が敵対国の首領へのディスインフォメーション
工作の一環だったりもするだろうけれども、あちらにもそれを
食い止めようという体裁を保つ程度の意欲も見られない。
それがそもそも、西洋における戦争状態での世論の常であろうし、
そのペースに呑み込まれたからこそ戦前の日本なども、
敵対国を鬼畜米英などと一概に全否定してかかったものである。
少なくとも、近代以降の軍事情勢において、「敵に塩を送る」並みの
信頼関係が敵対者間に見られた試しはない。それは近代以降の世界を
引っかき回して来た欧米諸国にそんな慣習が皆無だからでもあるが。
北条早雲や武田信玄や上杉謙信のような、戦国期にそれらしき振舞いを
試みていた武将たちもみな入道だったように、仏の道に傾倒するのでも
ない限りは、非業の死が介在する領域などにまで信頼性を見出すような
心の余裕を保っておくことなどは不可能だから、というのもあるだろう。
プーチンはすでに死んでいるという噂もあるし、
そうでなくともひどい老耄を来たしているとよく言われる。
そうとしか考えられないほど、やってることが暴慢に過ぎるからと。
昔は、西側勢力なども「世界一のリーダー」などと
評価していたのが、その見る影もなくなったと。
そういった扱い自体が敵対国の首領へのディスインフォメーション
工作の一環だったりもするだろうけれども、あちらにもそれを
食い止めようという体裁を保つ程度の意欲も見られない。
それがそもそも、西洋における戦争状態での世論の常であろうし、
そのペースに呑み込まれたからこそ戦前の日本なども、
敵対国を鬼畜米英などと一概に全否定してかかったものである。
少なくとも、近代以降の軍事情勢において、「敵に塩を送る」並みの
信頼関係が敵対者間に見られた試しはない。それは近代以降の世界を
引っかき回して来た欧米諸国にそんな慣習が皆無だからでもあるが。
北条早雲や武田信玄や上杉謙信のような、戦国期にそれらしき振舞いを
試みていた武将たちもみな入道だったように、仏の道に傾倒するのでも
ない限りは、非業の死が介在する領域などにまで信頼性を見出すような
心の余裕を保っておくことなどは不可能だから、というのもあるだろう。
ここで俺に絡んでくるアンチなども、敵対者同士ならではの信頼関係を
築こうなんて気はサラサラなく、むしろ信頼関係を徹底的に損ね尽くした
ペースに巻き込んでやろうなどという意気込みの塊でおるのが常である。
それもまた乱世にはありがちなことであって、
プーチンも核戦争に絡めて言ってるように、そこに真の勝者などはいない。
勝った所で無惨な残骸しか残らない、不毛な乱戦のペースの中で、
多少多めの戦果に与れる者と、それすらない者が生ずるのみ。
カルト支配によって、戦後旧世代と次世代の世代間対立が修復不能な域にまで
達してしまっている今の日本なども、経済面で圧倒的な勝利下にあるはずの
旧世代側ですら、老病などによって苦しめられ抜いてるような人間が多くに
上るがために、次世代側の立場から旧世代の非を突くような俺の物言いに
逆ギレ、逆怨みでの応対を惜しまないような者までもが多くいる。
いがみ合い、争いの絶えない乱世であるのにもかかわらず、
勝とうが負けようがその先にあるもののたかが知れてるというのが、
あらゆる信頼関係をかなぐり捨ててかかった世の実相であるのを見据えて、
些末な勝利などではなく、その全てからの脱却こそを欣求するのでなければならぬ。
築こうなんて気はサラサラなく、むしろ信頼関係を徹底的に損ね尽くした
ペースに巻き込んでやろうなどという意気込みの塊でおるのが常である。
それもまた乱世にはありがちなことであって、
プーチンも核戦争に絡めて言ってるように、そこに真の勝者などはいない。
勝った所で無惨な残骸しか残らない、不毛な乱戦のペースの中で、
多少多めの戦果に与れる者と、それすらない者が生ずるのみ。
カルト支配によって、戦後旧世代と次世代の世代間対立が修復不能な域にまで
達してしまっている今の日本なども、経済面で圧倒的な勝利下にあるはずの
旧世代側ですら、老病などによって苦しめられ抜いてるような人間が多くに
上るがために、次世代側の立場から旧世代の非を突くような俺の物言いに
逆ギレ、逆怨みでの応対を惜しまないような者までもが多くいる。
いがみ合い、争いの絶えない乱世であるのにもかかわらず、
勝とうが負けようがその先にあるもののたかが知れてるというのが、
あらゆる信頼関係をかなぐり捨ててかかった世の実相であるのを見据えて、
些末な勝利などではなく、その全てからの脱却こそを欣求するのでなければならぬ。
敵対関係であると認めた場合に、やってることがあまりにも不毛に過ぎるものだから、
そもそも敵対関係ですらないなどと、まさに敵そのものな態度姿勢と共に
主張して来る輩なども、もう今までに何人いたか知れない。
敵は敵、すでにそうであるものはそうであると認めるしかない。
そこを疎かにするのもまた、乱世のだらしない延長の原因となるのみ。
敵対者同士ならではの、敵に塩を送る的な信頼関係などもまた、その先からしかない。
乱世の激化を誘う誤魔化しと、収拾への糸口となる信頼ほど相容れぬものもないが故に。
利害相反し、やるかやられるかの不倶戴天関係にあるのだと、まず自覚する。
在日カルトはおろか、一応は日本人の集まりであるはずの経団連あたりだって、
むしろ国を損ねて自分たちだけが肥え太る癌細胞格と化してしまっているもの、
(昔と違って、人件費の削減ばかりを名目上の収益好調の具材として来たことなどが仇となって)
それ故に国の敵であるという実情をわきまえる所からしか、何かの埒が明くことはない。
そもそも敵対関係ですらないなどと、まさに敵そのものな態度姿勢と共に
主張して来る輩なども、もう今までに何人いたか知れない。
敵は敵、すでにそうであるものはそうであると認めるしかない。
そこを疎かにするのもまた、乱世のだらしない延長の原因となるのみ。
敵対者同士ならではの、敵に塩を送る的な信頼関係などもまた、その先からしかない。
乱世の激化を誘う誤魔化しと、収拾への糸口となる信頼ほど相容れぬものもないが故に。
利害相反し、やるかやられるかの不倶戴天関係にあるのだと、まず自覚する。
在日カルトはおろか、一応は日本人の集まりであるはずの経団連あたりだって、
むしろ国を損ねて自分たちだけが肥え太る癌細胞格と化してしまっているもの、
(昔と違って、人件費の削減ばかりを名目上の収益好調の具材として来たことなどが仇となって)
それ故に国の敵であるという実情をわきまえる所からしか、何かの埒が明くことはない。
敵対者間には、話し合いによる譲歩なども見込める余地がほとんどないのが
常態化してしまったからこそ、国連の安保理なども有名無実と化してきた。
北朝鮮などは、度重なる経済制裁で餓死者も多発するような極度の困窮下に
陥ってしまっているからこそ、もはや話し合いで歩み寄れる余地もない。
まさに「敵に塩を送る」の逆が、敵対関係の半永久化を決定づけた実例。
某アンチスレなどでも今、「敵対関係なら信頼関係などないのが当たり前」
「だからこそ相手の話を聞き入れない」なんていう決めつけを大前提に
食い下がってる連中がいるけれども、まあそれが現代世界の主流ではあろう。
利害相反ゆえの致命的な敵対関係そのものは実在する。それは認めた上で、
だからといってもはや話し合いの余地もなく、後は戦争あるのみというような
乱世のペースからの脱却こそが、治世の到来の前準備としてあるのでもなければ、
秀吉による天下統一後も、幾ばくかの大乱がなくて済まなかったようなことになる。
常態化してしまったからこそ、国連の安保理なども有名無実と化してきた。
北朝鮮などは、度重なる経済制裁で餓死者も多発するような極度の困窮下に
陥ってしまっているからこそ、もはや話し合いで歩み寄れる余地もない。
まさに「敵に塩を送る」の逆が、敵対関係の半永久化を決定づけた実例。
某アンチスレなどでも今、「敵対関係なら信頼関係などないのが当たり前」
「だからこそ相手の話を聞き入れない」なんていう決めつけを大前提に
食い下がってる連中がいるけれども、まあそれが現代世界の主流ではあろう。
利害相反ゆえの致命的な敵対関係そのものは実在する。それは認めた上で、
だからといってもはや話し合いの余地もなく、後は戦争あるのみというような
乱世のペースからの脱却こそが、治世の到来の前準備としてあるのでもなければ、
秀吉による天下統一後も、幾ばくかの大乱がなくて済まなかったようなことになる。
武田上杉は、川中島で大将同士が切り結んだとも伝わるほど、
本当に熾烈な敵対関係にあったものであり、
「敵に塩を送る」も決して偽善で試みられたものではない。
むしろ最大級に兵法に通じ、だらしない乱戦などを避けた、
徹底的な勝利を見込んでの戦いの中で、それが試みられたもの。
現代の自由主義国などもとかく平和主義、平和主義で、
戦争をアレルギー的に忌み嫌うが故に、すでに起きてしまった
戦争をおざなりに扱って泥沼化させるような真似を繰り返している。
戦う以上は戦い、止める以上は止めるメリハリがあってこそ、
敵に塩を送る的な信頼関係の構築からの平和の招来も可能となる。
「武」という文字は本来、武器を持って勢いよく走り回るという
意味合いを帯びていたが、春秋時代にあえて「戈を止める」と
読み替えられたもの、その心意気に至れるだけの武の弁えこそが、
盲目な平和主義などよりも機敏に平和を達成して行くのである。
本当に熾烈な敵対関係にあったものであり、
「敵に塩を送る」も決して偽善で試みられたものではない。
むしろ最大級に兵法に通じ、だらしない乱戦などを避けた、
徹底的な勝利を見込んでの戦いの中で、それが試みられたもの。
現代の自由主義国などもとかく平和主義、平和主義で、
戦争をアレルギー的に忌み嫌うが故に、すでに起きてしまった
戦争をおざなりに扱って泥沼化させるような真似を繰り返している。
戦う以上は戦い、止める以上は止めるメリハリがあってこそ、
敵に塩を送る的な信頼関係の構築からの平和の招来も可能となる。
「武」という文字は本来、武器を持って勢いよく走り回るという
意味合いを帯びていたが、春秋時代にあえて「戈を止める」と
読み替えられたもの、その心意気に至れるだけの武の弁えこそが、
盲目な平和主義などよりも機敏に平和を達成して行くのである。
かの恐山の禅僧も、事件と犯罪を切り離すべきとした上で、麻原の仏教者としての力量を評価している
もし堂々たる自信と他者を信じる勇気があるのであれば、「事件は言語道断だが、麻原の思想は時代の先を行っていた」くらいは言えるはずなのに、君からは君が忌み嫌う永田町の連中そっくりの小人的保身ムーブしか感じられない
https://president.jp/articles/-/11379?page=...
もし堂々たる自信と他者を信じる勇気があるのであれば、「事件は言語道断だが、麻原の思想は時代の先を行っていた」くらいは言えるはずなのに、君からは君が忌み嫌う永田町の連中そっくりの小人的保身ムーブしか感じられない
https://president.jp/articles/-/11379?page=...
徳川家康は信玄謙信などと違い、生涯入道とはならず、
南光坊天海からの助言にも即して「神君」の扱いを受けながら、
仏道においては他力本願の浄土門に篤く帰依していたという。
戦功の面でも最上レベルであったと評されるも、
武田信玄には負けているし、武勇では信長に、トリッキーな兵法の才能では
秀吉に一歩以上譲るものであったとされる。然れば何において突出して
秀でていたが故に戦国の最終勝利者たり得たのかといえば、それはやはり、
乱世を信頼関係の尊重によって治世へと反して行く能力においてこそである。
徳川、松平も決して完璧な君臣上下の信頼関係を元から築いていたわけではなく、
家康公の父親の広忠も謀反によって殺されたために、その時に用いられたのが
村正であったことから、徳川に仇なす妖刀などという噂まで立ったもの。
なればこそ、戦国末期から江戸以降にかけて確立された三河武士の結束の高さも、
ひとえに家康公の代で新たに獲得されて行ったものと知れる。それが家康公の
才覚ゆえともいえるし、他力本願という観点からみればそうですらないともいえる。
「徳川にとっての最大の宝は家臣である」という、その自負の結実だったのである。
南光坊天海からの助言にも即して「神君」の扱いを受けながら、
仏道においては他力本願の浄土門に篤く帰依していたという。
戦功の面でも最上レベルであったと評されるも、
武田信玄には負けているし、武勇では信長に、トリッキーな兵法の才能では
秀吉に一歩以上譲るものであったとされる。然れば何において突出して
秀でていたが故に戦国の最終勝利者たり得たのかといえば、それはやはり、
乱世を信頼関係の尊重によって治世へと反して行く能力においてこそである。
徳川、松平も決して完璧な君臣上下の信頼関係を元から築いていたわけではなく、
家康公の父親の広忠も謀反によって殺されたために、その時に用いられたのが
村正であったことから、徳川に仇なす妖刀などという噂まで立ったもの。
なればこそ、戦国末期から江戸以降にかけて確立された三河武士の結束の高さも、
ひとえに家康公の代で新たに獲得されて行ったものと知れる。それが家康公の
才覚ゆえともいえるし、他力本願という観点からみればそうですらないともいえる。
「徳川にとっての最大の宝は家臣である」という、その自負の結実だったのである。
武田上杉、織田豊臣のほか、
源将軍家、北条執権家、足利将軍家などもまた、
そこまで重視することがなく、仏門に帰依するにしたって
禅や法華のほうが主体であった中での、浄土門の進取。
しかしそれこそが、武家時代はおろか、日本全史や世界全史を
通じても最上級の治世をこの国にもたらす礎となった。
R.ベネディクトの完全な非仏呼ばわりなどとは裏腹な、
それによってこその、近世における世界最上の治世の実現。
浄土信仰こそが、末法の世における最も分相応な信仰であるが故に
それを達成したともいえるが、その分相応の進取こそは、
本当に賢明な神君たればこそ実現し得たことでもあろう。
仏道にかけては他力本願、人天の領域にかけては最善を尽くす。
しかもそれをどこまでも、無力な凡愚としてのわきまえと共に。
ただ超人たる以上に無理筋すぎて、あやかろうとする者すら稀有なものよ。
源将軍家、北条執権家、足利将軍家などもまた、
そこまで重視することがなく、仏門に帰依するにしたって
禅や法華のほうが主体であった中での、浄土門の進取。
しかしそれこそが、武家時代はおろか、日本全史や世界全史を
通じても最上級の治世をこの国にもたらす礎となった。
R.ベネディクトの完全な非仏呼ばわりなどとは裏腹な、
それによってこその、近世における世界最上の治世の実現。
浄土信仰こそが、末法の世における最も分相応な信仰であるが故に
それを達成したともいえるが、その分相応の進取こそは、
本当に賢明な神君たればこそ実現し得たことでもあろう。
仏道にかけては他力本願、人天の領域にかけては最善を尽くす。
しかもそれをどこまでも、無力な凡愚としてのわきまえと共に。
ただ超人たる以上に無理筋すぎて、あやかろうとする者すら稀有なものよ。
世界宗教の統合自体、最善に作り込まれた上に、
絶大な功績をもたらして来た実例がすでにあるというのに、
どうして紛い物を継ぐような真似に頼る必要があろうか?
日本で新宗教が軒並みゴミ、あまりにも古物ヒネモノすぎて
棄てたがってるような檀家も多いようなところほど、
国の礎になって来たには、来たなりの理由というものがある。
宗教が時代遅れだからじゃなくて、
最善なものでやり尽くし終えたままだからなだけである。
絶大な功績をもたらして来た実例がすでにあるというのに、
どうして紛い物を継ぐような真似に頼る必要があろうか?
日本で新宗教が軒並みゴミ、あまりにも古物ヒネモノすぎて
棄てたがってるような檀家も多いようなところほど、
国の礎になって来たには、来たなりの理由というものがある。
宗教が時代遅れだからじゃなくて、
最善なものでやり尽くし終えたままだからなだけである。
俺は、家康公の爪の垢ですら、煎じて飲んだりはせんぞ。
漢方にも通じてたようだし、「馬鹿な真似するな!」と怒られそうだしな。
今の世には今の世なりのやりようもあるからな。
ちなみに本願寺の二分割を決定付けた張本人だったりもする。
漢方にも通じてたようだし、「馬鹿な真似するな!」と怒られそうだしな。
今の世には今の世なりのやりようもあるからな。
ちなみに本願寺の二分割を決定付けた張本人だったりもする。
自分が惨めな思いをさせられたことにかけても、
あえて絵に描かせて戒め続けるほどの虚心さ。
とはいえ、ただ惨めであるだけで済ませるのではなく、
そこから着実に這い上がって行くだけの粘り強さもある。
惨めさを開き直ることも、ただただ上昇志向であることも、
そんなに難しいことではないが、どちらだけに振り切れることもなく、
最悪の苦境からでも起死回生を目指し続けるとなれば、なかなか。
禅の「志しは毘盧頂上を突き、行いは童子の足下を拝む」
のような境地のようにも思われるが、頑是ない子供の頃から
今川の人質などとして惨めな思いをさせられていた家康公が
自ずとさような思想の実践に至れていたのは、雪斎和尚の
導きなどもあったのかもしれないが、その生まれつきからの
宿命によってかち得られた天分であるという所もあろうな。
あえて絵に描かせて戒め続けるほどの虚心さ。
とはいえ、ただ惨めであるだけで済ませるのではなく、
そこから着実に這い上がって行くだけの粘り強さもある。
惨めさを開き直ることも、ただただ上昇志向であることも、
そんなに難しいことではないが、どちらだけに振り切れることもなく、
最悪の苦境からでも起死回生を目指し続けるとなれば、なかなか。
禅の「志しは毘盧頂上を突き、行いは童子の足下を拝む」
のような境地のようにも思われるが、頑是ない子供の頃から
今川の人質などとして惨めな思いをさせられていた家康公が
自ずとさような思想の実践に至れていたのは、雪斎和尚の
導きなどもあったのかもしれないが、その生まれつきからの
宿命によってかち得られた天分であるという所もあろうな。
そもそもが、本物は「爪の垢を煎じて飲む」みたいな卑屈さで肖ることもできない。
それだけだとかえって遠ざかってしまうし、
ただひたすら無鉄砲な上昇志向などでいても、やはり遠ざかる。
まず以て、あやかろうなどとしている間は、あやかれもしない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」のゆえに、
自分自身の人生に対して、分相応に着実であろうとした時に初めて、多少はあやかれている。
それは別に、家康公相手に限った話ではなく、
少なからず偉人であるような既存の人々、全てに対して言えたことでもある。
いまだ無名、無冠、無力だからといって、そういう相手を突き放すでもなく、
さりとてすでに彼ら並み以上だなどと思い上がるでもなく、
なれるもなれないもどうでもいいぐらいに、主人公としての心がけ、取り組みに専念する。
それだけだとかえって遠ざかってしまうし、
ただひたすら無鉄砲な上昇志向などでいても、やはり遠ざかる。
まず以て、あやかろうなどとしている間は、あやかれもしない。
「君子は思うところその位を出でず(憲問第十四・二八)」のゆえに、
自分自身の人生に対して、分相応に着実であろうとした時に初めて、多少はあやかれている。
それは別に、家康公相手に限った話ではなく、
少なからず偉人であるような既存の人々、全てに対して言えたことでもある。
いまだ無名、無冠、無力だからといって、そういう相手を突き放すでもなく、
さりとてすでに彼ら並み以上だなどと思い上がるでもなく、
なれるもなれないもどうでもいいぐらいに、主人公としての心がけ、取り組みに専念する。
家康公のような、多くの家臣などとの結束によって偉業を成し遂げた相手ともなると、
独力でそこに至ることなどまず不可能であることを見て取って、
最大級の自力での精進を果たそうとも、まだ無力に等しいぐらいの心持ちでなくばならぬ。
そこでまた、自らの無力さに打ちひしがれて卑屈になるようなこともなく、
人事にかけても最善を尽くし続けることを怠らない。
できるかできないか以前に、今の万人にとって眼中にもない域の選択肢である。
自分が大谷みたいになるか、もしくはそれを指をくわえて羨んでる大多数に止まるか、
程度の差こそあれどその二者択一に全てが集約されているふざけた時代などに、
困難にも打ち克つ粘り強さと、それをさらに上回る他者への信頼意識の両立など、
まず人間が成し得る所業として想定の内にも入れられていないのが実情である。
しかし、それこそを万民が第一の選択肢としていたような時代もあったのである。
そこから今に至るまで、日本人の民度も平均能力も目減りの一途を辿っている有り様。
すでにすごい人間のすごさ以上に、まず自らの精進、さらにその上に人々の信頼関係こそが
育む大業があるという序列意識は、個人主義の蔓延する現代には大変異質なもののように
思われるだろうけれども、それこそが結局は個人の平均値からの高さの糧ともなるのである。
独力でそこに至ることなどまず不可能であることを見て取って、
最大級の自力での精進を果たそうとも、まだ無力に等しいぐらいの心持ちでなくばならぬ。
そこでまた、自らの無力さに打ちひしがれて卑屈になるようなこともなく、
人事にかけても最善を尽くし続けることを怠らない。
できるかできないか以前に、今の万人にとって眼中にもない域の選択肢である。
自分が大谷みたいになるか、もしくはそれを指をくわえて羨んでる大多数に止まるか、
程度の差こそあれどその二者択一に全てが集約されているふざけた時代などに、
困難にも打ち克つ粘り強さと、それをさらに上回る他者への信頼意識の両立など、
まず人間が成し得る所業として想定の内にも入れられていないのが実情である。
しかし、それこそを万民が第一の選択肢としていたような時代もあったのである。
そこから今に至るまで、日本人の民度も平均能力も目減りの一途を辿っている有り様。
すでにすごい人間のすごさ以上に、まず自らの精進、さらにその上に人々の信頼関係こそが
育む大業があるという序列意識は、個人主義の蔓延する現代には大変異質なもののように
思われるだろうけれども、それこそが結局は個人の平均値からの高さの糧ともなるのである。
そりゃあ、思想哲学としての受容が主で、
ろくに信仰の対象だったことはないからな。
その信仰は、人間同士のためのものだろう?
ほぼ完全な孤立無援を個々に強いられて来た次世代の一人として、
信仰としてのそれを救いにできるような余地がなかったのも、
カルト化を避けようとした結果であるのに違いなくてな。
他力本願が尽くせないあまりに自力作善、ということもあったろうさ。
ろくに信仰の対象だったことはないからな。
その信仰は、人間同士のためのものだろう?
ほぼ完全な孤立無援を個々に強いられて来た次世代の一人として、
信仰としてのそれを救いにできるような余地がなかったのも、
カルト化を避けようとした結果であるのに違いなくてな。
他力本願が尽くせないあまりに自力作善、ということもあったろうさ。
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スレッドタイトル:「信じる力」を育む